天海を渡る月の船

 陽がすっかり落ちてしまった早春の岬に吹く海風は、とても冷たい。
 小さくくしゃみをした梨央の肩を、真実の姿に戻ったオールマイトがそっと抱いた。

「寒いですね」
「そうだね」

 遊歩道を進みながらの言に、オールマイトが笑んで答える。彼の大きな手の中には、キャリーバッグの取っ手が二つ。それが、今の梨央の全財産。
 懐具合は寂しく、風は冷たい。けれど、心はほかほかとあたたかかった。
 今朝はあんなに悲しい思いでバッグに荷を詰めたのに、つい三十分くらい前までこんなに荒涼とした景色だっただろうかと涙ぐんでいたというのに、人の心とは現金なものだ。

「俊典さん、明日のご予定は?」
「うん、幸いにも休みなんだよね。だから、ひとつ提案があるんだけど」

 オールマイトが、言葉を切った。
 こおお、こおお、と、海を渡る風が大きく音をたてている。

「せっかくだから泊まっていかないか。ここらへんは温泉も出るみたいだよ」
「温泉ですか、いいですね」
「……梨央……」

 常よりもややテンションを落とした、艶を含んだ声にぞくりとした。はいと顔を上げた梨央を待っていたのは、いつになく真剣な表情のオールマイトだ。まっすぐにこちらを見つめる、澄んだ矢車菊色の瞳。

「取る部屋は、一つでもいいだろうか」

 その言葉の意味をかみしめてから、オールマイトの筋張った細い腕に顔をうずめた。

「はい」

 そう小さく答えた梨央の顎に、長い指が触れる。ありがとうの言葉と共に、優しく上を向かされた。落ちてくるのは、優しく甘い口づけだ。
 ふたりがした最初のキスは、血の味がした。

 オールマイトの細い膝の上で強く抱きしめられて、奪うように口づけられた。それは、打ちのめされた彼の、打ちのめされた心を表わすような、悲しいキスだった。
 けれど今は違う。柔らかくて優しくて、そして甘い。まるで砂糖菓子のように。

 少しして梨央の唇を解放したオールマイトが、待っていて、と、ささやいた。観光ホテルに電話を入れているであろう背の高い姿を見つめながら、思う。
 本当に、この二十四時間でいろいろなことがおきたものだと。

 崩落事故での出来事に傷ついていたオールマイト。あの時の彼は、自分がオールマイトであることを隠すこともできないほど、強く打ちのめされていた。
 なぐさめようと思った梨央と、それを望まぬオールマイトとの間で起きた空回り。梨央はそれに傷つき、恥ずかしさのあまり彼の家を出た。そして――。

「梨央」

 優しく名を呼ばれ、我にかえった。そういえば、彼が梨央を呼び捨てにするようになったのは、いつからだったろう。

「部屋、とれたよ。ちょうどキャンセルが出たらしくて、食事もつけてもらえるそうだ」
「それは楽しみですね」
「ここから一番近いホテルだよ。海から昇る朝日が見える部屋だってさ」

 そう笑んだオールマイトの表情は、まるで太陽のようだった。

***

 観光ホテルのその部屋は、六畳の和室の奥に小さなベッドルームが付属する和洋室だった。奥のベッドルームは、ダブルベッド一台でいっぱいになる程度の広さしかない。ベッドと小さなスタンドしかないそのスペースが、畳敷きの和室と木製の引き戸で区切られていた。それだけで、なぜだかとても官能的な印象を受ける。

「梨央、見て。景色もいいよ」

 呼ばれて、海に面した和室の窓から月を眺めた。満月前日の月――幾望の光に照らされた海は、立ちあがる波が銀色に輝いて、とても幻想的だった。

「綺麗ですね。海も、そして月も」
「そうだね。君と見ているからなおさらだ」

 かつて、ある文豪が「I Love You」を「月が綺麗」と訳したという逸話がある。それになぞらえて言ってみたのに、さらりと返されてしまった。スマートな人だと、つくづく思う。

「お食事、とても美味しかったです」
「うん。舟盛りのアワビと伊勢海老が特にうまかった」
「茶わん蒸しも」
「そういえば、女性用のお風呂はどうだった?」
「広くて良かったですよ。お湯もさらさらしたナトリウム系で、たくさんあたたまってきました」
「ここのお湯は、疲労回復や筋肉痛にいいらしいね」
「神経痛や関節痛にも効くらしいです。よかったですね」
「……私はたしかにおじさんだけど、おじいちゃんじゃないぞ」

 むくれるオールマイトに笑みを返すと、頭をくしゃりと撫でられた。

「ここ、思ったよりいいホテルだったな」
「お部屋もちょっと変わってますよね」
「確かに。和洋室って、たいてい手前がベッドのある洋室になってて、奥に和室があるものだけど、ここは和室の奥にベッドルームがあるからね。ちょっとラブホっぽい気もするけど」
「……わたし、そういうところに行ったことがないので、よくわかりません」

