沈まぬ太陽

こちらのみ夢本「穹の箱船 夜の紅鏡」のための書き下ろしです



「そろそろいいかな」

 部屋に干された数枚の長着を前に、梨央はひとりごちた。
 直射日光の当たらない風通しの良い部屋に長着をつるし、湿気をとりつつカビや虫を防ぐ。それがいわゆる、虫干しだ。

 年三回の実施が好ましいとされ、十月上旬から十一月に行うものはそのまま虫干しと呼ぶが、残り二回には別の名もある。一月下旬から二月にかけて行うものを寒干し、そして今のような、梅雨が明けたのち、七月から八月にかけて行うものを土用干しと呼ぶ。

「それにしても……増えたものよね」

 ブラシで長着についた埃をはらい落としながら、呟いた。

 梨央が自分の実家から持ちこんだ和服は、銀鼠の無地と袋帯と、それに合わせた小物が一揃い。それがここ数か月で、ずいぶんと増えた。
 何故って、オールマイトは梨央に和服を着せたがるから。

 桜色の江戸小紋、白大島、白花色の蛍ぼかし、茄子紺の単衣。それに紗と絽と浴衣が一枚ずつ。半幅と名古屋が数本。襦袢は薄藤色、白、そしてオールマイトが大好きな鮮やかな緋色。他にも、帯揚げ帯締めなどの小物がたくさん。
 一つ紋の無地が一枚あれば充分なのだと言っても、君は和装が似合うから、と言って聞かないのだから困ってしまう。
 こんなにしてもらっては、家事をすべて請け負う程度のことでは、申し訳ないと思ってしまう。

 すべての着物を畳み終え、桐の箪笥にしまっていると、チャイムが鳴った。
 きっと、あのひとだ。
 梨央は静かに立ち上がる。

 *

 リビングにいけられていた花に、オールマイトは目をとめた。
 逆三角形の花器に活けられた、背の高いガマの穂と、流線型に形作られた数々の葉。その手前を彩るのは、白い紫陽花と珍しい形の赤い花。
 若月流の花展でよくみられるような、独創性の高いいけばなだった。

「ねえ、梨央。この赤い花はなんていうの?」
「グロリオサよ」
「へえ……花びらが炎みたいで、おもしろいね」

 金魚展以来、梨央のいける花が変わったことに、オールマイトは気がついていた。花材の問題ではなく、『ようす』がだ。
 以前は家庭のリビングにもよくなじむオーソドックスなものであったのに、このところ、技巧的かつ芸術的な、作品と呼ぶにふさわしいものになっている。その違いが、花に関しては素人である、オールルマイトでもわかるほど。

 梨央はきっと、本格的に花をいけたいのだろう。花はどこでも買うことができるし、どこでもいけることができる。しかし、それを作品として発表できる場が、今の梨央にはない。

「外は暑かったでしょう? お風呂とごはん、どっちを先にします?」
「その前にちょっと聞いていい?」
「なに?」
「君、花の仕事をしたいんじゃないのかい?」
「……いいえ。花はどこでもいけられるから」

 梨央らしくない、冷たい静かな声だった。まるでどうでもいいとでもいうふうに。けれど、人は心の底から欲したものを諦めた時、必要以上に無関心を装うことがあることを、オールマイトは知っている。

「そうかもしれないけれど、いまのままでは、せっかくの作品を発表できる場はないよね」
「……そうね」
「なにか方法はないかな。私が力になれるならなんでもするよ」

 とはいえ、梨央の希望を実現するのは困難であると、オールマイトもわかっている。
 他流派の幹部に教えてもらった。
 新しい流派を立ち上げるにも、元いた流派の、宗主の了承がいるのだと。
 そして意外にも、花の世界は横のつながりが強い。
 新流派を立ち上げたとしても、元いた流派と一悶着あった新参者に花材をおろす業者、協賛してくれるイベント会社など、皆無であると。
 それでも――。

「いいの」

 静かに梨央は首を振る。

「もともとわたしは、そうたくさんの展示会に参加してきたわけではないし……」
「でも」
「本当に、花はどこでもいけられるから。わたしは家の中で花を感じられるだけで、それでいいのよ」

