ちいさく独りごち、羽織っていた黒のジャケットを脱いだ。
裁判所の外は、見事な五月晴れ。街路樹の葉が、燦々と降り注ぐ陽光を弾いて、きらきらと輝いている。しつらえられた都会の緑も、なかなか捨てたものじゃない。
もっともそう思えたのは、たった今、大きな案件が一つ片付いたせいかもしれない。気がかりを残しているときは、陽光の眩さや新緑の美しさにも、気づけないことが多いから。
視線を街路樹の緑から腕時計へと移し、これからどうするかな、と、心の中で呟いた。
時刻は12時半を少し回ったところ。このまま事務所に向かうか、それとも昼食を先にするか。
数秒迷い、わたしは欲望に身を任せることにした。すなわち、優先すべきは昼食だ。
今日の午後は、アポがひとつも入っていない。さしあたってすべき業務は、明日以降の公判や企業むけの書面作成くらいのものだ。
依頼人に会う予定もないことだし、今日のランチは焼き肉にしよう。
面倒な案件がきれいに片付くと、わたしはなぜか、無性にお肉が食べたくなる。理由はわからない。
霞ヶ関で焼き肉屋を探すか、事務所のある六本木に戻っていつもの店にしようか、心の中の天秤が傾きかけたその瞬間、鞄の中の携帯端末がぶるぶると震えた。
クライアントからではありませんように、と祈りながら、画面をながめる。
そこに表示されていたのは、意外にも、愛しい恋人の名前だった。
「はい、もしもし。どうしたの?」
「ん。例の件は終わったかな、と思って」
あわてて電話に出たわたしとは対照的な、のんびりした声。
そういえば、朝、話したような気がする。今日の午前に、大きな案件が一つ片付く予定なのと。
「終わったわ」
「じゃあさ、お昼、一緒にどう? 可愛いカフェをみつけたんだ。それくらいの時間はとれるだろう?」
「まあ、お昼を一緒に食べるくらいならね」
「じゃあ、待ってる」
続けて俊典は店の名と場所だけを告げ、電話を切った。
相変わらず、マイペースなひと。
そうため息をついて、駅へと向かって歩きだす。けれど、心の中で憎まれ口をつきながら、わたしは自分の頬が緩み始めていることにも、ちゃんと気がついている。
なんだかんだ言いながら、わたしは俊典が大好きで。
目の前に山と積まれたカルビより、可愛いカフェでちまっとしたランチを食べながらにこにこ微笑む俊典のほうが、わたしにとっては、ずっとずっと魅力的なのだった。
***
「素敵なカフェね」
「だろう」
得意そうに、俊典が胸を張る。
ああもう、どうしてこのひとはこうもかわいいのだろう。
自分の中に生じた甘い感情を押し殺し、平静を装ってわたしは続ける。
「大手のフラワーショップが経営元なのね。だからかしら、お花がとてもいきいきしているのは」
カフェの入り口をくぐった先に展開していたのは、テーブル席ではなくたくさんの花々――すなわち生花店だった。
綺麗に並べられた季節の花が、白、赤、ピンク、オレンジ、黄色、青、と、色ごとにわけられ、陳列されている。花の色の境目には、仕切り代わりのグリーンが置かれて。花入れもバケツではなく、大きな、ガラス製の花器。
流行に敏感な人たちが集まる場所柄だろうか、とにかく、細部にも神経が行き届いている。
そしてこのおしゃれなお花屋さんがメインで、カフェスペースは申し訳程度なのかと思いきや、まったくそんなことはなく。
奥のカフェは、花の販売スペースよりずっと広く、また内装も凝っていた。
天井からいくつも下がったアイアン調のプラントハンガーの中身も、壁いっぱいのグリーンも、作り物ではなく、すべて本物。
テーブルごとにも花が飾られ、座席側の壁にはグリーンだけでなく、合間から試験管に入れられた花がちらほらのぞく。
都会のオアシスのような、瀟洒で気の利いた素敵なスペース。俊典は忙しいわりに、こうしたお店に対する嗅覚が、とても鋭い。
「白いお花がいっぱいね」
常よりも、やや甘い声でそう言った。
