すまん、待たせた。と、いう声に顔をあげた。転じた視線の先に立っていたのは、黒の上下に身を包んだ、背の高いひと。
わたしも今来たばかりです、と応えると、そのひとは軽く眉を上げ、そしてわらった。
彼はわたしの好きな人。
といっても恋人ではなく、それどころか友達ですらない。同業者と言えなくもないが、高校時代の恩師と呼ぶのが、もっとも近しいところだろうと思う。
先生と出会ったのは、わたしが高校三年の時。新任の教師として赴任してきた先生は、お世辞にもきれいとはいえない黒の上下を着たまま壇上に立ち、ひどくいい声でただひとこと「このたび三年B組の副担任をつとめることになりました、相澤消太です。よろしくね」と告げたのだった。
わたしの副担となった相澤先生は、厳しく無愛想ではあったが、その実、とても優しいひとだった。赤点とまではいかなくとも優秀な生徒とは言えなかったわたしは、放課後よく訓練につきあってもらったものだ。
そうこうするうちに、先生への思いが恋にかわった。まあ、よくあることではないかと思う。
とはいえ、わたしは自分の領分をわきまえていた生徒だったので、自分の想いに蓋をしたまま、卒業の日を迎えたのだけれど。
転機がきたのは昨年のことだ。昨秋、わたしは雄英から二駅ほど先にある場所に事務所を構えた。といっても、相棒も事務員もいない、自分ひとりだけの小さな小さなヒーロー事務所だ。
せっかく母校の近くに来たのだ。ついでにと挨拶に行ったその時、わたしが持っていた黒猫のペンケースに、先生が反応した。
「猫ちゃんの筆入れか。かわいいな」
猫ちゃん、という言いかたがかわいくて、思わず頬を緩めてしまった。そういえば昔から先生は「お医者さん」とか、「よろしくね」とか、そういうかわいい言い回しをした。わたしはそんな先生が、大好きだった。
「黒猫のグッズが好きで、ついつい集めてしまうんです。ポーチとかハンカチとか。家の中なんか猫ちゃんの製品だらけですよ」
「見ているだけで楽しくなれそうだな」
「そうなんです。もしかして、相澤先生も猫のグッズが好きなんですか?」
少し意外に思いながらそうたずねた。猫のグッズに囲まれている先生の姿が、どうしても想像できなかったから。
「いや、俺は猫が好きなだけ。だが猫が描かれているものには、やっぱり目がいってしまうな」
「それなら黒猫亭とか好きかもしれないですね。うち事務所の近くにある洋食屋さんなんですけど、内装も食器もカトラリーも、すべて黒猫モチーフなんです」
「料理は?」
「おいしいと思います。お値段も手頃で」
「悪くないな」
「よかったら一緒に行きませんか?」
それが、こうして食事をするようになったきっかけだ。
といっても、デートっぽい感じではなく、ただほんとうに黒猫亭で一緒にごはんを食べるだけ。一度だけ場所を猫カフェに変更したことがあったけれど、相澤先生はひどく猫に警戒されてしまうタイプらしく、結果的に猫ちゃんも先生もかわいそうな感じになってしまったので、また黒猫亭に戻した。会話も仕事のことが中心で、色っぽい方向になることもない。それどころか、向こうから誘われたこともない。
黒猫亭は雰囲気がかわいく、客の大半が女性で、男性一人では入りにくい。だから誘えば来てくれる。ただ単純に、それだけなのだろう。わたしに好意を抱いてくれているとか、そういうことではないのだ。かなしいことに。
けれどわたしのほうは違う。先生と再会したわたしがふたたび彼を好きになってしまうまで、さしたる時間はかからなかった。
相澤先生はやっぱりかっこいい大人で、そして優しい。でもそれでいて、あんまりお酒は強くない。わたしのほうが強いくらいだ。
前回はうっかり飲ませすぎてしまい、帰り道でわたしと電柱を間違えて話しかけるという始末。でも先生はどんなに酔っても、かつての教え子にセクハラまがいの発言はしない。そんなところも素敵だと思う。
高校時代はとても遠く感じた、先生との年齢差。けれど大人になってしまった今、七つや八つの年齢差はさほど気になるものではない。だからわたしがふたたび先生を好きになってしまったことは、ほんとうにしかたないことなのだ。
