梅花の里にて

 仕上げたばかりの書類をサーのデスクに置いて、彩果は小さく息をついた。窓の外は、未だ暗い。夜が白々と明け始める、薄明の頃。 
 オールマイトの事務所はフレックス制。職業柄、就業時間が九時から五時になることはほとんどない。悪事は日中よりも夜半に実行されることが多いから。真に賢しい悪は、闇の中に潜むから。
 そういった理由から、彩果が専門とする潜入捜査は、夕方から朝にかけて行われることが多い。本日の勤務もそうだった。夜の八時に現地入りして、未明に事務所に戻り、書類を書き上げ、今に至る。

「とうとう、今日になっちゃった」

 ひとりごちながら、卓上カレンダーを眺めて、また、ためいき。
 今日は3月14日、つまりはホワイトデー。このあとは何の約束もない。このまま家に帰って眠り、また明日からの勤務に備える。たぶん、そんな1日になるだろう。

 バレンタインの夜、オールマイトと高級焼き肉店で食事をして、そのあと家まで送ってもらった。
 あの日、一般には知られていない彼の本名を教えてもらえたけれど、その後はなんの進展もない。

 オールマイトはどう思っているのだろう。わたしのことを。
 彩果は、内心でつぶやく。

 わかっている。おそらくオールマイトは自分のことなどなんとも思っていない。あの夜、彼が食事に誘ってくれたのは、ただのお礼だ。
 ヒーロー名ではなく本名を呼ぶように言われたのも、騒ぎになったら困る、それだけのことだ。あの夜、オールマイトは前髪を下ろしていた。おそらく軽い変装を兼ねて。
 それなのにヒーロー名で呼んだりしたら、彼がわざわざ変装をした意味がなくなる。

 オールマイトは大人だ。だから彼にその気があったなら、もう少し二人の仲は進展しているはずだった。けれどオールマイトはかわらない。言葉も、態度も、なにひとつ。
 今日だって、ホワイトデーだというのに、予定をきかれることすらなかった。

 それなのに、追いかけてきてもらえただなんて思い込んで、名前を教えてもらえたと喜んで、薔薇の下で会うことの意味を調べて有頂天になるなんて、本当にばかみたいだ。
 何より自分をばかだと思うのは、今もまだオールマイトから連絡が来ることを心のどこかで期待していることだった。そんな都合のいい展開、あるはずがないのに。

「……コーヒー飲んだら帰ろ」

 ちいさく、ひとりごちた。
 こうして、考えても仕方ないことを思い悩んで悲しくなってしまうのは、きっと疲れているせいだ。こんな時は、あたたかいお湯にゆっくりつかって、柔らかいベッドで睡眠をとって、そして美味しい物をいっぱい食べよう。
 お腹をいっぱいにしたら、また次から笑うことができる。今までどんなにつらいことがあっても、そうしてきた。だから――。

 ――ピンチの時こそ笑うんだ。

 かつて、オールマイトは彩果に言った。もう、ずいぶんと前のことだ。
 それと同じように、悲しいときこそ笑っていよう。
 そう彩果は考え、それを実行してきた。
 なぜって? 悲しい顔をしたヒーローは、市民を不安にさせるから。

 彩果は個性の特性上、名前その他の情報を公にしていないため、世間一般には知られていない。それでもヒーローとして活動している以上、救助や避難誘導にあたることもある。
 だからこそ、常に笑顔でいることを心がけておきたい。大好きなあの人とおなじように。

 彩果は軽く息を吸い込んで、両の口角をぐいとひきあげた。それだけで、なんとなく笑っているように見えるものだ。そう、まずは形だけでもいい。

 形だけの笑みを浮かべながら、彩果はコーヒーサーバーのボタンを押す。
 マンデリン、フレンチロースト、微糖、ミルク倍量。

 やがて抽出終了を知らせる電子音が鳴り、彩果はサーバーからコーヒーを取り出した。
 ただよう芳香に彩果は目を細める。個性の特性から香りのあるものを身につけないせいだろうか、彩果の鼻は、常人よりほんの少しだけ敏感だった。

「おいし……」

 熱くて、ほろ苦くて、まろやかで、そしてちょっぴり甘いコーヒーは、オールマイトへの想いのようだ。
 幸せなのに切なくて、それでも彼を思うと、胸の奥がほんのりとあたたかくなって。

