ぴりりと肌を刺す冬の冷気を肌で感じながら、梨央は隣を歩く長身痩躯に声をかけた。
本日は宗家にて季節の会合が行われた。若月家特有の儀式のようなものだ。一般的にも知られる盆暮れ正月春秋の彼岸の集まりの他に、花を生業とする家らしく、毎年四回、四季を愛でる会合が開かれる。
しきたりの多い旧い家のこと。都会で暮らす人々とは思えないほど、親戚づきあいは深く濃い。午前十時に始まり、終わるのは夜の十時近く。約十二時間も続く宴会。
楽しそうじゃないか、と、話を持ちかけた時には笑っていたオールマイトも、きっと消耗したに違いない。多忙な英雄を長々と拘束してしまったことを、梨央は心から申し訳なく感じていた。
こうなることはわかっていたが、梨央の配偶者たるオールマイトの――入籍はすでに済んでいる――お披露目の意味もあり、さすがに今日は、夫婦そろって顔を出さざるを得なかった。
「ごめんって、なにが? 楽しかったよ」
「いろいろ言われてしまったでしょう?」
「なに? 結婚式のこと?」
「ええ、それもあるけれど……」
言いよどむ梨央の背を、オールマイトが軽くぽんぽんと叩いた。
このひとはどこまでも、優しい。
オールマイトと梨央は、神社での式と写真撮影だけで、披露宴はしない方向で考えている。だが親戚たちからは、披露宴を挙げぬ理由をしつこく問われた。ここまでは想定内だ。けれど保守的な彼らの苦言は、それだけではおさまらなかった。将来的な家族計画についてまでも、言及されたのだ。
子を欲してもなかなか恵まれない人がいる。反対に子を望まない人もいる。そのようなきわめてデリケートな問題にまで口を出してこようとする年配者の、なんと多いことだろう。
早く子供をとせっつく年寄り連中を黙らせたのは、宗主の鶴の一声だった。
「夫婦にはそれぞれ考え方がある。周囲がそれをとやかく言うのはおかしなことだ」
もっとも保守的と思われる人物からのこの発言は大変意外ではあったが、とてもありがたかった。宗主の言は絶対。それは、こういった些事においても変わらない。
オールマイトは梨央を抱くときにかならず避妊をする。入籍をすませた、いまとなっても。おそらくきっと、オールマイトは子供を欲していない
「でも、良かったのかい?」
「なにが?」
「ご両親は家に泊まってほしそうだったけど」
「……わたしはそれが嫌だったの……」
一瞬だけ間を置いて、オールマイトはそうかと答えた。
結婚を決めた時、彼はけじめとして挨拶をしたいとは言ったものの、実家との関わり方そのものには口出ししない。そのスタンスに、ずいぶん助けられていると思う。
宗主の許しを得て花の仕事をさせてもらえるようにはなったが、両親との関係は相も変わらず微妙なものだった。憎み合っているわけでも、嫌っているわけでもない。親子としての情も、おそらく残っている。けれどあのひとたちと心から分かり合えるのかと問われると、難しい。
ある程度の距離を保ちながら、接していく。きっと、それが一番いいのだろう。
「ああ、ほら、あそこが今日の宿だよ」
オールマイトが指したのは、渋谷駅から徒歩五分の場所にある、国道に面した四十階建ての高層ホテルだった。
「渋谷区で育ったわたしが渋谷のホテルに泊まるというのは、不思議な感じね」
「逆に、新鮮だろう?」
「確かにそうね」
和モダンで統一されたロビーのそこここに、四季のうつろいを感じさせるように、美しい花がいけられている。確かこのホテルの花は、宗家の長男が担当していたはずだ。さすがだとうならせられるような、作品の数々。
いつか自分もと思ってしまった、その欲深さに苦笑した。本当に、ひとつ叶えればもうひとつ、人の欲にはきりがない。
***
バスローブを羽織って部屋へ戻ると、オールマイトがソファに座って夜景を眺めながらくつろいでいた。ビル群が冬の澄んだ空気の中で、凛としたたたずまいを見せている。
隣に腰をおろすと、オールマイトが小さく笑った。
