眼下に広がるあかりの数々は満点の星を思わせる。あの輝きのひとつひとつに、市井に生きる人たちの暮らしが息づいている。
オールマイトが……自分が守っているのはそういうものだ。平和に暮らす人々の、善良なる市民の、日常。
それを守れればいいと、人々の心を支える柱になるのだと、そう考えて生きてきた。恋などという感情は象徴たる己に必要ないと、遠ざけて。
けれど、彼女に出会ってしまった。姿月彩果、ヒーロー名はイーリス。名付けたのは、他の誰でもない。自分だ。
堅実な子だと思う。手こずっていたスルジンの扱いも、努力の末、ものにしたようだ。
真面目で、努力家で、自分に厳しく――むしろ彼女はもう少し自分に甘くてもいいとは思うのだが――そして傲慢なところがかけらもない。
おそらく彩果は、きちんとしたご両親に深く愛されて育ったのだろう。やや己に厳しすぎるきらいはあるが、卑下しすぎることもない。基本的に、彼女は人に対しておおらかだ。容姿に恵まれているが、そこに頓着しているようすもない。
そんな彩果が、愛おしくてたまらない。どうしてこんなにも、と自分でも呆れてしまうほどだ。
だからこそ待とうとと思っていた。彩果がもう少し大人になるのを。
だが、2月のある日、彩果から小さな包みをもらった。中身は有名ショップのチョコレート。菓子に添えられていたのは、好きですとだけ書かれた手紙。
それを見た瞬間、自分の中でなにかが弾け、矢も盾もたまらず、窓から飛び出してしまった。
もうだめだ、と思った。
年齢差も、己の抱えた運命も関係なく、ひとりの女性を――そう、彼女は自分にとってすでに子供ではなく、女性だった――自分のものにしたいと心から思ってしまった。本当に、年甲斐もなく。
だが――。
***
「ごちそうさまでした。お肉とても美味しかったです」
赤い薔薇のモニュメントの下で、彩果がぺこりと頭を下げた。
二月の空気は冷たく乾いている。そのせいだろうか。見慣れたはずの街のあかりが、常より少し、綺麗に見えた。
「口に合ったならよかった。しかし君、相変わらずよく食べるね」
「……食べ過ぎでした?」
彩果が、恥ずかしそうに頬を染める。
「いや、そんなことはない。たくさん食べるひととの食事は、楽しいものだよ。気にせずどんどん食べたまえ。こちらもごちそうのしがいがある」
「それならよかったです」
「それより君、寒くはないかい?」
「はい」
ほっとしたように、彩果は笑った。
ビルの谷間に吹く二月の風は、強くそして冷たい。寒くないはずはないだろう。けれどなぜだろう、彩果と同じように、オールマイトも寒さを感じなかった。
「私もだ。それはきっと、君とこうしているからだろうね」
我ながらクサいなと思いつつ、そっと、彩果の肩に手を回した。
二メートルを大きく超えるオールマイトと、平均よりやや背が高い程度の彩果とは、かなりの身長差がある。5センチ程度のヒールでは補いきれない、大きな差。
黙ったまま、彩果を見つめた。恥ずかしきかな、彩果の瞳の中に移る、己の表情は硬かった。
緊張をほぐそうと小さく笑うと、彼女もまた、やわらかく笑んだ。
この反応は、悪くない。
オールマイトは彩果に向かって身をかがめた。
だが、その時。
「あ。オールマイト、見てください」
「え?」
タイミングを外されて、オールマイトの膝がかくりと落ちかけた。平和の象徴がこんなことで転ぶわけにはいかない。ぐっと足を踏ん張って、オールマイトはなにもなかったように笑む。
かわされてしまったことを、内心ひそかに落ち込みながら。
「彩果。オールマイトじゃなくて、今は俊典だよ」
「あ。そうでした。ごめんなさい」
「謝ることはないけどさ。どうしたの?」
「気づいてました? 今日のタワーの色」
彩果が指した方角には、この街を象徴するタワー。七色のライトアップが美しい。
「素敵ですよね。……あの」
「ん?」
