待てば甘露の日和あり

 じっとりとした湿気が肌にまとわりつくのに、エアコンをつけるには肌寒い。そんな雨の夕刻、わたしはひたすらゆがいた牛タンの皮をむく。
 ディナーのメインは、有名料理研究家のレシピから作るタンシチュー。塊肉の処理は面倒だけれど、たまにはこれくらい、手をかけてみてもいいだろう。
 なぜなら今日は、わたしの彼――八木俊典――が生まれた日だから。

 ケーキまでは手が回らなかったので、仕事帰りに近くのパティスリーで購入した。俊典の好きそうな、綺麗な色のフルーツがたくさん乗ったかわいいいケーキ。
 きっと彼は乙女のように瞳をキラキラ輝かせて、綺麗だね、と言うだろう。

 と、その時、キッチンカウンターに置いていたわたしの携帯が、ぶるりと震えた。横目で画面を確認すると、画面に表示されているのは「七時に東京駅に着く予定」という、なんとも味気ない俊典からのメッセージ。

「新幹線には、予定の時刻に乗れたみたいね」

 事件があったらすぐに飛び出していく人だから、と小さくつぶやき、皮をむいたタンを1.5cm幅にスライスしていく。

 俊典がこちらに帰ってくるのは、実に一週間ぶりのことだ。来年から雄英の教師になる予定の彼は、先週、生活の拠点をあちらに移した。
 十か月も前から気の早いことだと思うけれど、それには理由があるようだった。
 詳しく話してはくれないけれど、どうやら、あちらに気にかかる少年がいるらしい。きっと強い個性を持った、才ある少年なのだろう。オールマイトが、その成長を見守りたいと思うほどの。

「下準備終了」

 ひとりごちてから、所定の材料が入った鍋に肉を投入し、蓋をして火にかけた。
 美味しくなりますように、と小さく呟いてから、ずいぶんとマッチョな乙女に影響されてしまったなと、わたしは小さく息をつく。

***

「もうすぐ九時になるんだけど……」

 七時に東京駅についているはずなのに、いったい何をしているのだろう。東京駅からここまでは、三十分もあれば着くというのに。
 どうせいつものように、途中でおきた小さな事件に首を突っ込んでいるのだろう。
 トップである彼が小さい事件に直接手をくだすのは、あまりいいこととは思えない。若手の芽を、摘んでしまうことになりかねないからだ。
 それがわからない『オールマイト』ではないが、気づくと身体が動いているらしい。度し難いよなと彼は笑うが、その反射こそがきっと、ヒーローとして必要なものなのだろう。

 だがヒーローの資質はさておき、連絡くらいくれてもいいのではと、いつも思う。
 家で待っている、こちらの身にもなってもらいたいものだ。どれほどわたしが俊典の身を案じているか。
 なにか情報を得られるかとテレビをつけたが、めだった事件は特になかった。

「まったく、あいかわらずの鉄砲玉」

 ひとり気をもんでいても仕方ないので、キッチンに向かい、自分のためのコーヒーを淹れた。もちろん、この時間だからカフェインレス。
 最近は美味しいカフェインレスのコーヒーがふえてきて、嬉しい限り。
 選んだ銘柄は、わたしの好きなコナコーヒー。ひろがる、バニラマカダミアの甘い香り。

 その瞬間、バルコニーの窓をとんとんと叩く音がした。
 ここは地上42階。空を飛べる個性の持ち主とて、なかなかあがれる高さではない。

 きっと俊典だ、と思いながらカーテンを引いた。。
 ガラスの向こうに立っていたのは、予想通りの大きな身体。カーゴパンツにシャツというカジュアルないでたちの平和の象徴さまは、満面の笑みを浮かべてわたしに手を降る。
 もう、と不満の声と共にロックをはずし、窓を開けた。

「私が、帰宅した!」

 お決まりの台詞と共に、俊典の身体が急激にしぼんだ。水蒸気の向こうから、肉のほとんどついていない、細い面があらわれる。

「もう、窓から帰ってくるのやめて。心臓に悪い」
「ゴメン、でもこれが一番早いからさ」

 笑った顔の色は、悪くない。今夜の俊典は、そこそこ余裕があるようだった。心の底からほっとしながら、しょうがないひと、と小さく漏らした。
 もちろん、死ぬほど心配していたことなど、おくびにも出さない。
 おかえりなさいと告げると、心得たように俊典が腰をかがめた。わたしは肉の薄い頬にキスをする。ただいまという返礼と共に、彼もわたしの頬にキスを返す。

「今日はタンシチューよ。料理の苦手なわたしが、塊から調理したのよ。褒めてちょうだい」
「すごいね! それは私のためにかい?」
「そうよ。だって今日はあなたが生まれた日だもの。お誕生日、おめでとう」

