所長室に足を踏み入れたと同時に、頭上からそんな声が降ってきた。
卒業と同時に上京して一月。ホテルやウィークリーマンションでの仮住まいだったインターン中とは違い、現在の彩果の住まいは、六本木から地下鉄で15分ほどの街にあるワンルームマンションだ。日常の買い物には不便はないし、頑張れば新宿まで歩いて行けないこともない。駅前はオフィスビルが林立しているが、街道から一本入れば、静かな住宅街が広がる。治安もよく、住みやすい、いい街だった。
やっと慣れてきました、と答えて、彩果は静かに微笑んだ。
「それなら良かった。新しいコスチュームも、すっかり板についたじゃないか」
「ありがとうございます」
喜びと動揺を表面に出さないよう全力で己を制しながら、答えた。
卒業と同時に変えたものが、住居の他にもうひとつある。コスチュームだ。
彩果の個性は、擬態。身体を周囲の色に変える際、身体から特殊な体液を分泌し、体温が下がる。彩果のコスチュームは、体液と体温を感知して色が変わる特殊な素材を用いたものだ。最近になって、その素材の中に本人の体毛を編み込むことで、より個性に寄り添える技術が開発された。
新たな技術の採用により、コスチュームの色が周囲に溶け込むスピードが、格段に早くなった。
だが新たな玉虫色のコスチュームは、露出はないものの、身体のラインを拾いやすい。
個性の特性を活かすためとはいえ、体型がはっきりわかってしまうコスチュームを着て街を闊歩することに慣れるまで、時間がかかった。
「前のコスチュームも悪くはなかったが、それ、とてもよく似合ってるよ。虹色に輝く素材が、まさに虹の女神って感じだ」
嬉しすぎて叫んでしまいそうだ。だが彩果は、それをこらえて、言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます。ところでオールマイト。わたしは、なぜ、こちらに呼ばれたのでしょうか」
するとオールマイトが、一瞬鼻白んだような顔をした。少なくとも、彩果にはそのように見えた。
頭を抱えたい気持ちになった。今の声は、自分の耳にもずいぶんと堅苦しく響くものだった。どうして、もうすこし柔らかい言い方ができなかったのだろう。別の言い回しだってできたはずだ。
だが最近の彩果は、オールマイトを前にすると、どうしてもこんなふうになってしまう。理由はわかっている。彩果は今、オールマイトを男性として意識しまっているからだ。
いつからかはわからない。はじめは純粋に、ヒーローとしての憧れだった。
他に比類なき平和の象徴。不動のナンバーワン。ずっと思っていた。いつかあの人の隣に立てたら、どんなにいいだろうかと。
けれど、いつしか彩果は、彼をヒーローとしてだけでなく、異性として見るようになってしまった。
晴れわたった空のような、深く広く、青い瞳。あの目が自分を見ていると思っただけで、全身が熱くなる。微笑みかけられただけで、とけてしまいそうな心持ちだ。
しかし、それを表面に出すわけにはいかない。この気持ちは、誰にも気取られてはならない。
だから彩果は、オールマイトを前にすると必要以上に緊張し、頑なな態度を取ってしまう。
せめてもう少し自然にできればいいのだけれど、そこに至るにはまだまだ修行が必要だろう。
「ああ、すまない。別にお説教をしようっていうんじゃないんだ。君のこれからの処遇について、話しておこうと思ってね」
「はい」
彩果の背に、先ほどまでとは異なる緊張が走る。
「三ヶ月の予定だった君の研修期間だけどね。ナイトアイと相談した結果、今月までになった」
目の前が真っ暗になった。解雇ということだろうか。
「オイオイオイオイ、なんて顔をしてるんだい。イーリス」
オールマイトがにこやかに笑いながら、両手を広げた。どう返していいか少し迷って、彩果は視線を、大柄な所長の背後にある、大きな窓の向こうに向けた。オートロック式の、引き違い窓。
高層タワーの上層階に位置するオールマイト事務所からは、東京の街が見下ろせる。窓の下に広がる大都会の街並みを目の当たりにするたびに、彩果は感じたものだ。一流のヒーローたちと共に、この街を自分が護っているという、誇りを。
だがそれも、もう終わる。