「オールマ……俊典さんと一緒に、あのタワーを見られるなんて、夢のようです」
これは、思っていた以上に難儀かも知れない、と、オールマイトは心の中で嘆息した。
彩果にとって、自分はきっと、憧れてやまない夢のような存在なのだ。
彩果が自分を好きだと思う気持ちは本当だろう。食事をしたり、夜景を眺めたりするのも楽しいのだろう。
けれど、憧れのオールマイトにも男としての欲があるということを、彩果は思い至れていない。つまりは、まだまだうぶなのだ
今のもきっと、かわしたのではない。まったく気づいていないのだ。何をされそうになったかを。
「どうかされました?」
「ん。あまりに君の笑顔が眩しかったからね。見とれてしまった」
すると彩果は、とたんに顔を真紅に染めた。それを確認して、オールマイトは心を決めた。
ただ恥ずかしそうに頬を染める。未だ少女の殻の中から出ない、若い君。困ったことに、そんな青いところすらもが愛しい。無垢なる虹の女神を、大切にしていきたい。
この気持ちは、すでに愛にたどりついてしまった。けれど、おそらく彼女はそうじゃない。憧れと淡い恋心が入り交じった、そんな初々しいものだ。
焦らずに、時間をかけて育んででいこう。
もう少しだけ待とう。我が愛しいアイリスが花ひらく、その日を。
「今夜のタワーは、君の色だね」
「え?」
「七色イコール、虹の色だろ?」
「あっ、ハイ。そうです」
頬を赤く染めながら、彩果が笑った。
それは花のつぼみがひらくような、華やかで初々しい笑みだった。
***
バスローブ姿のままソファに腰掛け、ミネラルウォーターのキャップを開けた。眼下には、己の守る東京の街が広がる。
焦らないと決めたからといって、無条件にただ待ち続けるつもりは、毛頭なかった。
彩果のようなタイプは、こちらの考えを言葉にせねば伝わらない。
無理強いをするつもりも、嫌がる彼女を強引に大人にするつもりもないが、ひとつ、知っておいてもらう必要がある。
恋する相手を抱きたい、もしくは相手に抱かれたいと思う。たがいの体温を分かち合い、確かめ合いたいと思う。特別な仲になるということは、そういう可能性を秘めたものだと。
ホワイトデーにリップクリームを渡したのはそのためだ。誕生日以降に少しずつ返してくれと、あえて告げたことも同様に。
そして大型連休も終わり、今は風温む5月だ。近くの公園に植えられたアイリスにつぼみがついてきたことは、すでに確認済みだった。
「もうすぐだな」
そう、彩果の二十歳の誕生日はもうすぐだ。
どこで祝えばいいだろう。
彼女はお肉が好きだ。アメリカンスタイルのステーキハウスは量も多く、肉がたくさん食べられる。けれどもムードにややかける。
一流どころのフレンチはムードがあるが、やはりあまりにベタだろうか。若者はもう少しカジュアルなほうがいいかもしれない。しかしムーディーかつカジュアルで若い女性が喜びそうな料理もうまい店となると、かなり選択肢が限られる。そのうえ彩果はたくさん食べる。
そこまで考え、苦笑をもらした。
自分の半分くらいの年齢の、年若い女性のバースデーを祝うのにこんなに頭を悩ませる日がくるなんて、想いもしなかった。
こんなふうに、女性をエスコートするのに悩むのはいつぶりだろうか。アメリカ留学時代に、初めて寝た女の子との最初のデートだって、こんなに悩まなかった気がする。
「女性のためにいろいろ考えるのも、楽しいものだな」
ひとりごち、手にしていたミネラルウォーターを一息に飲み干した、その時だった。
けたたましく鳴り響いたのは、携帯端末だ。これは、出動要請音。
続いて、近隣に敵が出没したとのアナウンスが流れた。告げられた名はチンピラではなく、それなりに知られた大物……つまりはネームド。
「まったく、敵め。ゆっくり物思いにふける時間すらくれやしない」
呟きながらヒーローコスチュームに着替えて、窓から飛び出した。その間、数秒。
