悲しんでいる貴方を愛す

エンデヴァーと葛餅



「もう、大丈夫だ」

 渋みのある低音と共に瓦礫の中から現れた偉丈夫は、その日から、わたしの憧れのヒーローとなった。

 奇しくもそのヒーローは、わたしと同系……炎の個性の持ち主だった。少しでもそのひとに近づけるよう、努力と研鑽を重ね、そのひとの出身校に入り、ヒーローを目指した。そのひとの事務所から職場体験の指名をもらえたとき、わたしがどれだけ嬉しかったか。
 卒業後も、そのままそのひとの事務所に入所した。憧れのヒーローの下で、わたしには輝かしい未来が待っていた…………はずだった。

***

「そろそろね」

 所長の戻る時間を確認し、関西から取り寄せた葛餅を事務所の冷蔵庫に入れた。吉野葛を使った本格葛餅は冷やしすぎると硬くなる。だから普段は常温で保管し、所長が食べる三十分ほど前に冷蔵庫に入れるよう、常に心がけている。
 そうしろと言われたわけではない。美味しいものをより美味しく食べてもらうために、わたしが勝手にしていることだ。

 なぜって? 葛餅は所長の好物だから。
 いつも厳しい表情でいることの多いフレイムヒーローは、葛餅を口にするときやや口元を緩ませる。ほんの一瞬、彼がわずかに覗かせる微笑がとても好き。それが自分に向けられたものでなくても。

 とはいえ、エンデヴァーは多忙だ。予定の時間通りに帰還することはあまりない。途中事件に出くわしたり、新たな出動要請に応じたりすることがあるからだ。

 エンデヴァー。我が事務所の長。そして、現在のナンバーワン。
 長年トップに居座り続けたヒーローがいたせいで……もちろんそのヒーローには何の罪もないのだが……事件解決数ナンバーワンでありながら、エンデヴァーは永遠のナンバーツーと揶揄され続けた。

 まったく勝手なものだ。わたしのように直接救けられたことはなくても、エンデヴァーに間接的に救けられた人間は、かなりの数いるはずなのに。
 ヒーローたちの自己犠牲に慣れきった民衆は、安全な場所から命がけで闘うヒーローを批判する。いびつな社会、いびつな世界。

 人々が勝手に作り上げた幻想と期待と不安と批判をすべてその大きな身体に背負いつつ、今日もエンデヴァーは街をゆく。
 トップに君臨する今となっても、見た目も厳つく無愛想であるエンデヴァーは、成人男性からの人気はあるが女性や子供からの支持はあまりない。人は、目に見えるものしか見ようとしない。信じない。真に大切なものは、目には見えないというのに。

 けれどわたしは知っている。聳え立つ冬山のような厳しさに隠された、轟炎司というひとの優しさを。わたしは知っている。かなしいくらいに。

***

「戻った」

 予定より三十分ほど遅れてエンデヴァーが帰還した。これくらいの時間なら冷えすぎの心配はないだろう。お茶を淹れる前に冷蔵庫から出しておけば、彼が食するときには食べごろになるはずだ。

「お帰りなさいませ」
「うむ」

 出迎えたわたしを一瞥もせず、エンデヴァーが所長室の椅子に座った。最新の技術を駆使して作られた特注のチェアは、彼の巨体を受けてもきしみひとつあげない。

「お茶になさいますか? 奈良よりとりよせた極上の葛餅がございますが」
「……頼もう」

 すでに書類を広げながら、エンデヴァーがこたえた。
 わたしはそれにはいと応じて、奥の給湯コーナーへと下がる。

 お茶を淹れるには決まった手順がある。まずミネラルウォーターをやかんで沸かす。硬水は日本茶には合わないので、使用するのは軟水だ。湧いたお湯を湯飲みと急須に取り、温まったら急須のお湯を捨て適量の茶葉を投入する。湯飲みのお湯は湯冷ましに入れ、少し待ってから急須に注ぐ。湯飲みに注ぐ際は最後の一滴まで絞り入れなければいけない。コーヒーとは違い、緑茶や紅茶は最後の一滴こそがおいしいと言われているから。

 お茶の淹れ方は諸説あるようだが、わたしはだいたいこのやり方で淹れている。地元産の玉露を淹れるのにちょうどいい温度にするには、この手順が最も良い……ような気がする。

 フレイムヒーロー、エンデヴァーは、低温で丁寧に淹れた旨味と甘みが際立つ玉露が好きである。薄いものより、やや濃いめにいれたものが。
 まずいと不満を口にする人ではないが、美味しいお茶を出すと、葛餅を食しているときと似た表情になる。葛餅の時は口元が、お茶の時は目元が、本当にほんの一瞬だけ、緩む。