 こうなった時の梨央は存外頑固だ。今はもう、何を言っても無理だろう。
 わかった、と、いらえつつ、オールマイトはごくごく小さく息をついた。

     *

 寝苦しくて、目が覚めた。
 空調は効いている。温度も湿度もちょうどいい。それなのに、どうしてか息苦しい。
 隣に眠る恋人を起こさないよう、渾身の注意を払いながら、梨央はそっと身体を起こし、リビングダイニングへと移動した。
 冷たい麦茶をグラスに注ぎ、タブレット端末を起動する。

 この寝苦しさの理由を、梨央は知っている。
 それを最初に自覚したのは、オールマイトと出かけた金魚展でのことだった。

 床の間風に設えられた空間いっぱいに広がる家元の花を見た時、どうしようもなく心が震えた。繊細なのにダイナミックな、若月流家元の作品。それは他の人間には決して作り得ることができない、独自の世界だった。
 梨央は、未だ花の世界に未練がある。自分の執着が情けなくなるほどだ。
 それを夕方オールマイトに指摘され、どきりとした。ずっと隠し続けていたつもりの本音を、見透かされていたことに。

 小さく息をついてから、梨央はインターネットにアクセスし、ずっと見たくて、それでも今まで見ることができなかったページをひらいた。
 それは自分が捨てたはずの、若月流のホームページだ。

「もう……どうにもならないのに……」

 好いてもいないひとと結婚するなど、自分にはできない。
 そう言い残して宗主に逆らい、住むところと職を失い、オールマイトの家に転がり込んだ。
 この選択に、後悔はない。

 後悔どころか、充分すぎるほど幸福であったはずだ。オールマイトが過去のある梨央を愛してくれ、そのままでいいと言ってくれたのだから。
 それなのに――それでも望んでしまう夢がある。一つ叶えればまた一つと、人の欲にはきりがない。人というものは、いったいどこまで貪欲になれるのだろうか。

 けれど、分家ではあるが、若月の家に生まれ育った梨央は、誰よりもよく知っている。三大華道宗主の逆鱗に触れた華道家に、作品を発表する場はないことを。
 オールマイトに協力してもらえば、新しい流派を立ち上げることはできるかもしれない。協力してくれる企業も、もしかしたらあるかもしれない。彼にはそれだけの影響力がある。
 けれど梨央は、それだけはしたくなかった。

 これ以上、あのひとに負担をかけてどうする。
 ほんの少しの衝撃で吐血や喀血を繰り返すあの身体で、世界を支え続ける平和の象徴。彼にかかる重圧は、並大抵のものではない。オールマイトには、出来うる限り自分の生き方をまっとうすることだけを考えていてほしい。だから――。

「だから、これが最後……」

 と、ひとりごちながら、梨央は最後のページを開いた。
 そのページに展示されているのは、二年前に都内のホテルで行われた大きな花展の写真だった。梨央が若月流の人間として参加した、最後の花展でもある。

 だがその中に、覚えのある作品を見つけて、梨央は息が止まりそうになった。
 馬酔木と竜舌蘭に大輪のカサブランカをあわせた作品。
 それは梨央の手によるものだった。巨大な竜舌蘭を大胆にあしらい土台にしたことで、周りからは意外だと驚かれたが、家元からは「自分らしさを出せるようになってきたな」と褒められた。

「……なぜ?」

 破門した人間の作品は消されてしかるべきであるのに、これはいったい、どういうことなのだろう。
 梨央は震える手で高等師範専用のページにすすみ、パスワードを入れた。
 そこに映し出された文字を確認した瞬間、涙がほろりと零れ落ちた。
 と同時に響いた、名を呼ぶ声。
 振り向いた先に立っていたのは、パジャマ姿のオールマイトだ。

「……ごめんなさい……起こしてしまった?」
「いや。気にしなくていい。それ、若月流のウェブページだね……」

 梨央を抱きしめながら、オールマイトが続ける。

「泣かないで、梨央。今はそこに君の名がなくても、いつかきっと、私がなんとかするから……」
「違うの……」
「え?」
「あるの……名前……」
「ええ? だって、前に私が確認した時、君の名はなかったぜ?」
「わたしは本名ではなく、雅号で登録しているの」
「雅号。そうか、失念していた。師範になるとそういうものもあるんだね」

