3話 月光小夜曲

 事件の翌朝、すぐに宗家から連絡があった。
 どこから知れたのか、昨夜の顛末は実家のみならず、宗家の知るところとなってしまっていたのだ。

 家元からは、あの刑事と同じようなことを言われた。そればかりか、これ以上問題を起こさぬうちに弟子の誰かに嫁に出すと、そう告げられた。
 むろん、そんな前時代的な命令が強制執行されるわけはない。
 結婚しない道を選ぶことは可能だ。だがその場合、梨央は宗家から縁を切られる。

 するとここで一つ大きな問題が浮上してくる。家元と縁が切れるということは、その持ち物であるこの土地は、もう使わせてはもらえない。この小さな店は早々に片付けられてしまうだろう。
 梨央は、仕事と家を同時に無くしてしまう。

 宗家の屋敷は、梨央の実家と同じ松濤にある。両親の置かれる立場を思えば、結婚せずに実家に帰るという選択はできなかった。
それに梨央自身もまだ、人の目が怖い。まだ松濤には帰れない。

 かといって、顔も知らない相手と結婚など、考えることすらできない。
 結婚ということは、夜毎相手の男性に触れられるということだ。想像するだに恐ろしい。

 触れられるならと思った時、頬のこけた背の高い男の容貌が頭に浮かんだ。
 梨央は今、はっきりと自分の気持ちを自覚した。ああ、あの人が好きだ。好きな人がいるのに結婚なんてしたくない、と。

 だが現実問題、梨央は壁にぶつかっている。
 多少の貯金はあるが、部屋を借りるとなると保証人も必要だ。仕事がすぐに見つけられるかどうかも、大きな問題としてのしかかってくる。
 なにしろ、梨央の持っている資格は花に関するものばかり。宗家に逆らい、この業界でやっていけるとは思えない。
 不安が口からこぼれ出た。

「どうしよう……」
「大丈夫?」

 背後から独り言に返答され、飛び上がらんばかりに驚いた。
 驚きはしたが不安はなかった。声の主が誰であるか、振り向かなくてもわかっていたからだ。

「昨日の今日だから心配で寄ってみたんだけど、大丈夫じゃないみたいだね」

 どうしたの、と尋ねてきたのは梨央が焦がれ始めている相手で、ほっとするのと同時に涙があふれた。

「我慢しなくていいよ。つらいときは泣いてしまえばいい」

 どうしてこの人はこんなにも他人の気持ちがわかるのだろうと、梨央は目の前の大きな男を見つめた。
 昨夜に引き続き、この人の前で泣いてしまうのはこれで二度目だ。中高生ならいざしらず、成人しているのに情けない。
 けれど一度決壊してしまった堤がその役目を果たせぬように、流れ始めた涙はとどまることなく流れ続ける。

 話ができる状態になるまで、八木は根気強く待ってくれた。
 事情を話すと、彼は少し考え込むような様子でいたが、やがて満面の笑みでこう言った。

「じゃあさ、うちにくる?」
「え?」
「今、流行ってるでしょ、ルームシェア。仕事はゆっくりさがせばいいから」

 驚くべき提案に呆然としている梨央に、八木が続ける。

「今、六本木の事務所と新しい職場に交互に通っているから、ちょっと忙しいんだよね。家のことにまで手が回らなくて、週二で家事代行サービスに来てもらっているんだけど、そういう、家の中のこまごまとしたことをしてもらえると助かるな。四LDKに一人で暮らしているから、二人になってもスペース的には問題ないと思うよ。ある程度の家事をやってもらうかわりに、家賃と光熱費と食費はタダ……とかってどう?」

 専用のシェアハウスならいざしらず、普通のマンションで異性とルームシェアなど考えにくい。

 けれどありがたい提案だと梨央は思った。もしも目の前のひとに無理やり身体を奪われたとしても、きっと後悔はない。
 それ以前に、そんな人ではないという、奇妙な確信めいたものもあった。
 ただこの提案で、八木にとってのメリットはあまりない。

「八木さんのご迷惑にはなりませんか?」
「どうして? 家事をしてもらえると助かるし、食事もね、一人で食べるより二人で食べたほうがおいしいんじゃないかと思うんだよね」
「でも……食費や光熱費なんかも増えるし……」
「家事代行サービスの代金が浮くから、そう変わらないよ」

 それに多少の余裕はあるんだ、と柔らかく微笑まれ、もうこれ以上、躊躇する理由はない気がした。

「……では……よろしくお願いします」
「うん良かった。じゃあ準備に二日ほどもらえる? こちらの準備ができ次第、越してくればいい」

 矢車菊を思わせる目を軽く細めて、八木が笑んだ。

***

 身の回りの物を極力整理したら、大き目のキャリーバッグ二つ分の荷物にまとまった。
 実家の母には嘆かれ、父には激怒されたが、好きでもない相手と結婚なんてできないと突っぱねた。今まで宗家や両親に逆らったことがない梨央が、初めて通した自分の主張だった。