 もちろん、ここには細かく温度が設定できる最新式のポットも置かれている。しかし、そちらを使うとなぜか上手く淹れられない。ぬるすぎてしまったり、熱くて渋みが出てしまったり。
 便利なものを上手く使いこなせない自分は、時代遅れの女なのかもしれない。

 ともあれ、お湯を冷ましている間に準備しておいた葛餅をお茶に添え、エンデヴァーのもとへ。

「どうぞ」
「む」

 このとき、やっとエンデヴァーが書類から目を上げてわたしを見る。大きな手が書類を机の端に寄せ、黒文字を取る。
 りりしい唇の上に点されていた炎が消され、わたしの淹れた玉露が彼の口の中へと消えていく。とろりとした緑色の液体は、今日もかすかに甘いだろうか。

 うんとうなずいたエンデヴァーの目元から、険が消えた。これは味に満足してもらえたしるし。
 一礼してから自席に戻り、自らの書類を広げつつ、軽食をとる所長をのぞき見た。

 粗野なイメージのあるエンデヴァーだが、食事の所作は美しい。たとえば箸の上げ下ろし。迷ったり、ねぶったりすることなどは絶対しない。食べこぼしなどもってのほかだ。
 きちんとしたご家庭でしっかりと育てられたのだろうと思わせる、その仕草。

 今もまた、柔らかな葛餅を、黒文字を使ってきれいにたいらげてゆく。ぶざまにきなこを散らすこともなど、決してない。音を立てることもなく、轟炎司はただ黙々と葛餅を食していく。

 下階の相棒詰め所は常にごった返しているが、ここ所長室は静かだ。
 こち、こち、こち、と、時計が秒針を刻む音がする。このアナログ時計は古き時代のアンティーク。
 時代から取り残されたようなこのアナログ時計は、すこし、自分に似ていると思う。

「……早いものだな。もう八年になるか……」
「はい?」
「……七年だったか?」

 いきなりの言葉に、自分のことを言われているのだと気づくのに、少しかかった。

「……申し訳ありません。八年です。そうですね……もう八年になりますわ」

 それは、こうしてエンデヴァーの元で細々した雑用をこなしてきた歳月。だがエンデヴァー本人との関わりは、それより長い。相棒だった時代も入れると、もう、十年になる。

「正直な話、あの時、事務所に残れるとは思っていませんでした」

 エンデヴァーはすこし意外そうな顔をしたが、特になにも言わなかった。このひとはそういうひとだ。

「ヒーローを続けられなくなったわたくしをそのまま使っていただけたこと、本当に感謝しています」

 八年前、わたしは職務中の事故により足を負傷し、走ることができなくなった。ゆっくりと歩くことはできるので、日常生活にはそう支障はない。が、ヒーローとして活動することは、もう無理だった。
 それを所長に告げたとき、その場で解雇されるだろうと思っていた。業界でも指折りの大手であるエンデヴァー事務所に、戦えぬ者は必要ないと。
 だが、所長はわたしを残してくれた。彼がわたしに告げたのは、解雇宣告ではなく新たな辞令。それはエンデヴァーが職務のみに専念できるよう、細部にわたって配慮し補佐をする秘書的な役割だった。

 ヒーローの秘書。大手事務所には、そういった存在が多くいる。あの当時、オールマイトの側にいたサー・ナイトアイもそれに近い。もっとも並外れた頭脳の持ち主である彼は、自身もヒーロー活動をしながらオールマイトのブレーンとして働いていたのだが。
 だが、当時のエンデヴァー事務所に、秘書はひとりもいなかった。

「今のわたくしがありますのは、所長のおかげです」
「俺ではなく、自分の努力だろう。実際おまえはよくやった……いや、よくやってくれている。今回まとめてくれた書類も、実によくできていた」
「ありがとうございます」

 秘書に就任したばかりのころは、お茶一つ満足にいれられず、何をすればいいのかもわからなかった。だから当時はひどく悩んだものだ。
 悩んだ末に、働きながら夜間の専門スクールに通い、秘書としての業務を一から学ぶことにした。いまならどこの事務所に行ってもやっていける自信がある。もちろん転職など、露ほども考えてはいないけれども。

 秘書になってから知ったことだが、エンデヴァーは業務中の事故などで引退に追い込まれた部下に対し、充分な保証だけでなく、新たな就職先をも斡旋していた。わたしにしてくれたのと同じように。
 このひとは世間で思われているよりもずっと面倒見がいい。後進の育成にも熱心だ。部下たちにも尊敬されている。無骨で、口下手で、強面で、一般受けはあまりしないが、努力のひとであるエンデヴァー。そんな彼の元で働けることに、事務所の面々はみな誇りを持っている。

