落日の後に訪れた闇と、今の自分が置かれている状態が似ている気がして、小さく、息をついた。
めまぐるしく夏が過ぎ、訪れた秋は哀愁と共にあった。常に消えない、寂寥のおもい。
自らの選択に後悔はない。だが、もう自分は人を救けることができないのだと思うと、ひどく切なかった。
「いかんいかん」
ぶんぶんと首を振り、自分の内部で湧き上がった暗雲を振り払った。考えてもしかたのないことだ。今の私の仕事は後進の育成。生徒たちの成長を見守り、ヒーローとしての心得を伝えていくこと。
それが、私に課された責務のひとつだ。
そして目の前の大切なひとを笑顔にするのも、また大事なこと。
だからわざわざこんな衣装をあつらえたのだ。今宵のために。
「よしっ!」
鏡の前でタイの歪みを直しながら、気合いを入れなおす。
うん、やっぱりこの衣装、悪くない。いや、実にいい。
痩せた体に合わせて仕立てた、黒いシルクの変形燕尾。ラペルはもちろん拝絹で、色は赤。
燕尾の裏地もラペルと同色にし、裾には銀糸で蜘蛛の巣の刺繍を施した。シャツとパンツには私の骨格に合わせた骨の模様を入れている。この模様には蓄光塗料が含まれている。
つまり、暗闇の中で、骨格が浮かび上がるって寸法だ。
今の私がこの衣装を着るのは、いささか自虐が過ぎる気もするが、なに、似合えば勝ちだ。
この見事な骸骨紳士ぶりをみて、彼女はなんと言ってくれるだろうか。
彼女とは、私がいまつきあっている女性のことだ。六本木に事務所を構えていたころに知り合った。同じタワー内の大手法律事務所に勤めていた弁護士だ。
私が雄英の講師になるにあたって、こちらに来てもらった。現在は、雄英が寮制になる前に私が購入したマンション――つまりはこの部屋――で、暮らしてもらっている。
彼女は女性には珍しく、イベントごとにうといタイプだ。ある年など、バレンタインを忘れていた。
そんな彼女のことだ。ハロウィンのことなど、きっと頭にないだろう。
そこに完璧な仮装をした私が「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」とやるわけだ。すると彼女は「しようのないひとね」とおおいに笑ってくれるに違いない。
そして私は、彼女を喜ばせると同時にいたずらをする権利を得る。もちろん、一番大切なことは彼女を喜ばせることで、いたずらは二の次三の次なのだが、まあ、せっかくの機会だ。今夜はあんなことやこんなことを楽しんでしまおう。
むふふ、と、口元を緩めた瞬間、彼女の帰宅を知らせるインターフォンが鳴り響いた。
「はいはーい」
鼻歌をうたいながら、玄関へと急ぐ。
「ただいま」
「トリック・オア・トリート!」
両手をひろげてそう叫んだ私に、彼女は一瞬、ひるんだようす。
だが私の恋人は冷静かつ沈着なデキる女だ。すぐに平静を取り戻した体で、小さく、ハッピー・ハロウィン、と呟いた。
あれ? もしかして、今日ハロウィンだって覚えてた?
念のため、同じ台詞をもう一度。
「トリック・オア・トリート!」
「ハッピー・ハロウィン」
今度はなんの躊躇もなく、彼女が私に小さな箱を差し出した。
長方形の箱に魔女の帽子の飾りと取っ手がついたこれは、どうみても洋菓子店のもの。
「お菓子よ、ダーリン。ハッピーなハロウィンを過ごしましょうね」
「あ……うん……ソウダネ」
なんということだ、君がハロウィンを覚えていたとは……これでいたずらはおあずけか。
だがしかし、せっかく用意してくれたお菓子だ。おいしく、そして楽しくいただかなければ。
「箱の中身はなんだい?」
「プチケーキよ」
「じゃあ、早速いただこうか」
「そうね」
「コーヒー淹れるよ。君は先に着替えてきたら?」
ゆたかな髪に口づけを落とすと、彼女はありがとうと言いながら、白い花が咲くように笑った。
お気に入りのブレンド豆を蒸らしていると、ルームウエアに着替えた彼女が登場した。ビジネス中のキリッとしたスーツ姿もいいけれど、こういう気取らない格好もまた素敵だ。シンプルな、だが上質な素材で作られた、リラックスウエア。
「ケーキ、盛り付けるわね」
と、彼女はキャビネットから、見たことのない皿を取り出した。
私は買った覚えがない。けれどシンプル好みの彼女の選択とは思いにくい、オレンジと紫の、まるでハロウィンの為に作られたようなかわいいお皿。
そこに載せられていくケーキも、これまたいつもの彼女が選びそうのないかわいいもので。
ジャック・オー・ランタンをかたどったかぼちゃのタルト、骸骨のココアロール、魔女の帽子をイメージした紫芋のモンブラン、毒林檎を模したりんごのムースなどなど、それらは実に愛らしい。
「うわあ、かわいいね」
思わず声をあげてしまった私に、彼女はほんのすこしだけ、目を細めた。
「そうね、でも、あなたほどじゃないわ」
