ホークスとハイボール
闇を切り裂きながら、車は走る。
「どうした、ホークス」
「すみません、ジーニストさん。ちょっとうとうとしてました」
「いや、かまわない。君もまだ身体が癒えていないんだ。エンデヴァーと合流するまで、少し眠るといい」
「……ありがとうございます」
答えて見据えた先の空は、夜の闇よりも一段薄い濃紫だった。夜明けが近いことを感じて、ふうと軽く息をつき、目を閉じる。
閉じたまぶたの奥にそこに浮かぶのは、少し恥ずかしそうにはにかみながら笑う、一人の女性の姿だった。
***
「わたし、個室の焼き鳥屋さんって初めてです」
まぶしい笑顔をまっすぐ俺に向けて、彼女は言った。ほんの少し、はにかみながら。
「ここの焼き鳥はうまいよ。お酒は何にする?」
「所長はなににされますか?」
ホークスでいいよ、と苦笑を返した。
君が俺の事務所の経理担当だからといって、プライベートな場所でまで所長と呼ばれるのはたまらない。
「それに、年は同じなんだ」
「そうですけど、所長はわたしの雇い主ですから」
「ホークス」
辛抱強く繰り返した。すると彼女は、少し困ったように微笑んでから「ホークスは何を飲みますか?」と言い直した。ここは俺の粘り勝ち。
「俺は山崎のハイボールにしようかな」
「焼き鳥に合います?」
「合うよ。ちなみに焼酎もビールもワインも合う……ワインにする?」
うーん、と、彼女は少し迷うような顔をして、ちいさく答えた。
「せっかくだから、わたしもホークスと同じものにします」
ぽつりと告げた時の、恥ずかしそうな表情がかわいかった。
いや、彼女がかわいいのは今始まったことじゃない。ずっと前から、かわいいなと思っていた。心から。
「じゃあ、ハイボール二つ。あとおすすめはレバーかな。ここのレバーはクセになる。一度食べたら忘れられない」
「そうなんですね。あ、つくね頼んでもいいですか」
「もちろん。つくねはまず塩で食べてみることをおすすめするよ。店主こだわりの岩塩を使っててね、その塩つくねに卵黄をからめるとたまらないんだ」
食通ぶったおっさんみたいになっている自分に気がついて、心の中で苦笑した。どうやら自分で思っているよりも、ずっと緊張しているようだ。彼女のほうが俺よりずっと緊張しているようで、こちらの動揺にはまったく気づいていないのが幸いだった。
レバー、つくね、鶏皮、正肉、ねぎま、それからハツと砂肝。一通りオーダーを通して、足をくつろげる。――と、すぐにちんまりとした小鉢に入った突き出しとハイボールが運ばれてきた。
「それじゃ、乾杯」
軽くグラスを合わせて、琥珀色の酒を喉に流し込む。エンデヴァーさんに見られたら「まったく、おまえはいい酒の飲み方も知らんのか」と叱られそうだが、俺はこの飲み方が好きだった。うまい酒というものはそのまま飲んでもうまいけれど、何かで割ってもうまいはず。
だがウイスキーというものはアルコール度数が高いから、何かで割ってもそこそこ強い。
「どう? 俺はこれが好きなんだけど、もし強すぎるようなら別の飲み物に変えてもいいからね」
「大丈夫です。わたし、これでもけっこうお酒強いんですよ」
「そうなの?」
「はい、おうちでは焼酎を飲んだりもしてます。本気で飲むときは、一本くらいあけちゃいますね」
「一本って、四合瓶?」
「四合でも五合でも」
「すごいね。日本酒じゃなくて焼酎だろ? 君、俺より強いんじゃない? 意外だな」
すると彼女は、目を細めてちいさくわらった。
この子と食事をするのは初めてではない。もう三度、いや、四度目になるだろうか。
彼女のポーチに、エンデヴァーの根付けがついていたことがきっかけだった。
それはエンデヴァーさんのヒーロー二十周年の時に限定販売された根付けで、ファンクラブの会員しか手に入れられないものだった。もちろん、俺も同じ物を持っている。どうしたのかとさりげなく問うと、エンデヴァーさんのファンなのだと彼女は言った。やっぱり、はにかみながら。
それから、グッズの情報交換をしたり、互いにゲットできなかった商品を見せ合ったりするうちに、少しずつ距離が縮まっていった。
けれど、今まで彼女と食事をした店は、カフェや気軽なレストランばかり。お酒の席は初めてだ。
「おまたせしました」
いいタイミングで焼き鳥を運んできた仲居さんにありがとうと会釈して、さりげなく皿に手を伸ばす。うん。やっぱりここのレバーは別格だ。臭みもないし、まったりした食感も、やや濃いめの味付けもクセになる。
立て続けに三本を平らげて、ふたたびタンブラーのハイボールを一口。彼女はつくねを頬張って、目を丸くしている。そうだろ、ここの焼き鳥を初めて食べた人間は、たいていそうなる。
「ホークス! このつくね、びっくりするくらいおいしいです」
「だろ? ま、どんどん食べてよ」