「はい……短い間でしたが、お世話になりました」
「ちょっと待った」
オールマイトが両手を広げたまま、少し困ったように笑った。
「上司の話は最後まで聞くもんだ。君の研修は今月までだが、来月からは正式な相棒になってもらいたいと、私はそう思っているんだよ」
「え?」
「お給料もあがるよ。楽しみにしていてね」
そうこちらに向かって微笑んだオールマイトに、ありがとうございます、と、返すしかできなかった。足ががくがくと震えている。予期せぬ朗報に、涙がこぼれそうだ。
と、その瞬間、けたたましい機械音が鳴り響いた。
この音はオールマイトへの緊急出動要請だ。うん、と小さくうなずいて、オールマイトが窓の桟に手をかける。
高層ビルに入っているオフィスの窓は、たいてい嵌め殺しになっている。しかし、このオールマイトの執務室だけは別だ。執務室にしつらえられているのは、強化ガラスの引き違い窓。
その引き違い戸が、大きく開いた。
「じゃ、これからもよろしくねー!」
軽やかに告げながら窓の外に身を躍らせた、平和の象徴。
オールマイトに翼はない。だから、彼は空を飛べない。オールマイトはその卓越した身体能力をもって、大都会の空を、飛ぶように駆ける。
マントを翻しながら青空を駆ける英雄の姿が米粒のように小さくなるまで見送って、彩果は所長室をあとにした。
戻った事務室には、デスクが四つ。ヒーロー事務所というより、小さな会社の事務室のような配置だ。奥のひときわ大きなデスクが、サーのもの。残りが、非常勤の事務員ふたりと、彩果のデスク。
「おめでとう。君も、来月からオールマイトの正式な相棒だ」
すべてを知っていた緑色の髪の長身痩躯にそう告げられて、彩果も軽く頭を下げる。
「さて、イーリス」
そらきた、と、彩果は密かに思った。
自分の教育係でもある上司は、たまにこうして問答をしかけてくることがある。ヒーローとしての心得であったり、過去の事件についての見解であったり。
誤った答えを返したが最後、厳しい叱咤が降ってくる。
いささか緊張しながら、はいといらえた。
「この事務所での君の役目は、いったい何だと思う」
「潜入捜査です」
「そうではなく、もっと深い意味での話だ」
眼鏡の奥にある金色の瞳が、研ぎ澄まされた刃物のように冷たく輝く。強いプレッシャーを感じながら、彩果は少し考えて、そして答えた。
「わたし、オールマイトを救けたいと思っていたんです」
「ほう?」
「でも、それはひどい思い上がりであると知りました。現実や実戦を知らぬ学生だったから、そんな風に思えたんだと」
それは悲しいかな、事実だった。オールマイトを知れば知るほど、その偉大さに打ちのめされた。初めて同じ現場に立ったとき目の当たりにした、圧倒的な威圧感。
あまりのスピードに、オールマイトの動きを目で追うだけで精一杯だった。いや、最後まで追うことすらできなかった。
敵と対峙するオールマイトを前にして、思い知らされた。戦闘時のオールマイトの域にまで達することができた人間など、彼の他には誰もいないということを。
誰にもたどり着けない、孤高の頂。支えなく立つ世界樹にも似た、巨大な柱。それが不動のトップ、オールマイトなのだと。
「ですから、オールマイトを救けるとか、支えるだなんて、おこがましいとわかっています。それでも、相棒として恥ずかしくないようなヒーローになって、少しでもオールマイトの役に立てるよう、自分の仕事を全うしたいと思っています」
「そうか」
「……」
「ん? どうした? 何か言いたげだな」
「いえ……なんでも」
「言いなさい」
「……意外でした。思い上がるな小娘がと、叱られる覚悟をしていましたので」
ああ、と、サーが目を細め、微笑んだ。
この人は、笑うと雰囲気がやわらかくなる。
「君の言うとおり、オールマイトは遠い孤高の頂だ。だが相棒である我々が、オールマイトの凄さを言い訳に、彼のサポートを放棄してはいけない。オールマイト自身は、我々の支えや救けなど必要としていないかもしれないが、それでもできることはあるだろう。今は救けなどいらなくとも、これから先、彼が我々を必要とすることがあるかもしれない。そのために我々はここにいる。だから、君がオールマイトの救けになりたいと願うことも、彼の相棒たるにふさわしいヒーローになりたいと精進することも、とても大切なことだ。それに」
