愛にたどり着くまで

 立ち上げた前髪の間を五月の風が吹きすぎるのを感じながら、窓に手をかざした。
 強化ガラスの引き違い窓が、音もなく開く。時刻は朝の九時。

 オールマイトの自宅と事務所は同じ六本木にあるが、この方法で出勤するのが一番早い。通りを挟んで向かい側に位置するタワーマンションから事務所まで来るのに、地上からだと思いのほか時間がかかる。
 まず家を出たら、高層階用のエレベーターを経てエントランスへ、通りを渡り商業施設内を抜け、タワーの入り口からまたエレベーター。このエレベーターの待ち時間というのがくせ者で、利用者の多い朝などは昇降するだけで十分近くかかってしまうことがある。だが、自宅の窓から事務所の窓まで飛んでくれば、五秒もかからない。

 鼻歌をうたいつつ、所長室を出て、事務室に向かった。
 オールマイトの事務所はフレックス制をとっているが、勤勉な相棒はすでに出勤しているだろう。概ねいつものことだが、ナイトアイは早い時間に出勤し、退勤も遅い。
 働き過ぎだと伝えたこともあるが、「今の言葉、そっくりそのままお返しする」と言われてしまい、反論する言葉をなくしてしまった。

「おはよう。ナイトアイ」

 声をかけながら、事務室の扉を開いた。予想通り、サー・ナイトアイのデスクの上には、処理済みの書類がすでに山積みにされている。
 おはよう、との返事が返ってきたので、うん、と微笑み、オールマイトはコーヒーサーバーに向かった。
 ボタンを押しかけ、ふと、思い出してしまった。

 マンデリン、フレンチロースト、ミルク倍量。

 マンデリン、フレンチロースト、のボタンを続けて押して、壁の電子ボードを眺めた。イーリスの文字は消灯したまま。
 彼女はたしか、今日の夕方から夜半にかけて、捜査の仕事が入ったはずだった。となると、彩果の出勤は午後からだろう。
 と、背後のデスクから、トントン、となにかをたたくような音がした。
 慌てて振り返ると、ナイトアイが印で机をたたきながら、こちらを観ている。

「なんだい? ナイトアイ」

 いや、とナイトアイはなにかを含むような表情をした。

「なにか言いたいなら、はっきり言ってくれよ。私と君の仲じゃないか」
「では遠慮なく。結局、昨夜は彼女と会えたのか?」
「彼女って?」
「決まっているだろう。イーリスだ」

 うっ、と、言葉に詰まった。
 昨夜の自分の行動を思い返すと、恥ずかしさに顔から火が出そうだ。どうごまかしたらいいだろう。
 その時、オールマイトを助けるように、コーヒーのできあがりを知らせる機械音が小さく響いた。
 オールマイトはふうと息をついて、腰をかがめる。落ち着け、と心の中で呟きながら。だがしかし、その脳裏に浮かび上がるのは、昨夜の自分がとった行動だった。

***

「それでは、お先に失礼いたします」

 彩果がオールマイトとナイトアイに向かって、頭を下げた。
 ナイトアイがああと答え、オールマイトが楽しんできたまえと応える。すると彩果は、ややこわばった笑顔を見せた。
 なんて顔をしているんだ、と思った。
 胸元に銃弾を打ち込まれたような、そんな気分だった。今の言葉は、君にそんな顔をさせるようなものだっただろうか。

 やがて彩果が退勤し、完全に二人になったオフィスで、ナイトアイがこれみよがしなため息をついた。

「ん。なんだい? ナイトアイ」
「あなたも人の子なんだなぁと思ってね」
「どういうことだい?」
「イーリスのことだ。かわいそうに、あなたがあんな顔をするから、すっかり不安になってしまって」

 責めるような言葉ではあったが、その中にはからかうような響きがあった。

「あんな顔って?」
「全くもって面白くない、って顔だよ」
「え? 私、そんな顔してたかい?」
「していたな。ほんの一瞬だったが、聡い彼女は気づいた様子だった」
「なぜ私がそんなふうに思わなきゃいけないんだい? 終業後、イーリスがなにをしようが彼女の自由だろうに」
「自分の気持ちは自分が一番わかっているんじゃないのか? オールマイト」

 静かに問われ、顔に朱がのぼった。
 ナイトアイとはそう長い付き合いでもないが、お互いの性格は充分に把握している。少なくとも、オールマイトはそう思っている。だから、ナイトアイがこちらの考えを見透かしているだろうことはわかっていた。
 その証拠に、赤面して立ち尽くすオールマイトに対し、ナイトアイは静かに微笑み続けている。
 オールマイトは小さく咳払いをし、言葉を紡いだ。

