最終話 幾望

 冷たいきりりとした朝の空気の中で、オールマイトが静かに身体を起こした。
 深呼吸をしてから、特注サイズのベッドの上で、大柄な男はゆっくり、だが大きく伸びをする。
 ベッド上で軽くストレッチをしてから起き上がらないと、喀血しやすくなる。空気の乾燥している日は尚更に。

 ストレッチを終えた男は、ガウンを羽織ってから自室の扉をあけた。
 朝、扉を開けると味噌汁かスープ、どちらかの香りがする。それがオールマイトにとって、ここ数か月の常になっていた。それは今朝も同様のはずだった。
 だが香りどころか、冷えきった室内は、音はおろか人の気配すらもない。

 オールマイトの顔から血の気が引いた。
 慌ただしく向かったリビングはもちろん無人で、当然のようにシアタールームにもトレーニング室にもひとけがない。
 頭の中が真っ白になっていた。
 梨央の部屋を、恐る恐るノックする。その手が震えた。

 三回、四回、五回、いくら叩いても返答はない。
 オールマイトは思い切って扉を開け、そして言葉を失った。
 梨央の私物がなくなっている。

「なぜだ?……」

 自身でも驚くくらい、弱々しい声だった。

 オールマイトは、床に一本の香水瓶が落ちていることに気がついた。ピンク色のシンプルな瓶。それは梨央の愛用していた、奇跡という名の香水だ。

 震える手で香水瓶を拾い上げ、ため息をついた。
 香水瓶を手にしたまま、オールマイトはふらふらとリビングに向かい、ダイニングチェアに腰をおろした。
 時計が秒針を刻む音だけが響く冷えた広い部屋で、すらりとした長身がゆっくりとした動作で頭を抱えた。放心しきった表情で。

 それからどれほど時間が経過したのだろうか。ほんの数分だったのかもしれない。あるいは一時間を超えていたのかもしれない。
 その時、いついかなる時でも力を失わないと謳われた青い瞳が大きく開かれた。

 リビングの隅で、梨央がくれた観葉植物の花が咲いている。
 結局、オールマイトにはこの植物の名前がわからぬままだ。
 長い楕円形の葉と、円柱状にすらりと伸びた花茎。その先端にボート型の苞がつき、上部からほぼ直角に、オレンジ色の三枚の萼と一枚の青い花びらが伸びている。南方の鳥を思わせる、極彩色の花。

 なるほど確かに似ていなくもない。今の姿よりもマッスルの時の方が似ている気がすると、オールマイトは心の中で苦笑した。直角に立ち上がった三枚のオレンジ色が、自身の前髪のようだと。

 そのとき、観葉植物の花と、嬉しそうに葉や苞に手を当て、栄養を与えていた梨央の姿が重なった。

『案外、依存しているのはあんたのほうじゃないのかね』

 昨日、癒しのヒーローに言われた言葉が骨身に染みた。言われた通りだと思った。自分はいま、こんなにも動揺している。

 手に取ったままだった香水瓶の存在に気づき、オールマイトはその蓋をあけ、空中に向かってノズルを押した。
 霧状に散布された淡い紅色の液体から、ふわりと柔らかいフルーティーフローラルが漂った。
 優しいフローラルなのに、どこか凛とした香りだ。まるで梨央そのもののように。
 オールマイトは今まであまり気にしたことがなかったが、常にこの香りは彼のそばにたゆたっていた。
 梨央とすれ違うたび、酒を酌み交わすたび、そしてこの腕に抱くたびに、ほのかに、それでも確かに、この香りがあった。

 打ちのめされている自分を嘲笑するかのような笑みを浮かべ、オールマイトはテーブルの上にゆるゆると視線を動かした。マンションの鍵と共に、手紙のようなものが置いてあるのにまた気づく。

 封を切るのと同時に、宙に映像が投影された。
 映し出されたのは梨央の姿だ。泣きはらしたような真っ赤な目で、それでも彼女は微笑んでいた。

「黙って出ていってごめんなさい。長々とお世話になりました。それからあの観葉植物の名は、ストレリチアといいます。今朝、咲きましたね。私が思っていたより早かったです」

 へにゃりと笑う梨央は、笑っているはずなのになぜか泣いているように見えた。

「俊典さんは、もう少し自分が幸せになることを考えて下さいね。人のことばかりでなく、ご自分の幸せを」

 そこでぷつりと映像が途絶えた。

 それだけか……とオールマイトが独りごちる。
 ちょっと待て、己の幸せなんてどうでもいい。オールマイトが歯を食いしばる。
 梨央は行先を言わなかった。
 実家に帰ったならそれでいい。他の男の元であっても、行くところがあるなら送り出そう。
 けれどもし行くところがないなら、やはり放ってはおけない。あの頼りなげなひとを、この寒空の下、たった一人で彷徨わせるわけにはいかなかった。