「それに?」
「ヒーローとしての彼を支えることが難しくても、人としての彼を支えることなら、君にもできるかもしれない」
それはむしろ、サーだからこそできることだ、と、彩果は思った。
ヒーローとしてのランクや実力に差はあれ、二人の上司の人としての関係は、対等であるように見えた。サーはオールマイトに心酔しているし、オールマイトはサーを信頼している。
だが、オールマイトと彩果は、ヒーローとしても人としても、まったく対等ではない。そんな自分が、人間としてのオールマイトを支えるなんて、想像すらできない。
「サーはともかく、それこそわたしには難しいのではないでしょうか?」
「そんなことはない。最高のヒーローであると同時に、彼も人だ。私にしかできないことがあるように、君にしかできないこともあるだろう」
「はい……」
「今はわからないかもしれないが、いずれわかるようになる。いずれな」
「……わかりました。そうなれるよう精進します」
金色の目をまっすぐに見据えて、彩果は答えた。
するとサーは、また、満足そうに笑ったのだった。星のかけらのような色をした瞳に、優しい光を宿しながら。
***
「ただいま戻りました」
「ああ、ご苦労さま」
パトロールから戻った彩果にそう声をかけたのは、事務所の長だ。コーヒーサーバーの前で、長身痩躯と談笑する、堂々たる体躯の偉丈夫。
ふたりとも背が高くて手足が長いから、こうして立ち話をしているだけで、とても絵になる。それぞれの大きな手に収まった紙カップが、妙に小さく見えて少しおかしい。
うちの上司たちはかっこいいなと心の中でつぶやいてから、こちらにむかってにこやかに微笑み続ける金髪碧眼に、会釈を返した。
「今日は軽い小競り合いが三件ほどありましたが、特に大きな事件には遭遇しませんでした」
繁華街は人の出入りが多いぶん、事件が起こりやすい。酔漢や若者同士の小競り合いからはじまって、詐欺や暴行、窃盗に恐喝。
都会に勤務するヒーローの、仕事は多い。
またこうした繁華街のパトロールは、一目でヒーローとわかる姿でいるより、エリートサラリーマン然としたサーや、姿を隠せる彩果のようなヒーローのほうが向いている。
特に潜入捜査の必要がない場合、こうして担当エリア内をパトロールすることも、彩果の仕事のひとつだった。
「そうか。ご苦労」
サーが小さくうなずいたのを確認し、彩果は壁時計を見上げた。もうすぐ六時だ。
「おや? 時計を気にしているけど、誰かとデートの約束でもあるのかい?」
いきなり明るい低音にそうたずねられ、どきりとした。
デートだなんて、そんな緩んだ顔をしていただろうか。
「デートではありませんが、約束はあります」
「へえ。誰と?」
少し愉快そうに、オールマイトが続ける。
この人はスーパースターなのに、こういうところがたまにある。好奇心旺盛というか、なんというか。
年の離れた上司にこんなことを聞かれたら、大抵の若者は嫌な気分になるものだし、セクハラととらえる人もいるだろう。が、そうならないのが、オールマイトの不思議なところだ。
いや、それは、彩果がオールマイトに恋をしているからかもしれない。好きな人に気にかけてもらえるのは、嬉しいものだから。
「東京にいる同期の集まりがあるんです。二クラス併せると15人くらいでしょうか」
「場所はどこだ?」
「表参道のカフェです」
「生意気な。貴様らルーキーの会合など、ファミレスかファーストフードで充分だろう」
だが、言葉とは裏腹に、サーの表情はやわらかかった。
それに反して、オールマイトはほんの少し、微妙な顔をした。一瞬のことであったが、彩果はそれを見逃さなかった。
急に、不安になった。
オールマイトはほとんど飲酒をしない。いつなんどきでもヒーローとして充分な活動ができるよう、己を戒めているからだろう。それがトップの責務であり、矜持。
それなのに、ルーキーの自分が同期の集まりだなんて、うわついていると呆れられただろうか。
「楽しんできたまえ」
そう告げたオールマイトの声が、ひどく、遠く聞こえた。
***
久しぶりに、みんなと会えてよかった。