自分でいけたり育てたりする趣味はないが、花や観葉植物は嫌いではない。こうして植物に囲まれていると、なんだか優しい気分になれる。
「ここはね、週替わりでテーマが変わるんだよ。今週のテーマは白い花だからさ、どうしても、君と来たかったんだよね」
テーブルの脇に添えられた白いミニ薔薇を指して、俊典が続ける。
「だってほら、この薔薇、なんだか君みたいだろ?」
「……ありがとう。でも、それは褒めすぎ」
俊典はいつもわたしを白い薔薇に例えるが、そんなにいいものでもないだろう。あばたもえくぼと言うように、彼はわたしを好いているから、そんなふうに見えるのだ。きっと。
「そんなことないさ。立てば芍薬、座れば牡丹と言うけれど、君はあれだな、立てばカラー、座ればローズ、歩く姿はカサブランカ、だよね」
それ、ものすごく語呂が悪いわよ。と、突っ込もうかと思ったが、やめておいた。せっかく褒めてくれているのだ。
「ありがとう。白いカラーは好きな花のひとつなの。例えてもらえてうれしいわ」
海芋という和名を持つカラーには、薔薇のような華やかさはない。トルコキキョウの可憐さも、デイジーのようなかわいさも、百合のような気高さもない。
そのうえ花に見えている部分は、仏炎苞と言う名の萼である。
だが、カラーは凜として綺麗だ思う。無駄な装飾をすべて剥ぎ取った、上へとまっすぐに伸びた茎が、すらりとしたその姿が、潔く感じられて、とても好き。
「え。そうだったのかい? 知らなかったよ」
「でしょうね。言ってなかったもの」
「次からは薔薇じゃなくてカラーにするよ」
俊典が、申し訳なさそうに肩を落とした。ああ違う。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。
優しい俊典は、ときたまわたしに花を買ってきてくれる。彼の選ぶ花は、白い薔薇が多かった。
あなたがわたしのために選んでくれたなら、どんな花でも嬉しいわ。ここでそう言えないわたしは、きっとかわいげがない女なのだろう。
可愛い女になれないわたしは、かわりに、静かに告げる。
「カラーに限らず、白い花が好きなの。だから、白い薔薇も大好きよ」
ああ、と、俊典がほっとしたような顔をした。
「でも、長く一緒にいるのに、まだ知らないことってあるもんだな」
「そうね、でも、すべてを知ってしまったら、つまらないじゃない。わからない部分があるから、いいのよ」
ハーブティーを口に運びながら、そういらえた。耐熱ガラスのカップの中で揺らめくのは、俊典の瞳と同じ色をした美しいお茶。
「そんなものかもね」
答えながら、俊典が自分の前に置かれたレモネードを、ストローでくるくるとかき混ぜた。
ふだんスマートなこのひとが、こんな落ち着かないそぶりを見せている理由は、なんとなくわかる。
先ほどの電話で、俊典は「結果」を聞かなかった。
弁護士もヒーローも、守秘義務のある仕事だ。だが詳細は話せなくても、勝敗くらいは伝えられる。けれど彼は、絶対に結果をたずねてはこない。お行儀悪くグラスの中身をぐるぐるとかき混ぜ続けるくらい、気になっていたとしても。
その気遣いが、ありがたかった。
「俊典」
「ン? なんだい」
「今日の裁判、勝ったわよ」
そうか、という声とともに、花が咲いたような笑顔を見せる、俊典。
かわいい、かわいすぎる。
全世界に向けて叫び出したい気分だ。わたしの恋人は、こんなにもかわいいひとなのだと。
けれどわたしはそうしない。しないかわりに、静かに笑んだ。
「お待たせいたしました」
運ばれてきたのは、都会のカフェにありがちな、見た目が綺麗なしゃれたお料理。
テーブルに並べられたのは、エディブルフラワーといちごで飾られたフレンチトーストと、ライ麦パンにクリームチーズとスモークサーモンがのったオープンサンドと、丸パンに春キャベツと生ハムを挟んだサンドイッチ。それに耐熱ガラスのカップに入ったコンソメスープと、やっぱりお花が入ったサラダがふたつ。
