4話 銀兎

 梨央が俊典と暮らし始めて、四か月が経過した。
 実家からも宗家からも、あれ以来何の連絡もない。見捨てられてしまったのか、呆れられているのか、それともいつか音を上げて帰ってくると思われているのか、それはわからない。
 しかし誰からも否定されない暮らしがこんなにも幸せなものなのだと、梨央は俊典との生活で初めて知った。

 梨央がアルバイトで得た収入を、俊典は絶対に受け取ろうとはしない。せめてと思い、梨央はたまに飲むお酒や、部屋に飾る花を用意する。
 俊典は花に詳しくない。でも活けた花には興味があるのか、必ず花の名前を聞いてくる。一つ一つ説明すると、納得したように笑う。
 寝室からリビングに移動した観葉植物の名前は、まだ教えていない。知りたそうにしているけれど、教えない。
 しっかり陽を当て、水をたっぷり与えた甲斐あって、楕円形の葉の間から細い円柱状の花径が少しずつ伸びてきている。きっと春になれば、俊典とよく似た花が咲く。

 毎週末には、ふたりで大型ショッピングパークに食材の買い出しに行く。
 周りから、私たちはどんなふうに見えるのかと梨央は思う。
 男女の関係はないのに、恋人同士や新婚さんみたいに見えるのだろうか。

 けれど、この関係はそう長くは続かないだろう。

 梨央と俊典の関係は少し歪んでいる。それはよくわかっていた。
 このルームシェアは対等ではない。対等ではない場合、シェアとは呼べない。それでいてやっていることは、性行為を伴わない新婚生活のようで。
 やはりどこか歪んだ関係だと、梨央はしずかにため息をつく。

 いずれここを出て行かなくてはいけない日がきっとくる。それは俊典が梨央以外の誰かを好きになった日。
 それを思うと、梨央は胸が張り裂けそうになるのだった。

***

「県内に、海に沈む夕日と海から昇る朝日が見られる岬があるらしいよ。明日行ってみないか」

 土曜の夜、蝋梅と椿を活けていた梨央に俊典がいきなり言った。

 夕日、と梨央は怪訝に思い、しばしの後にああと気づいた。
 元旦に初詣に出かけた時のことだ。帰り道、海浜公園に寄って初日の出を見た。ご来光を仰ぎながら、昇る朝日も綺麗ですけど海に沈む太陽も好きなんですと、話した気がする。
 おそらく、俊典はそれを覚えていてくれたのだろう。

「周りに風よけになるものがなにもないんだ。とても寒いから防寒はしっかりね」

 俊典はそう言って笑った。


 助言に従い、梨央はもこもこに着込んで家を出た。
 まずタイツの上からジーンズをはいた。上半身は吸湿発熱素材のインナーを二枚重ねし、その上から厚手のニットを着てダウンジャケットを羽織った。首には長めのマフラーをぐるぐると巻き、足元は分厚い靴下と、ふかふかとした羊毛羊皮のムートンブーツ。

「そういうのもかわいいね」

 言われて俊典を見あげる。
 俊典は紺と白の、レザーのスタジャンを羽織っていた。その下には杢グレーの裏ボアジップパーカーと、暗紫色のロゴTシャツを着て、太めシルエットのビンテージジーンズに、ごつごつしたワークブーツを合わせている。
 アメカジはあまり好きではなかった梨央だが、俊典が着ているとまた別だ。とてもよく似あうと思った。スーツ姿とはまた違った格好よさだ。

 俊典の言っていた場所は、最寄りの駅から電車とバスを乗り継いで一時間半ほどの、半島の突端にある岬だった。
 バスを降り、畑を越えて小さな林を抜けると、灯台をのぞむ遊歩道に出た。灯台と海を見ながらしばらく歩き、やっと目的の岬にたどり着いた。
 目前に、見事な海の景色と荒涼たる岩場がひろがっている。岩の上に小さな白いベンチが、ぽつんと一つ置いてあった。

 俊典がベンチに腰をおろした。手招きされて梨央も左隣に腰掛ける。
 真冬の夕方に岬の突端を訪れる酔狂な人間は他におらず、周囲にはまったくひとけがない。岬の突端に吹く風は、痛いくらい冷たかった。
 それでも二人とも黙ったまま、しばらく海を見つめていた。

 岬の突端は冷たい風が吹いているが、海そのものは凪いでいる。
 やがて海の色が少しずつ変化しはじめた。手前は青い海の色が、沖に向かっていくにつれ紺紫へとかわり、青みがかった紫から赤みのある紫へとグラデーションしながら水平線へと向かっていく。昼間の濃い青に彩られた海も美しいが、空に同調するように一刻ごとに色を変えてゆく夕方の海も、また芸術的だった。

 このように移ろいゆく海の色は、まるで人の心のようだと梨央は思う。自分の想いはどうなのだろう。
 隣に座るこの人への届かぬ想いは、いつか海が朱に染まり、やがて闇にとけるように、変化していってくれるのだろうか。