「妙に気になる、という程度だ。ナイトアイ」
「そうか」
「第一、彼女は若すぎる」
「そうだな。だが、イーリスはすでに高校を卒業しているし、新人ではあるが、一人前のヒーローだ。世の中には年齢差のあるカップルなど腐るほどいる。そう難しく考えることでもないと思うが」
「そうはいかない。私はこの事務所の長で、彼女は従業員だ」
「だから?」
「事務所の風紀が乱れる」
「なんだ。もう風紀が乱れるようなことをするつもりでいるのか」
「……ナイトアイ!」

 つい、荒い声が出た。それにナイトアイはまったく臆することなく、声を立てて笑っている。
まったく、とオールマイトは内心で独りごちた。
 この男は普段氷のようなオーラをまとっているくせに、笑うと雰囲気がずいぶんと和らぐ。
 こうしたギャップに弱い女性が一定数いると聞くが、果たして彩果はどうだろうか。

「ムウ……」

 とっさに彩果の反応にまで思い至ってしまった自分に気がついて、オールマイトは腕組みした。これでは、ナイトアイの指摘通りではないか。
 それすらも見透かしたように、ナイトアイは軽く眼を細めた。

「まあいいさ、時間はたっぷりあるんだ。ゆっくり考えたらいい」

 そう言って、書類や印鑑をすべて机の中に収め、ナイトアイが立ち上がる。

「さて、私も夜のパトロールに行くとしよう。あなたはこのあと、雑誌の取材だったか」
「ああ。女性ファッション誌の特集だ。場所は新宿の王京プラザホテルだ」
「抱かれたい男特集とかいう、アレか」
「うん。なんかね、今年から殿堂入りすることになったみたい、私」
「しばらく一位が続いていたからな。まあ、あなたなら当然だが」

 微笑みながら、ナイトアイはネクタイを締め直した。

「では、先に失礼する」

 そうして、黒いスーツ姿のサラリーマン然とした相棒は――尤も、ただのサラリーマンと称してしまうには、彼は美形でありすぎるのだが――夜の街へと消えていったのだった。



 インタビューの相手は何度か顔を合わせたことのあるライターと、おなじみのカメラマン。慣れた相手であったせいか、仕事はすんなり終わった。

 帰路につく前に、ついでだからと新宿の高層ビルの合間をパトロールした。発見した小さな事件をいくつか解決し、オールマイトは都庁のヘリポートに降り立つ。彩果の暮らす街の方向を見やって、小さくため息をついた。彩果の住まう街は、新宿からも近い。

 彩果が別れ際に見せたこわばった表情が、頭を離れない。ヒーロー活動の最中、女性の顔がちらつくなんて、はじめてのことだ。
 どうするか、と、もう一度ため息。本当ならば、今頃は隣県のコンビナートに向かっているはずだった。それなのに、自分はいつまでこんなところにいるつもりだろう。

「まったく……」

 呆れたように小さく呟き、オールマイトは空に向かって跳躍した。向かったのは、目的地である神奈川の工場地帯の方角でも、自宅のある六本木方面でもない。新宿から山梨にまで続く街道と、品川から板橋方面に向かう通りがクロスした位置にある、地下鉄の駅。

 いくつかある高層ビルの屋上に、降り立ち、またため息。
 この通りから一本入ったところにあるマンションに、彩果は住んでいる。女性でも安心して住める、セキュリティのしっかりした、オートロックのワンルーム。

 お前は一体どうするつもりだ、と、オールマイトは己に問うた。このまま家の前まで行き、彼女が帰宅するのを待つつもりなのか。それではまるでストーカーだ。
 もういいだろう。ここでやめておくべきだ。そう自分に言い聞かせ、きびすを返しかけた瞬間、地下鉄の出入り口から出てきた人々の中に、彩果の姿を見つけた。

 声をかけるか否か逡巡していると、彩果から数メートル離れたところを歩く、若い男の姿が眼についた。別におかしな動きをしているわけでもない。ただ歩いているだけだ。だがなんだろう。男には普通とは違う、ある種の雰囲気があった。遠眼からでもわかる、隙のない身ごなし。
 どこかで見たことのある男だ、と心の中で呟いた。

 記憶を総動員して、脳内にある敵の手配書を思い浮かべたが、どうも敵ではないようだ。はて、と、頭をひねったその時だった。

「ああ、わかった」

 思わず声を漏らした。
 見たことがあるのも、身のこなしに隙がないのも当然だ。あの男、いや、青年は同業者だ。名前は失念してしまったが、彩果と同じく今年雄英を卒業し、デビューしたルーキー。
 そういえば、彩果は今日は同期の集まりだと言っていた。彼もそれに参加していたのだろう。だが一緒に帰るほど仲はよくない。だから会場で別れ、同じ電車に乗っていたことに、互いに気づかぬままでいる。きっと、そんなところだろう。

