イレイザーヘッドと日本酒
その日、記録的な大寒波が、日本列島を襲った。
その影響で甲信越や東北は大雪に見舞われている。比較的温暖なこのあたりは雪に見舞われることはなかったが、身を切るような冷たい強風が街の通りを吹き荒れていた。
「きっと、今が一番寒い時期」
小さく、独りごちた。そうだ、今が一番寒いとき。それでもめげずに日々を紡いでいけば、きっといつか春が来る。来るはずだ。同じ失敗は、二度としない。
自分のやらかした失態と今の季節を重ね合わせて、唇を噛みしめた。
今日の午後、ちいさな敵グループの摘発があった。最近頭角を現し始めたばかりの、若い敵たちだ。今は小さな組織だが、メンバーが若いだけに、勢いづかせてしまえば後にどう成長するかわからない。だからこそ、今のうちに一網打尽にしておく必要があった。
だが、である。わたしのミスで、リーダー格のひとりを取り逃がしてしまった。さいわい別の場所で待機していたヒーローの機転により、無事その敵は取り押さえられたが、一歩間違えれば今回の計画がすべて水泡に帰すところだった。
相棒も事務員もいない小さな事務所ではあるが、ちょこちょことチームアップの依頼が舞い込むようになり、事業はなんとか軌道に乗り始めていた。プライベートでも充実し、二ヶ月ほどまえに恋人ができたばかり。まさに順風満帆の日々を送っていたところだった。
そのつもりはなかったが、もしかしたらわたしは、いささか慢心していたのかもしれない。
「でも、いつまでも落ちこんでてもしかたないのよね」
過ぎてしまったことをいつまでも悔い、落ち込むことは合理性に欠く。きっと「彼」ならそう言うだろう。「この失敗を次に活かせ」と。
その通りだと思う。だから早く気持ちを切り替えなければ。事件や敵は、待ってはくれないのだから。
とはいえ、なかなか人はそう割り切れはしないものだ。機械のようにスイッチを切り替えることで、気持ちも入れ替えられれば、どれほどいいか。
と、大きくため息をついたところで、携帯端末がなった。
画面に浮かび上がったのは、相澤先生、の四文字。
相澤消太。彼は二ヶ月前に付き合い始めたばかりの、わたしの恋人。
しかし、徹底した合理主義者の消太さんが、約束もないのに自分から電話をくれるなんて珍しい。どうしたんだろうと、やや慌て気味に通話ボタンを押した。
「はい」
「俺だ」
聞き慣れた声に、もう一度、はいと答える。
「今夜暇か?」
と、彼は言った。続けて、よければこれから一杯どうだ、と。
「……暇です」
落ち込んでいたのを気取られまいと精一杯気を張った声を出そうとしたが、それはうまくいかなかった。裏返ってしまった声に気づいたのだろう。受けた相手が、受話器の向こうでふっと小さく息をついた。
「じゃあ、六時に駅まで来られるか?」
「駅前? 黒猫亭じゃないんですか?」
不思議に思って声を上げた。わたしたちのデート先は、黒猫亭という、猫をモチーフにした洋食屋さんであることが多かったから。
「たまには違う店もいいだろう。日本酒に合う、おいしいおつまみを出す店がある」
「日本酒ですか?」
「なんだ? 苦手だったか?」
「いえ……楽しみだなあと思っただけです。からすみとか白子ぽん酢とかあるといいなぁ」
あったと思う、と答えた消太さんの声を聞きながら、大丈夫かなとひそかに思った。
顔よし頭良し性格良し、身体能力及び身長も高し、とわたしから見て完璧な消太さんだけれど、お酒はそんなに強くない。それだけは、わたしのほうが強いくらいだ。
と言っても、酒癖が悪いわけではない。ただちょっとだけ、面白くなってしまうのだ。普段はけだるげでアンニュイな雰囲気を醸し出している消太さんが、にこにこしながら置物に話しかけている姿はなんともいえずシュールで、おもしろかわいい。
「おい、聞いてるか?」
「あ、ごめんなさい」
「ねむり猫という店なんだが、知っているか? 大きな猫ちゃんが目印だ」
ああ、と目を細めた。
その店なら知っている。前から気になっていた、大きな眠り猫の看板が目印の個室居酒屋だ。先生と一緒に行きたいと思っていた。
「はい、知ってます。今日寒いですし、お店の中で待ち合わせしましょう」