 指定の時刻に八木の家を訪れて、梨央は仰天した。
 駅前の高級マンションの最上階が、八木の家だった。確かに四LDKではあるが、その広さたるや桁違いだ。
 リビングダイニングが三十畳、二十畳を超えるシアタールーム、最新のトレーニング機器がいくつも置いてある部屋が十六畳、寝室が十二畳、八畳の空き部屋、そしてウォークインクローゼット。

「ウォークインクローゼットには、仕事で使う大切なものが入っているんだよね。だから施錠しているけど、気を悪くしないでくれるかな。守秘義務のある仕事なんだ」
「はい」
「ここだけは掃除もしなくていいし、本当に絶対に中は見ないでね」
「はい」
「それからここが梨央さんの部屋。安心して眠れるように、一応中から鍵をかけられるようにしたから。一番狭い部屋で申し訳ないんだけど」
「狭いなんてとんでもない。充分すぎるくらいです」

 梨央に用意されたその八畳は、無垢のフローリングが明るい印象の、東に向いた部屋だった。
 寝室をのぞいた時に書籍がたくさん積んであったのが見えたので、きっとここは書斎だったのだろう。
 梨央のために、一部屋あけてくれたのだ。

 互いに夕飯は済ませていたので、八木が用意してくれたカリフォルニアワインをシアタールームに持ち込み、乾杯した。
 チーズをつまみながら、映画が好きだと八木は笑う。

「好きが高じてシアタールームまで作ってしまったよ。昔はいろいろ揃えたものだけど、今は新作をレンタルして、気に入ったものだけ買うようにしてる。そうしないと、家の中が映像媒体であふれてしまうからね」

 話している途中で八木がごぼりと喀血した。

「え? あの……大丈夫ですか?」
「あー、大丈夫。これもよくあるんだ」

 八木は本当に喀血することには慣れているようだった。慌てず騒がず口元をぬぐい、なにもなかったように梨央に微笑みかける。

「これも胃がないせいですか? 何に気をつけたらいいんでしょう?」
「いや、これは肺が半分ないせい。これに関しては本当に気をつけようがないから気にしないで」

 胃がなく、肺が半分ない、どうしてそんなことに。
 梨央の表情から察したのか、苦笑しながら八木が続ける。

「仕事でね、昔、怪我をしたんだ」
「……今も同じお仕事をされているんですか?」
「ンー、まあ、そうだね。だけど四月からは雄英の教師になる予定だよ」
「事務所、雄英、守秘義務、怪我……八木さん、もしかしてヒーロー関係者ですか?」

 八木はにっこり笑っただけで答えない。これ以上のことは聞いてくれるなと線引きされたような、そんな気がした。
 
 映画を見ながら二本目のカリフォルニアワインを開けた。一本目の白もきりりとした辛口で美味だったが、これも果実味が強く飲みやすい。新世界のワインはあまり飲んだことがなかったが、美味しいものもあるのだと知った。

「これだと飲みすぎちゃいますね」
「ウーン、私もホントは、あまりお酒は飲まないほうがいいんだけど」

 たまにはいいよね、と八木が微笑した。
 その笑みに心臓をわしづかみにされたような気がして、梨央は目を伏せる。
 心に生じた大きな泡立ちに気づかれないよう、さりげないふりでワインを飲んだ。自分の心臓の音がやけに大きく感じる。八木はそれに気づいただろうか。

 こうして八木との生活は、梨央の胸に大きな泡立ちを生じさせながら、表面上はとても静かに始まったのだった。

***

 八木俊典と暮らすマンションからは、海が見える。
 梨央は海に沈む夕日を見るのが好きだ。だがこの地域からそれを見ることはできない。ここから見えるのは、のぼる朝日だ。
 海上にちらほらと瞬き始めた星を眺めてから、梨央は室内にずらりと並ぶ、最新鋭のトレーニング機器を見渡した。

 この部屋に入るたびいつも思う。胃がなく肺も半分ない人が、これだけの機器を使って身体を鍛える理由を。

 ここで生活するようになって、もう二か月。この約六十日の間に、梨央は彼を名字ではなく、名前で呼ぶようになっていた。
 予想通り、正規の仕事は見つからなかった。
 なので梨央は週に三日ほど、ショッピングモール内の雑貨屋でアルバイトをしている。
 俊典は、焦らなくていいと言う上に、家賃も光熱費も受け取ってくれない。それがとても心苦しい。

 そしてこの二か月で、俊典が怪我をして帰ってきたことが幾度かあった。傷も、深いものから浅いものまでさまざまだ。
 ごくたまに、彼は帰宅してから翌日の朝まで、泥のように眠り続けていることもある。本当は食事をとってほしいが、おそらくそれどころではないのだろう。