そしてそんなわたしの気持ちに、きっと先生は気がついている。だって先生は、なにかと察しのいいひとだから。
けれど相澤先生は、それについてなにも言及してこない。それが答えだ。だからこの片思いの行く末は、おそらく暗い。
「おい、なに食うか決まったか?」
いきなり低く魅惑的な声が振ってきて、びくりとした。気づけば、注文を取りにきたのであろうウエイターが、困ったような顔をしてこちらをじっと見下ろしている。
「せ……先生はなににしました?」
「俺はビーフカツレツかな。飯は大盛りで」
「うーん。わたしは有頭海老フライにしようかな。ごはんではなくパンで。あと白ワインをグラスでお願いします。先生は飲み物どうされます?」
「俺はギネス」
「えっ、大丈夫ですか? いきなり寝たり、電信柱に話しかけちゃったりしません?」
「あの日は疲れてたんだよ……それにおまえ、俺をなんだと思ってるんだ。俺はビール一杯で潰れるほど弱くないぞ」
「はーい、ごめんなさーい」
あえておちゃらけた声を出すと、こいつ、と先生がわらった。やわらかく、目を細めて。だからわたしも先生に、笑みをかえした。
「デザートに、ケーキを二つ頼んでもいいですか?」
「かまわんが、俺の分もか?」
「だって先生、今日お誕生日でしょ?」
「ああ、そういえば」
そういえばじゃありませんよ、めちゃめちゃ大事な日じゃないですか。と、心の中でわたしはつぶやく。もちろん、口に出したりはしない。
するとわたしたちの話を聞いていたウエイターさんが「お誕生日ですか?」とたずねてきた。たしかこのお店では、お客の誕生日に花火が刺さったスペシャルケーキがサービスされるはずだ。けれど先生は、そういうのはきっと好きじゃない。そう思ったから「そうなんですけど、普通のでお願いします」とわたしはこたえた。先生が満足そうに、うんとうなずく。
そしてわたしは林檎のタルトを、先生はチーズケーキをそれぞれ選び、メニューを閉じた。
「そうそう、プレゼントもあるんですよ」
と、わたしはブルーの包装紙がかかった小さなケースを先生に手渡した。
中身はなんの変哲もないように見える黒のボールペンだ。けれどよく見るとキャップの先端には肉球が、クリップ部分には猫のシルエットがデザインされている。
大人の男性でも使いやすい、シンプルな猫グッズ。しっかりした文具メーカーの製品だから書き味もいい。合理主義の先生にぴったりだと思って選んだものだ。
「猫ちゃんのボールペンか」
「お仕事の時にでも使ってください」
「ありがとう……そうしたら、おまえの誕生日も祝わせてもらわないとな」
と、先生はわたしの誕生日の日付を口にした。
前にちらっと話しただけなのに、覚えていてくれたんだ。嬉しすぎて倒れてしまいそう。
「ありがとうございます。次に会うのはその時にしましょうか?」
「なんだ。次がそんな先になってもいいのか?」
からかうような口調に、慌てて顔を上げた。笑いながら相澤先生が続ける。
「俺もな、暇じゃないんだよ」
「すみません……いつもお付き合いいただいて……」
「そうじゃないよ。おまえ、本当になにも気づいてなかったんだな。いいか、俺は暇じゃない。だがおまえに誘われれば会いに来る。おまえの誕生日も知っている。その理由を、しっかり考えてみるといい」
ぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。
だって突然そんなことを言われたらびっくりしてしまう。ずっと期待しないようにって、自分に言い聞かせていたのに。
だからどう応えればいいかわからなくて、すがるように先生を見つめた。
「まず、口を閉じなさい」
困っているわたしを眺めて、相澤先生は楽しそうにわらっている。そこに飲み物が運ばれてきた。わたしの前には白いワイン。先生の前には、真っ黒なビール。
「いいか、これは宿題だ。飯を食い終えるまでに、ちゃんと答えを考えておけよ」
黒ビールをひとくちのんで先生がつぶやく。わたしはあまりの出来事にくらくらしながら、ワインを口元へと運ぶ。
もしかしたら、と心の中でつぶやいた。
もしかしたら、この長い片思いに明るい結末が来るのかもしれない。
先生のお誕生日の今夜、この黒猫亭で。
2021.11.8