THE LOBBY

サー・ナイトアイとアフタヌーンティー



 アジアでも五つの指に入るであろうエレガントなそのホテルは、東洋の貴婦人、という異名を持つ。その中で最も優美と言われる空間は、白を基調にしたコロニアル様式のロビーだ。そこで供されるアフタヌーンティーに憧れる女性は、少なくはない。

「……なるほど……これは美しい」

 響いた声に、頭上を振り仰いだ。そこにあるのはいつもと同じ、氷のように冷たくうつる、硬質の美貌。
 だがこの厳しくも美しいおもてが、笑うと春の陽光のようにやわらかくなるのを、わたしは知っている。

「でしょう」

 言いながら笑むと、彼、佐々木未来は無言でうなずき、そして両の口角をゆっくりとあげた。雪のなかに咲く一輪の花のような、そんな微笑。
 ほら、ね。笑うとこのひとは、こんなにもやさしい顔になる。

 純白のユニフォームを着た従業員に案内され、席に着く。
 そっと触れた、大理石のテーブルのひやりとした感触。黒のテーブルと、漆喰仕立ての柱の白と、壁に施されたレリーフと、そこここに置かれた観葉植物の緑と茶。その調和が、実に見事だった。

「……すてき……」

 憧れの場所にこられた感激に溜息を漏らすと、未来さんがおかしそうに目を細めた。

「なあに?」
「そんなに喜んでもらえると、連れてきた甲斐があるというものだ」
「嬉しいに決まってるじゃない。長年憧れ続けた場所なのよ。ありがとう」
「いやいや、普段はなかなか君と過ごす時間をゆっくりとれないからな。その埋め合わせだよ」

 犯罪に休みはない。もちろんヒーローには休日も設けられているものの、近隣で事件がおきれば、非番であっても呼び出される。それがオールマイトとその相棒であれば、なおのこと。
 だからそのあたりのことは、気にしなくていいと思っていた。けれど。

***

「おかえりなさい」

 クリスマスイブの夜、未来さんは十時ぴったりに帰宅した。多忙なヒーローのこと。いつもに比べれば、そう遅い帰宅ではない。
 サー・ナイトアイのその日の任務は、あるパーティーでの要人警護。今回はゲストを装っての警護であったため、彼は正装をしていた。すらりとした肉体に添うように仕立てられた、限りなく黒に近いダークグリーンのタキシード。それをさらりと着こなしているサー・ナイトアイはあまりにも素敵で、わたしは思わず、ちいさなため息をもらしてしまった。

「……すまないが、もう少しだけ待っていてくれ」

 ただいまのキスもないままそう告げて、わたしの恋人は足早に書斎へと向かった。普段冷静な未来さんがこんなにも慌てている理由はただひとつ。オールマイトだ。

「十二月二十四日二十二時より、オールマイトの限定グッズの予約が開始される」

 ゆうべ、彼はそう言っていた。パーティーの終了が二十一時であるため、間に合うかどうか、彼がやきもきしていたのを覚えている。
 かといって、わたしに予約を頼むような人ではない。ことオールマイトに関して彼は、すべて自分で行うことに意義がある、と考えている節がある。

 第一、オールマイトのグッズはすべて、事務所のブレーンである未来さんも企画の段階から参加している。製品の最終チェックも彼がしたと聞いている。だから、未来さんが一言頼めば、メーカーはサンプルとしてひとつは流してくれるはず。
 けれど、オールマイトの唯一無二の相棒、サー・ナイトアイは絶対にそういうことはしない。一般のファンと同じように、通常のルートでグッズを手にしようとする。
 公私混同は許さない。たとえ、それが己であっても。わたしは彼の、そんなところも好きなのだ。

 少しして、書斎から「よし!」という声が聞こえた。どうやら、無事にグッズの予約ができたようだった。

「いつもすまない」

 リビングに戻ってきた未来さんにいいえと答えて、わたしは彼にお茶を淹れる。

「誕生日もこんなふうだったろう。なにか埋め合わせをさせてくれ」
「埋め合わせなんて、そんな」

 わたしの言葉に、未来さんは、いや……と首を振る。

「行きたい場所でも、欲しいものでもいい。君の希望をなにかひとつだけ叶えさせてくれないか」

 このとき、ほんの一瞬、結婚という言葉が脳裏をよぎった。
 けれど、それは違うと思いとどまった。もちろん、いつか未来さんとそうなれればいいと考えているけれど、いまそれを提案するのは、違う気がする。
 であれば、やっぱり。

「ほんとうに、なんでもいいの?」
「むろんだ。といっても、私にできることに限られるが」
「じゃあ、ペニンスラのロビーでお茶したい」
「ペニンスラ?」
「……予算オーバーだったら、わたしも負担するから」
「その言い方だと、東京のペニンスラではなく、香港のほうだな?」