***

「よかったじゃないか。あんたは愛してやる気がなかったんだろ? このまま手放してやった方が、その子にとっては幸せさ」

 小柄な老婦人がぼそりと言った。雄英高校の保健室はがらんとしていて、大柄な男と癒しのヒーローの他は、誰もいない。

「ま、実家とやらには帰ってないだろうね」
「え?」
「話を聞いた限りじゃ、その家には帰らないと思うよ」
「……ではどこへ……」
「もうあんたには関係ないんだよ。何度も言ってるだろ、きちんと愛してやる気がないなら、このまま自由にしておやり」
「行き場がないなら話は別です」
「相変わらず頑固だね」
「ですが!」
「もうあんた、今日は帰りな。仕事にならないだろ」

 厳しい言葉に、オールマイトはぐっとひるんだ。
 確かに大先輩に言われた通り、今日はまったく集中できていない。この状態でうろうろしていても、他の教員の邪魔になるだけだろう。現にたった今も、リカバリーガールの邪魔をしている。
 オールマイトの正式な採用は四月からだ。準備段階である今は、退出勤に制限はない。

「わかりました……」

 長身痩躯の男はため息交じりに立ち上がり、トレンチコートを羽織った。そこに、しわがれた声が追いかけてくる。

「あんた、心当たりはないのかい?」
「は?」
「その子が行きそうな場所だよ。行先のない女ってのは、思い出の場所みたいなところにすがるもんさね」

 思い出の場所、と、オールマイトが記憶を総動員する。
 浮かんできたのは、海と岩に囲まれたパノラマの景色。

 癒しのヒーローの助言に感謝しつつ、オールマイトは保健室を飛び出した。

***

 岬の先端で、白いベンチに腰掛けながら、梨央は海を眺めていた。足元には大きなキャリーバッグが二つ。
 沈みかけた太陽が、海を赤く染めている。

 初春とはいえ、雪が降った翌日の夕方の潮風はひどく冷たい。潮の香りを軽く吸い込んで、梨央はダウンジャケットの前をかき合わせた。
 眼下に広がる、灰色の岩場と赤紫に染まった海。白い波が岩にぶつかり、飛沫を上げる。

 こんなに荒涼とした景色だっただろうか。オールマイトと見た同じ景色は、もう少し優しかった気がするのに。
 もうすぐ、陽が沈む。オールマイトとここからの夕日を眺めてから、たいして日もたっていない。それなのに、ずっと遠い昔のことのような気がする。

 あの日ここでそっと肩を引き寄せられたとき、心が震えた。

 けれどあのひとを救けられるのは、自分ではないのだ。
 あのひとを癒したかった。あのひとの笑顔を支えたかった。
 それをあのひとは望まなかった、それだけ。

 すでに周囲が暗くなり始めている。空には一四日目の月である幾望が、真円に近い姿を現していた。
 この辺りは治安がいいとはいえ、若い女が一夜を明かせるような場所でもない。
 とりあえず今夜の宿を探そうと梨央が立ちあがった、その時だった。

 背後から、草を踏む大きな音がした。
 ふりかえった先に立っていたのは、見上げるほどの偉丈夫だ。

「俊典さん?」

 うん、と強靭な体躯を有する男が頷いた。
 なぜ、と梨央が声を震わせる。

「行くところがないんだろう。こんなところで夜を明かすなんて尋常じゃない」
「それ、俊典さんに関係ありますか?」
「いや、ないな……ないが放ってはおけないだろう」
「その優しさは、優しさじゃないです。追ってこられたりしたら、期待してしまいます。その気がないなら、もうかまうのはやめてください。わたしの気持ちに応える気がないんでしょう?」

 オールマイトは答えない。ただまっすぐに梨央を見つめているだけだ。そうしているうちに、陽はゆっくりと海の向こうへ沈んでゆく。

「俊典さんはずるいです。そうやっていつも一番大事なことを答えてはくれない……ルームシェアだって対等じゃなかった。一度もお金を受け取ってくれなかったじゃないですか。ずっと心苦しかったんですよ」
「それならお金を受け取るよ」
「そういう問題じゃありません」
「じゃあどういう問題なんだ! これ以上心配をかけないでくれ!」
「心配される筋合いはありません。居候が出ていくだけのことです」
「君を居候なんて思ったことはない。私は君を!」