 それらの理由が、梨央にはなんとなく想像がついていた。
 ヒーロー関係者どころではない。俊典は多分ヒーローなのだ。
 だが、それを彼自身が知られたくないのなら、絶対にたずねたりしてはいけないと梨央は思う。

 優しい人だ。おそらく梨央の知りうる誰よりも。
 俊典は必ず、目線の高さを梨央と合わせてくれようとする。梨央を怯えさせることがないように。
 梨央と俊典には六十センチほどの身長差がある。小さいほうに合わせて屈むのは、腰が相当つらいだろう。でも彼はそんなことはおくびにも出さない。

 優しい人だ。だからこそ困らせるようなことを言ってはならない。

 洗濯物を取り込んで畳み、衣類を持って俊典の寝室に入る。ここでベッドメイクをするたび、梨央はドキドキしてしまう。
 俊典の寝具からは、わずかに甘い香りがする。
 お香のような、バニラのような、スパイスの効いたドライフルーツのような不思議な香り。

 俊典の腕の中はこの香りがするのだろうか。
 自分の中に生じた甘い欲に、梨央は少し驚いた。
 と、その瞬間、寝室の扉が開かれた。

「私が帰宅した! 洗濯物ありがとう」

 鞄をデスクに置いてから、俊典がベッドに腰掛ける。
 ああまた、目線を合わせるため……と梨央は思った。
 本当に、さりげない気遣いのできるひと。

「ところで、前から気になってたんだけど、これはなんて名前の植物なんだい?」

 ネクタイを緩めながら俊典が訪ねてきた。彼の指しているのは引っ越し祝いにと梨央が贈った観葉植物だ。

 そろそろ置き場所を変えてもらおうと思っていたところだった。初冬を迎え、室内の気温も下がってきている。ここよりリビングの方が日当たりもよく、室温も高い。冬の初めから春にかけて充分に日を当てなければ、いくら梨央が個性を使ったところで花は咲かない。

「内緒です。ネットで調べたりしないでくださいね。春になったら、俊典さんとよく似た花が咲くと思いますよ」
「私と似た花?」
「そう、だからまだ教えたくないんです。どんなお花が咲くか楽しみでしょう?」

 梨央はにっこりわらって俊典の方へ手を伸ばした。

「前髪をこう……オールマイトみたいにあげたら、きっとそっくりになりますよ」
「う……」
「え?」

 梨央の両手は俊典の前髪を上げている。
 俊典が赤面するのとほぼ同時に、自分のしていることに気がついた。
 しかも、場所が場所だ。
 俊典はベッドに坐していて、そのすぐ前に梨央が立って。
 どちらかがその気になれば、そのままベッドの上になだれ込める位置だった。

 それを意識した瞬間に、互いの視線がばちりと合った。
 もう梨央は、矢車菊の色をした瞳に捕らえられて動けない。俊典も視線を逸らさない。

 目を逸らすことも、さりとてそれ以上進むこともできない。見つめあったまま、どれだけ時間がたっただろうか。
 おそらく一分にも満たない、短い時間。だが梨央には、それが数分にも数十分にも感じられた。

 やがて前髪を上げたまま硬直していた梨央の手を、しっかりした骨格の両手が柔らかく握り、そのままそっと下におろした。
 梨央は声も出ない。俊典も何も言わない。ただ優しく手をとられて見つめあう。それだけ。
 それだけのことなのに、何故だろう、こんなにも顔が熱い。
 初冬の夕方、暖房の入っていない部屋はそれなりに冷えているはずだ。なのに両手から伝えられるぬくもりが、全身を熱く焦がしてゆく。

 男はベッドに坐したまま。女は男の前に立ったまま、静かに時間は流れゆく。
 言葉はなくても、瞳は饒舌に気持ちを語る。だが梨央には、その辺の機微がよくわからない。
 わからないながら梨央は思った。このまま時間が止まってしまえばいいと。

「……っ……」

 俊典が何かを言いかけてやめた。

 なに、と問おうとする梨央を遮るように俊典が笑い、そろりと握っていた手を離された。
 俊典は話した両の掌を上に向け、ナーンツッテと呟いてから軽く頭を振った。

「ごめん、びっくりさせちゃったね」
「……大丈夫です……あの……そろそろご飯作りますね」
「ああ、ありがとう」

 動揺を隠しきれず、梨央がばたばたと部屋をあとにする。その姿を追う青い瞳が一瞬ゆらいだ。

「まったく……何をしているんだ、私は」

 楕円形の葉をもつ観葉植物が、風もないのに揺れた。
 この時の俊典の自嘲するような小さな呟きは、当然のように、梨央の耳には届かなかった。

2015.4.8
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月とうさぎ