ギムレットには早すぎる

プレゼント・マイクとギムレット


 朗々と輝く月が、ハナミズキの白い花を照らしていた。
 新緑香る五月の夜に吹く風は清しい。だが軽やかな薫風を受けているはずのわたしの足取りは、ひどく重かった。彼に会いたいのか会いたくないのか、いま悲しいのか嬉しいのか、わからなくなっていたから。

 行き先は高校時代の同級生が教えてくれた隠れ家バーだ。待ち合わせの相手はその同級生。同じ高校の、同じヒーロー科を出た友人であり、同じ年にヒーローとしてデビューした同期でもある。彼の名前は山田ひざし。またの名をプレゼント・マイク。

 高校時代、わたしは彼に告白されたことがある。山田は面白いし、立ち居振るまいが案外スマートで華やかだから、女の子にもけっこうモテた。ご多分に洩れずわたしも彼には好意をもっていたけれど、当時のわたしは授業についていくのが精一杯というていたらく。除籍されまいと必死で、彼氏どころの騒ぎではなかった。だから、断腸の思いで彼の告白をお断りした。
 そのとき、山田はさもなんでもないというように「残念」と笑い、数ヶ月後、彼を慕う一学年後輩の、めちゃめちゃかわいい女の子とつきあった。

 卒業後の山田は、秀でた個性と明るいキャラクターで、あっという間に人気ヒーローの仲間入りを果たした。彼はそのまま人気をキープしつつ、ヒーロー、DJそして教師という三足のわらじを履き続けている。器用なことだ。
 対するわたしは、小さいけれど堅実な事務所で相棒をしている。つまり、食べるに困ることはないけれど、あまり有名ではない。

 それでもこの仕事をしている以上、有名ヒーローと会うことはそれなりにあるわけで、半年ほど前、プレゼント・マイク……山田とチームアップしたのをきっかけに、ふたりで飲むようになった。

 といっても、色っぽい感じでは決してない。たいていは山田が暇なときにわたしに連絡をしてきて、会う。そしてお酒を飲みながら、なんてことのない話をして、別れる。本当にそれだけ。

 なぜわたしなのかはわからない。高校時代の恋の再燃という感じでもなさそうだ。もしそうであるのなら、もっと早くなにかしらのアプローチをしてきたことだろう。なにせ山田は明るいから。そんな彼が特になにも言ってこないということは、純然たる友達づきあいがしたいだけだ。わたしはそんなふうにとらえていた。……そのはずだった。
 あの日、山田が彼女といるのを見てしまう、あの瞬間までは。

***

 それを見てしまったのは、桜が開花した日の夜のことだ。
 ちょっと一杯飲んでいこう、と山田とよく行くバーの扉をあけた。もしかしたら彼も来ているかもしれない、そんな淡い期待も、確かにあった。
 だが重たいオーク材の扉を開けた瞬間、晴れやかだった気持ちが一気に地の底へと落ちていった。奥のボックス席に「彼ら」がいたから。

 片方はグラマラスなボディと燃え立つような赤い髪をした女性で、もう片方は背が高くすらりとした、だが実は鋼の肉体を持つ金髪の男性、つまり、山田だった。
 一緒にいる女性は、ため息が出るくらい美しかった。たとえるならば真紅の薔薇だ。春花の女王のようなそのひとが手にしていたのは、ジンベースのショートカクテル。細足のカクテルグラスを彩る淡い緑色をした酒の名は、ギムレット。

 その正面に座る山田は、わたしが今までみたこともないような顔をしていた。戦闘中の厳しい顔ではなく、DJの時に見せる明るいものでもなく、わたしといる時に見せるリラックスしきった表情でもない。匂い立つような色気を湛えたその表情は、紛れもなく「男」としての顔だった。

 わたしは頭をハンマーで殴られたような気分になり、そして次に、なによ、と思った。
 あんたがあんなわかりやすいセクシー美女が好みだなんて、知らなかったわよ。高校時代につきあっていたかわいこちゃんとも、五年前に写真週刊誌に抜かれたスレンダーなモデルとも、それからわたしとも、ぜんぜんタイプが違うじゃない。だいたいなによ、そんな色男みたいなかっこつけた顔しちゃって、まるで知らないひとみたい。
 心の中で悪態をついていたらうかつにも泣きそうになってしまったので、唇を噛みしめて、カウンターの末席に腰をおろした。
 と、その時、山田と目が合った。サングラスの奥で輝く、ペリドットの瞳。