メトロの階段を昇りながら、彩果はそう心の中で独りごちた。
卒業して初めての同期会は、表参道から一本入った通り沿いにあるカフェで行われた。サーに「生意気」と言われてしまったように、あの界隈はおしゃれなカフェが多く、雰囲気もいい。東京に出てきた、もしくは戻った――雄英には都内からの進学者もそこそこいる――ばかりの若者が少し背伸びをして集まる場所としては、ちょうどいい。
集まったメンバーは、皆、明るい顔をしていた。それぞれが己の職務に、強い誇りと大きな希望を持っているのがわかるほどに。
ファイアボール、アント・ジョー、チャレンジャー。友を以前のように名前ではなくヒーロー名で呼ぶことは、照れくさくもあり、また同時に誇らしかった。
だが、明るい話題ばかりではなかった。
どの業界、集団でも大抵そうだが、5月の連休が終わったあたりから、人が少しずつ減り始める。ヒーロー業界もそれは然りで、事務所や東京になじめず地元へ帰った者、夢破れヒーローを廃業した者が、同期の中にすでに何人かいるとの話だった。
たった一月で、と思われがちだが、最初の一月目で挫折する者は少なくない。殊にヒーローはそうだ。初めて目の当たりにした過酷な現場に耐えきれなくなる者がいる。初めての実戦で、一歩も動けなかった者もいる。
インターンで現場経験があるといっても、学生は比較的安全な仕事を振り当てられることが多かった。が、プロになってからはそうはいかない。
また、彩果の同期の中にはいないが、戦闘中に命を落とすこともある。実際、数年前、初めての現場で命を落としたルーキーがいたという。
華やかに見えるこの業界の内情は、ひどく過酷で残酷だ。
オールマイトも言っていた。ヒーローは、命をかけてきれい事を実践するお仕事だ、と。
次の同期会は来年になると幹事が言っていたけれど、その時、何人が残っているだろうか。
小さくため息を落として、彩果は一つ目の信号を左に曲がった。このあたりは栄えているが、脇道に入れば閑静な住宅地だ。夜間の人通りは、そう多くない。
五月の夜は爽やかだった。すこし肌寒いくらい。
薄手のカーディガンの前を合わせて、彩果は何気なく空を見上げた。夜空には、琥珀色の月。
その美しい月の隣に、夜空よりも黒い点を認めて、彩果は目をこらした。
遥か上空からこちらに向かって下降してくる黒い点だったものは、みるみるうちに人の形をなしてゆく。赤いコスチュームと翻るマント、その頭部に輝く二本の屹立を認識し、彩果はあっと声をあげた。
「やあ。今帰りかい?」
「はい」
目の前に降り立った偉丈夫に、それだけ答えるのがやっとだった。なぜ、オールマイトがこんなところに。
「近くで所用があってね。帰り際に下を眺めたら、ちょうど君を見かけたものだから」
「そうだったんですか」
「そうなんだ。こんな偶然なかなかないね」
「そうですね」
本当に、と心の中で思いつつ、同時に自分のまぬけさに嫌気がした。どうしてもう少し、気の利いたことが言えないのだろう。
思わずきゅっと眉根を寄せた彩果に、オールマイトがにこやかに告げる。
「せっかく神様がくれた偶然だ。君、まだ時間はある?」
思いもかけない言葉を受けて、彩果の心臓が大きく跳ね上がった。
いま、オールマイトはなんといったか。
飛び上がって喜びたい気持ちを必死で抑えて、ちいさく、はい、と返事をした。
「ああよかった。じゃあ、少しだけ私につきあってもらえるかい? 君に見せたい景色があるんだ」
白い歯を見せて笑んだオールマイトに、もう一度、はいと告げるだけで精一杯だった。
***
オールマイトに連れてこられたのは、神奈川の海沿いにあるコンビナート群だった。
最も高い尖塔の突端から見下ろす工場地帯の夜景は、映画のワンシーンのように美しかった。いくつもの人工島と、それに連なる運河。
青白いライトに照らし出された紅白の鉄塔や無機質なはずのメタリックの炉がこんなに綺麗に見えるなんて、彩果はこのとき初めて知った。
「綺麗ですね」
「そうだね」
これはどういうことなんだろう、と彩果は思った。
彩果は男の人と付き合ったことがない。けれど、今の状態が、普通ではないということは、なんとなくわかる。
彩果は飛べない。だからこの尖塔まで、オールマイトに抱きかかえられて連れてきてもらった。
