5話 片割月

 仮眠室で梨央の作った弁当を食べながら、オールマイトは窓の外を眺めていた。
 小雪がちらつき始めた校庭は、ひとけがなく物悲しい。鬱々とした鉛色の空の下に立つ木々の姿は、どこか骸骨を思わせた。それは今の己の姿にも似て。
 ちらちらと控えめに、小さな花びらが散るかのような繊細な美しさを有しながら、痩せた木々の上に、雪は静かに舞い降りる。
 その様子がごく身近に暮らすひとの面影と重なって、オールマイトは密かに苦笑した。

 同時にその脳裏に浮かんだのは、あの岬のベンチでの一件だった。
 危ないところだった、とナンバーワンヒーローはごくごく小さな声でつぶやく。

 あのまま警報がならなければ、おそらく自分は越えてはならない一線を越えていた。
 己はいつまで生きられるかわからない。だから特定の相手など作ってはならない。常にそう考え、実践してきたというのに。

 オールマイトは人を助け続けてきた。それが自分の存在理由ですらあった。
 人を救うために差し伸べ続けた己の手。それが力を失いかけた時、差し伸べられた手があった。
 華やかなのに、どこか寂しげで儚げな花のようなひと。彼女―梨央―は本人が最も好きだというトルコ桔梗に、とてもよく似ていた。

 梨央の優しい笑顔に惹かれた。もっと知りたいと思い、せめて友人になれないかと、自然を装い近づいた。
 傍にいられるだけでいいなどと、まるで夢見る乙女のような気持ちで。

 自分の正体を、きっと梨央は知っている。
 あの工場火災の後、オールマイトはそれまでウォークインクローゼットに詰め込んでいた自身のグッズの一部を寝室に戻したが、それについても梨央は何も言わなかった。
 彼女は優しいだけでなく、とても聡い。

「ちょっと失礼するよ」

 ノックの音と共に入ってきたのは、白衣を着た小柄な老婦人だった。
 オールマイトの秘密を知る数少ない人間のひとり、リカバリーガールだ。

「おや、また弁当かい」

 胃袋がないオールマイトは少量を何度にも分けて食べねばならない。だいたい一日6食が目安になる。今は三度目の食事タイムだ。
 リカバリーガールは、言葉とは裏腹にあまり頓着していないようすだった。
 さっさと自分でお茶を淹れ、よいしょ、とつぶやきながら、オールマイトの正面に腰を下ろした。

「六本木の事務所の整理は済んだのかい?」
「まあ、ぼちぼちというところですね。今月中には完全に閉める予定です」
「ところであんた、一度会わせなさいよ」
「は?」
「恋人だよ。その弁当、自分で作った物じゃないだろう?」

 鋭い、と思いかけたオールマイトの手元に、小さく萎れた手が伸びた。
 なにをと問う隙すらなく、おかずのレンコン入り肉団子は、あっという間にリカバリーガールの口腔内へと消えていった。
 もぐもぐと咀嚼しながら、リガバリーガールが笑う。

「うん。料理もなかなかうまい子じゃないか。早く所帯をもちな」
「……残念ながらそんな関係ではありませんよ」
「じゃあ、どんな関係なんだい」

 オールマイトがしかたなく、それまでのいきさつを口にする。
 全てを聞き終え、小柄な癒しのヒーローが呆れた様子でため息をついた。

「いい年をして、なんでおままごとみたいなことをやってるんだい。あんたみたいな秘密主義の男が誰かと一緒に暮らすなんて、よっぽど惚れているんだろ?」
「私たちのしているのは、ただのルームシェアです。私は恋人など作ってはいけない。その理由もご存知でしょう」
「まったく男ってのはうぬぼれてるね。女の恋は上書き保存だよ。あんたが死んだところで、違う男を好きになったら、すぐにあんたのことなんか忘れるさ」
「そんなものでしょうか」
「そうさ。かわいそうに、生殺しみたいな真似をしてるんじゃないよ」
「生殺し、ですか」
「そんな目に合った女が、好きでもない男と暮らせるもんか。期待だけさせておいて何もしないなんて、そんな残酷な話があるものかね。惚れているのにちゃんと愛してやる気がないなら、とっとと手放しておやり」
「彼女には行くところがありません」
「子供じゃないんだから、働き口さえあればなんとかするだろ。そうやって甘やかして、定職につかなくてもいいようにしむけてるのは、あんたの手管だ」
「ムム、手厳しい」
「案外、依存しているのはあんたの方じゃないのかね」

