あなたに溺れる

プレゼントマイクとリキュールアフォガート



 国道246は、雨だった。

 小さく息をついてから、商談の場所であったビジネスホテルを後にする。
 ホテルの隣は羊羹で有名な高級老舗和菓子店。和菓子店の閉店時間は早いので、すでに店舗はしまっていた。あと一時間早く商談が終われば、中のイートインコーナーでお茶を飲みながら彼を待てたのになと思いながら、折りたたみの傘を広げる。

 グレイにけぶる広い道路を挟んだ向こうには大きな寺社があり、蓮向かいは高貴なる方がおわす御用地だ。そのため世界有数の大都市のどまんなかにありながら、この一角は緑豊かで、夜もそううるさくはない。
 腕の時計をちらりと眺める。
 戦車という名を持つこの時計は、母から譲り受けたもの。その名の通り、戦車をイメージしてデザインされたもので、金属製のブレスレットが戦車の無限軌道、文字盤が操縦席をあらわしている。だがこの時計の全体的なフォルムは、実にエレガントだ。戦車という無骨な物体から、こんなにも洗練されたデザインが生み出されるのかと、いつも感心してしまう。

 さておき、時刻はもうすぐ八時になろうとしていた。そろそろ彼も来ることだろう。
 やがて赤坂方面から来たオールドカーが店舗の前に止まった。それはプロヒーローであり、ラジオDJであり、そして雄英高校の教師でもある彼、プレゼント・マイクこと山田ひざしの愛車。

 フォルムは美しいが、大量のガソリンを消費すると言われる、アメリカンマッスルカー。古く、燃費も悪く、税金も、そして現代の公道を走れるようレストアされた車体そのものの価格も高い。維持するだけで、かなりの金額になることだろう。
 もちろん、それだけの価値はあるのだろうと思う。わたしの美しい時計が、わたしにとって大いに価値のある品であるのと同じように。

「待たせたな、ハニー」
「いいえ、ちっとも。それより、迎えに来てくれてありがとう。助かるわ」
「なンの」

 ピカピカに磨き上げられた流線型のボディは、半世紀以上も昔に作られたものとは思えぬほど美しい。現代の公道に置かれていると、逆に新鮮ですらある。

「あいかわらず、きれいにしてるのね」
「まァね」

 と、ひざしはサングラスの奥の目を、嬉しげに細める。

「サイコーのクルマを維持するにはカネがかかんのヨ。いい女とつきあうのとおんなじくらいにな」
「車と女性を同じに語るのはやめてちょうだい」
「へいへい」

 いたずらっぽく笑いながら、ひざしは車を発進させる。
 マッスルカーは和菓子屋の角を曲がった。向かっているのはわたしたちが暮らすマンションだ。
 と言っても、わたしとひざしは同棲しているわけではない。同じタワーマンションに住んでいるだけ。

 プレゼント・マイクは、週一で深夜放送のパーソナリティーをつとめている。録音の時もあるが、ほとんどが生放送の番組で、スタジオは東京のキー局内。終わるのは明け方三時。
 その時間から雄英まで戻るのは、さすがにつらい。だから彼はラジオ局と業界人の遊び場である六本木のちょうど中間あたりに、マンションを買った。
 それがわたしの住んでいるタワーマンションだったというわけだ。

 強固なセキュリティと充実した施設を有する、都心の高級物件。そんな物件をまだ二十代のわたしが所有している理由はひとつ。親の遺産を相続したから。
 父が亡くなり、長兄は柿の木坂の実家と周辺の土地を、次兄は浜田山のマンションを一棟、そして年の離れた末っ子のわたしはこのタワマンの一室を譲り受けた。土地柄もあり、このマンションには著名人も多く住んでいる。
 だから、エントランスでボイスヒーロー、プレゼント・マイクの姿をたまに見かけることがあっても、そう驚くことはなかった。

 それだけであったら、わたしと彼がつきあうことはなかったろう。なにせ三十八階建てのマンションだ。住人の数はかなりいる。
 きっかけとなったのは、ラジオ局での営業だ。

 相続の際、わたしはまとまった現金も手に入れた。それを元手に観葉植物をレンタルする会社を立ち上げた。メインターゲットは中堅以上の企業やビジネスホテル。
 会社と言っても立ち上げたばかりの小さな企業だ。社長自ら営業に走らねばならないことも多々あった。
 次兄のコネを使ってラジオ局に売り込みに行った際、スタジオから出てきたDJがわたしを見て、「あれェ」と頓狂な声を上げた。
 それが、プレゼント・マイク。