「やっぱり披露宴も挙げたほうがいいのかな?」
「……あのひとたちの言うことは、無視していいわよ」
「だって君、本当は白無垢だけじゃなくて、色打掛とかウエディングドレスとか着て、それを大勢の人に見てもらいたいんじゃないのかい?」
やはり気にしてしまったかと、心の中で舌打ちをした。
「わたしは白無垢が着られれば十分だし、本当に、披露宴はしたくないのよ」
梨央は静かにそう告げた。
これは本音だ。華道家として、作品は見てもらいたいが、個人としての自分を見てもらいたいとは思わない。今でも梨央は、人前に出るのが好きではない。
それに、オールマイトも披露宴は避けたいと考えているはずだ。
公私の別をきっちり分けているオールマイトは、本名ですら、ごく身近な人間にしか明かしていない。入籍したことも、一部の信用が置ける相手と、雄英関係者にしか知らせていない。
親族だけの集まりはまだいい。初めに家元が箝口令を布いてくれたからだ。我が一族は、なんだかんだと若月の名前に縋って生活している。宗主の意見は絶対だ。そのうえ宗主は花だけでなく美術全般に造詣が深く、各方面に顔が効く。花の仕事をしていない人間も、宗主には頭があがらない。だからおそらく、この秘密が外部に漏れることはないだろう。
式も遠縁の神社でおこなうし、写真もヒーロー関係者御用達の、秘密厳守のところで撮る。だが披露宴は、どうあがいても人の眼につく。
オールマイトの意に沿わないかたちになることだけは、避けたかった。
「それに、ドレスは写真館で着ることになっているじゃない。白無垢とドレスの写真があれば、それで充分よ。」
「そうかい?」
「それにね」
「うん」
「わたしはあなたの妻になれたっていうそれだけで、本当に満足なの」
オールマイトは落ち窪んだ眼窩の奥の目を大きく瞬かせ、そしてうつむいた。
いつもなら顔を赤くするか、抱きついてくるかのどちらかなのに、そのどちらでもないことが少し気になる。どうしたのだろう。
ほんの一呼吸の時間をおいて、オールマイトが顔を上げた。
「梨央」
「はい?」
「子供のことなんだけど……」
きた、と梨央は思った。
正直な話、いずれは子を持ちたい。だがオールマイトにその気がないなら、仕方がないことだ。自分の希望を押し付けることで、これ以上の負担をかけたくなかった。
「君は、子供が欲しいかい?」
「……まあ、授かりものだから……自然に任せていればいいかなと思っているけど」
曖昧に返事をした。けれど、オールマイトは鋭い。
「うん。まあそうだろうけど、私は、君が子供を欲しているかどうかを、きいているんだよ」
ずるいひと……と梨央は思う。それを問うなら、あなたの意見を先に聞かせてくれればいいのに。
でもきっと、オールマイトはそうしない。してしまったら、梨央の本音が聞き出せなくなる。それゆえに。
そして梨央も、正直な話、子供を欲しいとは思っても、母親になることが、少し怖い。互いに思いやる気持ちがあったとしても、それが噛み合うとは限らないのが人間だから。
「そうね……たとえ一人で育てることになったとしても、あなたの子が産めたなら、きっと幸せだろうと思うわ」
「……そうか」
「でも、それがあなたの負担になるなら嫌なの。あなたはどうなの?」
オールマイトは小さく息を吐き、少しの間無言でいたが、やがて低い声でぽつりと漏らした。
「個性というものは……遺伝するよね」
「ええ、一般的にはそう言われているわね」
だからなんだというのだろう。オールマイトの強すぎる個性が遺伝したら、その子の負担になると考えているのだろうか。
「君は、生まれてきた子が、もしも無個性だったなら、どうする?」
「……どうもなにも……それでもその子が前向きに生きていけるように、親としてできることをしていくしかないんじゃない?」