 オールマイトが言葉につまる。

「たとえそうであったとしても、私は……」

 その時、オールマイトの声を遮るように、警報音が鳴り響いた。
 事件ではなく、事故を知らせる音だった。校内放送がすかさず入る。

『高速道路でトンネル崩落事故発生。お手すきの先生方は出動をお願いします』

「行く気かい?」
「むろんです」

 一瞬にしてマッスルフォームになったオールマイトが、窓から飛び出した。

「本当にあの堅物はわかってないね。女はたとえたまゆらであったとしても、好きな男に愛されたいと乞う生き物だってのに」

 窓の外に消えたナンバーワンヒーローの姿を見送りながら、小柄な老婆がぽつりと漏らした。

***

 昼に降っていた小雪がやんだころ、オールマイトが帰宅した。
 彼はいつもの笑顔のままだったが、どうもその様子がおかしい。
 梨央には、オールマイトのっその笑顔が、なぜか泣き顔のように見えた。

「ごめん、ちょっと一人にしてもらえるかな。食事はいらない」

 抑揚のないつぶやきを残して、ひょろ長い身体が寝室へと消える。
 大丈夫かと心配しながら梨央がキッチンに向かおうとしたその瞬間、寝室からなにかが割れるような音が響いた。

 こんなことは初めてだ。そうそう感情に流されるような人ではないのに。
 なにか手がかりはと、梨央はリビングに駆け戻ってテレビをつけた。

 ニュース番組にチャンネルを合わせた瞬間に飛び込んできたのは、県内で起きた高速道路のトンネル事故の様子だった。
 被害者一名の文字と、懸命に救助を続ける大柄なヒーローの姿が映しだされる。
 そこにかぶさる、アナウンサーの声。

『オールマイトの活躍により、被害者は一名ですみました』

 これか……と梨央は思った。
 オールマイトは、あのひとはそういう人だ。
 たとえ百人を救おうと、救けられなかった一人の命を悼み、救えなかった己を責める。

 平和の象徴という二つ名は、オールマイトにとって、呪詛にも等しいものではないか。
 その重圧、その責任から逃れようとする人ではない。それゆえに。
 そして、それでも……オールマイトは笑うのだ。

 清く気高い孤高の魂。
 誰より優しい英雄は、自分以外の人間すべてを守るために生きている。けれどその英雄を守れる人はどこにもいない。

***

 結局、オールマイトが寝室から出てきたのは、上弦の月が西の空に消える、正子を迎えてからだった。

「ごめん、部屋は後で片づけるから」

 その言葉に寝室を除くと、扉の隙間からデスクの上に置いてあったはずのガラス製の盾が、破片となって床に散乱しているのが見えた。
 気まずそうにオールマイトが頭をかく。憔悴しきった哀しい笑顔で。

 せめて何か食べさせないと、と梨央は感じた。
 低血糖になると、また彼はダンピングで倒れてしまう。

「俊典さん」

 梨央が、自分よりはるかに上背のある男を見上げる。
 今のオールマイトは、目線を合わせる余裕がないようだった。それでいいと梨央は思う。こんな時まで、自分に気を使う必要はない。
 ん、と軽く目を細めて見下ろしてくる、青い瞳に問いかけた。

「なにか軽くめしあがりますか? 少しでも、お腹に入れないといけないですよね。鮭を焼いてあるんで、お茶漬けならすぐ作れますけど」
「……ありがとう。いただくよ」

 大きめのどんぶりにご飯を盛り、温めなおしてほぐした鮭をのせて、味付けをしただし汁をかける。その上に刻み海苔と白ごまをのせて、オールマイトの前に出した。

「ニュースを見たかい?」

 茶漬けを食べ終え、薄く入れた煎茶をすすりながら唐突にオールマイトが言った。梨央はうなずく。

「救えなかった」

 絞り出すような声だった。
 梨央は驚いてオールマイトの顔を見やった。彼からヒーローとしての仕事の話をされたのは、これが初めてだったからだ。

「最後の最後で何度目かの崩落が起きた。あと少しで助けることができたはずなのに……手が届かなかった」

 オールマイトは、もう自分の正体を隠す気はないようだった。
 そんな余裕すらないのだと気づいて、梨央はひどく動揺した。それほど打ちのめされているのかと。
 おそらく、被害者の数がただ一人であったことも、オールマイトを苦しめている。

―被害者は、たった一人ですみました―

 彼にとって、命は命なのだ。百であろうと一であろうと、救わなくてはならない存在だ。それを一人ですんだなどと讃えられることが苦しい。
 オールマイトはそういうひとだ。

「目の前で助けを求める人すら救えず、何が平和の象徴だ……」

 ダイニングテーブルに突っ伏すようにしながら、オールマイトが続ける。

「だから梨央、今夜はあまり私に近づかないほうがいい。今夜の私は縋れるものならなんにでも縋りたい気分なんだ。今の私は君になにをするかわからない」

 打ちのめされ、憔悴しきった随一の英雄。それでも彼は笑みを浮かべる。自嘲するようなその顔は、やはり泣き顔にしか見えなかった。

 このひとに、いったい何がしてあげられるのだろう。
 梨央は衝動的に行動をおこしていた。
 オールマイトの傍まで駆けより、ごめんなさいと小さくささやく。微かなその声と共に、梨央は後ろから痩せた男を抱きしめた。
 オールマイトが、はっと大きく息を飲んだ。