満面の笑みを浮かべて、彼女に新たな皿を勧めた。
もっとも気に入っている高級焼き鳥店――しかも福岡の街が一望できる個室――に彼女を連れてきたのにはわけがある。
この店に一緒に来る相手は、とくべつなひと。俺は前々から、そう心に決めていた。
彼女の個性は羽だ。背に俺と同様、鳥の羽が生えている。だが俺の剛翼とは違い、彼女の背からのぞく茶色の羽は手の平サイズだ。サイズ感も色合いも、雀のそれとよく似ている。翼が小さすぎて飛ぶことはできないらしいが、本人のふんわりとした雰囲気によく合っていると俺は思う。
性格は一言でいうとまじめ。もしかしたら、いや、きっと、要領はあまりよくないかもしれない。けれど仕事は丁寧だった。手早くはないが、目の前の仕事に一生懸命取り組んでいる姿に好感が持てる。無駄なおしゃべりはしないが、無口でもない。はにかみ屋さんだが、いつも笑顔だ。その笑顔がまたいいんだ。心が和むし癒やされる。。
そう思った時、彼女から、目が離せなくなっていた。
さいわいにして、人の心の機微を読むのは得意な方だ。だからわかる。
きっと、彼女は俺のことが好きで。
そして俺も、彼女のことが好きで。
だからこそ、俺は彼女との関係を、この逢瀬で終わりにしなくてはならない。
今日、彼女を誘ったのは、最後の思い出作りのつもりだった。
「どうされました?」
きゅっと唇を引き結んだと同時に、かけられた声。
「いや、なんでもないよ。ちょっと疲れたのかな」
「あ、じゃあお酒は控えたほうがいいですか?」
「飲み過ぎなければ大丈夫でしょ」
応えつつ、彼女の手元のグラスを眺めた。いける口というのは本当らしい。すでに彼女のハイボールは、からになっていた。
「お酒のおかわり頼んどこうか」
「ありがとうございます。このままハイボールで」
彼女が砂肝を口元へと運び、俺はねぎまを頬張った。
「そういえば、君、高校は地元だったっけ?」
「そうです。福岡の中堅どころの公立校で。ホークスは士傑ですよね。さすがです」
「さすがかどうかはわからないけど。君、高校の時、たしか演劇部だったんだよね?」
履歴書にあった一文を思い出しながら、会話を進めた。
「そうなんです。幼稚園の発表会で目覚めてしまって」
「へえ、何をやったの?」
「竹取物語です」
「かぐや姫か、ぴったりだね」
「いえ違います。おばあさん」
「え?」
「おばあさんの役がやりたくて、立候補したんです」
「意外と個性派なんだ」
つくねを食べながら、俺が笑う。
ハイボールを飲みながら、彼女も笑う。
ああ、楽しいなあ。このまま時間が止まってくれればいいのに。
けれど、時間がとまるはずもない。いや、楽しい時間こそ、過ぎるのは早く。最速の男と呼ばれる俺ですら、時の流れの尻尾を捕まえることはできない。
結局、俺はハイボールをもう二杯、彼女は五杯のみ、おひらきとなった。
「ありがとうございました。お料理もお酒もおいしかったです」
「いや、こちらこそ」
「今夜はとても楽しかったです」
俺もだよ、と心の中でだけ、つぶやいた。
ありがとう、いい思い出になった。今夜のことは忘れない。
――敵連合に取り入れ、ホークス。
――は? 意味がわからない。そっちで捜索チーム組むんでしょう?
――そういうところよ、ホークス。あなたは目聡く耳聡い。
――闇組織を根絶するために多くの情報がいる。
敵の内部奥深くに潜入し、動きを探る。場合によっては、身近な人間にも危害が及びかねない危険な任務だ。
それを受けると決めた瞬間、俺は、君のことを諦めた。
あの指令をうけなかったら俺たちはどうなっていただろう、と思うことがある。たらとか、ればとか、そういうものは、ないに等しいものだけれど。
いや、と心の中でため息をついた。
いずれにせよ、俺は彼女になにも伝えられないのではないかと思うのだ。
彼女と俺とでは、生きてきた環境が違いすぎる。きれいな世界しか知らないふつうの女の子と、泥の中を這いずるような、汚泥をすするような幼少期を過ごしてきた俺とは、根本からして違う。
「あの……ホークス」
「ん?」
まっすぐに、俺を見つめてくる視線を受けて、我に返った。穏やかな瞳、やわらかな視線。知れば知るほど、彼女が好きだという気持ちがせり上がってきて、胸が苦しい。
そんな自分を、らしくもないと嘲笑しながら、小さく小さく息をつく。
どうやら酔ってしまったらしい。ハイボールも焼き鳥も、美味すぎたから。
だが、次に彼女の口から出た言葉に、回っていた酔いが一気に醒めた。
「また、こうして二人で会ってもらえますか?」
ぐらり、と大地が揺れたような気がした。博多の街のネオンサインがひどくまぶしい。
こうなる可能性に気づいてはいた、心のどこかで。二人で食事をするのは四度目で、それまで気軽な店ばかりだったところに、この高級店だ。期待するなというほうがどうかしている。