 ほっとした表情のオールマイトを見上げて、梨央は続ける。

「でもね、若月の家に連なる者には、ふつう雅号はつけないのよ」
「そうなの?」
「ええ。けれど、わたしは例の事件で週刊誌に名前が載ってしまったでしょう? だから……華道家として活動するときは本名ではなく雅号を使うようにと、お家元が」
「そうか。お家元は君のことを守りたかったんだね」
「え?」

 驚いて、太陽のように微笑むオールマイトの顔をまじまじと見つめた。彼は続ける。

「私はそういうことだと思うよ。華道家として自由に活動できるように、お家元が配慮してくれたんじゃないかな」
「わたしは、家名を汚してしまったからだと思っていたわ……でも……そうね……そういう考え方もあったのね……」
「そうだよ。で、花の世界で、君はなんて名前なんだい?」
「梨凰よ。梨に、鳳凰の凰でリオウ……でもどうして……未だに名前が残っているのかしら……」

 いい名前だね、と微笑んで、オールマイトがいらえる。

「うーん。理由はわからないけれど、これはさ、君の席がまだ残されているってことじゃないのかな」
「実の姪を破門したとなると、外聞がよくないでしょう? だから形式的に残しているだけかもしれないわ」
「……まあ、そうかもしれないけれど。希望が持てたじゃないか」

 そう言いながら、オールマイトは梨央の額に口づけた。励ますようなことを言ってくれる彼に対して否定的な言葉ばかりを返してしまう、そんな臆病な自分が、情けなかった。

***

 林間合宿中の一年生が襲撃を受け、A組の生徒――爆豪勝己が、敵連合の手に落ちた。
 その連絡がオールマイトの元に届けられたのは、ふたりが若月流のホームページで梨央の名を見つけた、翌々日のことだった。

 雄英での会議を終え、帰路につきながらオールマイトは息をつく。
――敵連合の居場所、突き止められるかもしれない。裏が取れ次第すぐにカチ込む。
 それが、塚内からの電話の内容。

 日本の警察は優秀だ。塚内がああ言ったからには、おそらく今夜、遅くとも明日には、殲滅作戦に入れるはずだ。
 その前に、梨央にはきちんと話をしておきたかった。
 この事件の裏にはAFOがいる。おそらく今度こそ、奴が出てくる。そうなった時、AFOと対等に戦えるのは自分だけだろう。いや、奴を倒すのは、自分でなければならない。

 絶対的な善がないように、絶対的な悪など存在しない。立場や見方を変えてみれば、悪と思われている人間が善へと変わることがある。だがAFO、あの男だけは別だ。決して許すことができない、絶対的な悪。
 奴を倒すために、我々OFA歴代継承者は存在していると言っても過言ではない。けれどできうることなら、奴との決戦を、次世代に持ち越したくはなかった。
 己の代で、悪を消し去る。
 それが、オールマイトが十八歳の時に、亡き師匠に誓った決意だった。それは今でも変わらない。
 忘れない。お師匠を失った時の、絶望と怒りを。
 なにがあっても、たとえこの命にかえても、巨悪を倒す。
 梨央。大切な君を、泣かせることになったとしても。


 
「おかえりなさい」
「……ただいま」
「外は暑かったでしょう」
「ああ。でもごめん、もしかすると、またすぐに出かけることになるかもしれない」
「それは大変ね。今だけでもゆっくりしてて」
「うん」

 梨央が、オールマイトの前に冷茶の入ったグラスを置いた。茶葉の甘みと香りと、旨味が凝縮された、水出しの玉露。
 梨央の気配りは、こういうところまでさり気ない。

「これ、おいしいね」
「いただきもののなかにいいお茶があったものだから、たまには水出しもいいかと思って」
「私は好きだな。これ」

 そう、と、梨央が嬉しそうに眼を細める。オールマイトもそれに合わせて微笑む。
 優しくあたたかい、恋人たちのひととき。
 そう思ったとたん、胸が苦しくなった。自分とこうなっていなければ、きっと梨央は、その生まれや育ちに相応しい穏やかな男と、幸福になったことだろう。
 梨央は本当に、これでいいのだろうか。己のような、そんな男で。