 うん、とうなずき、続けた。

「ずっと憧れてたの。ペニンスラ香港のアフタヌーンティーに。あ、でもね、今すぐは難しいでしょうから、そのうちに」

 香港ならがんばれば日帰りも可能だ。そしてペニンスラに宿泊せずとも、アフタヌーンティーを楽しむことはできる。だがそれは、かなりの時間を並んで待てば、の話だ。
 ペニンスラのロビーで、アフタヌーンティーを予約できるのは宿泊客のみ。
 なかなか休みもとれない今の未来さんの状況で、国外旅行は難しいだろう。それはわかっている。

「香港か……」

 と、未来さんが眉根を寄せた。わたしのいとしいひとは、そんな難しい顔をしても美しい。

「今じゃなくていいのよ。本当に」

 む、と、未来さんはもう一度難しい顔をして、次に低くつぶやいた。

「……二月の最終週あたりなら、なんとか時間を作れるかもしれない」
「え?」
「一泊しかできないが、それでもいいか?」
「でも……」
「何をためらうことがある。行きたいと言ったのは君だろう?」
「……そうだけど。未来さん、忙しいでしょうし、いつか、行けるときでいいのよ」
「いつかなんて言っていたら、きっと、行けないままになってしまう」

 そう言ったときの未来さんは、なぜだろう、ほんの少しだけ悲しそうに見えた。

***

 そして約束通り、二月の終わりに、未来さんはわたしをこの地に連れてきてくれた。
 お部屋はハーバービュー。リビングからバスルームまで続く大きな窓から、ヴィクトリア湾が一望できるお部屋だ。バスもトイレも、洗面台まですべて大理石という、古き時代のコロニアル様式を守りながら、室内のシステムは最新式。カーテンの開閉からルームサービスの手配まで、すべてAIに話しかけるだけですんでしまう。音声言語は各ゲストの母国語に合わせているというのだから、心憎いことこのうえない。

 そしていま、アジアで最も華麗なホテルの、最も有名なロビーで、わたしの心身共に美しい恋人が、オーダーを通す。
 未来さんはホテルの名を冠したブレンド紅茶を頼み、わたしはアールグレイを選んだ。

 少しして、三段のケーキスタンドと紅茶ポットが運ばれてきた。繊細な装飾が施されたポットやカトラリーはすべて銀製。ぴかぴかに磨き上げられたそれらには、一筋のくもりもない。食器は白地に金のラインが三本入ったボーンチャイナだ。
 つややかな黒髪に三筋のメッシュを入れている恋人にぴったりだと、ひそかに思った。

 スタンドの最上段には、四種のプチケーキが乗せられいる。薄い緑色はピスタチオだろうか。ピンクや淡いオレンジのマカロンがかわいい。
 二段目はセイボリー系。定番のキュウリのサンドイッチはとても薄く上品なしあがりだ。一口大のライ麦パンの上には、スモークサーモンとチーズ。ガラスの器に入った緑色の液体は空豆のスープだ。手前にある茶色のパテも美味しそう。
 そして一番下には、レーズンとプレーンのスコーン。

「あのね、未来さん。まずはこのスコーンから食べるのがいいんですって」

 一番下のトレイに置かれたスコーンを指しながら、わたしは説明した。

「ここのはね、オーダーを受けてからスコーンを焼くから、熱々で出てくるらしいの」
「ほう」

 と、未来さんが金色の眼を細め、スコーンを長い指でつまんだ。

「熱いでしょ? 普通、スコーンは真ん中のトレイに置かれるんだけど、そうすると熱で最上段のスイーツが溶けてしまうから、ここではスコーンを一番下のトレイに乗せるんですって」
「そうか」

 優しく目を細める未来さんが、優雅な手つきでスコーンを口元に運ぶ。わたしはこぼさないよう細心の注意を払いながら、クロテッドクリームと苺のジャムをスコーンにのせた。こんもりと。

「欲張りすぎだろう」

 たしなめながら笑う未来さんの目は、ヒーロー活動時の鋭い視線が嘘のようにやわらかい。自他共に対して厳しいと言われるこのひとは、プライベートではよく笑う。春の陽光のように。やわらかく、そしてやさしく。
 わたしだけが知っているはずの彼の美しい笑顔に気づいた周囲の女性たちが、こちらにチラチラと視線を向ける。

 白を基調に整えられた優雅な空間にしっくりとなじんでいるわたしの恋人は、銀幕から抜け出て来たかのよう。洗練されていて、派手でも華美でもないのにどこか優雅で。だから、人目を引くのはしかたない。

