イレイザーヘッドと猫カフェ
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは黒のスウェット上下に首元に白い布を巻きつけた、背の高い男のひと。伸ばしっぱなしの黒髪と無精ひげ、鋭い眼光。やや不審者めいたそのひとは、猫カフェMimineの常連である。
はじめの頃はみな彼を警戒していたが、店を訪れる回数が増えるにつれ、少しずつ印象は変わっていった。彼は店員に対して非常に紳士的であり、猫たちにも優しかったからだ。また初見でこ汚く見えた無精ひげをたたえたその顔立ちは、よく見るとおどろくくらい整っている。そしてある日、彼は体勢を崩しかけたわたしを片手で支えながら、落ちかけたトレイとその中身を空中で受け止めるという離れ業をやってのけた。
以来、彼はわたしたちにとって、ちょっと気になる、謎多き常連客という位置づけになったのだ。
みんな、彼をどこかで見たことがある、と言う。わたしも同様だ。けれど、どこで見たのかは思い出せない。最終的に我々は、あのひとは売れない役者かなにかだろうと結論づけた。見た目に頓着していないうえに身体能力が高いので、スタントや敵役専門のひとかもしれない。
また、彼は猫たちからも人気があった。とにかく猫じゃらしの扱いがうまい。彼がくるりと手首を返すと、先端が、まるで生きているかのようにくねりながら動く。
「ははは。おまえ、おてんばだね」
猫じゃらしの先端をとらえた三毛のマーブルちゃんに低くセクシーな声でかたりかけながら、彼がわらった。こういうときの彼は、とても穏やかな顔をしている。
「相変わらず、人気ですね」
オーダーを取りながら平静を装って語りかけると、彼は「ここの猫ちゃんは、みな人なつこいですから」と静かに答えた。「猫」ではなく「猫ちゃん」と言うあたり、人柄がにじみ出ているなと思う。
「オーダーは、いつもので?」
「ああ。お願いします」
「承知いたしました」
彼いつも頼むのは、生クリームがたっぷりのったホットココアだ。ブレンドをブラックで飲みそうな雰囲気なのに。
たまにぽろりと出るかわいい言葉遣いといい、こうしたちょっとしたギャップがまたたまらない。
「ああ。そうだ」
「はい」
「今日はこういうものを持ってきたんですが、使ってもかまいませんか?」
と、彼は先端にちいさなネズミのぬいぐるみがついたおもちゃをひろげた。当店では新品未使用の猫用おもちゃに限り、持ち込みを許可している。それを知りながらも、こうしてきちんと確認してくれる彼は、とてもいいひとだと思う。
そして、すぐに猫たち懐かれる彼がおもちゃを持ち込む理由を、わたしは知っている。あまたいる我がカフェの猫たちのなかで、彼になびかない子が一匹だけいるのだ。黒貂さながらの毛並みに、エメラルドの瞳。赤い天鵞絨のリボンが似合う美しき黒猫。その名もモカちゃん。
彼はなんとかモカちゃんを振り向かせようとしているのだが、難攻不落の孤高の黒猫は、なかなか懐こうとはしない。
「あ、ハイ。大丈夫ですよ」
「ありがとう」
低く彼がつぶやいた。彼の視線はすでに、わたしではなくモカちゃんに向けられている。鼻筋の通った美しい横顔は、やはりどこまでも穏やかで。
猫に対するときと同じような笑顔をわたしにも見せてくれないかなどと、かなわぬことをひそかに願った。
***
「遅くなっちゃったな」
足早に帰路を急いだ。友達と飲んでいたらすっかり遅くなってしまった。深夜も人通りの多い商店街を抜けた方が安全なのだが、こちらのほうが距離は近い。途中にはコンビニもあるし、このあたりの治安はさして悪くない。それにわたしは足に自信がある。きっと大丈夫。大丈夫なはず。
そう心の中で呟きながらコンビニの横を通り過ぎた時、電柱に設置された立て看板が目についた。「ひったくり注意」と書かれているその看板は、一昨日ここを通ったときには見かけなかったものだ。
そういう事件があったのではと考えて、ぞっとした。同時に、あることに気がついてしまったから。
数メートル離れた後ろから、一台の自転車がついてくる。商店街を素通りし、この道に入った時から、ずっと。
自転車なら、徒歩の人間などとっとと追い抜いてしまえばいい。だが背後のそれは、一定の距離を置いたまま、ゆっくりとあとをつけてくる。
先ほど通り過ぎたコンビニの灯りはまだ見えているし、ここならまだ人通りがある。追い抜いてくれることを心のどこかで祈りながら足を止め、後ろを振り返った。
最悪なことに、自転車に乗っている人物はわたしに合わせるかのように動きを止めた。体格のいい、若い男だった。男は振り向いたわたしとは目を合わせようとせず、ポケットに手を突っ込んだまま、通りの向こうを眺めている。
