彩果はため息をつき、窓の外を見やる。未だ暗い空に輝くのは、金星……またの名を明けの明星。
夜明けは近い。
潜入捜査が長引いて、こんな時間になってしまった。
彩果の個性である『擬態』は、太陽光のもとでも使えるが、夜の闇にまぎれたほうが、より特性を生かせる。だからこうして仕事終わりが朝方になってしまうことも、少なくはなかった。
このまま、泥のように眠りたい。
しかし、簡単な報告書だけでも仕上げておかねば、この時間まで敵のアジトに潜入していた意味がなくなる。
必要最低限の報告事項だけでもしたため、サー・ナイトアイのPCに転送しておかなくては。
オールマイトのために日々奮励している上司は、起床してすぐに仕事用のメーラーを開く。サーのことだ。書類に不備があれば、即、連絡がくるだろう。
帰宅するのは、その後でいい。
「でも、報告書を送ったら、ここで少し、仮眠をとろう……」
再び書類に向き直りひとりごちた、その時だった。
「イーリス。おはよう」
事務所の扉をひらいたのは、彩果の恋人でもあり事務所のボスでもある、オールマイトだ。
日本人離れした彫りの深い面ざしと、筋肉の鎧に包まれた大柄な身体。黄金色の前髪は、今朝も元気よく上方に向かって伸びている。
「朝までかかったのか。お疲れ様」
オールマイトは、若い女の子がこんな時間まで……などということは決して言わない。なぜならヒーローとして名乗りを上げたその瞬間から、男女の区別はなくなるからだ。
ヒーローというものは、性差よりも個性による能力差の方が大きく影響する職種でもある。
男女の人数比に差があるのは、よく似て異なる、別の理由によるものだ。
「……オールマイト。お早いですね」
「うん。そろそろ、君が捜査を終えて戻ってきているんじゃないかと思ってね。君のことだ。どうせ私かナイトアイから連絡が来るまでここで仮眠をして、書類だけでなく口頭でも報告をすませてから退勤しようと思ってただろ?」
「はい。不備があったら大変ですから」
「君の熱心なとこ、嫌いじゃないよ。でもね、仕事の後はきっちり休んで」
その言葉、そっくりそのままお返しします……と、心の中でつぶやいて、彩果は微笑んだ。
もしかして、オールマイトは自分のために早朝出勤をしてくれたのだろうか。
そう思いかけ、首を振った。
この瞬間、申し訳ないと思う気持ちより嬉しい気持ちのほうが上回ってしまった自分は、やっぱりまだまだだと。
オールマイト、いや、八木俊典の恋人になって、そろそろ一年。しかし『イーリス』を名乗っているこの時間、彩果は私人ではなく公人である。オールマイトのサイドキックとしては、多忙な彼の睡眠時間を削ってしまったことを申し訳なく思うべきだ。サー・ナイトアイなら、きっとそうする。
自分は、未熟だ。
彩果は、ちいさく息をつく。
「報告書はまだかかりそうかい? なんなら、続きは口頭だけでもかまわないよ」
「いえ。すぐに終わります。それに書面になっていたほうがサーも計画立案がしやすいと思いますので、少しお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「わかった」
オールマイトが満足げに笑んだのを見届けて、彩果は再び書面へと視線を転じた。敵の見張りの配置、武器の場所などに、それぞれしるしをつけていく。
と、不意に、小さなモーター音が、耳の中に飛び込んできた。
慌てて顔をあげた先には、ウォーター&コーヒーサーバーのスイッチを押す、スーパーヒーローの姿。
「コーヒーなら、わたしが」
「いいから」
立ち上がった彩果を、オールマイトがやさしく制する。
「どうせ機械がすべてやってくれるんだ。気にせず続けたまえ」
オールマイトの言う通り、事務所のサーバーは、内部の洗浄からコーヒーの抽出まで、すべて機械がやってくれる。そのうえコーヒー――豆の種類や焙煎方法も多々用意され、そのうえ砂糖やミルクの量も選べる――のみでなく、紅茶、ほうじ茶、緑茶、温水、冷水と、種類も豊富だ。容器は使い捨ての紙カップなので、食器を洗う必要もない。