 けれど、と、オールマイトは拳を握りしめた。
 今、彩果が振り向いたら、くだんの青年との関係に、変化が起こるかも知れない。偶然にも同じ街に住んでいた同期。しかも青年はなかなかの好青年だった。これをきっかけに、彩果と青年が親密な仲になったとしても、なんらおかしなことはない。

 若者と彩果が睦まじく話すのを想像した瞬間、オールマイトは猛烈な不快感に襲われた。彩果の口からナイトアイに名が出たときに抱いた軽い嫉妬とは、まったく異なる感情だった。

 ナイトアイは女性としての彩果に興味がない。彩果もまた、男性としてのナイトアイに心動かされてはいない。あの二人は上司と部下、それ以上の雰囲気はかけらもない。
 けれど彩果と同い年のあの青年が彼女をどう思うか、そしてその反対はどうなるかわからない。言わば、未知数。

 いやだ。

 そう思った時にはもう、オールマイトは屋上の床を蹴り、夜空の向こうへと飛び出していた。

***

 サーバーからコーヒーを取り出して、オールマイトは相棒に向き直った。
 精一杯、平静を装って。

「偶然、彼女の住まう駅前を通ったのでね。少し話をしたよ」
「インタビューをうけたホテルから、わざわざ?」
「新宿の王京プラザから彼女の家までは2キロもないよ」
「だが、こちらに戻るにせよ、神奈川に向かうにせよ、いずれにしても方向は反対だな」

 一瞬、返しに詰まった。
 オールマイトのスケジュール管理をしているのは、ナイトアイだ。それだけに、彼は自分の公的な部分での行動を把握していた。オールマイトが毎年コンビナートに出向いていることも、その理由も、ナイトアイは知っている。

「周囲のパトロールも兼ねてね、回ってみたんだ」
「そうか。その姿勢、敬服する」

 かしこまった言葉の裏に、からかうような響きがあった。
 一瞬の沈黙の後、ナイトアイは再び書類に視点を転じた。どうやら、彼はこれ以上追求する気はないらしい。大人の対応に感謝しつつ、オールマイトはコーヒーを手に事務室をあとにした。

 自分の机の上にコーヒーを置き、黒くたゆたう飲み物を見つめた。
 いったい、自分は何をしているのだろうか。
 家の近くをうろついただけでは飽き足らず、話しかけ、あげくにコンビナートにまで付き合わせてしまった。
 真面目な子だからヒーローとしての心得の指導と受け取ってくれたようだし、実際その意味合いもあったのだが、彩果を自らのマントで包んだとき、下心がかけらもなかったと断ずることはできなかった。
 彩果をこの腕の中に閉じ込めた瞬間、ずっとこうしていたいと思ってしまった。そんな自分にオールマイトは驚愕し、同時に呆れた。

 なんということだ。
 ひとつに、年齢差がありすぎる。
 ひとつに、自分は彼女のつとめる事務所の長である。
 ひとつに、彼女はヒーローとしての己を尊敬してはいるが、個人としての自分に興味はない。
 社会的、人道的な視点から考えても、アウトなことばかりだ。

 黒く熱い液体を、オールマイトはゆっくりと口腔内に流しこんだ。喉を通り抜けたコーヒーは、なぜだろう、常よりもひどく苦い味がした。

***

 最後のパトロールを終え、オールマイトは窓から己の執務室へと滑り込んだ。時刻は午前零時。さすがにもう、ナイトアイはいないだろう、と、扉を開けて、反射的に息を止めた。
 事務室の扉から漏れる、糸のように細いあかり。

「ナイトアイ?」

 働き過ぎだと告げようと勢いよく開けた、事務室の扉。だがその向こうに立つ人物が着ていたのは、予想していた男性用のスーツとは異なる、玉虫色のヒーロースーツ。

「イーリス」

 手にしていた飲み物を取りこぼさんばかりに驚きながら、彼女は小さく、はい、と呟いた。

「いや、すまない。驚かせたね」
「いえ。大丈夫です」
「今、帰り?」

 今日の彩果の仕事は、港区に拠点を持つ指定的団体への潜入だった。人の出入りが増える夕方、構成員に紛れて潜入し、そのまま夜間まで調査にあたる。
 これはオールマイトが絡んだ仕事ではなく、警察から事務所に擬態ヒーロー・イーリスへの依頼があり、受けた仕事だ。

