Fighting Alone

 その山荘に足を踏み入れた瞬間、彩果は違和感を覚えた。
 山荘といえば、人はたいていログハウスをイメージする。もしくはそれに準じた建築物を。

 だが敵のアジトは、古き時代に都会で流行ったコンクリート打ちっぱなしの建物だった。コンクリート打ちっぱなしは、夏は暑く冬は寒い。湿気も多くカビが生えやすいため、樹木に囲まれた山荘には適さない。利点があるとすればデザイン性と防音製の高さだが、デザインはともかく、こんな山中で防音もなにもないだろう。
 そして彩果がもっとも違和感を覚えたのは、外装ではなく内装だった。

 内壁も床もすべて、外壁同様コンクリートでできている。
 玄関扉をあけてすぐ、スチール製のテーブルと椅子が置かれた吹き抜けの広間。一階の部屋はそれだけで、しかも窓は一つしかない。
 窓の手間には、蹴り込み板のないアルミ製のスケルトン階段。おそらくは敵襲――ヒーローや警察の強制捜査――に備えてだろう、手すりから踏み板まで防弾ガラスがはめ込まれている。見通しは良いが、大人が二人通るには狭いつくりだ。

 階段を登り切った先は廊下で、直径50センチほどの丸窓が一つある。この窓は、いざというときの脱出口の一つになるだろう。
 二階に上がり、彩果は室内を物色した。二階には小さな部屋が三つあったが、やはりどの部屋も家具らしき物のない、コンクリートむき出しの無機質な空間だった。
 木製品が徹底して排除され、生活臭がまったくしないこの建物は、山荘というよりもむしろ倉庫だ。

 その倉庫に似た山荘のなかで、敵グループは一階の広間に集結していた。それなりの組織であれば、いざというときのために二階に数人残しておくものだ。そういった部分からも、このグループが前情報通り小物の集団であることが見て取れる。
 それにやや安堵しながら、彩果は階段の下に身を潜めた。

 それにしても、と彩果は思う。

 コンクリートと金属で作られた山荘は、やはり異質だ。そのどちらかを自在に操る個性の持ち主でもいるのだろうか。
 高校の一つ先輩に、コンクリートを自在に操る個性のひとがいた。市街地を模した訓練場でクラス対抗戦の様子を見たことがあるが、彼は一瞬にして相手クラスのほとんどを戦闘不能にした。それほど強く、そして圧倒的だった。
 敵にそうした個性の持ち主が新たに加入したならやっかいだ。隠蔽擬態という自分の個性は戦闘向きではない。もちろん、鍛錬は欠かさず詰んできたけれど、戦闘向けの強個性を前にアドバンテージをとれるかと問われると、難しいと言わざるを得ない。

 おちつけ、と心の中で呟いて、彩果は両の口角をむりやりに引き上げる。
「ピンチのときこそ笑うんだ」
 そうあのひとは教えてくれた。

 深呼吸をしてから、山荘の中をもう一度みやった。室内の敵は十二人。警察の報告書にあった顔ばかりだ。ということは、先ほど危惧したコンクリートや金属を操れるような者はいない。
 大丈夫。今回もうまくやれる。

 しかし、敵たちの話が進むうちに、彩果の顔から血の気が引いた。

「来週末、隣県の大型アウトレットパークを襲う」

 と、リーダー格の男が言った。
 特に政治的な目的があるわけでもなく、単純に話題性のある事件を起こして世間を騒がせ、それを足がかりに名をあげていこうとする、チンピラあがりの敵がよく使う手だ。
 だが、その中で、上がった名前が良くなかった。

 ヴィランネーム、フォレスト。個性名、ツリー。触れた樹木を自在に操れる強個性だ。

 サーから名前を聞かされたことがある。大陸帰りのネームドだ。
 件のアウトレットは森に囲まれている。立地条件は最悪だ。彼らが接触しているネームドがフォレストとなると、被る害ははかりしれない。
 先に情報を得られて良かった。拾えるだけのネタを集め、事前に防がなければ。
 そう思いスルジンを握りしめた、その時だった。

 地鳴りと共に、山荘が揺れた。コンクリートの建物が、みしみしと軋んでいる。
 地震かと思いかけ、そうではないとすぐに悟った。
 脱出口の一つと目していた窓が、気づけば外側から塞がれている。ガラス窓にべたりとはりついた茶色い塊は、巨大な木の枝だ。
 おそらくは二階の窓も同様だろう。この揺れときしみは、木の枝が建物を締め付けているせいだ。
 山梨県との県境にある雲取山の周辺は、自然林のみならず植林も多い。木々に囲まれたこの立地はフォレストの独壇場だ。だからこそ、フォレストはここを交渉の地に選んだのだ。

