腕時計を眺め、しまったなと、ちいさくため息。
約束の時間は、とうに過ぎている。途中で起きた事件の後処理に、思わぬ時間を取られてしまった。先ほど梨央に遅れる旨を伝えたが、返ってきたのは予想通り「大丈夫です。気をつけて」という返答。
梨央は優しく理解ある恋人だ。その存在に、自分はどれほど救われてきただろう。
先日、I・アイランドへの招待を受けた時も、そうだった。
パートナー同伴でと書かれていたにも関わらず、オールマイトは梨央ではなく、弟子である緑谷を同行させた。愛弟子に社会勉強をさせたかったからだ。
そう伝えた時も、梨央は嫌な顔ひとつせず、快く同意してくれた。そういうひとだ。
ヒーローとして誰かに頼った経験などない自分だが、一個人としては、梨央の優しさにすっかり甘えきっている。
このままではいけない。
だから梨央が好きそうな季節と和を感じさせるイベントに誘ってみたというのに、約束の時間に送れるようでは、本末転倒ではないか。
自分を責めつつ、長身痩躯がエスカレーターをあがってすぐの通路をまがる。と、すぐに待ち合わせ場所である円柱が見えてきた。
商業施設のロゴが、大きく彫り込まれた柱。その下でたたずんでいるのは、鮮やかな美しさと透明感を併せ持った、我が恋人。
梨央が身に着けているのは、目にも涼しげな、水色と白の細縞の浴衣と、からし色の帯だ。きりりと結い上げられた髪には、瑠璃色のとんぼ玉簪。実に優美で、涼やかなすがた。
「待たせてすまない」
額に汗をにじませながらそう告げると、梨央は目だけで微笑んで、帯に差していた扇をすらりと抜いた。
「急いで来てくれたのね。暑かったでしょうに。」
左手で右の袂をおさえつつ、梨央はオールマイトに向けて扇子の風を送ってくれる。ややぬるめではあるが、優しい風と気遣いがありがたい。
「君こそ、ここは暑かっただろう?」
返事の代わりに、梨央はやわらかに笑んだ。気にしないでと言わんばかりに。
「行きましょうか」
「そうだね」
「思っていたより、すいているみたいよ」
「そうなのかい?」
「ええ。今日は入場制限をしていないみたい」
「良かった。入場するだけで一時間は待つと聞いていたからね」
それは、ライトアップされた金魚を鑑賞するという、幻想的だがきわめて単純な展覧会。かなり人気のあるイベントだと聞いていたが、並ばずに入場できそうなのはありがたかった。
***
「……暗いのね」
入場してすぐ、梨央がそう、ちいさくもらした。
たしかに中は薄暗い。そこまで思い至らなかったが、よく考えてみれば、こういった展示では、ままあることだ。
事情あって、梨央は暗いところと狭いところを苦手としている。少しでも不安がまぎれればと、オールマイトは自分のそれよりずっと小さい手を、そっと握った。
「……ありがとう」
「どうする? 出るかい?」
「……真っ暗なわけじゃないから、たぶん大丈夫だと思うわ」
「ダメそうだったら、無理せず言ってくれよ」
「ええ。……このまま手をつないでいてもらってもいい?」
「もちろんだよ。なんなら、お姫様抱っこで移動してもいい」
「それは周囲の迷惑になりますから、控えてくださいね」
不安を和らげようとした言葉に、梨央がくすりと笑った。
手をつないだまま歩を進めると、幸いにも、すぐに明るい空間に出た。
「きれいね」
「うん」
斬新なことに、天井がガラス張りの水槽でできており、下から金魚を鑑賞する形になっている。色とりどりの照明で彩られた水中を舞い踊るように泳ぐ金魚は、下から見ると、普段見知ったものとはまったく違う生き物のように思えた。
「金魚を仰ぎ見るのは初めてだな」
「江戸時代の豪商も、こんなふうにガラスの天井に金魚を入れて鑑賞していたらしいわよ」
「あの時代にそれはすごいな。実に豪勢だ」
「本当ね」
語りながら進むとまた場内が暗くなり、たくさんの展示物が設けられた広いホールに出た。
まず目を引いたのは、いけばなと金魚のコラボレーションアートだ。床の間風にしつらえられた空間に、大きな水槽。その真裏に、流木をベースに種々の花や木をいけた、ダイナミックな作品が置かれている。
床の間の正面の壁には、大きな掛け軸がかけられていた。本紙部分には絵でも文字でもなく、水槽と生け花を別の角度から撮影した画像が映し出されている。
実に見事な花と金魚のコラボレーション。
「……これ……………だわ……」