 コーヒーを飲みながら、彩果は窓の外に視線を転じた。
 白々と夜が明けてゆく。濃紺の空を切り裂いて昇るのは、黄金色の太陽。今日もいい天気になりそうだ。
 と、その時、彩果は目を見開いた。
 向こうの空から、こちらに向かってなにかが飛んでくる。はじめはちいさな点のように見えたそれは、みるみるうちに人の形をなしてゆく。
 前にも、似たようなことがあった。昨年の春、同期会の帰りのことだ。
 見覚えのあるマントと、赤を基調にしたコスチューム、頭部に輝く金色の屹立を認めた瞬間、足が震えた。

「私が! 来た!!」

 彩果がオールマイトの姿を視認してから、おなじみの台詞と共に彼の人が入室するまで、およそ数秒。

「オールマイト!」
「やあ、おはよう」
「おはようございます」
「いい匂いだね。コーヒーかい?」
「はい。オールマイトも飲まれますか?」
「じゃあ、君と同じ物を」
「ブラックで?」
「いや、今日はミルクと砂糖を少しだけ」

 オールマイトの好みはブラックなのに、珍しいことだ。疲れているのだろうか。
 そう思いながら、彩果はサーバーのボタンを押した。
 豆を砕く音が響き、抽出音がそれに続く。
 コーヒーができあがるまでの間、オールマイトはなぜか無言のままだった。なんとなく自分からは話しかけにくいような気がして、彩果も黙したまま待った。
 やがて流れる、完成を知らせる電子音。サーバーの前にいたこともあって、彩果がコーヒーのはいった紙カップを取り出す。

「どうぞ」
「ありがとう」

 手渡したとき、ほんの一瞬、指先が触れた。自分のそれとは違う、節のしっかりした、男性的な長い指。
 手にしていた飲料よりも、触れた指先のほうが、よほど熱いような気がした。

「ところでさ。」
「はい」
「君、このあと暇かい? 今日は四時までだったよね」

 心臓がおおきく跳ね上がった。もちろんです、と叫びたいのをこらえて、小さくうなずく。

「よかった。実はね、君と行きたいところがあるんだ」

 そう告げたオールマイトが、太陽のように破顔した。

***

 山麓は、未だ朝靄に覆われていた。山肌を縫うようにけぶる朝靄の中で咲くのは、山一面を覆い尽くすほどの見事な梅花。

「すごい……」
「だろう?」
「これ、全部梅なんですよね」
「うん。都心の梅はほぼ終わってしまったけれど、このあたりは今が見頃なんだ。すごいだろう?」
「はい」

 オールマイトが連れてきてくれたのは、八王子の旧道沿いにある梅の里だった。
 梅の花の色は、決して均一ではない。遺伝子のいたずらで一本の木の中にも別の色の花を咲かせることができる梅の色は、実にさまざまだ。
 何万ものグラデーションがかかったもの、白の中にうっすらと緑がかかったもの。半分が紅、もう半分が白という不思議な色合いの一輪もある。
 そんな梅の花が、山を覆いつくさんとばかりに咲き誇っている。これほどまで見事な梅林を目の当たりにしたのは、はじめてのことだった。

「絶景だろう? この景色を、君に見せたかったんだ」
「すばらしいです……とても」

 花の色ばかりに気を取られていたが、よく見ると、花びらや樹木の形もさまざまだ。一重だったり、八重だったり、頭を垂れるようなしだれ梅もある。
 ほんのりと甘く、儚げだが爽やかな梅花の香りを楽しみながら、彩果はオールマイトを見上げた。自然と両の口角が上がってしまうのは、もうどうしようもない。
 こんなにすばらしい景色を共に見たいと言ってもらえた。それだけのことがこんなにも嬉しい。

「私、梅の花がとても好きなんです」
「そうだったの?」
「はい。梅って、まだ寒い時期につぼみをつけるでしょう?」
「そうだね。雪の中で咲いているものもある」
「凍てつくような寒さに負けず、つぼみをつける。梅のそんな強さが、わたしとても好きなんです」

 それに、どんなときでも笑顔を絶やさぬあなたと、寒さに負けず凜と咲く梅花はどこか似ているから。彩果はひそかにそう思ったが、それは口には出せなかった。

「そうか」

 オールマイトが嬉しそうに笑んだ。こちらを見つめる彼の瞳は、とても優しい。
 と、その時、一陣の風がふいた。梅の花びらを軽くちらした風は、早春のそよ風と呼ぶには強く、そしてあまりにも冷たかった。
 思わず身をすくめた彩果を見つめながら、オールマイトが軽く目を細める。 