 山荘にいた敵グループの男たちは動揺しきっていた。まさかこんな形で先手を打たれるとは予測すらしていなかったのだろう。甘いことだ。
 しばらくして、揺れと軋みがやんだ。だが、窓を塞いでいる樹木はそのままだ。

 扉が開いて入ってきたのは、男ばかりの集団だ。警視庁のリストにあった男が三人と、それとは別の男が三人。
 その中の、すらりとした長身の男が扉に振り返り、玄関まで伸びていた――おそらくはフォレストが伸ばした――蔓の一つに触れた。
 とたんに巨大化したそれが、あっという間に玄関を塞ぐ。

 くっきりした目鼻だちをした、美しい男だった。どことなくクラシカルな雰囲気があるのは、身につけている衣服のせいだろうか。ダークグレイのソフト帽と、同じ生地で仕立てられた、構築的なショルダーラインとシェイプされたウエスト部が特徴の、ブリティッシュ・スタイルの三つ揃い。細身だが立体的なデザインのスーツが、男の持つ優雅な美しさをますます際立たせている。
 この男が『フォレスト』だ。

「どういうつもりだ?」

 リーダー格の男がフォレストに言った。せいいっぱい凄んだつもりのようだったが、それがますます、男を小物に見せてしまっていた。対するフォレストは、何事もなかったかのように、静かに笑んでいる。

「なに。保険ですよ。あなたがたは私に武器の携帯を許さないのでしょう? だったらそれに対する策くらいは講じておかなければ」

 両手を挙げ、丸腰であることを強調しながらフォレストは続ける。

「何事もなく話が終われば、山荘を取り巻いた木を解除しますよ」
「なるほどね」

 敵チームの男がさも納得したかのようにうなずいたが、他にどうすることもできなかったろう。未だにフォレストの指は、出口を塞いだ樹に触れている。ここで交渉が決裂すれば、とたんにその樹が暴れ出すのは火を見るよりも明らかだ。

 リーダー格の若い男がギリギリの体面を保ちながら、部下らしき背後の男に支持を出した。部下がフォレストの体に触れ、武器の有無をあらためる。昔ながらの、だが個性時代の今となってはあまり意味のない、形式的なやりとりだ。
 それがすむと、フォレストは相手がうながすのを待たず、奥へと進んでスツールに腰かけた。部下らしき男たちがその左右に立つ。すでに上下関係が成立していた。フォレストは明らかに、格が違った。

 彩果は、警察のリストになかったフォレストの部下たちを見やった。
ひとりは一目でそれとわかる異形系。ずんぐりした体つきをしていて、後頭部や背中に棘状の角が生えている。鼻が低く、平たい顔立ちだが、口は大きい。個性はおそらく、トカゲなどの爬虫類だ。
 もう一人は、黒い服をまとった、これといった特徴のない男だった。平凡な顔立ちに、中肉中背の体躯。
 この男の個性はなんだろう。
 と、彩果が首をかしげた瞬間、黒衣の男が大きく口を開けた。声を出しているようだが、何も聞こえない。

 少しの間、男は口を開けていたが、やがてトカゲとフォレストに外国語でなにやら呟いた。
 瞬間、フォレストの緑色の瞳が冷たく輝いた。ぐるりと敵グループを見回して、彼は言った。

「階段の下にいる女は、あなたがたの仲間ですか? それとも警察側の犬でしょうか」
「なんだ、そりゃ?」

 リーダー格が首をかしげる。フォレストのかわりに、トカゲが答える。

「ごまかしても無駄だ。うちの蝙蝠ビエンフーにはわかるんだよ」

 ビエンフーとは中国語でコウモリのことだ。コウモリにはエコロケーション能力がある。人間には聞こえない領域の音波を発し、跳ね返ってきた音で障害物や獲物の距離を知るものだ。

「その様子では知らなかったようだな。ということは、警察の犬か」

 その言葉を言い終えぬうちに、トカゲがこちらに向かって跳躍した。攻撃を受け流そうと身構えた彩果の上に降り注いだのは、トカゲの目から放たれた真紅の液体。
 目から大量の血液を放つ。男の個性はツノトカゲ。
 素早く身を翻し、液体の直撃は避けられた。だがしかし、すべて避け切れたわけではなかった。アルミの踏み出し板に弾かれたごく少量の液体が、左手の甲に飛んでいる。その数滴の飛沫は、彩果の存在を証明してしまっていた。