 すると山田は少し照れたように笑った。ただ、笑っただけ。声をかけてくるでもなく、軽く手を挙げるのでもなく。

 だからわたしもさりげないふうを装って、ちいさく笑みながら会釈をかえした。ちょっとした知り合いに出会ったときのように。
 そして彼は、なにもなかったかのように、わたしから視線をはずした。

 そう、わたしは山田にとって、ただの知りあいでしかないのだ。高校時代に同じクラスであったというだけの。
 その事実は、わたしをますますかなしくさせた。

 そしてもうひとつ気がついてしまった。それは自分の本当の気持ち。
 わたしはいつのまにか、山田のことがとても好きになってしまっていたのだ。やっとその事実に気づいたわたしは涙を必死にこらえながらカルーアミルクを頼み――なぜって、バーに来てなにも頼まず帰るのはとても不自然なことだから――それを三十分ほどかけてゆっくりと飲み、それから席を立った。
 薄紅色の小さな花が咲く家までの並木道を泣きながら歩いた、三十路の夜。

***

 あの夜の桜はすでに散り、街路を彩る花はハナミズキ。見上げた空には小望月が輝く。
 ああ、本当にきれいな月だ。かなしいくらい。

 本当は、もう山田とは会うつもりはなかった。自分の気持ちを自覚してしまった以上、恋人のいる山田と会うことは、つらくなるばかりだから。
 実際、山田から先々週と先週、「いつものところで飲もうぜ」というLIMEが来たけれど、あたりさわりなく断った。

 そうしたら、昨日、直接電話がかかってきた。彼女がいるくせに他の女に電話をかけてくるなんて、本当にあいつはよくない男だ。
 いや……あの人なつこい男は、ただたんになんの下心もなく、古い友人を誘っているだけなのだ。わかっている。わかっているからこそ、ますますやるせない気分になった。

「ヘイ、元気ないじゃねえかリスナー」
「わたしあんたのリスナーじゃないけど」
「そりゃ正論だ。ベイビー」

 ここで山田は一段、声を落とした。

「それはそうと、会おうぜ。久しぶりにさ」

 この声はだめだ。普段は明るくからりとした声で話すくせに、ここ一番で低音でささやくなんてずるい。
 山田、あんたのボイスは、戦闘の時だけでなく、電話でもこんなにダメージを与えるのか。おかげでこっちはボロボロだ。
 あの低く甘いささやきは、わたしが一生懸命築いた防壁を、一瞬にして壊してしまった。

***

 小さくため息をついて、バーの扉をあける。あの日、赤い髪の美人と山田が座っていたボックス席には、今日は別のカップルが座っていた。

「よーォ、久しぶり」

 カウンター席の山田が、わたしに向かって満面の笑顔でそう言った。先日見せた照れ笑いでも、男としての表情でもなく、いつもの山田の顔だった。
 彼はわたしに、男としての顔を見せてはくれない。それがかなしいのに、それでも山田に会えたことがうれしい。
 これが自覚したての恋の恐ろしさだ。相手に恋人がいようがいまいが、そんなのぜんぜん関係ない。ただ会えただけでうれしいと思ってしまう。まるで、初めて恋をした女の子みたいに。

「なんだ赤い顔して、のぼせたかァ?」
「時間に遅れそうだったから、走ってきたの」
「ばっかだなァ。そんなの気にするこたァねェんだよ。疲れたろ」

 わたしのついた小さな嘘を信じて「まあ座れよ」と言った山田に「ありがとう」と答え、メニューを広げる。といっても、頼む酒はすでに決まっているのだけれど。

「ギムレットを」
「ギムレット? けっこう度数強いぜ、大丈夫かよ」
「お酒の飲み方くらいわきまえてる。同級生なんだから子ども扱いしないで」

 む、と山田は何か言いたげな顔をした。もうすこしかわいい言い方をすればよかったが、まあ、後の祭りだ。



 届いたお酒は、淡い黄緑色をしていた。山田の恋人が飲んでいたギムレットは、やや白濁していたような気がするのに。

 ギムレットはジンとライムジュースを合わせたカクテルだ。入れるシロップの量により甘さを調節できるフレッシュなライム果汁を使うか、はじめから甘く味付けられたコーディアルライムを使うかは、バーテンダーによっていろいろだ。
 おそらく甘いお酒を好むわたしのために、コーディアルライムを使ってくれたのだろう。そして山田の恋人には、シロップ控えめの辛口のギムレットを。ライム果汁を使った場合、シェークしたカクテルはやや白濁するはずだから。