子づくりを考えたその瞬間から個性の有無を気にし始めるひとは、確かに一定数存在する。個性の有無だけでなく、ハンディキャップを抱えて生まれてくる子も少なからず存在する。リスクを掲げだしたらきりがない。
オールマイトがそのタイプだとは思わなかったが、もしかしたら、身内に個性のない人がいたのかもしれない。無個性であっても前向きに生きている立派な人はたくさんいるが、やはり当人はつらいだろう。それを目の当たりにしてきたならば、気持ちはわかる。
『みんな違って、みんないい』
そう言うことはたやすいが、実際に自分がその立場になったなら、同じことが言えるかどうか。
それでも、生まれてきた子がもしも個性に恵まれなくても、慈しんで育てたいと梨央は思う。我が子の置かれた状況から逃げず、周りの声に流されず、ただひたすらに愛したい。かつての自分が死ぬほど求めた優しさと思いやりを、安心して過ごせる場所を、その子に与えられるように。
「……といっても、親にできることなんてあまりないのかもしれないわね。それでも個性のあるなしには関係なく、その子本人を愛し、慈しみ、はぐくんでいくしかないんじゃないかしら。つらい気持ちは分け合って、楽しいことは喜び合って。無個性であっても、まっすぐ前を見据えて生きていける人になるように」
「……そうか……そうだな」
「それに個性があろうとなかろうと、わたしたちの子は、きっと前向きで、人を幸せな気持ちにさせられる、素敵なひとになると思うわ」
「どうしてそう言えるんだい?」
「あなたの子だもの」
一瞬、オールマイトの顔が歪んだような気がした。
どうしたのと問う寸前に、いきなり肩をひきよせられた。
オールマイトの腕は長いから、普通サイズの梨央はすっぽりとその中に納まってしまう。きゅうと抱きしめられたその上から、落ち着いた低い声が静かに告げた。
「そうだな、きっと心の綺麗な子になるだろう。君の子だから」
「ただ、少し怖いの。わたし、親との関係がうまくいっていなかったでしょう? だから子供を愛したい気持ちはあっても、こじれてしまうかもしれない……」
「君は大丈夫だと思うよ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「ん、どうしてかな。でもわかるよ。君は絶対大丈夫」
それは他の人に言われたならば怒りたくなるような、安易ななぐさめ。けれどこの時、梨央は救われたような気分になった。
オールマイトの告げる大丈夫というセリフ以上に、安心できる言葉などあるだろうか。
「だから君さえよければ、子どももね、いいと思うよ。君はまだ若いし、花の仕事を始めたばかりだからと思って、避妊してきたけど」
「そうだったの」
「そうだったのさ」
微笑みながら、オールマイトが梨央の髪をさらりと梳いた。
大きな身体にすっぽり包まれながら、梨央は窓の外を見やった。そこに広がるのは、人工の光で飾られたこの街の夜景。
「いつ見ても、東京の夜景は壮観だな」
「そうね」
かつて梨央はこの渋谷で育ち、夫となったオールマイトは窓の向こうに見える六本木のビルのひとつに、オフィスを構えていた。
この人口の星々の下には、何万ものひとが暮らし、そして息づいている。
「もうすぐ日付が変わるわね」
「知っているかい? 東京タワーの灯りが消える瞬間を一緒に見つめたカップルは、永遠の幸福を手に入れるそうだよ」
「知らなかったわ」
「都市伝説の一つだね。ホラ、そろそろ消えるよ。せっかくだから一緒に見よう」
世界の人口数十億の中で巡り合えたこの幸福の名は、「永遠」じゃなくて、きっと「奇跡」だ。
その組み合わせの中で、一人の人間としての「いのち」が生まれるのもまた、とてつもない確率だ。
いつか起こりうるであろうその新たな奇跡を待ちながら、ふたりで寄り添い生きていきたい。
午前零時、ろうそくの火が消えるように、東京タワーの明かりが落ちる。
ライトダウンに数秒遅れて落ちてきた乾いた唇を、梨央は静かに受け止めた。
2016.1.9
- 15 -