「わたしに、お話があるんでしょう?」

 惑うオールマイトを現実に引き戻したのは、梨央のまっすぐな問いかけだった。

「……どうしてそう思ったんだい?」
「なんとなく」

 ああ、と、オールマイトは目を閉じる。
 梨央はいつもそうだ。聡くて、優しくて、そして強い。

「君の優しさに甘え続けている私を、許してほしい」

 きり、と、唇を引き結び、梨央がオールマイトを見つめた。オールマイトもまた、梨央を静かに見おろした。

「これから、危険な任務につく。すでに報道されているから知っていると思うが、雄英の生徒が浚われた。私は彼を救けつつ、敵を一網打尽にする」
「……はい」

 そして、今回の敵の元締めが、かつてオールマイトの師匠を殺し、また数年前に内臓を奪った強大な敵であると続けた。OFAのことは伏せたまま。

「俊典さんのお師匠さまと戦ったということは、その敵は、すでにかなりの高齢なのでは?」
「……年齢はね」
「……」

 それだけで、梨央は察したようだった。
 これだけ多種多様な個性が巷にあふれている昨今。不老不死の個性があってもおかしくはない。
 聡明な梨央は気づいただろう。敵は老衰では死なないと。誰かが戦って倒さぬ限り、その巨悪は、世にのさばり続けると。

「……すまない。やはり、君には酷な話だったね」
「いいえ」

 梨央は青い顔をしながら、首を振った。

「覚えていますか? あの岬で話したこと」
「うん」

 忘れられるはずがない。
 梨央の気持ちを受け入れるか否か逡巡していたオールマイトに、彼女ははっきり告げたのだ。

「空に輝く月から見たら、わたしたちの送る人生なんて、きっとほんの一瞬です。刹那的であるからこそ、わたしはあなたと一緒にいたい。共に過ごせる時間がどれだけ短かったとしても、好きな人の笑顔を支えるために、私は生きたい」
「俊典さん。限りある時間だからこそ、わたしはあなたとそれを共有したいんです。たとえそれがいつか、思い出にかわってしまうとしても」
「あなたがわたしの心を救ってくれたように、わたしもあなたを救けたい」

 これらの言葉を、オールマイトは今でも、一字一句違えることなく思い出すことができる。けれど。
 オールマイトの懸念をかき消すように、梨央は笑う。

「だからわたし、大丈夫です」

 だが小さな膝の上で握りしめられた拳が、笑みの形を作る唇が、小刻みに震えているのが見てとれた。
 まるで泣いているような、そんな微笑み。

「ごめん」
「謝らないで。わたしは、本当に大丈夫だから」

 梨央はそういって立ちあがり、オールマイトの頭を抱き抱えた。

「だって、わたしは知っています」

 梨央の手が、オールマイトの頭を優しく撫でる。

「あなたの声が、存在が、どれほど要救助者の心に救いをもたらすか」
「梨央……」
「こちらのことは気にせず、行ってください。あなたを待っている人がいます。そしてそこには、あなたでなければ倒せない相手がいる」

 月のように、静かな声だった。梨央は続ける。

「忘れたの? あなたがヒーローであったから、わたしはここでこうして笑っていられるんですよ」
「君は……本当に……」

 こんなにも弱くて、細くて、そして小さいのに、このひとはこんなにも大きい。行かないでと泣き叫ぶことも、心配だと眉をひそめることもせず、微笑み続ける。
 まるで天空に浮かぶ月のように、たおやかに。

「……ありがとう……」

 オールマイトは梨央を抱きあげて、自分の膝に座らせた。

「俊典さん?」
「あのさ、前から言おうと思ってたことがあるんだけど」
「なに?」
「結婚しよう」

 言葉としては唐突であったが、もちろん、いま思いついたことではなかった。前々からずっと考えていたことだ。互いにとって、そうすることがもっともベストな道なのだと。
 このタイミングで言うことではなかったかもしれない。生きて帰れる保証もないのに、無責任かもしれない。
 けれどどうしても、今、告げておきたかった。
 すると梨央はさも当然とでもいうように、やわらかく笑った。