 ほんの一瞬だけ、オールマイトがしまったという表情をした。だが彼はすぐにそれを笑顔の仮面の下に押し隠す。相変わらず、優しいけれどずるいひと。

「……言っておくけど、私もそんなに利用したことはないからね」
「はい」
「あ、信じていないな」
「そんなことありませんよ。わたしは俊典さんを信じてます」

 少しきまり悪そうに口をへの字に曲げた彼の、その顔が可愛いと思った。
 しかたがないとわかっている。年齢も、人生における経験も、梨央とオールマイトの間には埋めようがない差があって、それはもうどうしようもない。ことにこうした恋愛関係における経験値の差は、尚更に。

「そろそろ寝ようか。君、今朝早かったろ?」

 寝る、という言葉に、一瞬、全身が強張った。「どうする?」と瞳を覗きこまれたので、ごく小さな声で「はい」といらえた。大きな掌に右手を取られて、指先に唇を落とされる。

「大事にするよ」

 オールマイトはそう言うと、そのまま梨央を横抱きにした。突然のことに、胸の鼓動が早まった。梨央はそんなに重たい方ではないけれど、この細い腕のどこにそんな力がと思ってしまう。どんなに痩せてしまったとしても、やっぱりこのひとはオールマイトなのだ。
 梨央をベッドの上におろしながら、オールマイトが後ろ手で和室に続く引き戸を閉めた。
 四畳半程度しかない広さに置かれたダブルのベッドの両脇は、すぐに壁。ひどく圧迫感がある。
 冷たい汗が背筋を伝うのを感じながらオールマイトを待っていると、大きな手が頬に触れた。ゆっくりと近づいてくる、彼の顔。

 オールマイトの口づけは優しい。リップ音を立てながら耳、頬、首筋、鎖骨へと、徐々に下へと降りてくる、彼の乾いた唇。ふわふわと心躍るような、穏やかな幸福感が梨央を包んでゆく。
 すっとオールマイトが身体を伸ばして、部屋の明かりを消した。室内を照らすのは小さなナツメ球と、窓から差し込む月明かりだけ。
 闇の中でそっと肩を押されて、ゆるやかにベッドの上に倒された。これ以上ないくらい、丁寧に優しく。

 けれどこの瞬間、嫌な記憶が梨央の脳裏に蘇った。
 学校帰り、数人の男たちに無理矢理ワゴン車の中に引きずり込まれた。連れていかれた先には、梨央と同じように拉致された少女たちが、狭い部屋の中に監禁されて。
 息が詰まるような狭い室内を照らしていたのは、小さな窓から見える月明かりだけ。
 おこりのように身体が震えはじめた。同時に、闇がぐるぐると渦巻き始める。薄く墨をはいたような闇と、それより一段暗い闇。それがマーブル状に混じりあいながら、梨央の身体を飲みこんでゆく。

 ぼろぼろと涙がこぼれた。
 今、自分を抱こうとしているのは、ずっと好きだった人なのに。
 ずっとあこがれ続けた、とても大切なひとなのに。

「大丈夫かい?」

 大好きなひとの問いに答えることもできず、その腕にしがみついて震え続けた。
 梨央の様子に驚いたのだろう。オールマイトが慌てたように電気をつける。
 取り戻された人工的な明るさに、ほっと安堵の息をついた。白い光を放つ灯の下で心配そうにこちらを覗き込んでいるのは、やっぱり梨央の大好きな人だ。
 肩で息をしながら、下を向いてゆっくり呼吸を整えた。震え続ける身体を止めたくて、そのまま自分で、自分の肩を抱きしめる。
 どれだけ時間が経っただろうか。おそるおそる顔を上げると、心配そうな青い瞳とぶつかった。

「ごめん。焦りすぎた」

 梨央から少し身体を離して、オールマイトが頭を下げた。
 違う、違うのに。あなたはまったく悪くないのに。

「安心して。今夜はもう、なにもしないよ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろ。そんな真っ青な顔をして」
「違うんです!」

 きっと話しても大丈夫。目の前にいるのは、少女だった自分を助け、大人になっても消えない傷に苦しんでいたのを救ってくれた、そのひとだ。

「わたし……暗くて狭いところがだめなんです……」

 梨央は暗所恐怖症だった。室内、ことに狭いスペースで明かりを落とされるとつらい。

「寝る時も電気をつけていないと、怖くて……」
「家でも、電気をつけたまま眠っていたのかい?」
「……はい」
「……そうだったのか、気づいてやれなくてすまない」

 オールマイトは悪くない。最初に話しておかなかった自分が、全部悪い。
 けれど、いや、だからこそ、このまま何もしないで一夜を過ごすのは嫌だと、梨央は思った。
 このままマンションに帰ってしまったら、またなにもない日々に逆戻りしてしまう。優しいこのひとは、きっとそうする。
 どうしていいかわからずに、オールマイトに身体を寄せた。