しかし、だからといって、事務所のボスにお茶を入れさせることには、やはり抵抗があった。
「いや……それでもですね……」
「あのね、イーリス。こうして言い争っている間に書類を済ませてもらった方が、私もありがたいんだよ」
「そうかもしれませんが……」
「だから、早くしたまえ」
強めの声でそう言われ、しかたなく彩果は自席に腰をおろす。それを確認したオールマイトが、またしても、満足そうな笑みを浮かべた。
***
無言で報告書をチェックする長身を、本人に気づかれぬよう、そっと見つめた。
美しい肉体を持つ、美しい心根のひと。
広い肩に続く、盛り上がった僧帽筋。厚い胸板、引き締まった腹部、長くしっかりとした四肢。極限まで鍛え上げられた見事な肉体は、古代の彫刻を彷彿とさせる。
どこもかしこもきれいだけれど、このひとの手が特に好きだ、と彩果は思う。善良なものにはどこまでも優しく、悪とっては脅威となる、オールマイトの大きな手。
書類の文字を追っていた右手が、不意に机上のペーパーカップに伸ばされた。先ほど、オールマイトが淹れたコーヒーだ。
あまり知られていないが、オールマイトはコーヒー党。その日の気分で豆や焙煎の度合いを変える彼だが、最近のお気に入りは、コロンビアのシティロースト。
オールマイトはそれを、ブラックで飲む。
彩果の手のひらの中にもまた、ペーパーカップのカフェオレがおさまっている。
オールマイトが彩果のために淹れてくれたコーヒーは、マンデリンのフレンチロースト。それにほんの少しの砂糖と、ミルクがたくさん。それは実に、彩果好みの味だった。
オールマイトが自分の好みを把握してくれていたことを、彩果はひそかに嬉しく思う。
書面に目を通していたオールマイトが、うん、と、うなずき、顔をあげた。
「よく調べてくれたね。助かるよ」
「大丈夫でしょうか」
「ああ。充分だ。今日はこのままあがっていいよ。帰ったらゆっくり休みなさい」
「はい。あの……オールマイト、今朝のご予定は?」
できれば朝食だけでもと思い、そう、声をかけた。
「このあとは、朝の情報番組に呼ばれてる」
窓の向こうに見えるキー局の社屋を指して、オールマイトがいらえる。
ああ、と、彩果は小さく肩を落とした。
オールマイトが早朝出勤したのは、本当はそのためだったのかもしれない。事務所に立ち寄ってくれたのは、そのついで。
自分のためになどとうぬぼれていた先ほどの己を、彩果はこの時、少し恥じた。
「そうなんですね」
「ウン。そうなんだよ」
「じゃ……お先に失礼します……」
がっくりしながら、入り口脇のタッチパネルに身分証をかざした。電子ボード上にあるイーリスの文字が、音もなく消える。
その時、彩果はパネル内のヒーロー名がひとつも点灯していないことに気がついて、はっとした。
それとほぼ同時に背後から伸びてきた長く逞しい腕が、彩果をそっと抱きしめた。この瞬間、眠気も疲れもそして羞恥も、すべて吹き飛んでしまったのだから、恋心というのは不思議なものだ。
「あの……? オールマイト?」
「俊典だよ。何故って?」
耳元で響く、甘い低音。
オールマイトのこういうところ、未だに慣れない。
いつまでも、彩果はドキドキさせられてしまう。大人な彼の手のひらの上で、転がされてしまう。
「ここから先は、個人の時間だからさ」
「……はい」
「彩果。疲れているところ悪いんだけど、30分ほど、君の時間を私にくれない?」
人差し指を立てながら軽くウインクしてみせる、年上の恋人。こんなにウインクが似合う中年男性なんて、彼のほかにはいないと思う。
オールマイトは実にチャーミングでキュートで、そしてセクシーだ。
「ええ……それはもちろん」
「それはよかった。君に見せたいものがあるんだ」
はい、と、いらえたとたん太い腕に抱え上げられ、そのまま所長室へと連れて行かれた。オールマイトが窓辺に片手をかけた時、彼が何をしようとしているのか、彩果は察した。