空を駆けながら下を眺めると、同じマンションの二十階に住まうスーツ姿の相棒の姿をとらえた。
「さすがだな、相棒」
口の中でそう独りごち、オールマイトは宙を蹴る。新たな敵を屠るために。
***
「おはようございます」
「あれ、イーリス。今日は早いね」
珍しいことだ。彩果は夜間の仕事が多いため、昼間からの勤務が多い。
「昼から奥多磨方面で任務があるんです。その前に警視庁に行って、話を詰めておかないといけなくて」
イーリスが個人で請け負っている任務に関して、事務所の長であるオールマイトは細部を把握していない。そのあたりの調整は現在、すべてナイトアイが行っている。
「奥多摩のどのあたりだい?」
「雲取山だそうです。警察が目を付けている敵グループが、そこに新たなアジトを建築したそうで」
彩果は、ここ最近力を付け始めた敵グループの名をあげた。
渋谷あたりでつるんでいたチンピラを中心とした、若いグループだ。最近になって、新宿の指定敵団体といざこざを起こしたり、池袋を根城にしている大陸系の敵と火花を散らしたりと、派手な活動が目立ち始めている。
その敵グループが海外のネームドとコンタクトを取ろうとしている、というタレコミが警察にもたらされたのが、先日のこと。オールマイトもそこまでは聞き及んでいる。
警察としても、これ以上彼らが肥大化する前に叩いておきたいというところだろう。
これは最近増えつつあるパターンだが、調査を彩果にさせ、そのまま制圧を我がオールマイト事務所に依頼するという案件かもしれない。
「そうか。気をつけていけよ」
彩果はこの頃、めっきり腕をあげた。
今の彼女の実力であれば、敵とはいえ、チンピラあがりの集団を相手にするくらい訳はない。そのはずだが、それでも、もしもということはある。
若く美しい彩果が血気にはやった若い敵に捕らわれたりしたらと思うと、オールマイトの心配はつきない。
「大丈夫です」
気持ちを読み取ったのか、彩果がオールマイトに向かって微笑んだ。
まったくなんということだ、とオールマイトは心の中で苦笑する。
もう大丈夫、その台詞は自分の専売特許のようなつもりでいたが、こんな形で使われるとは。なるほど、こんなふうに笑まれたら、こちらとしてもヒーローとしての彼女を信じて、笑って送り出してやるほかはない。
ちいさく微笑んだ彩果のほうに身をかがめた。不思議そうに見上げてくる、君が愛しい。
「あの……?」
「いよいよだね」
抑えたつもりではあったが、響いた声は、自分でもどうかと思うくらい甘かった。
「誕生日、明日だろ?」
「あ!」
見る間に赤くなる彩果をかわいいと思いながら、言葉を紡いだ。
「約束通り、明日は予定を空けておいてくれているかい?」
「はい……」
「たのしみだな」
息がふれんばかりにささやくと、彩果は赤い顔をしながら、はい、とちいさくつぶやいた。彼女は顔をあげて、続ける。
「それでは、行って参ります」
「ん。頑張れよ」
早足で退室した彩果を見送って、含み笑いをもらした。
――と、背後から、大きな席払いが聞こえた。続いて響く、涼やかな声。
「オフィスであからさまにいちゃつくのは、控えていただきたい」
振り返った先に座していたのは、スーツ姿の我が相棒だ。言葉は厳しく、口はへの字に曲げられたままだが、眼鏡の向こうに輝く金の瞳は、笑っていた。
「あ、ナイトアイ。いたの」
「いたさ。あなたたちがいちゃいちゃしはじめる前から、ずっとここに座っていたぞ、私は」
呆れたようにナイトアイは告げ、眼鏡のフレームをツイとあげる。こうした仕草ですらどことなく優美なのだから、参ってしまう。
「もう少し周りに気をつけてもらいたいものだ」
「うう……」
「しかもあんなふうに、息もふれんばかりに接近された日には、目のやり場に困る」
「……ごめんなさい」
悪かったと思いながら、しゅんとして頭を下げる。するとナイトアイは、楽しげに笑い出した。