「すまんが、もう一杯もらえるか」
「はい。ただいま」

 慌てて席を立ち、盆に大きな湯飲みをのせて給湯コーナーに向かった。
 二回目の茶はすでに茶葉が開いている。だから急須に入れるのは、先ほどよりもぬるめのお湯だ。
 湯冷ましに湯を注いで、棚を眺めた。そこに並ぶのはいくつもの一輪挿しだ。わたしは季節ごとの花を、日々所長のデスクに飾る。だがそれに彼が言及したことは、未だかつて一度もない。

「……花……ね」

 と、小さく独りごちる。
 エンデヴァーがわたし個人を見ることなど決してないが、わたしにはボスである彼のプライベートの一部が見えている。

 たとえば、トップヒーローになった現在においても、厳しい鍛錬を続けていること。
 たとえば、火災事故で失った息子さん……遺体はみつからなかったらしい……を、未だに探し続けていること。
 たとえば、彼の奥さんが長らく精神科に入院していること。
 そして彼だけが、奥様との面会を許されていないということ。

 それなのに、彼がそんな妻に手づから花を買い求め、届けているということ。

 もっとも、花の件を知ったのは偶然だった。事務所近くの花屋で花を買う彼を見かけることがなければ、知り得ることはなかった情報だ。
 彼が「エンデヴァー」として外部に贈る花は、わたしがすべて取り仕切っている。だからすぐにぴんときた。あの花は「轟炎司」が氷の中に咲く花のように気高く美しい妻のために求めたものだと。
 なんということだろうと、胸が苦しくなった。

 エンデヴァーは今でも奥様を愛しているのだ。会うことすら許してくれないそのひとを。
 奥様がエンデヴァーに会おうとしない理由はなんだろう。彼はそんなにひどいことをしたのだろうか。わたしたちにとってはすばらしい上司であるあのひとが。
 けれど社会的に素晴らしいと言われるひとが、理想的な家庭人であるとは限らないのだ。いやむしろ、逆であることの方が多いのかもしれない。

 あの不器用過ぎるひとと奥様の間になにがあったのか、わたしには推し量ることすらできない。わたしは、まったくの部外者だから。
 大きくため息をついて、最後の一滴まで出し切ったお茶をふたたび盆にのせた。

「どうぞ」
「うむ」

 大きな手が湯飲みをつかむ。と、その時、視線をあげたエンデヴァーが、デスク上の一輪挿しに目をとめた。
 はじめて彼が、花を見た。

「む……」

 エンデヴァーが、ほんの一瞬、表情を曇らせた。

「お邪魔でしたでしょうか?」

 デスクの上に咲く、一輪の竜胆。これは貴方が愛する奥様に贈っているのと同じ花。あなたはこれを見て、いったい何を想うのでしょうか。

「……いや」

 応えに反して、アクアマリンの輝きを有する水色の瞳が大きく揺れた。その低い声が震えたような気がしたのは、わたしの気のせいだっただろうか。
 エンデヴァーの目の前には、二杯目のお茶。湯飲みの中には茶柱がひとつ。
 もともと口数の少ない人だ。食事中はなおさらに。
 しんとした広い執務室の中で響くのは、アンティークのアナログ時計が秒を刻む音。

「うまいな……」
「はい。吉野の最上級品ですから」
「違う」
「はい?」
「おまえの淹れる茶は、うまい」

 おべんちゃらやおためごかしを言う人ではない。下心もないだろう。ただ、事実を述べただけだ。けれどその表情が微笑んでいるように見え、わたしは動揺した。いや、見間違いではなく、彼はたしかに微笑んでいる。わたしに向かって。
 不覚にも、涙がこぼれそうになった。
 もういい。このひとの微笑みがわたしに向けられた。それだけで充分だ。

「……ありがとうございます」

 む、と小さく答え、エンデヴァーの視線はまた書類へと向けられる。
 あの目がわたしを女性として見つめる日は、絶対に来ない。
 と、次の瞬間、室内に電子音が鳴り渡った。続いてスピーカーから流れるオペレーターの事務的な声。

『国道989号線、A地区にてネームド敵出現。フレイムヒーロー・エンデヴァーに、出動を求む』

 ごくり、と茶柱ごと茶を飲み干して、エンデヴァーが顔をあげた。

「出る」

 という言葉が聞こえたときにはすでに、エンデヴァーは扉の外へと消えている。

「どうぞお気をつけて」

 ちいさく口にして、続きを心の中でそっと呟く。お気をつけていとしいひと、と。

***

 デスクの上には、一輪の竜胆。

 エンデヴァー、あなたは知っているでしょうか。この花の持つ花言葉を。
 竜胆の花言葉は、悲しんでいる貴方を愛す。

 あなたが奥様に思いを寄せ続けているように、わたしはあなたを愛するのです。
 奥様を愛し続け、そして悲しんでいる貴方を、わたしは愛しているのです。

初出:2021.3.20

プロヒーロー夢本「My Sweetie〜プロヒーローと軽食を〜」より再録したネームレスのエンデヴァー夢です

月とうさぎ