だが三月の夜は、微かな春の香りをひき連れていた。甘く華やかでありながら、パウダリックでほろ苦い。そんな早春の花のような香りが、夜の闇の中に沈殿している。
いやもしかしたら、とひそかに思った。これは春の香りではなく、隣にいる女の香りかもしれないと。
ミステリアスなクールビューティ、というのが世の中にはいる。
俺がいまつきあっている女がそれだ。
なまえはとにかくクールな女で、つきあって十ヶ月になるが、いまだに家にあげてくれない。けれど、俺の部屋には泊まる――例えば今だ。
こいつは自分のことをあまり語らない。それだけでなく、用事がなければ連絡すらしてこない。たまに来るメッセージも一言二言。本当に要件のみで、実に合理的。
そのくせベッドの上では、これ以上ないくらい情熱的に乱れてみせる。
今までいろんな女とつきあってきたが、こういうタイプは初めてだった。
「どうしたの? 心ここにあらず、って感じね」
グラスを傾けながら、なまえが言った。
アーモンドに似た芳香の、深い琥珀色をしたこの酒の名はアマレット。
「たまには、おまえの部屋に行きたいって思ってたのさ」
「そのうちにね」
そのうちって、いったいいつだ?
出かけたセリフを歯の奥でかみ殺し、手元のバーボンをあおった。余裕のない自分をさらけ出すほど、俺は不慣れでもなければガキでもない。
こういう女はきっと、追えば追うほど逃げてゆく。
だからことさら静かに、けれど最大の情熱をもって、なまえの手をとった。
「相変わらずだな、俺のハニーは」
手の甲に唇をひとつ落として、低くささやく。
するとなまえは、大昔のハリウッド女優さながらに軽く片方の眉をあげて、再びグラスを唇へと運んだ。ごく薄いクリスタルに触れる、真紅のルージュ。
こいつはシヴィー。
しぐさも、酒のチョイスもだ。
こういう女はきっと、バレンタインなんてイベントにはなんの興味もないんだろうなと、ひそかに思った。
そう、バレンタインからもう二週間。もちろんなまえからのチョコはない。
イベントにこだわるほどガキではないつもりだが、寂しくないと言えば、やはり嘘になるだろう。
「……まったく、悪いオンナだぜ。こんなに俺を夢中にさせてよ」
軽い調子で告げてはみたが、今のは俺の切なる本音。だが、おそらくなまえはこれを本気にはすまい。そういう女だ。
それがなんとも言えず口惜しくて、やや強引に口唇を奪った。
なまえは驚いたように目を見開いたが、それも一瞬だけのこと。
しなやかな腕が俺の背に回され、やわらかな舌は俺のキスを受け入れる。
慣れた手、慣れたしぐさ、慣れた表情。
余裕じゃねェか、レディ。
舌に残る酒の味を楽しみながら、やわらかな髪に手を差しこむ。なまえの口腔内は、ほろ苦く、そしてほんのり甘かった。
アマレットという酒は、実にこの女とよく似ていると思う。
さらりと髪を梳いたついでに、耳朶をちょいとくすぐってやる。と、合わせた唇の隙間から、小さくあまい声がひとつあがった。
そうさ、キューティパイ。
俺はオマエのいいところを、全部知ってる。
耳からうなじを通って、肩を撫で、鎖骨のくぼみを確かめるようにゆっくりとなぞると、なまえの身体がぴくりと跳ねた。
その拍子に、動いた腕が隣に置いてあったバッグにあたった。落ち着いたグレージュの彼女のピコタン。椅子から滑り落ちたバッグの口から、小さな箱がこぼれ出る。
その瞬間、なまえが俺を押しのけて、箱に向かって手を伸ばした。
Oh my god.
いいトコだったのに、そりゃないぜベイビー。
しかし、これにはさすがの俺も軽いいらだちを覚えた。
いくらなんでも、押しのけるこたぁネーだろう。
だから、なまえより早く箱を拾い上げた。彼女の持ち物らしくない、不格好なラッピングが施された小箱を。
「返して」
いつもなら、言われなくても返すところだ。だが、妙に必死なようすが気になった。だから伸ばされた手を避けるように身体をそらせ、なまえから箱を遠ざける。
「なんだよソレ。いくらなんでも、らしくないんじゃねえの?」
「ねえ、返してちょうだい」
「その前にワンクエスチョン、箱の中身はいったいなんだ? そんなに必死になられると気になるんだよ。職業柄なァ」
「なによ、それ」
「やばいものだったら中を検めなきゃいけない、ってことさ」
「……別に変なものじゃないわ」
「だったら中身が何か、教えてくれてもいいんじゃネーの?」
それを聞いたなまえが、きゅっと唇を引き結び、俺を睨みつける
俺と彼女の視線が数秒からみ、やがてなまえは、悲しげに目を伏せた。
まってくれ。
そんな顔をみたかったワケじゃない。
ただ、悔しかったんだ。いつもクールなオマエが、あんなに必死になるものだから。
「ガキみてぇな真似して悪かった。返すよ」
すると、なまえはゆっくりと首を振った。俺から視線を外したまま。
「中身はね……チョコレートなの」
「はあ? チョコ?」
「そう。手作りチョコ。わたし、実はとんでもなく不器用なのよ。ラッピングもひどいでしょう? ちなみに中身はもっとひどいの」
「……なんでンなもん、後生大事に……」
そこまで告げて、はっとした。
これがどういうものか、気づけないほど青くない。
「バレンタインに渡そうと思って用意したんだけど、あまりにできが悪いじゃない。だから渡せなくて、ずっとバッグに入れておいたの。言っておくけど食べちゃダメよ。もう悪くなっちゃってるだろうから」
わざわざ手作りしただって?
そンで渡すに渡せなくて、ずっと持ち歩いてただって?
しかもそれ、捨てることもできなかったってことだろ?
クールなはずのおまえが、本当に?
「umm……」
思わず両手を顔の前で組んで、下を向いた。
燃えちまいそうなくらい、顔が熱い。
だってさ、かわい過ぎンだろ。それ。
普段が普段だけに、ギャップが凄い。
「なに? どうしたの?」
「いや、ずるいだろ……それ」
「……ずるいのはあなたでしょ? どうしてあなたがそんなに真っ赤になってるのよ。恥ずかしいのはこちらのほうだわ」
そう言って憤慨するなまえの顔も、驚くくらい赤くって。
「ちょっとひざし、聞いてるの?」
頬を赤らめて抗議するなまえを引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
今の俺たちに言葉は必要ネーだろ?
瞳で問うと、なまえはほっと息をつき、そしてちいさく微笑んだ。それはもちろん、肯定のしるし。
細い細い絹糸のような雨の降る夜。
甘く華やかでありながら、パウダリックでほろ苦い。そんな時間が、これから始まる。
2022.3.8
Twitterでのやりとりから書かせていただいたマイク夢です。
Other掲載「あなたに溺れる」のふたりで書きました