 いつもだったら、違うわと一刀両断に切り捨てるところだけれど、今夜はさすがにそうしない。

「ありがとう、柊依」
「ふふ。こっちはプレゼント」

 あらかじめ用意していた、細長い箱を手渡した。中身は無地のネクタイだ。色は紺、地味で、堅実で、けれども使いまわしが効く。
 包装をあけた俊典が、にやりと笑う。

「これはさ、君が私に首ったけ、ってことだよね」
「……そういう、おじさんっぽい発想はやめて」
「しょうがないじゃないか。私はおじさんなんだから」

 口をとがらせた、その横顔がかわいい。かわいいあなたはおじさんなんかじゃないわと思ったが、あえて口には出さなかった。

「どう、似合うかい?」

 胸元にネクタイを当てて、大型犬みたいにはしゃぐ恋人。これがこの世を支える英雄様だというのだから、ほんとうに。

「とても似合うわ」
「ありがとう」
「軽く食べてはきたんでしょ? さきにシャワーをあびていらっしゃいよ」
「軽食はとったけど、お腹はすいてるよ。君が作っておいてくれたシチューを先にしたいな」

 そういいながら、俊典はわたしに優しく口づけた。くちびるとくちびるが軽く触れるだけの、優しいキス。

「ごはんをたべて、ケーキをたべて、それから君と一緒にお風呂に入って」
「……ちょっと待って、わたし、もうお風呂には入ったわよ」
「うん、柊依。そこは大した問題じゃないんだ」

 いや、問題よ。と、内心で突っ込みながらため息をついた。
 けれど我が家の平和の象徴さまは、言い出したら聞かない。世間で知られるイメージよりも、ずっと彼はわがままで、自由に振る舞う。
 といっても、本当にこちらが嫌がるようなことはしない。俊典は、こちらが了承せざるを得ない状況をつくるのが、とてもうまい。

「だめかい?」

 ほら出た、と心の中で小さく叫ぶ。
 残念そうに眉をさげて私を見おろす俊典は、叱られた大型犬みたい。
 ずるいひと。そんな顔をされたら、断れるわけがない。
 わたしは俊典に甘えられるのにとことん弱い。わたしがそれを自覚しているように、彼もそれを知っている。

「しかたないわね」

 ため息まじりにそう答えると、叱られた大型犬はぱっと顔を輝かせた。

「今日はあなたが王様。年に一度の誕生日ですものね」
「ありがとう」

 もう一度落とされた口づけは、先ほどまでのものとは違う、甘くて官能的な深いキス。

「……やっぱり、今からお風呂に変更していい?」
「あなたが一人で入るなら、それでもいいわよ」
「今日は一緒がいいんだ。お風呂でえっちなこともしたいから」
「……それも決定事項なの?」
「だめかい?」
「だめっていったら、しない?」
「嫌なら我慢するけど、どっちでもいいなら、君がしたくなるよう善処する!」

 そんなに力強く宣言しなくていいから。
 あとそれ、決定ってことでしょう?
 ダメって言ったら、またさっきみたいな顔をするんでしょう?
 しかたのないひと。

「そういうことをしたいなら、ご飯を先にして」

 少し怒ったふりをしながらいらえると、ハーイと、明るい声が返された。

***

 ベッドという名の小舟の上で、男の熱に翻弄された後におとずれる、甘くしあわせなふたりだけの時間。
 消耗しきってうとうとしはじめたわたしの耳元で、低く甘い声がする。

「……私が君をどれほど必要としているか、知らないだろ」

 それは逆、と、微睡みながら、静かに思う。
 わたしがどんなにあなたを必要としているか、あなたは知らない。
 これといった宗教をもたないわたしだけれど、八木俊典という人物にまつわるものに関しては、神に祈り、そして感謝したくなる。
 あなたがこの世に生まれてきてくれたこと。そして何億もの人の中で、あなたがわたしを選んでくれたこと。

「はなればなれはさみしいよな。早く、また一緒に暮らしたい」

 そうね。わたしも、そう思う。

 扱っている案件が片付き次第、今の事務所を退職し、引っ越す手はずになっている。転職先は、雄英高校から徒歩で10分ほどの距離にある、中堅どころの法律事務所。ボスは女性で、アットホームな雰囲気のオフィスだ。
 業界でも指折りの大手だった今の職場に比べると収入は落ちるが、かわりに仕事量は減る。持ち帰りの仕事や残業が減るぶん、俊典と一緒に過ごせる時間がおおいに増える。

 だから、こうして離れて過ごすのも、あと少しの辛抱。
 あせらずに待ち続けていれば、甘い日々が訪れる。
 さりげなく、ふしくれだった彼の指をきゅっと握った。

「おや、起きていたのかい? マイハニー」

 返事の代わりに微笑むと、唇の上に、優しいキスがおりてきた。

2018.6.10

2018 オールマイト誕

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月とうさぎ