「貴様、ヒーローか?」

 問われてそうだと答えるバカはいない。
 だが、血液がついた手の甲は、答えずとも彩果の居場所を知らせてしまう。数滴の血を目印に、敵たちがじりじりと距離を詰めてきた。

 敵の人数は十八、こちらは一人。しかも敵にはネームドが一人いる。
 一人では対処しきれぬと判断し、彩果はためらわず携帯端末のスイッチを押した。
 応援がくるまでにひとりでも多くの敵を倒し、戦闘不能にしておくこと。それが今の自分の仕事。
 出入り口が敵の個性で塞がれてしまった以上、全員を倒したとしても内側から脱出できる出立てはない。

 彩果は覚悟を決めて、階段の裏から飛び出した。

「かかれ!」

 安いセリフと共に、男たちが彩果の血の印に向かって襲いかかった。

 しゃらり、手のひらの中でスルジンの鎖が鳴る。と、同時に、彩果は跳躍のための一歩を踏み出した。
 まず倒すのは蝙蝠だ。エコロケーションの前では、自分の個性は意味をなさない。

 ロンダートで勢いをつけ、トカゲの頭上を宙返りで飛び越しながら、彩果が蝙蝠に向かって分銅を放つ。
 分銅が蝙蝠男の頭部を捕らえた。血しぶきを上げた蝙蝠が、数歩よろけてどうと倒れる。と同時に、彩果はきざはしの上に着地した。

 戦闘にはいくつかセオリーがあるが、多対一の場合、相手より高いところに立って戦うのもそのひとつ。
 また手すりから踏み板まで伸びた防弾ガラスと、人ひとりしか通れぬ階段の造りが彩果に味方していた。ここでなら一対一で戦える上に、外からの攻撃は防弾加工が弾いてくれる。
 これで少し戦いやすくなった。だがしかし、安堵できるほどの余裕はない。

 間髪おかず、彩果は二撃目を放った。
 狙ったのは階段上部の電灯だ。小さな衝撃音がして、瞬時に室内が暗闇に包まれる。そして一呼吸置いて、室内はまた明るさを取り戻した。
 うまくいった。
 センサーがいかれた電灯は、そのまま、ぱちっ、ぱちっ、と音を立てながら点滅を続ける。明と暗を交互に繰り返すあかりの下は、薄暗がりより、よほど周囲の様子がつかみにくい。
 
 点滅する電灯の下で、彩果はスルジンを繰り出した。
 スルジンには、彩果の血液を混ぜた特殊な塗装が塗ってある。つまり見えない。未だテスト段階にある塗料だが、その効果は絶大だった。
 
「なんだ、なにが起きている?」

 敵たちは完全に浮き足立っている。
 目印の血痕は見えるものの、相手の全貌はわからない。しかも血痕は素手では届かぬ距離にあるのに、相手の攻撃は当たる。見えないなにかに打たれ、仲間が倒れてゆく。
 敵にしてみれば、こんなに怖いことはないだろう。

「こっちか!」
「やめろ!」
「ぐわっ!」

 慌てた敵の一人が指先からレーザーを放ち、銃の個性の男に当たった。うめきながら倒れた拍子に、銃の個性が暴発し、またひとりが倒れる。
 人がひとりふたりした通れぬ狭い階段に殺到した敵は、見えない敵からの見えない攻撃にパニックを起こしかけているようすだった。

 混戦は望むところだ。
 手すりを軸にして回転移動しながら、彩果は攻撃を続けた。右から、左から、角度や高さを変えて繰り出す分銅は、パニックを起こしかけている敵を、確実に捕らえていった。

 ひとり、ふたり……数えながら彩果は分銅を放ち続けた。十一まで数えたところで、目前に一人の敵が躍り出た。
 向こうはこちらの姿が見えてはいない。だからぶつかる寸前で、彩果は片手で手すりをつかみ、そのまま体を跳ね上げた。片手倒立のまま、階段をあがりきった敵に向けてスルジンを放つ。
 鈍い音と充分な手応え、数秒おいて、敵が階段から転がり落ちた。