ぞわり、と、鳥肌がたった。
ひったくりだろうか。それとも痴漢だろうか。
いずれにせよ、このままでいるのはまずい。家はあの角を曲がった百メートルほど先。近いは近いが、路地に入ったら人通りと車通りがぐっと減る。
どうしようかと一瞬考え、かけだした。
わたしの個性は健脚だ。ひとより少しばかり足が速い。本気で走れば逃げ切れる。きっと。
だが、角を曲がって一つ目の電柱の前で、トートバッグをつかまれた。前にかけていた重心が急に後ろにずらされたため、バランスを崩して尻餅をつく。
反射的に、背後を振り返った。が、予想に反し、背後には誰もいない。
けれどそれよりもずっと恐ろしいものを、わたしの目は捕らえていた。わたしのバッグをつかんでいるのは、間違いなく人間の手。けれどそこに体はない。信じられないくらい長く伸びた手首から先。それが角の向こうに消えている。おそらくは、ゴムのように身体が伸びる個性なのだろう。
バッグを奪われまいと、わたしは空いている方の手で男の手を叩いた。転瞬、男の力が緩んだが、次の瞬間、先ほどよりずっと強い力で後方に引っ張られた。すごい力だ。
抵抗やむなく、バッグごと電柱にたたきつけられた。まずいと思いながら身体を起こす。だがその時にはすでに、ゴムの反動を利用して跳躍してきた男が、目の前にいた。
じり……とあとずさると、向こうも一歩前に出る。どうしよう。どうしたらいい。走ったところで、それより早く伸ばされた腕に掴まれるのは目に見えている。
助けを呼ぼうとしたが、まったく声が出なかった。本当に恐ろしい想いをしたとき、声が出なくなることがあるのだと、わたしはこのとき初めて知った。
男の手が、再びわたしに伸ばされる。もうだめかと思いかけた、その刹那。
夜のとばりの向こうから、黒い生き物が躍り出た。
黒い生き物が身体をひねる、と、そこから放たれた白布が男の身体にぐるりと巻き付く。それはさながら黒猫、いや、黒豹のような身のこなし。
男がわたしに向けていた手を白布にかける。が、次の瞬間、男がたたらを踏んでどうと倒れた。
闇の中から現れた黒豹、いや、黒衣の男性が、男に当て身を食らわせたからだ。
混乱しているわたしの前で、黒衣の男性は白布で男を拘束した。それは本当に、瞬きするくらいの、あっという間のできごとだった。
「マルヒトサンゴー、ひったくり犯、確保」
黒衣の人物が、時計を見ながらぼそりと言った。どうやら、無線で警察と連絡をとっているらしかった。
次に黒い服の男の人は、呆然としたままのわたしに向き直り、「大丈夫ですか」と声をかけた。はい、と、応えようとしたが、まだ声が出ない。ああ、と、男性が小さくうなずいた。
「大丈夫、落ち着いて。そう、大きく息を吸って……吐いて」
低く優しい声に言われるがまま息を吸い、そして吐く。
「怖かっただろう。でも、もう大丈夫だ」
あれ、と思った。この声に聞き覚えがある。
ゴーグルをはねあげた男性の顔を見てはっとした。そこにわたしが憧れ続けたひとがいたからだ。
そうか。このひと、役者さんじゃなくてヒーローだったんだ。
「もう、心配はいらない」
「……ありがとうございます」
「いや、仕事ですから。決まり事なので、一応見せておきますね」
そう告げながら、彼はわたしに向かってヒーロー証を掲示した。
「イレイザー……ヘッド」
彼、イレイザーヘッドはこくりとうなずいて、続ける。
「このたびは災難でしたね。このあと簡単な事情聴取があるので、警察が来るまで俺と一緒にいてもらうことになります。終わったらパトカーで家まで送ってもらえるので、なにも心配はいりません」
「はい」
「それから、飲酒されているようなので確認しておきますが、あなた、未成年ではありませんよね」
「はい。二十一です。来月から大学四年生になります」
言ってしまってから、余計なことを言ったと思った。
このひとは未成年かどうかを確認しただけで、それ以外の情報はいらないだろう。
だが、予想に反して、イレイザーヘッドは柔らかな声で言った。
「ああ、じゃあ就活真っ最中か」
「はい。だから、お店も今月いっぱいで辞める予定なんです」
「そうですか。ま、頑張ってください」
「はい、頑張ります。あの……」
はい、と小さく応えて、イレイザーヘッドが首をかしげる。
どうしよう。思いきって言ってみようか。
「あの、駅の反対側にできる予定の猫カフェをご存じでしょうか」
「アン・プティ・シャトンですか?」
いぶかしげな顔をしながら、イレイザーヘッドが子猫専門カフェの店名を口にした。
以前チラシを渡したとき、彼の瞳が興味ありげに輝いたのを覚えている。あの時からずっとひそかに、いつか誘ってみようかと考えていた。