感嘆のため息と共にもらされた、ごくごく小さな声。
それを聞き止めたオールマイトが、軽く眉をあげた。
梨央は、華道の三大流派の一つである若月流の家元の姪だ。父親も同流派の幹部であり、母親は室町時代から続く関西の名家の出身だと聞いている。
その生まれと育ちゆえだろうか、梨央はとてもおっとりしている。と同時に、心の奥底にうずまいているであろう傷や痛みを、表面に出すことがあまりない。
だからといって、彼女が傷ついていないわけでは、決してないのだ。それを誰よりも、オールマイトは知っている。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
なにも聞こえなかったふうを装って、そういらえた。
薄暗く広いホールの中には、色とりどりの大きな水槽が設置されている。球体、櫓を模したもの、多面体、と、形もさまざま。
最も大きな壁一面に広がる水槽の前で、梨央がふたたび、落胆ではなく感嘆であろうため息を落とした。
「すごいね」
「ええ、本当に。水槽が屏風の形になっているのね」
梨央の言うとおり、それは八曲三隻からなる屏風をモチーフにした水槽だった。それだけではなく、赤、桃、橙、黄、緑、青、紫、そして再び赤と、ライティングで水槽と背景の色がかわる。
グラデーションがかかった影絵のような、幻想的で美しい世界。
「きれいねえ」
梨央が目を細めて、水槽を見やる。
腰をかがめて「君の方がきれいだよ」と囁くと、梨央は小さく「ばかね」といらえた。
と、その時オールマイトは気がついた。つないだ手がさらりとしている。こうした暗いところを歩くとき、梨央はいつも、手に冷や汗をかいていた。それなのに。
もしも、こうして手をつないでいるだけで梨央の不安が和らぐようになったのなら、それは喜ばしいことだ。
「ねえ、この金魚。とてもすてき」
と、種々の金魚が涼を誘う水槽を覗き込みながら、梨央が言った。
確かに美しい、しかも見たことのない品種だった。白地に赤の模様が入った金魚で、身体よりも長い、見事な尾びれを持っている。
均整のとれた体躯と広がる尾びれは土佐錦魚に似ている。が、土佐錦魚のそれよりも、いっそう長く広く、そして大きい。
水槽の中で泳ぐさまは、長いトレーンを引いたドレス姿の貴婦人を思い起こさせる。優雅で優美で、そして華麗だ。
「そうだな。まるで君みたいだ」
「また、俊典さんはすぐそういうことを……」
そっと、つないでいた手を取りなおし、大きくかがんで細い指先に口づけた。すると、梨央は、頬を紅潮させて恥ずかしそうに目を伏せる。
いつまでも初々しさを忘れない、そんな彼女がますます愛しい。
「本当さ」
耳元でささやくと、今度は耳朶が朱に染まった。後ろ襟からのぞくほっそりとした首すじからは、ぞくりとするほどの色香がただよう。
「梨央」
「なに?」
「愛してるよ」
「……わたしもです」
そのまま強く抱きしめてしまいたい気持ちを抑えて、そっと肩を引き寄せた。
――お家元の作品。
花と金魚のコラボレーションを見た時、梨央はたしかに、そうつぶやいた。
家元から勧められた縁談を断り、オールマイトと暮らし始めた時点で、梨央は若月流を破門されている。正式な破門状こそ出されていないが、現在の若月流の師範名簿に、若月梨央の名前はない。いわば、完全に抹消されたかたちだ。
『三大流派の家元の逆鱗に触れた者に花を卸す業者は、ないに等しい』
華道家の破門について別の流派の大家にたずねた時に、そう教えられた。
それでもやはり梨央は、以前のように花をやりたいのではないだろうか。花はどこでもいけられる。梨央は笑顔でそう言った。けれど――。
「俊典さん?」
怪訝そうな声に、我に返った。
「ああ、ごめん。お腹がすいたな、と思ってさ。このあと、なにをたべようか」
「夏らしく、ウナギなんてどう?」
「悪くないね。肝吸いもつけよう」
「白焼きにしようかしら、それともオーソドックスにかば焼きがいいかしら」
「両方頼んで、シェアすればいい」
「そうね」
鮮美透涼という言葉を体現するような恋人の肩を抱きながら、思う。
梨央。君が先へと進める道を探したい。そのために、自分はなにができるだろうかと。
2018.9.18
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