「縋りたければ縋ればいいんです。言ってくれたじゃないですか、泣きたいときには泣いていいって。男のひとも同じです。無理して笑う必要なんてない」

 オールマイトが瞠目した。矢車菊色の瞳が大きく揺れる。
 この瞬間、確かに彼の顔から笑みが消えた。
 この時、梨央の前にいるのは、平和の象徴などではなかった。
 梨央の腕の中にいるのは、今にも消え入りそうな、頼りないひとりの痩せた男だ。

「わたしはあの夕日の見えるベンチであなたがしてくれたことと、同じことをしたいです。その上であなたがその先を望むなら、それであなたが癒せるなら、わたしはそうしたい」

 梨央の腕を振り払うようにして、オールマイトが振り向いた。
 その顔が大きく歪んでいる。おそらくそれは、彼が誰にも見せたことのない、哀しい素顔。

「あなたはもっと、甘えていい」

 その言葉と同時にオールマイトが強く梨央の手を引いた。必然的に彼の膝の上に乗るような形になり、そのまま強く抱きしめられた。

 肉の薄い膝上に横座りになった梨央の唇に、英雄のそれが重なる。
 強引に歯と歯の間をこじ開ける等にして舌が侵入してきた。それは微かに血の味がする口づけだった。
 角度を変えて貪るようにキスをされ、口腔内をおかされていく。

「……っは……」

 息継ぎの仕方がわからず、声がこぼれた。
 それに乗じたかのように、オールマイトから与えられる口づけが、なお激しくなった。

 男の熱情に応えたかったが、不慣れな娘はどうしていいかわからなかった。

 彼の動きに合わせればいいのだろうか?
 自分のこの手はどこにおけばいいのか。

 わからず空を彷いかけた手を、それでも懸命に、骨ばっているがしっかりした背に回す。
 肩甲骨が大きく浮き出た、痩せた背中。
 この背中に、誰もが安心を見出している。その本人は、こんなにも不安げだというのに。

 大きな手がルームウエアの中に侵入し、慣れた手つきで梨央の下着のホックをはずした。フリースの上着をぐっとまくり上げられ、白い胸があらわになる。
 直接そこにも口づけをおとされ、梨央の身体がびくりとはねた。

 この時、薄い背から離れた梨央の手が、空をさまよいテーブル上の湯呑みに触れた。勢いに負けた陶器が倒れて、小さな音と共に中身がこぼれる。
 この小さな音は、感情に流されかけた男の理性を取り戻すには十分すぎた。
 オールマイトの大きな背が、そこでぎくりと固まった。

「すまない」

 ゆっくりと梨央の身体を自らの膝からおろして、オールマイトが顔をそむけた。

「どうかしていた。本当にすまない」
「女は……少なくともわたしは好きでもない人と一緒に暮らしたりできません。俊典さんになら、何をされてもいいんです」
「男にそんなことを言ってはいけない。これ以上のことをしたら、私は自分が許せなくなる」

 強い言葉に梨央は動揺した。オールマイトの表情が見えないのだから、なおさらだ。
 一呼吸おいてから、オールマイトは梨央に向き直った。

「頼むから、これ以上私を惨めな気持ちにさせないでくれないか」

 自分に向けられたまっすぐな青い瞳。笑顔ではないオールマイトのこの言葉は、梨央の心を引き裂いた。

 死にたいくらい恥ずかしかった。ひとを癒そうなどという思いそのものがおこがましいのに、図々しくもその気になって。

「……ごめんなさい……あの……わたし……もう……寝ます……ね……」

 そう言ってオールマイトに背を向けた時にはもう、涙があふれ始めていた。
 声を出さずに泣くことが得意でよかったと梨央は思った。きっと泣いていることを悟られずにすむ。

 梨央が自室へと消えるまで黙っていたオールマイトが、小さな声でぽつりとつぶやく。

「女は好きな相手じゃないと一緒に暮らせない……か。男も同じだよ」

 ぎゅっとこぶしを握り締め、彼は続けた。

「だからこそ、私は君の気持ちに甘えてはいけないんだ」

 リビングに置かれた観葉植物。そのボート型の苞がほころびはじめていた。春はまだ先だが、おそらくもうすぐ花が咲く。
 だがそのことに、今宵の二人は気づくことができなかった。

この話はコミックス八巻(2016.4発売)の内容が本誌に載るよりも前に書かれたものです。
「オールマイトが助けられなかった人はいない」という塚内さんの言葉に反するような場面がありますが、あえて修正は入れず、そのまま掲載しています。
ご了承ください



2015.4.14
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月とうさぎ