「なに。本当は、あなたが幸せなら、私はそれでいいのだが」
金色の眼を細めていたナイトアイが、さて、と眼鏡のセンターリムをツイとあげた。先ほどと同じ仕草だが、まとう雰囲気が大きく異なる。
続けてまっすぐにこちらを見つめてきた瞳は、もう笑ってはいない。
「ところで、今日の予定だが」
「うん」
「湾岸エリアに潜入した海外ネームドの制圧だ。早朝に要請があった」
「海外……ってことは大陸系かな?」
「ああ。正しくは大陸からの出戻りだ。あなたがアメリカ帰りのヒーローとしてデビューしたように、海外で名をあげた敵として、これから我が国でのし上がっていくつもりだろう」
「……なるほどねぇ。我が国もナメられたものだな」
平和の象徴の存在を知りつつ、帰国するとは。
先ほどの彩果の案件もそうだが、このところ大陸系の敵団体の、世界的な暗躍が目立つ。オールマイトの存在が抑止力になっているのか、他国に比べ日本への進出は少ないが、その数はゼロではなかった。
「一人はパワー系で、もう一人は樹木を自在に操る個性の持ち主らしい」
どんなに実力差があろうとも、あらかじめ敵について調べ上げ、予測し対策を練る。それがナイトアイのやり方だった。
「樹木ね。森の中ならいざ知らず、湾岸エリアではそう有利でもない個性だな」
「そうだな。だが単純戦闘より、緻密な作戦をもとに相手を圧していくことを得意とするタイプのようだ。かといって、わざわざあなたが出張る案件でもないかと思うが……」
「いや、ナイトアイ。ここで出端を挫いておけば、他の海外敵への牽制にもなる」
「必要なのは圧倒的な勝利、ということか」
「その通りだ。さて、行くか相棒」
オールマイトは常のように、窓の桟に手をかけた。ナイトアイも車のキーを手に、出口へと向かう。
「現地にて待つ」
「承知」
そうして二人はほぼ同時に、事務所を後にした。
***
工事中の運河に沿った倉庫の前で、オールマイトは息をついた。屹立した二本の前髪を揺らす、生ぬるい潮風がなんとも不快だった。
なんだろう。ひどく、嫌な感じがする。なにが、と問われても答えることができない。敵はすでに捕縛したというのに、どこかからぬるりとした悪意を感じる。
「文字通り、あっという間だったな」
「まあ、そうだね」
相棒の言葉に応えながら、ばかばかしいと首を振った。たとえ何が来たところで、正面から戦い、ねじ伏せるのみだ。自分はそういうタイプのヒーローだ。
と、その向こうで、記憶を操作する個性を持ったヒーローが、捕らえた敵から情報を聞き出そうとしている姿が見えた。
先ほど感じた悪意の正体はあの敵のものかもしれない。その証拠に、今までまとわりついていた悪意が消えている。すでにあの敵は、目前のヒーローの術のさなかにいる。
「たしかに、拍子抜けだったな」
実際、パワー系のネームドはたいした相手ではなかった。その他の敵もチンピラばかり。オールマイトとナイトアイはあっという間に場を制圧し、敵を捕縛した。
唯一気になることがあるとすれば、情報にあった樹木操作のネームド――敵名フォレスト――がいなかったことだ。
「オールマイト」
警察官の一人が駆けてきた。記憶操作のヒーローが、敵から情報を抜き出したようすだった。
「敵の供述によりフォレストの行方がわかりました。現在、若手の敵チームと接触中だそうです」
「場所は」
「雲取山の山荘だそうです」
「雲取山?」
全身の毛が、逆立った。
若手敵チーム、雲取山、海外ネームド。
その三つの単語を、今朝、彩果の口から聞かなかったか。
「オールマイト!」
ナイトアイの呼びかけと同時に、オールマイト、ナイトアイ両方の端末が鳴り響いた。その音は紛れもなく、彩果に持たせた端末からのものだった。
2020.7.7
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