六本木にあるもっとも高いタワーを中心にひろがる商業施設のなか、新緑も目にまぶしい小さな庭園をのぞむカフェに、彼女はいた。
その美しさに、一目で惹きつけられた。凜と咲く、大輪の薔薇のような女性だと思った。華やかな赤やかわいらしいピンクの薔薇ではない。圧倒的な存在感を放つ、白い薔薇だ。
食事を終えた彼女は、細めのシガレットをバッグから取り出し、優雅な仕草で火をつけた。ルージュで彩られた唇から漏れる、紫の煙。その一連の流れに、ぞくりとした。
煙草を吸い終えた彼女は、続いて運ばれてきたエスプレッソを飲み干して、席を立った。
なぜあの時、あんなにも彼女に目を奪われたのかわからない。美しい女性なら、周囲に掃いて捨てるほど――実際そんなことはしたことがないけれど――いた。けれど彼女は、そういった女性たちとはまったく違っているように思えた。
自分がなぜこんなにも彼女に惹きつけられるのか、その理由もわからぬまま、私は彼女のあとを追った。彼女が足を向けたのが、私の目的地と同じ方向だったからだ。
彼女はその足で、私の事務所を有するタワーに入っていった。
同じ建物内にオフィスがあるのだろうか。そう胸を高鳴らせた私の前で、彼女は高層階向けのエレベーターの前で立ち止まった。
ついている、と思った。
私の目的地――すなわち我が事務所――は、このタワーの最上階だ。
物陰でマッスルフォームになり、扉が開くと当時に、エレベーターに乗り込む。
まずは、にこやかに挨拶。
「こんにちは」
「え? オールマイト?」
彼女は一瞬ひどく驚いた顔をしたが、すぐにもとのきりりとした表情に戻り、私に向かって会釈した。そんな冷静さも、好ましいと思った。
「下の法律事務所の方ですか?」
「ええ。お昼だったので。オールマイトさんもランチを?」
低すぎず高すぎず、耳にとても心地よい、知的な声。
「まあ、そんなところです」
いらえながら、彼女を見つめた。
ほっそりした襟元に輝くのは、ひまわりの花をモチーフにした金色のバッジだ。ひまわりの中央に燦然と輝くのは、小さな天秤。
それは自由と正義、そして公正と平等を表す、弁護士のしるしだった。
***
「なににやにやしてるの?」
淹れたての珈琲を手に、柊依が片方の眉をあげた。ハリウッド女優や歌劇団の男役が得意とする表情だ。
「にやにやとはひどいな。君と出会ったときのことを思い出していたんだよ」
「出会ったとき?」
「そう」
「前も、こんな会話したわよね」
「したね。オープンカフェで桜をみながら」
ローテーブルに珈琲を置いて、柊依が私の隣に腰掛けた。
「あの時はびっくりしたわ。まさかオールマイトとエレベーターで鉢合わせするなんて思わなかったもの」
「そうだね。実を言うと、ほとんど使ったことがなかったな。あの時は君と話がしたくてさ、慌ててエレベーターに乗り込んだんだよ」
「そうなの?」
うん、とうなずいた私に、柊依は小さく、目だけで笑んだ。
「5月だったわね」
「そう。薔薇の季節だった。君はまるで、白い薔薇から抜け出てきた花の精のようだった」
「またそんな歯が浮くようなことを……」
「いいじゃないか。歯ぐらい何度でも浮かせればいい。いくらでも聞かせてあげるよ。上質の粉砂糖のような、甘い言葉を」
「はいはい」
あきれたようにそう答え、柊依がコーヒーカップに唇をつける。ルージュで彩られた唇が、白い陶磁器のカップに触れた。
その姿が、オープンカフェで紫煙をくゆらせていた、あの時の柊依の姿と重なった。
「あの頃、私は本当にまいっててさ」
そう、本当に、心身共に憔悴していた。片側の肺と胃袋と、そして最大の相棒を失ったばかりの、あの頃の私は。
もっとも、ナイトアイを失ったのは、他の誰でもない、私自身のせいなのだけれど。
「あら。あなた、ものすごく元気そうだったわよ」
「そりゃあ、そういう風に見せていたから」
すると柊依は大きく目を見開いて、次に少し悲しそうな顔になり、そうね、と、小さく息をついた。
「あなたは、オールマイトだものね」
「うん。すまない」
「謝らなくていいわよ。どうぜ改善するつもりなんかないんでしょ」
痛いところをつかれて頭をかいた私に、柊依が微笑んだ。白い薔薇が、花開くように。
「わたしは、あなたのそんなところまでも、受け入れるつもりでここにいるのよ」
その言葉を聞いて、目頭が熱くなった。
柊依はいつもそうだ。彼女はいつも、辛辣な言葉を吐きながら、その実、私のすべてを受け入れてくれる。
そういえば、出会った頃に吸っていた煙草を、彼女がやめたのはいつだっただろう。
柊依と深い仲になった頃、マッスルフォームを維持できる時間が急激に減り始めた。二人で過ごす時間が長くなり、これ以上隠し通しておくこともできなくなって、ある日、真実の姿を彼女にさらした。
――胃袋と、片側の肺がないんだ――
そう告げたとき、彼女は小さく、「そう」と言った。それだけだった。
だが、あれ以来、彼女が喫煙する姿をみていない気がする。そうだ、きっとあれが、彼女が煙草をやめるきっかけになったのだ。
おそらくは、私の身体を気遣ってのことだろう。
クールなようでいて、実はとても細やかで優しい。柊依はそういうひとだった。
「なに? どうかした?」
「いや……なんでもないよ」
笑みを返して、柊依の淹れてくれた香り高い珈琲を、静かに干した。
「おかわり、もらえるかな?」
「もちろんよ」
柊依が花咲くように微笑んで、席を立つ。
キッチンに向かう凜とした後ろ姿を見送って、私はひとつ、息をつく。
君は一輪の白い薔薇。君を選んで、そして君に選んでもらえて、本当によかった。
心の中でそう呟いて、私はテーブルの上のヒーロー雑誌に手を伸ばす。
それはいつもの、休日の昼下がりの風景。
2019.5.16
一輪の薔薇の花言葉・一目惚れ
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