「寒いかい?」

 いいえ、と答えようとして、彩果は小さく息をのんだ。
 春とはいえ、早朝、しかも山間部の気温は低い。寒いと言ったところで、ばちはあたらないだろう。少し、このひとに甘えてみてもいいだろうか。

「……少しだけ」
「そうか」
 
 低いいらえと同時に肩にふわりとかけられた、大きなマント。これも二度目だ。一度目はコンビナートに建つ尖塔の上。あの時も、こうしてふたりで、同じ景色をみつめたのだった。

 その時、ふわりと甘い香りがした。
 爽やかで儚げな梅の香りとはまた違う、スパイスをまとった苦みと甘みのあるバニラ。それはオールマイトが愛用している、男性用のオードトワレの香り。

「あの、こんなふうにされたら勘違いしてしまいます」
「勘違い?」
「……その、もしかしたら、オールマイトが……」
「ふたりの時は俊典って呼んでくれって言ったろう?」

 はぐらかされた、と、彩果は感じた。聡明なオールマイトが、彩果の言わんとしていることに気づかぬはずがない。それでも答えてくれないのはなぜだろうか。
 彩果に気持ちに応えるつもりがないからなのか、それとも、言うだけ野暮だと思っているのか。

「それよりね」

 と、オールマイトが薄紅色の小さな包みを取り出した。

「ホワイトデーのお返しだよ。受け取ってもらえるかい?」
「もちろんです。開けても?」
「ああ。どうぞ」

 薄紅色の袋の中身はリップバーム。オーガニックブランドの、無香料の製品だった。
 彩果は普段から、意識して無香料のものを使用している。それを知っていてくれたのだろうか。

「ありがとうございます」
「なに。少しずつ返してくれればいいから。意味はわかるね?」

 足が震えた。
 男性が女性に口紅を贈るのは、キスで返してもらうため。そんな話をどこかで聞いたことがある。
 自分の勘違いでなければ、きっと……。
 はいといらえようとしたが、なぜだか声がでなかった。だから彩果はこくりと小さくうなずく。うん、と、オールマイトもうなずいて、照れたように微笑んだ。

「すぐにとは言わない。そうだな、まずは、アイリスの花が咲いたら」
「アイリス?」

 唐突に出てきた花の名に、彩果は首をかしげた。

「たしか……アイリスは虹の女神にゆかりある花と言われていますよね。イーリスの英語読みが、アイリス……」
「うん。レインボーフラワーと呼ばれている種類の物もあるね」

 アイリスはアヤメ科の花の総称だが、レインボーフラワーの別名を持つのは、花色の豊富なジャーマンアイリスだ。
 レインボーフラワーの開花は、5月。

「虹の女神の名をヒーロー名にした君の誕生日が、レインボーフラワーの開花時期と重なるなんて、まったく素敵な偶然だ」

 その瞬間、あっ、と、彩果は息を飲んだ。
 やっとわかった。バレンタインから今日まで、オールマイトが関係を詰めてこなかった、その、理由が。

 今年の5月、彩果は二十歳になる。

「……アイリスの花が咲く頃に?」
「そう。アイリスの花が咲く頃に」

 同じ言葉を繰り返して、互いに見つめ合った。
 オールマイトは笑っている。
 彩果も同じように微笑みたかったが、どうにもうまくいかなかった。嬉しすぎて、泣いてしまいそうだったから。
 晴れわたった5月の空のように青い瞳にとらわれながら、きっといま自分は、ひどく面白い顔をしているだろう、と彩果は思った。

「さあ、すっかり陽も出てきたし、そろそろ帰ろうか。今日はゆっくり休みたまえよ」

 はい、と答えると同時に、彩果はふたたびオールマイトに抱きあげられた。幸福すぎる拘束に、めまいがする。
 思わずオールマイトの首筋にしがみつくと、甘酸っぱいような梅香に混じって、スパイスをまとったバニラがふわりと香った。

「しっかりつかまっててね」

 優しいささやきに、もう一度はいといらえて、彩果はそっと目を閉じた。

――アイリスの花が咲く頃になったら、きっと。

2020.5.28
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月とうさぎ