「梨央。少し離れてくれないと、私も困るんだよ」
「俊典さんが怖いわけじゃないんです」
「無理しなくていいんだ」
「無理なんてしてません……だから」

 すがるようにオールマイトを見上げながら、そう告げた。青い瞳と梨央の瞳が絡み合う。彼は驚いたような顔をして少しの間逡巡していたが、やがてふっと息をついた。
 梨央の背中に大きな手が回されて、耳元に彼の唇が寄せられる。

「じゃあ、明かりがついてれば、大丈夫?」

 息が吹きかかるくらい近くで響いた色を含んだ低音に、背筋がぞくりとした。男のひとの色気って、こういうものを指すのだろうか。

「明るすぎても……恥ずかしい……です」
「ちょっと待ってて」

 まず、オールマイトは引き戸をすべて開け放った。目の前に広がる、六畳分のスペース。正直な話、これだけでもずいぶん違う。次に彼は和室の海側の窓の下まで歩いていって、備え付けられている細長い灯りをかちりとつけた。和室の中央照明は消されたままだ。そうして彼は、ベッドスタンドのスイッチを入れた。

「ためしに一度、ここ消すよ」

 前置きしてから、オールマイトがベッドルームの天井照明を消した。
 ベッドスタンドと隣の部屋の奥からの灯り。それは暗すぎず、さりとて明るすぎもせず。互いの顔がきちんと見える、梨央にとっては安心できる光だった。見えてしまうのは恥ずかしいけれど、見えないくらい暗くされると駄目なのだから仕方がない。

「これならどうかな?」
「俊典さんの顔がはっきり見えるから……大丈夫だと……思います」

 薄い肩に顔をうずめての小さないらえは、オールマイトの耳に届いただろうか。
 梨央、とひくく名を呼ばれ、そっと唇を合わせた。触れるだけの優しい口づけ。オールマイトが徐々に角度を変えながら、少しずつそれを深めてくる。
 背筋をのぼる、甘くて切ないなにか。

「怖かったり嫌だったりしたら、いつでも言ってくれ」

 上に覆いかぶさりながら、オールマイトが一度離した唇を、また、梨央の上に落とした。
 耳朶をそっと甘噛みされて、もう一度、甘い声を注ぎ込まれた。それだけで切ない声が漏れてしまった自分に驚く。好きな男に閨で自分の名を呼ばれる。ただそれだけのことが、これほどの甘美な悦びを生むということを、梨央はこの夜初めて知った。

「君は本当にかわいいね」

 幾度も唇を重ねながら、大きな手が梨央の身体に優しく触れた。触れられた部分が熱をもって、梨央を溶かしてゆく。
 ふたりを受け入れているこのベッドは、まるで天海を渡る船のよう。揺れながら空の海を渡り、ふわふわと宙を漂っていく。
 星々の煌めきを思わせる彼の黄金色の髪が、ベッドサイドの明かりに反射してとてもきれいだ。
 そして梨央は少しの期待と多くのおののきをもって、オールマイトを受け入れた。愛するひととひとつになる。それが、とても嬉しかった。

***

 明け方に、目が覚めた。
 梨央は眠りが浅い。ほんの少しの物音でも目覚めてしまう。和室の方に目をやると、窓辺の手すりに腕をかけて暗い海を眺めている、長身痩躯の姿があった。
 身を起こすと、気配で気づいたのだろう、オールマイトが振り向いた。

「ごめん、起こしてしまったかい?」
「……そっちに行ってもいいですか?」
「もちろんだよ。おいで」

 両手を広げて、彼は梨央を迎えてくれる。

「体はつらくないかい?」
「ええ」
「寒くないかい?」

 囁きながら、オールマイトは膝の上に梨央を座らせ、長い腕で守るように包み込んだ。

「せっかくだから、日の出を見ようと思ってさ。もうすぐだよ」

 促されて、梨央は窓の外を眺めた。
 空と海が溶け合う闇の中を、灯台のあかりが細く照らしていた。
 黒から濃い紫色に移りゆく空と海は、墨色にほんの少しだけ白と赤を混ぜたような色をしている。黎明、ドーンパープルと人が呼ぶ、夜明け寸前の空。それが少しずつ、薄い紫へと変わっていった。境界線があいまいだった海と空の境目が、白から黄色、黄色からオレンジ、オレンジからまた赤へと変化してゆく。
 深紅に染まった水平線。そこから、劇的なまでに大きく赤い太陽が現れた。

 赤から金色に移りゆく太陽光を浴びながら、どちらからともなく唇を合わせた。こんなに幸せでいいのだろうか。
 いつか、あかりを消した部屋でも眠れるようになるだろうか。この人の腕の中でこの幸せに包まれている、その時だけでも。
 オールマイトの瞳と同じ色の空と、オールマイトの髪と同じ色の太陽を仰いで、梨央は静かに、今の幸せをかみしめた。

2015.9.22
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月とうさぎ