誰もいない夜更けの工場地帯の突端に腰を下ろして、別世界のような美しい景色を眺めている、男と女。
なんだか特別なデートしているみたい。期待してしまっても、いいのだろうか。
だが、オールマイトの表情を確認した瞬間、そんな甘い期待は吹き飛んでしまった。
「昔、このあたり一体が炎に包まれたことがあった」
低く絞り出すような声を受けて、彩果は唇を引き結んだ。
そういえば、聞いたことがある。自分がまだ幼かった頃に、海沿いの工場群で大火災がおきたと。火は丸一日燃え続け、かなりの犠牲者が出たという。
「私はその時、関西に潜んでいた大物敵を確保するため、東京を離れていてね。その関係で、現場につくのがかなり遅れた」
それでも、オールマイトが到着したことにより、防火扉の作動で工場内に閉じ込められていたかなりの人間が救けられたのだと、聞いたような気もする。
「この手で救えるものは限られている。私は平和の象徴などと祭り上げられているが、すべての人を救えるわけじゃない。遠く手の届かない場所にいる人を救うことはできないんだ。だからこそ、それを忘れてはいけないと思っている」
「はい」
「自戒を含めて、事故の日はここを訪れるようにしているんだ」
オールマイトがなぜ不動のトップであり続けているのか、わかったような気がした。オールマイトが到着した現場で救えなかった人はひとりもいないと、聞いたことがある。それなのに、手が届きようのない場所で起きた事故で失われた命にも、この英雄は想いを馳せる。
平和の象徴、正義の象徴、ナチュラルボーン・ヒーロー。
このひとはきっと、骨の髄までヒーローなのだ。それに比べて、ほんの一瞬でも浮ついたことを考えてしまった自分が、ひどく恥ずかしい。
「だから、君にも見ておいて欲しかったんだ。この景色を」
「はい」
と、答え終えるか終えないかのうちに、彩果は小さくくしゃみをした。オールマイトが、はっとしたような顔で、彩果の顔をのぞき込む。
「すまない。君、よく見たら薄着だな。寒かっただろう?」
「平気です」
「嘘つけ。震えているじゃないか。もう帰ろう。こんなところまで付き合わせてしまって、悪かったね」
たしかに街中とは違い、海沿いの夜風は強く冷たい。尖塔の突端に腰掛けているのだから、なおさらだ。けれど。
「いえ、大丈夫です。もう少し、この景色をオールマイトと一緒に見ていたい……」
「えっ?」
慌てたような低音に、彩果は自分が口を滑らせたことに気がついた。けれど、一度口から出てしまった言葉を、取り消すことなど誰にもできない。
どうしよう。気持ちを悟られないよう、今まで必死に抑えてきたのに。オールマイトは気づいただろうか。
いや。と彩果は心の中でかぶりを振った。
今、自分がもう少しここにいたいと口にしたのは、恋情だけが理由ではない。
救えなかった命を忘れないという、オールマイトのヒーローとしての心構え。美しい景色と共に受けた教えを、目と心に深く焼き付けておきたい。そう思ったからだ。
きっとオールマイトも、そのように受け取ってくれたはずだ。
短い逡巡ののち、オールマイトが、小さく「うん」とうなずいた。
「じゃあ、ちょっとだけ我慢してね」
ふわり、と、スパイシーな甘苦い香りと共に、柔らかななにかに包まれた。自分がオールマイトのマントの中にいるのだと脳が理解するまで、数秒かかった。
思わず、横に座るオールマイトの顔を見上げる。
その時、プラントから吐き出された炎が、夜空を紅く彩った。青白いあかりに混じった朱の光に照らし出された、オールマイトの、彫りの深い横顔。
彩果は思った。
ほんとうに、このひとが好きだと。
同時に、心の中で強く誓った。
別世界のように美しく悲しいこのコンビナートの景色を、この夜を、あの絞り出すようなオールマイトの声を、忘れないでいようと。
そう。これから先、なにが起ころうとも。
2019.9.26
このお話はアニメ4期一話(アニメオリジナル回 2019.10.12日放送)より先に書かれたもので、作中のコンビナート火災はアニメで出てきたコンビナート爆発事故とは別のものです
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