「あそこ、うちの系列店なんです」
「ええ、存じ上げていますが」
それが何か、と言いたげに、イレイザーヘッドが形良い眉を寄せた。
ああ、これはだめっぽいな。半分泣きそうになりながら、それでも精一杯の勇気をだして、続けた。
「よろしければ、ご一緒しませんか。あの……今日のお礼も兼ねて」
「申し訳ありませんが、そういう形で救出した礼を受けることは、禁じられておりますので」
「……そう……ですよね」
「いや、余計な気遣いは無用ということですよ」
ふ、と彼が口角をあげた。それは彼がいつも猫ちゃんたちに見せるのと同じ、優しい微笑み。
初めて笑いかけてもらえたのが、こんな時だなんて、とても悲しい。そのはずなのに、彼の笑顔が自分に向けられたことが、とても嬉しかった。
悲しみと嬉しさとが入り交じったこんな感情を、人はいったい、なんと呼ぶのだろうか。
「警官が来たようですよ」
二つ向こうの角を曲がってきたパトカーを見ながら、イレイザーヘッドが言った。無造作な髪型の下にある、整った横顔。
ああ、と、ひそかに思った。このひとはモカちゃんに似てるんだ。誰にも媚びない、孤高の黒猫と。
「あの……イレイザーヘッドさん」
「なんでしょう」
「助けてくださってありがとうございました。でもさっき誘ったの、助けてもらったからじゃないんです。ずっと前から、お誘いしたいと思ってました」
イレイザーヘッドは、一瞬だけ、ひどく驚いた顔をした。そうだろう。たまに行くカフェの店員にいきなりこんなことを言われたら、誰だってびっくりする。
彼はすぐにいつもの無表情へと戻り、到着した警官に全てを任せて夜の闇の中へと消えていった。
黒豹のような身ごなしで現れ、そして消えた彼の姿をまぶたの裏で反芻しながら、またお店に来てくれるだろうかと、ぼんやり思った。
***
しばらく姿を見せなかったイレイザーヘッドが店を訪れたのは、三月の最終日曜日。最後に姿を見れてよかった。もう会えないかと思っていたから。
オーダーを取りに向かうと、彼はわたしに向かって軽く会釈した。そんななんでもないしぐさですらカッコいいなと思ってしまったわたしは、おそらく重症なのだろう。
と、その時、驚くべきことが起こった。今まで誰にも寄りつかなかった黒猫のモカちゃんが、彼の膝の上に座ったのだ。
「……びっくり。モカちゃんが誰かの膝に座ったの、初めて見ました」
「なかなか慣れない子でしたからね。通った甲斐がありました」
嬉しそうに笑った顔が、なんだか幼く見えてかわいい。カッコよくて強い大人の男のひとがこんなにかわいく見えるなんて、不思議なものだ。
「ご注文はココアでよろしいですか?」
「うん」
ああ、もう。そのカッコいいお顔と声で「うん」だなんて、反則が過ぎる。
そう思いながら「承知いたしました」といらえて立ち去ろうとしたわたしを、低い声が呼び止めた。
「ああ。ところで」
「はい?」
振り返る。
「先日、今月いっぱいでお店をやめると聞きましたが」
「はい。実は今日で最後です」
なるほど、と、彼はまた柔らかく笑った。今日のイレイザーヘッドは、いつになく雰囲気がやさしい。いやだな。そんなふうに微笑まれたら、逆にかなしくなってしまう。だって、もう会えなくなるんだから。
「こちらのお店はおとなの猫ちゃんばかりですよね。子猫ちゃんはいないんですか?」
「そうですね。うちは成猫専門なので」
なんだろう。そんなこと、ずっと通っているこのひとが知らないはずはないのに。
柔らかい視線をこちらにむけたまま、彼は続ける。
「駅の反対側に最近できた、子猫専門のカフェをご存じですか?」
「はい……系列店です」
「来月になったら、ご一緒にいかがです?」
「え? あの……イレイザーさん?」
「今は、プライベートです」
「あ……すみません」
くすり、と、彼がまた笑った。
「相澤です」
「はい?」
「俺の名前は相澤消太。よろしくね」
言葉と共に、さりげなく渡されたメモ。
「コ……コチラコソ、ヨロシクオネガイシマス」
メモを手にしたまま棒読みになってしまったわたしに、彼は春の陽のようにまた微笑んでから、膝上のモカちゃんに視線を落とした。
「それでは、のちほど」
「ハイ」
ぎこちなく答えてキッチンへと戻り、大きくひとつ、深呼吸。手の中のメモをひろげて、じっとみつめた。こんなことってあるんだろうか。
彼がくれたメモには、相澤消太という名前と、LIMEのID。
それは桜のつぼみが膨らみ始めた。春のはじめのことだった。
初出:2021.3.20
プロヒーロー夢本「My sweetie〜プロヒーローと軽食を〜」より再録したイレイザーヘッド夢です。猫に嫌われがちな相澤くんですが、こちらのカフェでは猫にも人にもモテモテです(笑)