「はい。おかげさまで。本日、無事に終了いたしました」
「それはよかった」

 言葉とは裏腹に、唇から漏れた声は、低く、重かった。
 彩果は、一人での潜入はまだ数えるほどしかしていないが、今のところ失敗はない。
 だが、と、オールマイトは密かに想う。失敗という四文字に含まれた現実の、なんと重たいことだろうと。
 彩果の主な業務は、敵陣への潜入。つまり失敗は、そのまま敵に囚われることとほぼ同義。
 敵に捕らえられたヒーロー、しかも若く美しい女性ががどんなめに合うか、考えるまでもない。実際にオールマイトはそうした話を何度か耳にしてきたし、潜入に失敗し監禁されたヒーローを救出したこともある。そうした現場は、たいてい、陰惨なものだった。

 彩果が敵に捕らえられた姿など、想像もしたくない。だが、この仕事をしている以上、そういう可能性はゼロではなかった。
 だからといって、彼女に潜入をやめろと言うことはできない。彩果の個性は擬態。戦闘よりも潜入に向いた能力だ。それを奪う権利は、オールマイトにはない。
 それに潜入捜査に長けた相棒という名目で、彩果を雇っているのだから、潜入の依頼を断ることはまさに本末転倒だ。

 しかし、と、オールマイトは眉根を寄せた。
 もし、彩果が敵に捕らえられたら、自分はいったいどうするだろう。
 そう思った瞬間、身体の血が逆流するかのような感覚に襲われた。
 ちらと想像しただけでこれだ。それが現実のものとなったとき、果たして自分は平静でいられるだろうか。

「オールマイト?」

 不安そうにこちらを見上げる彩果を見て、はっとした。
 オールマイトは両の口角をゆっくりと引き上げる。できるだけ、自然に見えるように。
 笑え、笑え、笑え。
 彩果は素直で真面目だ。そして、あまり表には出さないが、物事を悲観的にとらえがちな一面がある。彼女を気にかけるようになって、気づいたことの一つだ。
 そんな彩果を不安にさせることは、どうしても避けたかった。

「実は、なにを飲もうか迷ってしまってね」

 いささかオーバーに両手を動かしながら、おどけて答えた。
 ああ、と、明らかにほっとしたように、彩果が微笑む。
 ああ、と、内心で大きくため息をつきながら、オールマイトも笑みを返した。

 真面目なところも、一生懸命なところも、ややネガティブなところもすべて含めて、彩果が愛しい。この気持ちを、自分はどう処理するべきなのだろうか。

「君が飲んでいるのはなんだい?」
「わたしは、デカフェのマンデリンを、ミルク倍量で」
「そうか、じゃあ、私も同じものにしてみよう。ミルクはなしで」
「はい」

 彩果のほうがサーバーに近かったので、そのまま彼女にいれてもらう形になった。豆を挽く音に続いて広がる、コーヒーの香り。

「いいね。とても好きだ」

 ちいさく呟くと、彩果は弾かれたように振り返り、大きく目を見開いた。
 思った通りのリアクション。

 そんな顔をしないでくれ。わかっている。君はまだ若く、自分は君から尊敬されているヒーローだ。
 ヒーローになったばかりの、いまだ少女の面影を残す君にこんな感情を抱いてしまう自分は、おそらく上司としては失格なのだろう。
 でも、もう君を想うことは止められない。行動に移してしまったらアウトだが、心の中で密かに想うだけならきっと自由だ。だから――。

「私は香りが広がるこの瞬間がとても好きなんだ。たまらないよね」
「あ、コーヒー」
「うん、いい香りだよね」
「そうですね」

 と応えて、彩果は再びこちらに背を向けた。彼女は下を向いていたので、どんな顔をしていたのかはわからなかった。
 そして互いに沈黙した。ほんの少しの静寂に、満たされてゆく室内。

 機械から、できあがりを知らせる音が鳴った。
 彩果が紙カップを取り出して、オールマイトにそれを差し出す。

「どうぞ」

 手渡されたときに、触れた指先。
 淹れたてのコーヒーよりも、彩果が触れた指先の方が、よほど熱いような気がした。

「ありがとう」

 精一杯、格好をつけて微笑むと、彩果も笑んだ。
 それはいつも彼女が見せるクールビューティの顔ではなく、年齢相応の、屈託のない笑みだった。
 この笑顔を、ずっと見ていたい、とオールマイトはしみじみ思った。
 ナイトアイが言ったように、時間はまだまだある。
 この想いは、しばらく大事に温めておこう。いつかもっと深いところ……そう、いつか愛にたどり着くまで。

2019.10.26
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月とうさぎ