Happy Valentine's Day!

 そう広くはない会場内を埋め尽くす、人、人、人。その大半が若い女性なのだから恐れ入る。
 考えてみれば、バレンタインの催事場に足を踏み入れるのは初めてだ。
 六本木で暮らしていた頃は、近くに有名どころのショコラトリーがいくつもあった。実家の近くも同様だ。なので、そちらで購入するのが常だった。

 それにわたしは甘い物は嫌いではないが、並んでまで食べたいというほどでもない。あれば食べるという程度。しかし俊典はそうではない。彼はスイーツが大好きだ。
 ただ俊典の場合、甘い物が好きと言うよりも、スイーツの持つ独特の美しさやかわいらしさを愛でているような気がするのだけれど。

 ともあれ、思い出されるのは昨年のバレンタインの失策だ。
 仕事の忙しさにかまけて忘れてしまうという失敗をやらかした。それだけではなく、本来であればもらう側の俊典にチョコレートのカクテルを作ってもらうというていたらく。
 俊典は優しいから、「もともと、バレンタインは男女を問わず、恋人や親しい相手に菓子や花束を贈る日だ」と微笑んでくれたけれども、イベントごとが大好きで、かつそれを大切にしている彼のこと、きっと本当はさみしく感じたことだろう。
 だからわたしはそんな優しくも愛らしい俊典のために、慣れない場所に足を踏み入れたのだ。

 それにしても、と、溜息交じりで会場内を見渡した。
 入り口には、どこぞの流派の幹部がいけたであろう華やかな装花や、色とりどりのチョコレートのポートレート。茶色とピンクで彩られたディプレイはかわいくて、それでいてどことなく高級感がある。こういう感じ、きっと俊典は好きだろう。

 と、その時、ひとつの個性的なボックスが目についた。白地にクロコダイル皮柄の型押しという、攻めたデザイン。
 中身のボンボンショコラも、また個性的だった。オレンジピールやフランボワーズと共に箱の中に鎮座するのは、葉巻風味や山椒、黒胡椒入りのショコラ。
 個人的にとても心が揺れたが、この感じは、きっと俊典の好みではないだろう。

 結局、散々迷って、赤と黒の箱に金色のリボンがかかったオーガニックショコラを選んだ。
 カカオの産地や品種に合わせたフレーバーは、ローズやフルーツ。かわいいもの好きの俊典が、いかにも喜びそうな組み合わせ。
 きっと俊典は気に入るだろう。彼の乙女心にこのショコラが響かぬ訳がない。そんな確信めいた思いが、胸を満たした。

***

 俊典はまだ、帰ってこない。
 近頃、彼は忙しい。いや、元々忙しいひとではあるのだが、ますます忙しくなっている。ヒーロー業の他に、CMやテレビ、雑誌のグラビアなど、彼はやることがたくさんだ。それだけではなく、『オールマイト』は来年度から雄英高校の講師になる。そのための準備もあるのだろう。今朝も早朝から出かけていった。

「それにしても」

 と、独りごちながら息をつく。

「あのクロコダイルパッケージのチョコレート、買えばよかった」

 胡椒や山椒入りのショコラは他の店にもありそうだが、葉巻風味のチョコレートにはなかなかお目にかかれないだろう。
 俊典のショコラを購入した後、やっぱり自分のために買って帰ろうと思ったものの、人の多さを再確認し、諦めた。あの人混みをかき分けて元の売り場に戻るほどの気力と体力が、わたしにはなかった。
 だが、調べてみたら、あのショコラの店舗は東京にしかないらしい。通販もやっていないようだ。大事な出会いを逃してしまった。東京に行く予定は、しばらくない。

 わたしはプライベートにおいて、時折、こういう小さな判断ミスをする。取り返しがつかないほどの失策ではないが、思い出したとき、残念だと軽く後悔する程度のささいなミスを。

「葉巻風味のチョコ、どんな味がするんだろ」

 言ってもしかたないことを口にして、もう一度息をついたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。俊典だ。

「おかえりなさい」
「ただいま」

 と、満面の笑みを浮かべながら、俊典がわたしに、小さなペーパーバッグを差し出した。

「なに?」
「ハッピーバレンタイン!」
「ずるいわ。わたしが先に渡すつもりだったのに」

 やんわりたしなめると、俊典はネクタイを緩めながら、また笑う。

「うん。でもね、このスタイリッシュでカッコいいパッケージ、君は好きかなと思ってさ。中身もちょっと変わってるんだよ」
「それは楽しみね。わたしからはこれ」

 金色のリボンがかかった箱を手渡した。返ってきたのはありがとう、と優しくも低い声。

「一緒にあけよう」
「そうね」

 促されるまま、二人でソファに腰掛ける。俊典は金色のリボンを外し、わたしはペーパーバッグから、小さな箱を取り出した。
 入っていたのは、白地にクロコダイルが型押しされた、スタイリッシュなボックス。

「ふふ……」

 思わず笑みをこぼしてしまったわたしを、俊典が不思議そうに見つめる。目をぱっちりと見開いて。

「どうかした?」

 いいえ、と首を振りかけて、途中でやめた。

「俊典」

 なんだい、と問いかけた彼の唇に、軽いくちづけ。

「ありがとう。しあわせよ」

 俊典は、目を大きく見開いたままだ。このひとは自分から行動するときは大胆なくせに、自分がされるのには意外と弱い。
 そんなところもまた、かわいいのだけれど。

「柊依、不意打ちはずるいぞ」

 ショコラを持ったわたしを自分の膝の上にのせながら、俊典がつぶやく。その顔は、まだ赤い。

「ごめんなさいね、わたしのかわいいひと」
「許さないぞ」

 言葉とは裏腹な、甘く優しい声。
 続く行為を予測して、わたしはそっと目を閉じる。
 きっと彼は、照れ笑いを浮かべていることだろう。

2020.2.14
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