「勘違いだったら申し訳ないけど、おねーさん、たまにお会いするヒトだよね」

 三十八階建てのマンションでさ、と、彼が小声で付け加えた。

「はい」

 三十八階建てのマンションで、と、わたしもちいさく付け加える。

「ご近所さんだ」
「ですね」

 お互い顔を見合わせて、ふふっと笑った。
 それが、わたしたちのはじまりだった。

「今日はどうする?」

 高層階用のエレベーターの前で、ひざしが問う。いつものように。

「あなたの部屋で」

 エレベーターに乗り込みながらわたしは答える。いつものように。

「たまにはおまえの部屋にあげてくれてもいいんじゃねーの?」
「いつかね」
「いつかって、いつだよ。本当は金持ちの旦那がいるんじゃねえのか?」
「悪趣味な冗談ね」

 お金持ちの旦那はいないけれど、パパならいたわ。もちろん、本当の父親だけれど。

「植物リース会社のOLがなんでこのマンションにひとりで住めるのか、俺は不思議でならねェよ」

 わたしは軽く眉をあげる。だって、こんなことを言うけれど、ひざしはわたしの家庭環境について、多少は知っているはずだ。ヒーローは常に危険と隣り合わせ。だからパーソナルスペースに入れる相手の身辺調査を入念にすると、どこかで聞いたことがある。
 だからひざしのこんな台詞は、単なる言葉あそび。

「いらない詮索はしない約束よ」
「へいへい」

 ひざしは両手をあげて降参のポーズを取ってから、わたしに口づけをひとつ落とした。
 キスをしながら三十八階のボタンを押したひざしと、それに気づいたわたしとでは、どちらのほうがより気持ちに余裕があるのだろう。

「まったく、つきあって半年も経つのに未だに部屋にあげてくれないんだから、相変わらずミステリアスだぜ、俺のベイビーは」
「あなたの部屋のほうが眺望がいいんですもの」
「二十四階からの夜景だってなかなかのもンだろ」
「このあたりは、背の高い建物が多いから」
「そういういうことにしといてやるよ。まったく、悪い女だぜ」

 そうしてひざしは、わたしの髪にも唇を落とす。

 三十八階から望む夜景が二十四階からのそれより見事なのはほんとうだ。大きな窓の向こうできらめくたくさんのあかりは、熟練した職人の手による螺鈿細工のよう。
 だが窓を叩く雨はどの階にも平等だった。窓ガラスを伝って落ちる糸のような雫を見つめながら、静かに、ちいさく息をつく。

「なァに黄昏れてんだよ」

 シャワーからでてきたひざしが、長い髪をふきながら笑う。

「夜景に見とれていたのよ」

 そして今は、あなたに見とれているの。そう続けた心の声は、言葉にしない。
 ひざしが素肌に羽織っているのは、なめらかな光沢の、漆黒のナイトガウン。

 いつ見ても、セクシーなひとだと思う。
 ふだんサングラスで隠されているそのまなざしはあまりにも優しく、そのかんばせはあまりにも端正だった。明るく楽しいプレゼント・マイクが、実はとてつもなく美しい男であるということに気づいている人間は、いったいどれだけいるだろう。
 ひざしがわたしの首筋に手を伸ばした。長い指が弄ぶのは、シルクのガウンの襟元だ。

「これ」
「ん?」
「あなたとおそろいなのね」
「ああ、ガウンか。赤と白で迷ったんだけど、やっぱりおまえは白かなと思ってさ」
「そう?」
「そうさ。高嶺の花ってェのは、たいがい白いモンだぜ」

 呟きながら、ひざしがわたしの頬を優しく撫でる。こういうとき、ひざしは決してあせらない。じれったいくらい時間をかけてわたしに接する。
 それは溶けそうなくらい甘くてほろ苦い時間。

「ああそうだ」

 と、ひざしが続ける。

「ちょっといいアイスをもらったんだよ」

 待ってろ、と言い伝えキッチンに消えた彼が戻ってきたとき手にしていたのは、青いパッケージのアイスクリーム。
 厳選された素材のみでつくられたそれは、かつてやんごとなきご身分の方のためにつくられ、そして供されたという。
 ひざしが伝説を持つアイスクリームを盛り付ける。わたしの目の前で、イタリア製のガラスの器に。