「はい。よろしくお願いします」
「えっ、即答?」

 問いかけながら、自分はこのいらえを待っていたのだと、オールマイトは自覚した。このひとならば、きっとこう答えてくれる、それはわかっていた。
 わかっていても、それでも聞きたい言葉がある。自分の中にそういう弱さがあったことを、オールマイトは初めて知った。だから、続けて問うた。

「……無事に帰れるかどうかもわからないのに?」
「はい。だって、ずっと離れないって、そういうことでしょう? これから先なにがあっても、わたしの人生はあなたと共にあります」

 不覚にも、言葉に詰まった。

「それに、あなたは絶対帰ってきます。わたしの選んだひとですから」

 ヒーローとしての自分に民衆が向けるのとよく似た、一方的な信頼。
 それを重いと感じたことがなかったとは言わない。けれどこの重荷こそが、オールマイトを突き動かしてきたのだ。
 誰にも頼らずただひとり、象徴として、柱として立つのだと。存在するだけで人々に安心を与える、そんなヒーローになるのだと。
 だからこそ、こんな身体になっても、己は『オールマイト』としてあり続けられたのだ。
 梨央は、それを真の意味で理解してくれていた。それが、こんなにも嬉しい。

 ありがとう、と告げたつもりの言葉は、すでに声にはならなかった。

     *

 梨央はいつものように家事をこなし、そして新しい花をいけた。できるだけ、普段と同じように振る舞おうと思ったからだ。
 けれど今日一日で、梨央はグラスを二つと花器を一つ割り、鍋をひとつだめにした。

 オールマイトの前ではかろうじて平静を装ったものの、あれはすべて虚勢だった。
 命を賭けて、世界を守る。華やかに見えるが、ヒーローは死と背中合わせの危険な職業。それはなにもオールマイトに限った話ではない。どのヒーローの妻も、夫も、親も、恋人も、相手の死を心のどこかで覚悟して、後ろ姿を見送っている。
 けれど、つらいのは自分だけではないとわかってはいることと、平静でいられることは全く別の問題だった。

「今ごろ、どこにいるのかしらね」

 呟きながら、窓の外を見やった。空は夕焼け。ビルの谷間に太陽が落ちてゆく。
 日輪、金烏、太陽の異称は多々あるが、今日の落陽は、紅鏡と呼ぶにふさわしい。燃えながら沈みゆく、紅色の鏡。

 不意に、おおらかに笑う愛しい男の姿が、目前の紅鏡と重なった。
 あの輝ける星が落ちた瞬間、夜の闇がやってくる。もしも……もしもオールマイトに、なにかあったら――。
 梨央は唇をかみしめて、カーテンを閉めた。今だけは、沈む夕日を見たくはなかった。


 それが起こったのは、夜が更けはじめた頃。
 突如流れてきた映像と音声に、梨央の心臓が止まりそうになった。

――神野区が半壊滅状態となってしまいました! 現在、オールマイト氏が元凶と思われる敵と交戦中です!

 倒壊したビル、えぐれた大地。関東でも指折りの都市が、見る影もなく破壊されている。
 テレビから流れるのは、報道ヘリコプターのホバリング音と、現地レポーターの興奮した声。

――敵はたった一人! 街を壊し、平和の象徴と……。

 梨央は震撼した。ただひとりの敵が、あの大都市をここまで破壊したのか。
 反射的に立ち上がろうとしたが、腰に力が入らなかった。しかたなく、梨央はそのままテレビの前に座り込んだ。
 ヘリコプターからのカメラは神野の街の惨状を映し続ける。そこここで立ちあがる煙と火柱。粉塵の向こうに見える瓦礫の数々。

 そして梨央は、次に流れていた映像を見て凍りついた。
 三角形にえぐれた地面。その突端に拳をかまえて立つのは、梨央の愛しいあのひとだ。
 爆風になびく黄金色の髪、青と基調にしたヒーロースーツ。けれどそのスーツに包まれているのは、世間の人々がよく知る鍛え上げられた偉丈夫ではない。
 民衆の知らぬ、けれど梨央には見慣れた、背の高い痩せこけた男。
 このとき、画面の向こうのオールマイトの表情が、一瞬、崩れそうになったことに梨央は気づいた。