「しっかりつかまっててね」
言うやいなや、彩果を抱えたまま、オールマイトは窓の外へと身を躍らせた。瞬時に体を反転させた彼が、タワーの外壁を軽く蹴り、上空へと跳躍する。
ごう、という音が耳元で響き、彩果は思わず目を閉じた。
「もう大丈夫だよ。目を開けて」
目を開けると、彩果とオールマイトはタワーのてっぺんにいた。屋上に設置されたオブジェの、最突端の狭い場所に。
そこにオールマイトは腰を下ろして、太い腿の上に彩果を座らせた。
「寒くない?」
「……少し……」
薄暗い早朝の――しかも高層ビルの屋上の――風は、とても冷たい。正直にこたえると、大きなマントと丸太のような腕に包まれた。
「これなら、どうかな」
「……はい」
胸の鼓動に気づかれませんように、と、ひそかに願った。
つき合いはじめてずいぶん経つのに、彩果はこうしたことにいつまでも慣れない。そんな彩果をオールマイトはかわいいと言うけれど、それでもやっぱり恥ずかしかった。
「ここから見る景色は最高なんだよ」
「……本当ですね。見慣れているはずの景色が、いつもよりずっと綺麗に見えます」
「君もそう思うかい? よかった。事務所よりほんの少し高いだけだから、気分の問題でしょう、なんて言われたらどうしようかと思ったよ」
気分の問題。
本当は、そうかもしれない。高度を多少変えたところで、見慣れた景色が見違えるほど綺麗に見えるものでもないだろう。
この光景が常よりも美しく見えるのは、好きなひとの腕の中にいるからだ。同じものを見て、綺麗だと言ってくれる、愛する人がいるからだ。
オールマイトはともかく、わたしのほうはきっとそう。
彩果はつよく、そう思う。
「ほら、ごらん」
オールマイトが、東の空を指差した。
濃紺の空に、一筋の光がうまれた。東の端に生じたその輝きが、切り裂くように夜の闇を飲みこんでいく。
白、黄色、ピンク、紫、そしてインディゴ。グラデーションがかかった東雲の空と、眼下に広がる、東京の街。巨大都市を象徴する、赤と白の尖塔。その向こうには海。立ち並ぶ高層ビルの一つ一つに、人々の暮らしが息づいている。
この巨大なる都市を、国を、自分たちが守っているのだという自負の念が、強く熱く胸に巻き起こった。
「綺麗だろ」
「はい」
黄金色に輝きながら、ゆっくりと陽が昇ってゆく。夜の闇を、微かな星のまたたきを、しずかな月の輝きを、飲みこみながら。
周囲の光の存在をなかったことにしてしまう、強烈すぎる、偉大な輝き。
太陽の圧倒的な存在感は、恋人のヒーローとしての姿と、とても似ている。
オールマイトの存在は、世の中には絶対的に必要だ。人類にとって、太陽が必要不可欠であるのと同じように。
もちろんオールマイトも、不老不死ではない。先人たち同様、いつか老い、あるいは衰え、この業界から去る日がくるだろう。それは、ずいぶんと先の話になるのだろうが。
その日が来たとき、自分はまだ、このひとの隣にいられるだろうか。
できればそうであってほしい。その時、姿月彩果ではなく、八木彩果と名乗れていたら、どんなにいいだろう。
「どうしたんだい?」
「いいえ、なんでも」
ごまかすように答えたが、オールマイトは察したかもしれない。少女じみた夢を、彩果が抱いていることを。
もともと、頭も勘もいいひとだ。
「ここからの朝日を、君に見せたかったんだ」
察しただろうに、静かに、そう告げてくれた恋人。
うれしくなって、彩果は自分を抱きしめる太い腕に、頬を寄せた。
「嬉しいです」
「次は……同じ夜を過ごして、共に朝日を見られたらいいな」
「……はい」
そういえば、オールマイトと同じベッドで夜を過ごしたことは、まだ、なかった。
「彩果」
名を呼ばれ、視線をあげると、目の前には見慣れた彫りの深い精悍なおもてがあった。
続く行為を予測して、彩果はそっと目を閉じる。
瞼の裏には、太陽の残像。
数秒ののちに重ねられた唇は、乾いていたが、暖かかった。
2018.11.30
- 13 -