「わかった。それじゃ、またあとで」
また、とこたえて、通話を切った。
*
わたしが店に着くと、消太さんはすでに席で待っていた。店員さんに案内されて、細く入り組んだ廊下を進む。ふたつめの角を曲がってすぐの部屋の前で、店員さんが立ち止まり、中に声をかけた。お連れ様がおいでになりました、との声にこたえたはいと言う声は、聞き慣れた魅惑のバリトンボイス。いつ聞いてもいい声だなあと、なんだかしみじみしてしまう。
開かれた障子の先で、掘りごたつに座って待っていたのは、いつものようにいつものごとく、無精ひげに黒の上下を着た、ぼさぼさ頭の消太さん。
せっかくのイケメンがだいなしだと思う気持ちが半分、消太さんはこのままでも充分かっこいいと思う気持ちが、また半分。
「どうした?」
いぶかしげにこちらを見上げた消太さんに、「なんでもありませーん」と答えて、彼の正面に輿を下ろした。
「どうする? 寒いからお燗にするか?」
「えっ、日本酒? 大丈夫ですか?」
「おまえな、俺をなんだと思ってるんだ」
「お酒の弱いひと」
「おまえなあ……」
呆れた声を出しながら、消太さんが、「上燗で」とぬる燗よりもやや熱く、熱燗よりはややぬるい温度のお酒を注文した。
お酒はそんなに強くないけどやっぱり大人なんだなぁ、と思いつつ見とれていると、彼が「なにがいい?」とたずねてきたので、続けて、からすみと白子ぽん酢とお造りと、牛すじと揚げ出し豆腐を頼んだ。
食欲はそんなにないけれど、今は無理にでも食べたほうがいい。空腹は、悲しい気持ちを増幅させるものだから。
お料理とお酒はすぐに運ばれてきた。猫好きの消太さんが、お酒やお皿を見て、嬉しそうな声を上げる。
「徳利もお猪口も小皿も、ぜんぶ猫ちゃんの柄なんだな」
「そうですね。わたしのお皿は黒猫です」
「俺のはキジ猫ちゃんだ。どれも眠り猫なのがまたかわいいな」
そう言って消太さんは屈託のない笑みを見せた。
かわいいのはあなたです、と心の中で呟いて、目を細める。消太さんは、たまにこうした、かわいらしい言葉を口にする。「よろしくね」とか、「美味しいおつまみ」とか、「お医者さん」とか、「猫ちゃん」とか。
しかも、おそらく本人はそのことに気づいていない。無意識であろうことが、ますます愛らしかった。
「あ、このお酒も美味しいですね。ちょっと温めのお燗がお酒のあまさを引き立ててる感じで」
「そうだな。こっちの白子ぽん酢もうまいぞ」
「ほんとですね。揚げ出しもなかなかですよ」
いくつかの料理をふたりでシェアしながら、箸をすすめる。食欲なんかない、と思い込んでいたのに、気づけばどんどん皿が空になっていく。
「春菊の塩辛合えも頼んでいいですか?」
「もちろんだ。金目の煮付けはどうだ?」
「いいですね。あ、消太さん、お猪口が空になってますよ。ハイ、どうぞ」
そんなありきたりの会話をしながら、美味しいお料理を前に、さしつさされつで盃を傾けた。
「先生。次何にします?」
三本目のお銚子の中身が少なくなっていることに気づいて、声をかけた。
返されたのは、苦笑交じりの、少し困ったような声。
「先生はよせ」
「ごめんなさい、つい癖で……」
現場で一緒になることがあまりなかったせいもあって、わたしは長きに渡って彼を「先生」と呼んできた。消太さんは、わたしが高三の時に赴任してきた教員だったからだ。三年B組の副担となった相澤先生は厳しく無愛想ではあったが、その実、とても優しいひとだった。成績不振とまではいかなくとも優秀な生徒とも言えなかったわたしは、放課後よく自主訓練につきあってもらったものだ。
といっても、消太さんとわたしがその頃からつきあっていたわけではない。
わたしが勝手に想いを寄せていただけだ。消太さんは生徒に手を出すような人ではない。それがわかっていたわたしは、自分の想いに蓋をしたまま卒業の日を迎えたのだった。
終わったはずの淡い恋に新たな転機がきたのは、今年の春のこと。つまり、卒業して何年も経ってからだ。
雄英の近くで小さな事務所をひらいたわたしが、彼の元に挨拶に出向いたことがきっかけとなった。お互い猫が好きという共通点もあり、「黒猫亭」という猫をモチーフにした洋食屋さんで食事をするうちに、つきあうようになったというわけだ。