「そしてこれ」

 どん、と、ベッドサイドのテーブルに置かれた焦げ茶色の瓶は、バカルディのXOカフェ。
 甘さ控えめのコーヒーリキュールが、贅沢なアイスクリームに惜しげもなく注ぎ込まれてゆく。透明なガラスの中で奏でられる、ダークブラウンとオフホワイトのハーモニー。

「アフォガートね」
「そう、リキュールアフォガート」

 ささやきながら、長い指がバニラアイスをすくった。スプーンを使わないなんてお行儀が悪いと思いながら、わたしは口を開ける。それは、暗黙の了解。
 白くて黒くて、そして冷たいクリームが口の中に入ってくる。わたしは長い彼の指ごと、リキュールがしみこんだアイスを口に含んだ。

「あまくて、にがい」
「大人の味だろ?」
「ええ、そうね」

 まるで、あなたみたい。先ほどと同様、内心で続けた言葉は口に出さない。代わりに発したのは、「おいしいわ」という月並みな台詞。
 わたしも彼がしたのと同じように、指でアイスをすくい取り、金色のひげをたたえた口元へと運ぶ。ひざしはそれをゆっくりと舐めとる。わたし自身を愛するときとおなじように。

「……ん……ッ」

 思わず漏らしてしまった声に、ひざしの口角がゆっくりとあがった。

「甘ェな」

 まるで、おまえみたいだ。

 耳孔に流し込まれる声は、常とは違う落ち着いたもの。外ではテンションの高いひざしは、二人の時には別人になる。苦みばしった色気と、たまらないくらいの甘さを併せ持った、大人の男に。
 心の中に生じた欲と彼への想いを包み隠して、目を細める。と、ひざしがちいさくため息をついた。

「おまえはほんと、このアフォガートみたいな女だよなァ。溺れて、溺れて、苦しいくらいだゼ」

 だが、台詞ほどひざしの声はせっぱつまってはいない。おそらくは、ただの言葉あそび。アフォガートの意味は、「溺れる」だから。
 言葉ほど彼が夢中ではないことを、わたしは知っている。無論、遊びではなく真剣につきあってくれていることはわかっている。きちんと愛されていることも。ただ、溺れるというほどでは、きっとない。

「甘くて、苦くて、手に入れたと思ったら、すぐに消えてなくなっちまう」

 音だけ聞いていたら切ない愛の言葉なのに、片方の眉を上げる彼独特の表情の中に含まれる、戯れと色気と、そして艶。

 こんなひざしに溺れきっているのは、わたしのほうだ。
 わたしがひざしを自分の家にあげないのは、彼が嫌いなわけでも、信頼していないからでもない。
 「ひざしの不在」に、「わたしが」耐えられなくなりそうだからだ。ひざしの愛用香水はラベンダーやゼラニウムが香る、華やかなフゼアノート。おしゃれな彼は、ボディソープからアフターシェイブまで、すべてその香りで統一している。
 自分の部屋でひざしと寝てしまったりしたら、華やかな香りが残されたベッドで、その後いったいどうやって、ひとり眠れというのだろうか。今ですら、会えない一週間は長すぎるというのに。

「ホラ」

 ひざしがまた、わたしの口元にアイスクリームを運んでくれる。今度は指ではなく、スプーンで。
 くらくらするのは、コーヒーリキュールのせいなのか、それともひざしの色香にあてられたせいなのか。

「ん」

 口の中ですぐに溶けてしまうアイスクリームは、まろやかで甘くて、最後にコーヒーリキュールの苦みが口のなかにわずかに残る。
 まるで、ひざしと別れた翌朝のように。
 共に過ごした時間が甘ければ甘いほど、その後の苦みは強くなる。溶けてしまったしあわせな一夜は、苦い六日間に飲み込まれる。

「うまい?」
「ええ、甘くて、そして少しだけ苦くって」

 いらえながら、静かに目をとじた。その間にも絶え間なく注ぎ込まれる、愛のささやき。プロDJが紡ぐ言葉は、どこまでも甘い。
 わたしは今宵もこうして、あまくてにがい、あなたに溺れる。

初出:2021.3.20

プロヒーロー夢本「My Sweetie〜プロヒーローと軽食を〜」より再録したネームレスのプレゼント・マイク夢です

月とうさぎ