今日会えないはずの想い人から連絡が来たのは、時計の短針が十一の文字を回った頃のことだった。
「夜分にすまない。まだ起きていたか」
常と同じ、低く落ち着いた声で彼は言った。わたしはそれに、はいと答えた。
「仕事が思いのほか早く片付いてな。いま、近くにいる」
「寄っていきます?」
「ああ。悪いがそうさせてもらえるか? 十分ほどで着く」
「はい、待ってますね。先生」
「……先生はよせといつも言ってるだろ」
言葉のもつ強さとは裏腹に、苦笑まじりの声はひどくやさしかった。からかうように、先生――いや、消太さんは続ける。
「俺にいつまで先生させるつもりだ。卒業してもう七年も経つってのに」
そう、消太さんがわたしのクラスの副担だったのは、七年も前の話だ。
もちろん、当時はただの教師と生徒の関係だった。わたしはひそかに先生のことが好きだったが、当時はおろか同業になってからもなかなかそういう雰囲気にはもっていけず、やっと想いかなって付き合うようになったのは、今年の春。
だからわたしは、未だに彼を先生と呼んでしまうことがある。
「ごめんなさい」
わたしの謝罪に、いいさ、と、消太さんが笑い混じりの呟きをかえした。
「じゃ、十分後に」
はいと答えて通話を切り、わたしはお風呂の給湯スイッチを押した。
外は冷たい雨が降っている。秋雨前線が連れてきた北風のせいで、ついこのあいだまで夏の陽気だったのに、今夜は冬の訪れを思わせる寒さだ。きっと先生は冷えきっていることだろう。
***
「こんな時間にすまないな」
「いいえ」
会えるだけでもしあわせです、という言葉を胸のうちで呟いて、消太さんを見上げた。そんなわたしに彼はやわらかく微笑んでくれたが、伸ばしっぱなしの髪と無精ひげに隠された端正な顔の色はややくすみ、目の下は黒ずんでいる。消太さんはぜったいそれを口には出さないだろうが、かなり疲労している様子だった。
「消太さん、おなかすいてないですか?」
「ああ、ありがとう。大丈夫だ。これ、一緒に食おうと思って買ってきた」
ほら、と差し出されたのは、コンビニのレジ袋。入っていたのは、二つのショートケーキだ。消太さんって甘党だったっけ、と思いながら顔を上げると、ふたたびやさしい微笑とぶつかった。
「今日はこれで我慢してくれ」
あっ、と思わずちいさな声を上げた。
「もしかして、だからこんな時間に、わざわざ……?」
この冷たい雨の降る中を、という言葉を飲み込んだわたしに、消太さんがちいさくうなずく。
知っていてくれたんだ。今日がわたしの誕生日だってこと。
嬉しすぎて泣きそうになってしまったので、きゅっと唇をかみしめた。このひとはそっけないようでいて、こうまであたたかく、そして優しい。
「付き合って最初に迎えた誕生日のプレゼントが、コンビニのケーキですまない。こんな時間だからコンビニくらいしか開いてなかった。うめあわせは後日するから」
静かに告げられ、涙がにじんだ。うめあわせなんてとんでもない。ヒーローと教師の二足のわらじを履く彼が多忙なことを、同業者であるわたしは十分すぎるほど知っている。目の下にくまができるほど疲れているのだろうに、わざわざコンビニに寄って、しかも日付がかわる前に会いに来てくれた。それだけでもう、充分すぎる。
「どうした? 苺、好きだっただろ?」
「はい……大好きです」
「遅くなってしまったが、お誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます」
お湯張り終了のメロディが流れる中、涙で声を詰まらせながらお礼を言うと、うんと答えた先生――消太さん――が、わたしの頭をくしゃりと撫でた。
初出:2022.10.7