そのせいか、消太さんに対してはいまだに敬語が抜けないし、指摘された通り、けっこうな頻度で先生と呼んでしまう。
「ヒーロー名はともかく、先生は本当にやめてくれ。好きな女に先生と呼ばれるのは、どうも落ち着かん」
「え……」
「なんだ?」
「いま、好きな女、って」
ああ、と消太さんが眉をあげる。さもなんでもないというふうに。
こういう時、やっぱり彼との年齢差をひしひしと思い知らされる。好きな女と言われただけでこんなにも舞い上がってしまうわたしが、同じ言葉を消太さんにさりげなく言えるようになるのには、いったいどれだけの月日を必要とするのだろう。
「なんだ、そんな顔して」
消太さんが呆れたように続ける。
「前も言っただろう。俺は好きでもない女と付き合ったりしない」
わかっている。相澤先生は昔から究極の合理主義者だったから。興味も好意も抱けない人間と、そうなんども会ったりしない。知っている。それでも――。
「それでも、ちゃんと言葉にしてもらえると嬉しいものなんですよ」
「そうなのか?」
「そうですよ」
「じゃあ、もう一度言ってやる。好きだよ」
思わず両手で顔を覆った。顔が熱くてたまらない。きっといま、わたしはゆでだこのようになっているに違いなかった。
「なんだ、まだ足りないのか?」
からかうような口調と共に、向かいに座っていた消太さんが、隣の席に移動してきた。さらり、と消太さんの長い黒髪がわたしの肩に落ちる。無精ひげを讃えた口元が、わたしの耳に寄せられる。
「おまえが好きだ」
耳孔に注ぎ込まれた声は、いまだかつてないくらいに甘かった。
「……せんせ……っ」
彼が甘い言葉をささやいてくれたことがどうにもこうにもうれしくて、つい口元が緩んでしまう。
「やっと笑ったな」
「さっきも笑ってましたよ」
「そうか」
告げながら消太さんが、わたしの頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
温かくて、大きくて、やさしい手。
「おまえが元気になれたなら、それでいい」
「消太さん……」
鈍いわたしも、やっと気づいた。消太さんは雄英高校の教師で、雄英の情報網は強力だ。今日のわたしのやらかしは、すでに彼の耳に届いていたのだろう。
だから消太さんは、今日わたしを誘ってくれた。いつもの黒猫亭ではなく、個室のあるこの居酒屋にしたのは、いつでも弱音を吐けるようにだ。
このひとはこういうところがやさしい。押しつけがましいわけでもなく、ああしろこうしろと言うでもなく。聞いてほしいと思えば愚痴でもなんでも聞いてくれる。助言が欲しいと思うなら、それに応じた言葉をくれる。そして、黙って見守っていてほしいなら、無言でそうする。
「……ありがとうございます」
じわりと涙が滲み出た。けれどこの涙はこぼしてはいけない。
だから、きゅっと唇を噛みしめた。
独立したばかりだけれど、まだまだ至らないけれど、それでもわたしはプロヒーローだ。だから今回の一件では、自分のなにがいけなかったのかも、どうすべきだったのも、同じことが起きたら次はどうすればいいのかも、すでにわかっている。
落ち込むのはこれで終わりだ。本当に。
「まあ、飲め」
消太さんが、最後の一滴をわたしの盃に注ぎ入れた。
軽く盃を掲げて、まろやかな一杯をいただく。このやさしいほのかな温かさと甘さは、消太さんと少し似ている気がした。
ほがらかに笑ったりはしないけれど、こうしてやや細められた目にはやさしい光が滲んでいる。それは彼を深く知る者だけが気づくこと。
「美味しいです」
涙を流す代わりに、盃を干した。ぶっきらぼうだけれど、先生は、消太さんは、誰よりもやさしい。
がっしりとした肩に頭をのせると、再び大きな手がわたしの頭をかき回した。
「次も日本酒でいいか?」
「……はい。やさしい上燗にしてください」
記録的な大寒波が日本列島を襲ったその日、身を切るような冷たい強風が街の通りを吹き荒れる。
けれどこの小さな和室の中は、消太さんと一緒のこの空間は、ほかのどこよりも温かかった。
初出:2022.5.3
プロヒーロー夢本「Cheers!」より再録