 最初にひとり、同士討ちでふたり、その後倒したのが十一、そして今、また一人。合わせて十五、残るは三人。

「あああ!!!」

 叫びながら、両腕が刃の男が階段を駆けあがってきた。腕の刃は西洋のレイピアではなく、刃幅の広い青竜刀だ。

「はっ!」

 青竜刀の男がかけ声を発した。対する彩果は、それを無言で迎え撃つ。
 ぱちっ、ぱちっ、と点滅し続けるあかり。交互に繰り返される、明と暗。

 明かりを反射して煌めく白刃を、スルジンの持ち手と鎖で受け、彩果は分銅を投げた。錘が相手の背をとらえる。男の口から鮮血が飛び散った。
 だが、男は倒れなかった。再び剣――腕――を振りかぶり、闇雲に切りつけてくる。彩果は体をひねりながら、今度は男の首筋を狙って分銅を放った。防ごうとする刃の腕をかいくぐり、遠心力のかかった錘が男の首元にぐるりと巻き付く。
 彩果は躊躇せず、鎖を手前に引いた。

 残り、二人。

 自分の息が上がり始めていることを、彩果は自覚していた。けれど今止まるわけにはいかない。一息つくにはまだ早い。

 次に襲いかかってきたのは、先ほど彩果の手に血印をつけたツノトカゲだ。
 鋭い打ち込みが彩果の頬をかすめる。先ほど血液攻撃を受けた時も感じたが、このトカゲは格闘術に長けている。速さや身ごなしが他の連中とは全く違った。個性が使えぬ対決であれば、彩果は負けていたかもしれない。
 だが相手はこちらの姿が一部しか見えていない。まだいける。アドバンテージはこちらにある。

 気をつけねばならないのは、目から放たれる血液だ。けれどおそらく、その攻撃はしてこない。いや、たぶんできない。

 ツノトカゲは一度の攻撃で体液の三分の一を使うと言われる。また人間は全体の二十パーセントほどの出血でショック症状を起こし、50パーセントで死に至る。
 それを踏まえて考えれば、出せる量には限界があるはずだ。先ほど放った血液も相当な量だった。
 だからこそ、この男は今まで後方に控えていたのだろう。

 彩果はあえて大きく鎖を鳴らした。自分の場所を知らせるために。

「そこか!」

 繰り出された掌底を躱しつつ手首を掴み、相手の勢いを利用して投げを打つ。このまま敵をアルミ製の踏み板にたたきつければ、それで終わりだ。

 しかし、次の瞬間、目前が赤く染まった。
 内心で慌てつつ、彩果は敵を金属製の階段にたたきつけた。手応えはあった。

 しまった、と彩果は内心で呟いた。
 全身が血に染まっている。こびりついているのは、ツノトカゲの血液だ。
 かなわないと感じた瞬間、捨て身で血を噴出させたのだろう。トカゲはピクリともしない。それが階段に打ち付けられたせいなのか、それともキャパを越えた出血のせいなのか、彩果にはわからなかった。

 ともかく、もう姿は消せない。
 いや、大丈夫だ。敵はあと一人。落ち着いて対処すればなんとかなる。

 そう己に言い聞かせたその時、コンクリートの建物内に、手拍きの音が大きく響いた。

「なかなか、よく鍛えられている」

 軽やかな声のした方向に視線を転じ、彩果はぞっとした。
 声の主は、スツールに座っていた。
 その表情は穏やかで、口元にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。この男はただ、見ていたのだ。まるで舞台を鑑賞するかのように。

 あとひとり? よく言ったものだ。確かにひとりだ。だが、そのひとりを倒すことがどれだけ大変なことか。
 扉、もしくは窓辺に寄られ、この家を覆っている木に触られたらそれで終わりだ。一瞬にして勝負はつくだろう。コンクリート製の山荘をきしませるほどの個性だ。彩果などひとたまりもない。
 その前に、決めなくては。

 彩果は一つ息をつき、姿を現しながら階段を降りた。
 全身に血を浴びてしまった以上、姿を隠し続けることにあまり意味はない。むしろ逆に、戦いながら個性のオンオフをくりかえした方が効果的であることを、彩果は経験で知っている。

「おや、これはこれは、こんな山の中にはもったいないくらい美しいお嬢さんだ」

 男が深緑色の目を軽く細める。
 彩果は相手に向かって歩を進めながら、スルジンを強く握りしめた。その手が、震えていた。

「おや、寒いですか?」

 爽やかですらある声だった。整った顔立ちに笑みを浮かべて、男は続ける。

「コンクリート製の床は冷えますからね。やはり床は、板張りでなくては。あなたもそう思いませんか?」

 彩果はそれに答えなかった。否。声を出すことができなかった。気圧されていた。なんということだろう。相手はただ微笑んでいるだけだというのに。

「怖いですか、私が。いいですね。それはあなたがそれなりの実力者である証拠です」

 言い終えると同時に、男を取り巻いていた典雅な雰囲気が、一瞬にして変化した。細身の体を覆うのは、圧倒的な威圧感。
 彩果はぎり、と歯をくいしばった。
 男……フォレストは先ほどと同じように、整った顔立ちに静かな笑みを浮かべている。だが、その目はもう笑ってはいない。