 この想いは空と海とのあいだの場所にある。できることならこんな気持ちは海に沈めてしまいたい。
 気づけば、東の空が濃紺に変わっていた。
 すぐに空も、そして海も、夜の闇へととけてゆくだろう。そうして空と海は一つになる。同じ漆黒の存在となる。

 陽が完全に沈むまで黙っていた俊典が、口唇をひらいた。

「そろそろ戻る?」
「……わたしは、もう少しここにいたいです」
「そうかい」

 掠れた低い声でそうつぶやいて、俊典はレザーのバックパックの中から小さなランタンを取り出した。大きな手がかしゅかしゅと音を立ててそれに火をつけ、ベンチから最も近い柵に、かちりとかける。

「俊典さん?」
「じゃあ、もう少しだけ、ゆっくり星でも見てから帰ろうか。せっかく来たんだものね」

 さすがに朝日が昇るまではいられないけど、と、俊典がウインクする。そうして長身痩躯の男は、ブランケットを出して梨央の肩にふわりとかけた。

「これからの時間はかなり冷えるからね」
「だめです、俊典さんが使ってください」
「私は大丈夫だよ」
「じゃあせめて一緒に入りましょう」

 え、と俊典が固まった。
 梨央自身も大胆な提案だと思ったが、双方が相手を慮っているのだから、こうするしかない。
 俊典に風邪などひかれたら、どれだけの量の喀血をみるかわからない。できうるならば、こんなことで彼の身体に負担をかけたくなかった。

 いやいや、とか、ちょっとそれは、などと呟く低音を無視して、大きな躰に寄り添うようにして、ブランケットに包まった。
 ちらりと俊典の方を見ると、彼は無言で闇に溶けた海の方向を見つめていた。ぜんぜんこちらを見ようとしない。
 それでも梨央は広げた毛布の中で、互いの体温を共有できることが嬉しかった。
 持ってきていた使い捨てカイロの存在を思いだし、俊典にも、と手を伸ばす。
 その瞬間、大きな左手で手をカイロごと握りこまれた。

 俊典が躊躇しているときはそうでもないが、積極的に出られるとどうしていいかわからない。さすがに気恥ずかしくなって、梨央は空を見上げた。

 冬の空気は、しんと澄んでいる。
 星がひとつふたつと瞬き始めるのを目の当たりにしながら、こんなにたくさんの星は松濤では見られない、と梨央は思った。
 そしてあの星々から見ればきっと、こんな自分の想いなど些細なものなのだろう。否、自分という存在そのものも。
 煌めく星々と共に、銀色の月が輝いていた。乾いた空気のおかげか、兎にたとえられる模様がくっきり見える。

「綺麗な銀兎」
「ぎんと?」
「秋の月や、月の中に見える兎のことを銀兎と呼ぶんです」
「君は情緒的なひとだね」
「そうですか?」

 応えた刹那、俊典がごほりと咳込んだ。唇から一筋の血が垂れる。
 ごめんね、と小さく笑って俊典がそれを右手の甲でぬぐった。
 もう帰りましょう、と言いかけた梨央を笑顔で制して、もう少しいようよ、と俊典がささやく。

 こんなとき、梨央はいつも泣きたいような、哀しい気分になる。
 俊典は優しいだけでなく、とても強いひとだ。怪我をしても、どれだけ血を吐いても、絶対に弱音を吐いたりしない。何があっても、どんな時でも、いつも笑顔だ。
 それゆえに、この人の笑顔はとても哀しいと思ってしまうことがある。
 常に笑顔でなくてもいい、弱音や愚痴めいたものを漏らしてもいいのに。

「ずっと言いたかったことがあるんだ」

 唐突に俊典が口をひらいた。

「もう、自分を許したらどうかな」

 びくりと梨央が硬直した。どうしてそれをと顔をあげると、青い瞳とぶつかった。
 俊典の言うとおり、ずっと梨央は自分を責めて生きてきた。

「あの事件は不可抗力だった。奴らは若い女性だったら誰でもよかったんだ。あの連中に出くわしたのは、君にとっては不運な偶然でしかない。前にも言ったけど、君のせいじゃないんだよ」

 多感な思春期に降りかかった、不幸な出来事。
 隙があったから、落ち度があったからと、周囲は梨央を弾劾した。
 誰ひとりかばってくれなかった環境の中で、梨央はそれが真実だと思い込んでしまっていた。自分が悪いから、あんな事件に巻きこまれたのだと。
 誰かにかばってもらいたいと願いながら、誰より梨央を責めていたのは、ほかでもない梨央自身だった。

「あれは君にはどうしようもできなかった。組織だった犯罪だ。君が自分を責め続けるのは間違っているよ。だから」

 使い捨てカイロごと握られていた手が、唐突に離された。
 そのまま俊典の左手が梨央の肩にまわり、そのままぐっと抱き寄せられた。杢グレーのパーカとTシャツのロゴが目前に見える。
 梨央の身体がすっぽり埋まってしまうほど、大きくて広い胸だった。