 乾杯、という元気な声とともに、軽くグラスを合わせた。山田の手にも、わたしと同じギムレット。すこしきどったカクテルグラスは、山田にとてもよく似合う。

「いや、それにしてもずいぶん久しぶりだよな」
「そうでもないわよ、先月ここで会ったじゃない」
「その前はもっと会ってただろうがよ。四月は忙しかったのか?」
「まあ、そんなとこ」

 とこたえて、目をそらした。山田はふたたびなにか言いたげな顔をしたが、それ以上は言及せず、話題をあたりさわりのないものに変えた。
 山田が苦い顔をしたのは、酒が進んで少ししてから……わたしが三杯目のギムレットを頼んだあたり。

「おまえ、さっきからギムレットばっか飲んでんじゃねーか。……なんか意味でもあんのかヨ」

 意味? そんなのあるに決まってる。ちょっとした対抗心だ。でもそれは言いたくない。だから「さあね」と冷たくこたえた。受けた山田が、きゅうと眉根を寄せる。
 ああ、と内心でため息をついた。こういう苦い顔をしても、この男のまわりには、甘い色気がただよっている。どうしても奇抜な髪型に目が行くし、サングラスや口ひげで隠されているからなかなか気づかれにくいけれども、山田は本当に、整った顔立ちをしている。

「ギムレットなんて、まだ早いんだよ」

 ぽつりと山田が呟いた。すこし寂しそうな顔で。
 そんな顔をするなんてずるい。さみしいのはこちらのほうだ。
 なによ勝手に彼女なんか作っちゃって。だいたい、彼女がいるのにほかの女と差し飲みするなんて、浮気みたいなことやめなさいよ。
 そうと言おうと思ってやめた。
 電話の時も思ったが、山田はわたしを女性としては見ていない。だからこうして軽く誘ったりできるのだ。その証拠に、山田はわたしと会っているとき「そういう雰囲気」をぜったいに作らない。ただ健全で、楽しく話をする。それだけだ。

 そう思ったとたん、目の前の景色が大きくゆがんだ。それがせり上がってきた涙のせいだとわかるまで、少しかかった。
 山田が一瞬ぎょっとした顔をして、次にひどくやさしい表情になり、わたしの頭をなでた。そうだ、この男は、おちゃらけているようで、実はとても面倒見がいい。わたしはそれも、知っている。

 ふざけ倒しているようで、実は真面目で。サングラスやひげで隠された顔は、実は美形で。ほっそりしているように見える身体は、実はしっかり鍛え上げられていて。
 意外性とギャップに包まれた彼は、とてもいい男なのだ。本当ははじめから全部知っていた。そう、高校の時から、ずっと。

「どうしたんだよ。なにかあったのか?」

 なにも、と言いたかったが、それは言葉にならなかった。だから場をごまかすように、一気にギムレットを飲み干した。
 喉を通り過ぎた冷たいはずの甘いカクテルは、なぜかひどく熱かった。



 気がついたら、朝だった。
 カーテンの隙間から、細い糸状の陽光が忍び込む。見慣れたカーテン、見慣れた家具、わたしの家だ。
 あれ、あのあと、わたしどうやって帰ったんだっけ。

 心配するひざしに、なんでもない、と言い張って、立て続けにギムレットを飲んだ。その間、何度か山田に「もう酒はやめて水かジンジャーエールを飲め」と言われたが無視した。そこまでは覚えている。
 お会計はどうしたんだろうか。そして本当に、お店から家までどうやって帰ってきたんだろう。

「ん……」

 その時、聞き覚えのある声が聞こえてきて、ぎょっとした。
 おそるおそる声のした方に視線を転じる。と、床の上で一人の男性が眠っているのが見えた。ブロンドの長髪。髪と同じように、色素の薄い肌のきめはこまかい。すっと伸びた鼻に形のいい顎、綺麗に整えられた眉と口ひげ。
 山田だ、とわかった瞬間、顔からざっと血の気が引いた。