「俊典さん…………」


 絶望が、夜の闇にとけてゆく。輝ける太陽が地に落ちる。闇が光を凌駕する。


 ヒーローをやめてほしいと思ったことが、ないとは言わない。
 けれど梨央は彼に救けを求める人々を、責めることはできなかった。自分も同じように、救けてもらった。だからこそわかる。オールマイトが自らを犠牲に他者を救け続ける、その偉大さが。

「まけないで……」

 この声が、聞こえないのはわかっている。この祈りが、届かないのも知っている。
 けれど呼ばずにはいられなかった。八木俊典という本名ではなく、ヒーローとしてのその、名前を。

「オールマイト!」

 この時この名を、どれだけの人が呼んだだろうか。
 次の瞬間、オールマイトの腕が膨れ上がった。祈りの声が届いたかのように。
 だがマッスルフォームを保っているのは片腕だけだ。足も、首も、柳のように細いまま。

 右手一本で、勝てるだろうか。
 再び梨央が絶望しかけたその時、紅蓮の炎が敵を襲った。

――エンデヴァーです。エンデヴァーが現地に到着しました!

 レポーターの声にも力がこもる。
 加勢に来たのはエンデヴァーだけではなかった。名だたるヒーローたちが、敵に次々と攻撃をしかけてゆく。
 しかし、希望が見えたのも、その一瞬だけだった。

 敵が放った衝撃派に、ヒーローたちが跳ね飛ばされる。そして粉塵の向こうから現れたのは、人が想像するすべての悪を体現したような、敵の姿。
 一拍の呼吸のち、敵とオールマイトが激突した。爆ぜる大地、砕けるコンクリート。すさまじい衝撃派に、ビルが数棟、新たな瓦礫の山と化した。まるで巨大な爆弾が落ちたかのような、その光景。

 上空から先頭の様子を追っていたヘリコプターの画像が、大きく乱れる。
 ぼやける画面の向こうで、オールマイトが左拳を敵に繰り出した。彼の攻撃は敵をとらえたが、決定打には至らない。
 すかさず敵が反撃体勢に入る――と同時に、オールマイトの右腕が太く大きく膨れ上がった。


――UNITED STATES OF SMASH !


 叫びと共に、振り下ろされた拳。
 確実に敵をとらえたその攻撃は、竜巻のような渦を生みながら、神野の大地に巨大な穴を穿つ。
 そして数秒の後、逆巻く爆風の中から現れたのは、倒れたまま動かぬ敵と、よろけながら体を起こす、痩せ細った英雄の姿。
 そして平和の象徴は、自らの血にまみれた左腕を、高く高く頭上に掲げた。



 画面の向こうで救出作業がすすめられていく様子を、梨央は呆けたまま眺め続けた。
 うっすらと白み始めた空が、徐々に赤く染まっていく。闇を切り裂きながら、瓦礫の間に陽が昇る。
 自らの血にまみれながら強大な敵をねじ伏せ倒した、平和と正義の象徴のように。

 そうだ、と、梨央は思った。
 あの真紅に燃える太陽――紅鏡は、まるであのひとだ。
 太陽は沈むのではなく、朝も昼も夜も、常に同じ場所にあり続ける、回っているのはこちらの方だ。紅鏡は、決してそこから動かない。
 たとえ何が起ころうと、全ての人に朝は来る。太陽は、かならずそこに姿を現す。それは古来より、人間の生と、そして心を支える、希望の光。
 どんな姿になろうとも、オールマイトは……あのひとはこの世を照らす太陽だ。
 たとえ彼が、戦うことができなくなってしまったとしても。


 インターフォンの、チャイムが鳴った。
 扉を開けた先に立っていたのは、右手をギプスで固められ、頭と左手に包帯を巻いた、痩せ細ったオールマイトだ。
 その姿を見た瞬間、笑顔と共に、今まで流すことができなかった涙が零れ落ちた。

「……おかえりなさい」
「ただいま」

 なにがあっても決して沈まぬ太陽のように、オールマイトが破顔した。

2019.2.24
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月とうさぎ