それでも俺は、最後に彼女に会わずにはいられなかった。その結果がこれだ。
「……勘違いさせてしまったならごめん、そんなつもりじゃなかった」
なんとか絞り出した声に、彼女は慌てて手を振った。
「こちらこそごめんなさい。気になさらないでください。あの……とても楽しかったから、またご一緒できたらいいなと思っただけで……本当に。それだけなんです」
眉を下げながら、彼女はぐいと両の口角を引き上げた。無理に作ったかなしい笑顔。むしろ泣いてくれた方が、よほど楽だった。
「じゃ、また明日」
ぺこりと頭をさげて、彼女がきびすを返す。その細い肩に手を伸ばしかけ、すんでのところでそれをとどめた。
少しずつ、愛しい後ろ姿が小さくなっていく。
駆け寄って、あの背を抱きしめてやれたらどんなにいいだろう。けれど、それは許されないことだ。絶対に。
やがて小さな後ろ姿は、博多のネオンサインの向こうに消えた。彼女の背でたよりなく揺れていた、小さな羽。そのシルエットが俺の脳裏に焼き付いて、しばらく消えてくれそうになかった。
*
それから、半年。実に様々なことが起きた。泥花市街戦再臨蔡、ギガントマキアの縦断による大きな被害、敵たちの脱走。そして、荼毘の告白。
それらによるパニックは事件終結後も収まることなく、俺は記者会見の場で事実を語った。
父が犯罪者であること。そして逃げようとする敵を刺したこと。
世界が俺を嫌っても、それは別にかまわないと思った。俺は俺の信念に則って、せねばならないことをしたのだから。
だが、彼女は別だった。あのインタビューを見て、彼女はどう思っただろう。汚いと思っただろうか、卑怯だと軽蔑しただろうか、それともふがいないと憤慨しただろうか。
俺は彼女に会うことが、とても怖い。
けれど現実とは実にままならないものだ。偶然にも、俺は彼女と会ってしまった。避難所となった、学校で。
「……ひさしぶり」
彼女は大きく目を見開いて、そしてうなずいた。
「あの……ホークス……」
「ああ、会見で話したこと? うん、すべて本当」
彼女の言葉を先取りして、俺は答えた。彼女から質問されるのは、耐えられないような気がしたからだ。そうですか、と彼女は言って、そうなんだ、と俺は応えた。幻滅したろ、と続けると、いいえ、と彼女はちいさく首を振った。
「つらい思いをされたことと思います」
「……ありがとう」
「信じてますから」
「……うん」
うかつにも、涙がこぼれそうになった。醜態をさらしたくなくて、俺はついと上を向いた。俺のほうが彼女より背が高いから、そうしてしまえば、涙を見られなくてすむ。
「ホークス」
「ん?」
上を向いたまま応えると、彼女が小さくつぶやいた。
「翼に、触れてもいいですか?」
え、と声を漏らすと、彼女は少しためらいながら続けた。
「ごめんなさい。迷惑なのはわかっています。でもあなたを好きでいることだけは、許してください。振り向いてくれなんて、言いはしないから」
「……こんな俺なのに?」
「そんなあなただから」
荼毘の炎に焼かれ、小さくなってしまった俺の翼に、彼女が触れた。柔らかくて、小さな手。
彼女が俺の翼を撫でるために手を動かすと、その背の小さな羽も揺れる。いま俺の翼は、ちょうどあのくらいだろうか、と、ひそかに思った。
「あのさ」
「はい?」
「……帰ってくるから……必ず。そして前のように、いや、前以上に平和な世の中になるよう、全力を尽くすから」
「はい」
ヒーローが暇を持て余す世界が来たら、君に伝えたいことがある。果たして君は、そのときに、俺を受け入れてくれるだろうか。
それは誰にもわからないことだけれど。
「そしたら、またあの店で、焼き鳥を食べながらハイボールでも飲もう」
「ぜひ。あのおいしいレバーとつくねをもう一度食べたいです」
「うん、あそこのレバーはクセになる。他では味わえないもんな」
「ホークス」
「ん?」
完全に涙が乾いたことを確認してから、彼女を見おろした。微笑む彼女が持っているのは、俺たちにきっかけをくれた、エンデヴァーさんのあの根付け。
「待っていますね」
根付けを揺らして、彼女は言った。俺はちいさくうなずいて、再び、上を向いた。
***
「ホークス」
名前を呼ばれて、はっとした。どうやら、少しの間うとうとしていたらしい。
「寝ていていいと言ったのに、すぐに起こしてすまない。エンデヴァーから連絡が入った。一キロほど先の高速出口で、彼をピックアップする」
「わかりました」
闇を切り裂くように進む車の中で、そう応えた。見据えた先の空は、夜の闇よりも一段薄い濃紫。車は走る。ハイウエイをひたすらに。暁へ、夜明けの方角へと向かって。
初出:2022.5.3
プロヒーロ夢本「Cheers!」より再録