カラフルなテーブルを挟んで座るのは、濃淡さまざまなピンクで彩られたフレンチトーストを前に幸せそうに微笑む二メートル越えの大男と、無言で生ハムにナイフを入れるわたし。
俊典は、色がきれいだねぇ、おいしいねぇ、かわいいねぇと合間合間で呟きながら、流れるような所作でフレンチトーストを食していく。
かわいいのはお料理じゃなくて、あなたです。
ライ麦パンを取り分けながら、心の中でつぶやいた。
「ところで」
「なに?」
「今週は白い花だけど、先週のテーマはなんだったのかしら?」
「先週のテーマは薔薇、その前は芍薬だったらしいよ。ちなみに来週は、青い花」
「よく知ってるのね」
「白い花の時に君を連れてこようと思ってたから。それくらいはね」
「夏には、夏の花がテーマになるのかしら」
「たぶんね」
「じゃあ、ひまわりの時に、また来ましょう」
店内に飾られるのは、小さめの姫ひまわりだろうけど、太陽の化身のようなあなたは、ひまわりがよく似合うから。
「ひまわりの花って、あなたに似てない? 大きくて、明るくて、太陽の化身のようで」
「……ッ……君は、本当にずるいな」
俊典が大きな手で、顔を覆った。
このひとは、歯が浮くような台詞を平気で口にするくせに、自分が言われることに、めっぽう弱い。
可愛い女になれないかわりに、わたしはこうしてたまに、俊典のペースを乱そうと試みる。あえなく玉砕することもあれば、今のように、成功することもある。
と、その時、俊典のスーツのポケットから、大きな音が鳴りひびいた。
周囲の視線が突き刺さる。
こういうお店では、マナーモードにするのがマナーだ、そうでなければ、設定をもう少し小さな音に。
だが、仕方のないことだ。
周囲のひとは知らない。これが着信音でもメールやメッセージの受信音でもなく、オールマイトが正体を気取られぬようカスタマイズした、緊急出動要請音だということを。
俊典が受ける出動要請には、二種類ある。
ひとつはオールマイトを指名した大事件。そしてもう一つは、事件現場から近い場所にいる、すべてのヒーローに送られるもの。当然、これはオールマイトでなくてもかまわない案件だ。
そして今の音は、後者だった。
「柊依」
申し訳なさそうに、俊典がわたしを見つめた。
個人的には、大きな事件でないのなら、別のヒーローに委ねてほしいと思ってしまう。活動限界や体力のこともある。身体のことが心配なのだ。
それに、なんでもオールマイトが解決してしまったら、若手が育たない。
けれど俊典はそれができない。頭で考える前に、身体が動く。それがナチュラルボーン・ヒーロー、オールマイト。
「あなたも大変ね」
わたしの言に、う、と俊典が顔を引きつらせた。
ーーそんな顔しなくても大丈夫。お説教をするつもりはないのーーと、心の中で、優しくささやいた。
「お昼がゆっくり食べられなかったあなたに、夕飯はお肉をたくさん焼いてあげるわ」
「柊依!」
行ってらっしゃい、と言う代わりに、ひらりと手のひらを振った。
「ごめん……」
「いいから」
「この埋め合わせは、またあとで」
俊典はそう言いながら飛び出しかけて、慌てた様子で、足をとめた。
「アッ、お会計」
「いいから」
もう一度手のひらを振ると、ありがとう、と、俊典が笑んだ。
そして今度こそ彼は飛び出す。5月の太陽の下に。金色の髪をひるがえして。
わたしは大きく息をついてから、ハーブティーにレモンを入れた。青かったお茶が、一瞬にして紫色へと変化する。
とても、美しいお茶だ。今の変化を俊典が見たら、きっと、綺麗だねと喜んでくれたことだろうに。
夏になったらまた来よう。花に囲まれたこのカフェに。
その時こそはゆっくりと、フラワーショップで、昼食を。
2019.5.31
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