「あなたの努力に敬意を表して、戦ってあげましょう。特別にね」

 男が落ちていたサバイバルナイフを拾い上げ、ゆっくりと構えの姿勢をとった。深く腰を落とした、中国拳法によくある構えだ。まずいことに、構えにまったく隙がない。

「どうぞ」

 ナイフを持っていない方の手で、フォレストが手招きした。
 けれどそんな安い挑発に乗ってやるわけにはいかない。彩果はスルジンの持ち手である短剣部分を構え直し、相手に合わせて軽く腰を落とした。

「こないなら、こちらから行きますよ」

 最後の「よ」という一音と、ナイフとスルジンが激突するのが同時だった。

――速い。 

 彩果の背に、冷たい汗が落ちる。
 まったくモーションが見えなかった。今はかろうじて受け止められたが、次に同じことができるかどうかわからない。
 接近戦では相手に分がある、そう判断し、彩果は後方へと跳んだ。
 しかし、それは無駄に終わった。こちらが跳ぶのと同じ速度で、相手も間合いを詰めてくる。攻撃の手を緩めずに。

 息をつく間もなく、上から、下から、そして左右から、甚雨の如く斬撃が襲いかかる。それらすべてをはじき返して、彩果は真横に飛びながら分銅を放った。

「あなた、いいですねぇ」

 フォレストのナイフが分銅を弾き、そのまま弧を描くように彩果へと向かった。彩果がそれを鎖で受け止める。
 がちり、という音がして、阻んだ刃が鎖のつなぎ目に食いこんだ。
 チャンスだ。
 鎖をねじりながら強く引く。と、フォレストの手からナイフが離れた。

――よし! このままたたみかける!

 彩果は分銅を投げた。スウェーバックでそれを避けたフォレストの手が、自らの頭部に触れる。そして彼は、流れるように手のひらを前へ突き出した。
 先ほどと同じように相手を投げるつもりで、彩果は男の掌底を躱し、手首をつかむ。

 しかし、次の瞬間、異変が起きた。フォレストの指先が伸びたように見えたのだ。
 違う。伸びたのは指ではなく、木の枝だ。

「!」

 うかつだった。どこかに木製品を隠し持っていたのだろう。よく考えたら、このレベルの敵が個性を使わず戦うはずなどない。たとえ、格下の彩果が相手であろうとも。

 枝が蔓のようにしなりながら伸び、鎖に巻きついてきた。
 このままではスルジンを奪われてしまう。単純な力勝負になれば、彩果に分はない。スルジンを奪われまいと、彩果は全身の力を腕に込めた。

 そしてそれが、災いした。

 絡まっている方とは反対側の蔓の端が、一気に伸びた。
 スルジンを引くことにのみ集中していた彩果は、反応が遅れた。蔓がむちのようにしなり、彩果の頭部をしたたかに打つ。
 脳を揺らされ、彩果は思わず膝を突いた。目の前が暗くなる。

「残念でしたね、お嬢さん」

 哀れむような男の声は、彩果の耳には届かなかった。

***

 オールマイトは無言のままに中空を蹴る。

 速く。もっと速く――。そう内心で呟きながら。

 事後処理は、ナイトアイと湾岸エリア担当の警察官にすべて任せてきた。
 湾岸エリアから奥多摩まで、直線距離にしておよそ百キロ強。
 近隣の警察とヒーローにも出動要請をかけたが、場所が場所だけに、彼らと彩果だけではフォレストの確保は難しいだろう。一刻も早くたどり着かなければ。

 一歩踏み出すたびに、海沿いの街が、都心部の高層ビル群が、都内住宅地の家々が、背後へと消え去ってゆく。
 徐々に高層建築が少なくなっていき、かわりに緑が増え始めた。区部からは遥か遠くに見えていた奥秩父山塊は、もう目の前だ。

――頼む。無事でいてくれ。

 オールマイトは宙を駆ける足に、よりいっそうの力を込めた。

2020.7.31
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月とうさぎ