彼女はこうして、いつも私をかわいいと言う。
わたしのかわいいひと、と。
それは男が言うべき台詞じゃないのかい、とたずねると、そういう考えは時代遅れよダーリン、と彼女はのたまう。
だから私はかわいいというお言葉をありがたく頂戴し、彼女に微笑んだ。
「じゃあ、いただこうか」
かわいいお皿に盛り付けられたかわいいケーキに、美味しいコーヒー。そして目の前には愛しい君。
大好きなものに囲まれて、大好きなひとと過ごす楽しいひととき。
「なんだかかわいそうで、フォークを入れられないね」
「そうね。でもそれじゃあ食べられないから」
言うや否や、グサ、と、彼女がジャック・オー・ランタンにフォークを突き刺した。
ワーオ。君、あいかわらず、実にあっさりしてるよな。そういうとこ。
「美味しいわよ」
「ン……」
ためらいつつも骸骨にフォークを突き立てた私を見て、彼女がまた、目を細める。
「俊典」
「ん?」
「その衣装、とても似合ってる」
「えっ、そうかい?」
嬉しいな。今の今まで触れられなかったから、君は気づいていないのかと、ちょっとションボリしていたんだよ。
「すごいわね、それ。わざわざ仕立てたの?」
「そうなんだ。生地の染めからしてもらったんだよ。この骨の模様はね、蓄光塗料が塗ってあるから、暗闇で浮かび上がるんだ」
「それはすごいわね」
「ねね。見たい?」
はしゃぐ私に、そうね、と彼女。
「食べてる途中で悪いんだけど、ちょっと電気消してもらっていい?」
はいはい、と笑いながら、彼女がリモコンのスイッチを押す。
瞬時に室内が暗くなり、暗闇の中、骨の模様が浮かび上がった。
「どうだい? すごいだろう?」
「本当、すごいわ。あなたは本当に、イベントごとにまめね」
「そりゃあ、そうさ。楽しいことには全力で乗っかっていかないとね」
「あなたのそういうところ、とても好きよ」
電気をつけながら、しずかに微笑んだ君。
その笑顔を見ていて、ふと気がついた。
考えてみれば、用意してくれた愛らしいプチケーキも、かわいいお皿も、まったく君の好みではない。そう、すべて私の趣味だ。
イベントに興味のない君が、こうしてわざわざ私好みのかわいいものを用意してくれた理由はひとつ。きっと、私を元気づけるため。
ありがとう。君はいつもそうだな。クールでつれないようだけど、本当はやさしい。こうしてさりげなく、私のことを甘やかす。
今夜はその優しさに、もっと甘えてもいいだろうか。
「ね」
「なに?」
「今夜はオトナのいたずらをしちゃだめ?」
「ええ。だってお菓子をあげたでしょ?」
ふふ、とからかうように目を細める君。
その瞳が、かわいいひと、と、そう言っている。
だが、私は知っている。ほんとうは、私よりも君の方がずっとかわいいってこと。
それは理知的な君が、私だけに見せる姿。
「じゃあ、いたずらは諦めるから、かわいい私にご褒美をくれないかい?」
君は一瞬、目を丸くして、次に頬を染めた。
ほらな、かわいい。
それからすぐ、君はなにもなかったような顔に戻るんだ。いつものように。
そういうところも実にいい。
さて次に、君はどんな顔を見せてくれるだろうか。
「はい」
と、大きく両手を広げた。
なに、と、君は片方の眉を上げる。まるで大昔のハリウッド女優みたいに。
「来て。甘えたいんだ」
再び君が、うろたえたように目を泳がせる。
けれど私は知っている。君はぜったい、私を拒絶しないってこと。
待つこと数秒。予想通り、しょうがないわね、と小さく呟いた君は、ぽすんと私の膝の上に座った。
「ありがと」
きゅっと抱きしめてから、額にキスをすると、君はちいさくふふ、と笑った。
私の恋人は女性にしては背が高いけれど、この腕の中にはすっぽりおさまる。
「そうね、あなたの言うとおり」
「なに?」
「楽しいことには全力で乗っかっていかないと」
「え?」
彼女がテーブルに手をのばし、お菓子の箱に飾られていたクラフト製の小さな帽子を頭にのせた。魔女がかぶるような、つばのある、三角形のとんがり帽子。
そのまま彼女は、人差し指で私の唇に触れながら、ちいさくちいさくささやいた。
「トリック・オア・トリート」
なんて破壊力だ、ハニー。
「……しまったな。自分の仮装にかまけていたから、君にあげるお菓子を用意していないぞ」
「じゃ、わたしからあなたにいたずらをしてもいいわけね」
いたずらっぽく、君は笑う。私も笑いながら、君にいらえる。
「そりゃあもちろん。いくらでも」
「では、まずはここから」
彼女が私の首に手を回し、ゆっくりと唇を合わせた。
それはケーキと同じくらい、あまいキス。
今夜は実に最高の、ハッピー・ハロウィン。
2020.10.31 2020年ハロウィン
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