 言葉を途中で飲み込んで、オールマイトが気まずそうに顔をそむけた。
 波が岩にぶつかる音だけが、周囲に響く。

「どうして途中でやめるんですか? 教えてください、俊典さん。君を、の続きはなんですか?」
「……」
「では、質問を変えます。俊典さんはわたしのことが嫌いですか?」
「嫌いな人とは暮らせないよ」
「では、女性として好きでいてくれていますか?」

 オールマイトはやはり答えなかった。
 だがこの時、梨央は確信めいたものを感じていた。オールマイトは嘘をつかない。無言は肯定のしるしなのではないか。

「わかりました。じゃあ、今の質問に答えてくれないのは、私を置いて行かなくてはならない日がくるからですか?」

 オールマイトが弾かれたように身を強張らせ、梨央を凝視した。
 ああ、図星であったのかと、梨央は心の中でため息をつく。
 ちょっとしたことで喀血してしまうような身体で、あれだけの活動をしている人だ。その身体にかかっている負荷は、常人には想像もできない。
 その上ヒーローとしての彼は、どこまでも自己犠牲を貫こうとする。それが何を招くのか、医療知識のない梨央であっても安易に想像できた。

 梨央がオールマイトに向かって、一歩踏み出した。
 あろうことか、平和の象徴と謳われた男が、一般女性に気圧されその足を一歩後ろにずらす。けれど梨央は、その間合いをまた詰めた。

 もう迷うことはない。たとえ何があろうとも、この優しく哀しい人を独りにはしない。
 梨央は両手で、そっと愛する男の右手をとった。分厚い、傷だらけの、人を救けるためにある大きな手。

「俊典さん、わたしなら大丈夫です」

 なんということだろう。この人の手はこんなにも大きい。自分の両手をもってしても、包みきることはできない。
 果たして自分は、この人の高貴な魂を癒すことができるのだろうか。いや、それでも……と、梨央は思った。
 それでも触れたこの温もりは共有することができる。体温だけでも、与え合うことができるはずだ。
 このベンチで、ブランケットの中で、互いの体温を共有したように。

「空に輝く月から見たら、わたしたちの送る人生なんて、きっとほんの一瞬です。刹那的であるからこそ、わたしはあなたと一緒にいたい。共に過ごせる時間がどれだけ短かったとしても、好きな人の笑顔を支えるために、私は生きたい」

 春先の湿った強い潮風が、オールマイトの金髪を揺らした。立ち上がった前髪が踊る下で、彫りの深いその顔が苦悶するかのように歪んでいた。

「俊典さん。限りある時間だからこそ、わたしはあなたとそれを共有したいんです。たとえそれがいつか、思い出にかわってしまうとしても」

 傷だらけの手をとったまま、梨央はオールマイトの顔を見上げた。
 痩せた姿でいる時よりも濃い顔立ち。でもやっぱり面影はある。どちらの姿であったとしても、ストレリチアによく似た、極彩色が似合うひと。
 それでもまだ、オールマイトは逡巡しているように見えた。

「あなたがわたしの心を救ってくれたように、わたしもあなたを助けたい」

 しばらくの間躊躇していたオールマイトが、やがてまっすぐに梨央を見つめた。
 コーンフラワーブルーの瞳に宿っているのは、宝石よりも強い輝き。

「私はこれからとんでもなく卑怯なことを言う。幻滅するかもしれないが、聞いてくれるかい」
「はい」
「私はこの命尽きるまでヒーローはやめられない」
「知っています」
「私はおそらく、近いうちに消えてしまうだろう。残された時間は、とても短い」
「……はい……」
「それでも私は、君にそばにいてほしい」
「はい」
「私には君が必要だ」
「ずっと、離れません」

 言い終えるや否や、力強い腕で抱きしめられた。

 自分よりも大切だと思える相手がいる。
 そのひとが心から笑っていれば、きっと自分も笑えるだろう。
 そのひとと共にいられるだけで、きっと自分は幸せだ。
 なんという愚かしい感情。
 だが、人はそれを、愛と呼ぶ。

 遥か天空に輝くは幾望。
 その銀色の光の中に、浮かぶは銀兎。

 天海に浮かぶ銀の兎が、地上に輝く眩い黄金の兎を、そっと照らし続けていた。

2015.4.16

本作は2016年11月のサイト移転に伴い、「マイト」と記していた作中での名称をオールマイトの本名に書き変えました。
同年5月に出した夢本も同様の表記になっています

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月とうさぎ