「どうした?」
「素敵だなと思って」
「そうだな。このホテルの内装も外観も、たいへんに美しい」

 素敵なのはホテルではなくあなたなの、と言いかけて、やめた。外見のうつくしさを褒めたところで、彼はたいして喜びはしない。
 こういうとき気づかされる。このひとは自分の美しさに対して、まったく頓着していないのだと。未来さんが大切にしているのは、きっともっと別のもの。内面的な美しさとか、潔さとか、聡明さとか、そういった。
 だからわたしは、なにもなかったかのように、話題を変える。

「このきゅうり美味しい。なんだろ、ほんのりいい香りがする」
「ハーブじゃないか? 以前東京のペニンスラで食べたのと似た味がする。たしか、きゅうりを塩とハーブで一晩マリネしていると聞いたな」
「……それは……」

 誰と行ったの、という言葉を口に出しかけて、またしても飲み込んだ。
 未来さんほどの男性に、女性との過去がないはずがない。

「オールマイトと行ったんだよ。あのひとは存外、こういうものが好きだったりするんだ」

 あのひとは、という言葉に、特別な感情を込めて未来さんが告げる。

「ふぅん……」

 女性ではないと知り、安心したのが半分。またオールマイトかと思ったのが、もう半分。

「なんだ、どうしたんだ?」
「未来さんは、オールマイトが大好きだからね」

 知っている。
 未来さん……サー・ナイトアイにとって、オールマイトは特別な存在。ただの雇い主ではない。憧れのヒーロー、などという軽い言葉で片付けられるような、薄っぺらいものでもない気がする。
 なんて言ったらいいんだろう。そう、オールマイトはきっと、未来さんにとっての「世界」。

「なんだ。やきもちでもやいているのか?」
「まさか」

 だって、「世界」が失われたら、生きていけない。
 だからそういった絶対的な存在にやきもちをやくことほど、愚かなことはない。

 それに、オールマイトとサー・ナイトアイは特別な関係なのだと思う。信頼し合い、命がけの現場で背中を預け合える、そんなかけがえのない存在だ。唯一無二といってもいい。
 おそらくオールマイトは今後もサー・ナイトアイ以上に信頼できる「相棒」は作らないだろうし、未来さんもまたオールマイト以外のヒーローの下につくことはないだろう。換えがきかないとは、そういうことだ。

 恋が終われば別れるわたしと未来さんの関係より、オールマイトとナイトアイの関係のほうがより深く、重いもののような気がする。

「どうした?」
「いいえ」

 しずかにいらえてから、空豆のスープを干した。音を立てないように空いたグラスをトレイに戻して、わたしはふたたび口を開く。

「ねえ、わたしにあなたにとってのオールマイトのような存在がいたら、あなたはどうする?」

 わたしの言わんとすることをすべて察した聡明な恋人は、形の良い眉をややひそめ、それから美しい指を有する手で、顔を覆った。
 怒らせてしまったのだろうか。指の隙間から見える白いはずの肌が、うっすらと紅く染まっている。
 どうしよう、と思いながら、続く言葉を待っていると、未来さんがちいさくつぶやいた。

「……もしれん…………」
「はい?」
「妬くかもしれんな……」

 それは、驚くくらいちいさなひびき。いつもまっすぐにこちらを見つめてくる金の瞳は、美しい手で覆われたまま。

「……勝手な言い草だと自分でも思うが、君には、私だけを見ていてもらいたい」

 顔を赤らめ、それを形の良い手で隠しながらの一言。そして彼は最後によりちいさく、「すまない」と付け加えた。

 驚いた。

 もちろん、好かれていないとも、遊ばれているとも思っていない。
 未来さんが常に仕事を優先させるのは、ヒーローとしての彼の矜持ゆえだ。わたしをないがしろにしているからではない。無理を押してこんな遠くまで連れてきてくれたことからも、それはわかる。それでも。

 ほう、と、息をついて、華麗で優美なる異国のロビーを見渡した。
 漆喰仕立ての白い柱に大理石のテーブル、カトラリーはすべて銀、白い食器の縁には、金色のラインが三本。

 ああ、もしかしたら。
 もしかしたらわたしは、自分で考えているよりもずっと、このひとに愛されているのかもしれない。

 水中花のような冷ややかな美貌を朱に染める彼に視線をもう一度転じながら、わたしはひそかに、そして深く、そう思ったのだった。

初出:2021.3.20

プロヒーロー夢本「My Sweetie〜プロヒーローと軽食を〜」より再録したネームレスのサー・ナイトアイ夢です。彼がまだオールマイトの相棒だった頃のおはなし

月とうさぎ