「声を出して泣いたっていいんだ」

 もう、我慢の限界だった。
 ぽろりと一粒涙がこぼれ、次から次へとあふれ出てくる。いつの間にか梨央は、声を出して泣いていた。

「わたしは許されてもいいんでしょうか」
「許すも何も、最初から君には何の非もないよ」

 背後に建つ灯台の明かりが、海を照らすのが見えた。
 梨央の頭を大きな右手が優しく撫でる。
 憧れ続けた男の胸は、白檀とスパイスとバニラの混じった、甘い香りがした。

「梨央……」

 低い声で名を呼ばれ、顔をあげた。頭を撫でていた大きな右手が、梨央の頬にそうっと触れる。愛おしむように、壊れ物を扱うように。
 身じろぎすれば触れんばかりの距離に、すぐ目前に、密かに恋焦がれていた男の顔があった。俊典の長めの前髪が揺れ、その額に影をつくる。
 落ち窪んだ眼窩の奥で光るコーンフラワーブルーの瞳に、自分が映っているのが見えた。
 口元をぐるぐると覆っていたマフラーが優しく下にずらされた時、梨央はそっと目を閉じた。

 が、その時、けたたましい機械音が鳴り響いた。
 鳴っているのは俊典の携帯。
 これは事件が起きた時、近くにいるヒーローに出動を促す警報システムの受信音だった。その音に続いて、次に着信音が鳴った。

「ああ、見える。わかった。大丈夫、私が行く」

 通話している俊典の視線が、海へと流れた。梨央も慌ててそれを追う。
 東の海岸線に小さな朱い柱のようなものが立ち、空をわずかに染めているのが見えた。あちらの方角には工業地帯が控えていたはずだ。

―工場火災―

 梨央は、かつて近県で起きたコンビナート火災を思い出してぞっとした。あの時の炎は、たしか十日間近く燃え続け、多大な被害を出したはずだ。
 
 電話を切った俊典が、気まずそうに梨央を見おろす。
 梨央はちいさく微笑した。

「どうぞ、行ってください」
「……」
「俊典さん、ヒーローなんでしょう? だったら行かなくては」
「……うん……」
「大丈夫です、俊典さんがいなくなるまで、わたしは目を瞑っていますから」

 どうぞ、と、梨央が下を向いて顔を覆った。
 俊典の瞳が驚きの形に開かれた。梨央は見ることができなかったが、彼は明らかに動揺していた。
 だがヒーローに逡巡している時間はない。
 瞬きするほどの短い時間の経過と共に、その身体が大きくふくれあがった。

 強烈な威圧感が、びりびりと梨央の肌を刺す。眼で見えなくとも、体に感じる圧倒的な迫力。それに気圧されながらも、梨央は、絶対にいま目を開けてはならないと思った。

「ごめん。ひとけのあるところまで送らせて」

 言葉と同時に、丸太のような腕に抱きかかえられた。
 梨央はこの腕を知っていた。かつて自分は、この腕に助けられたのだ。

 転瞬、俊典が大地を強く蹴った。
 風を切る音が耳元で荒れ狂う。だが梨央は全く寒さを感じなかった。

 目を閉じたままでいる梨央をそっとおろし、落ち着いた低音がそっとささやく。

「ありがとう……。とりあえずバス停まで出たから、十数えてから目を開けて。申し訳ないけど、一人で家に帰ってもらってもいいかい」

 はいとちいさくうなずいて、梨央は心の中でゆっくりと十を数えた。
 目を開けた先に、もう俊典はいない。
 そのまま空をふり仰いだ。

 梨央の瞳に、月の光を浴びながら飛ぶように空を駆ける大きなシルエットが映った。空を往くのは平和の象徴、オールマイトその人だ。
 天海に浮かぶ銀兎の下を、神速で駆ける黄金の兎。

 ああやはり……と梨央は思った。
 なんとなく、そうではないかと感づいてはいた。

 オールマイトと同じくらいの身長、同じ色の髪、同じ色の瞳、同じ低い声。
 けれど強靭な肉体をもつ完全無欠のヒーローとは正反対の、吐血や喀血を繰り返す虚弱な痩身。

 だからこそ、なにも聞いてはいけないのだと思っていた。

 平和の象徴。比類なき英雄。随一であり唯一の孤高の存在。
 あんな姿になってなお、他者を救うために生きるひと。
 矢車菊色の瞳に寂寥の影を浮かばせて笑う孤独なひとを、いったい誰が救うのか。

 あの人が自分を救けてくれたように、自分もあの人を癒したい。そのためにはどうしたらいいのだろう。

 大きな影が消えた東の空を、梨央はしばらくの間、身じろぎもせず見つめていた。

2015.4.10
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月とうさぎ