 ふたりとも昨夜と同じ服を着ているし、山田の性格を思えば、「そちら方面」はセーフだろう。けれど、それでもやっぱりこれはアウトだ。いろんな意味で。
 どうしよう、と青ざめていると、山田が目を覚ました。

「おう。おはよう」
「……おはよう……あのさ……」

 あー、と察したように山田が笑う。

「なんもしてねぇよ、安心しな」
「うん。そこは心配してない」

 と、山田は意外そうな顔をした。

「あんた、意外と紳士だから、合意なしにそういうことは絶対しない。そうじゃなくて、わたし迷惑かけちゃったのね。きっと、放っておけないくらいひどい酔い方してたんでしょう?」
「そうだな、一人にするにはちょっと心配だった。いろいろと」
「ごめんね」
「いいってことよ。おまえが泣きながら飲むなんて珍しいからな。なにか嫌なことでもあったか? 同期のよしみだ。話くらいなら聞いてやるぜ?」

 山田は優しい。でも今は、その優しさがとてもつらい。
 こらえにこらえていた涙が、ほろりとこぼれた。

「おい、大丈夫か?」
「そんなに優しくしないでよ。彼女いるくせに」
「はァ? なに言ってるのおまえ」
「こないだ、すごく綺麗なひとと一緒にいたじゃない」
「こないだ?」
「とぼけないで。あのバーで会ってたでしょう? ギムレットを飲んでた、赤い髪の美女よ」

 ああ、と山田が眉をあげた。少しうれしそうな顔で。

「なにおまえ、もしかして、だから昨日ずっとギムレット飲んでたのかよ」

 明るく、からかうような口調。それがますますわたしをいらだたせた。
 だからぜったい、それに答えてなんかやらない。
 すると山田が大きな手を伸ばして、わたしの頭をくしゃりとなでた。

「あのひとはたしかに美人だけどな、ラジオ局のプロデューサーだ。仕事相手だよ。ちょっとした打ち合わせであそこ使ったんだ。あの人、あれでダンナも子どももいるからな」
「え……あのひと、ママなの?」
「そう、双子の女の子のママだよ。そんでもうひとつ言うと、あの日はおまえとすれ違いで、局の人間もうひとり来たからな。ふたりっきりだったワケじゃないんだぜ、ベイビー」

 はー、と嬉しそうな顔をして、マイクがまた笑った。

「なんだ、それでギムレットかよ、俺はてっきり」
「てっきり、なによ」

 山田は軽く眉をあげた。

「なんだ。知らないのかよ。ギムレットのカクテル言葉」

 いや、そんなの知らないし。っていうか、カクテル言葉なんてものがあるの、初めて知ったし。

「映画にもなった、昔のハードボイルド小説に出てくる台詞が由来なんだけどさ。そっちは知ってるか?」

 と、山田は小説のタイトルを告げた。カクテル言葉とやらは知らないけれど、それは知ってる。映画のほうをみたことがあった。

「だからギムレットのカクテル言葉は「長いお別れ」なんだよ。ここ最近おまえ俺のこと避けてるっぽかったし、ギムレットしか飲まないしで、もう完全に脈なしかと思ってたぜ」

 ぐい、と山田がわたしを抱き寄せた。耳孔に流された声は、いつもより甘く、そして低い。

「俺はおまえに惚れてんだよ。今も昔も」
「……そんなそぶり、一度も見せなかったじゃない」
「そりゃそうだろ。高校時代に玉砕してるんだ。焦って口説いて、また振られたら目も当てられないじゃねェか。だからできるだけそういう雰囲気は出さないよう、少しずつ距離を詰めていくつもりだったんだよ」
「……」
「で、どうなんだ? ハニー。俺の気持ちに応えてくれるつもりはあるか?」
「……わかってるくせに」
「ああ、今はわかってるぜ。でも、おまえの口から聞かせてくれよ」
「……わたしたちに、ギムレットはいらないね」

 そう応え、山田の広い背中に手を回した。細く見えるけれど、鍛え抜かれた彼の身体は、存外厚い。
 山田は軽く眉をあげ、わたしの頬に手を当てた。彼の整った顔が、近づいてくる。

「そうだなァ。俺たちには、ギムレットはまだ早すぎる」

 低く甘いささやきのあと、ふたつの唇が重なった。

初出:2022.5.3

プロヒーロー夢本「Cheers!」より再録

月とうさぎ