二つに分かれた入り口の、オフィス側の機械に身分証をかざして、エレベーターへと向かう。最上階にあるヒーロー事務所が、彩果の職場だ。
エレベーターを降りた先――事務所の入り口――にはもう一つ、セキュリティが敷かれている。そこでもう一度身分証をかざし、中へ。
彩果が身分証をかざしたのと同時に、事務所の電子パネル内に掲示されている彩果のもう一つの名、――イーリス――が青く点灯した。
「ただいま戻りました」
「ああ」
ちいさく答えたのは、髪を七三に分けた、アイスグレーのスーツ姿の男性だ。
繊細で端正な顔立ちをしている彼のヒーロー名は、サー・ナイトアイ。事務所の『脳』でありながらヒーローとしての職務も果たす、彩果の上司的な存在だ。
「で、どうだった」
「はい。敵の人数と配置は、ここに記してあります」
応えながら、彩果はバッグの中から一枚の地図を取り出した。
彩果の個性は『擬態』。
擬態と一言でいっても、種類はいくつかある。物の中に入り込み、それを自由自在に操れる強い者もいれば、他の物に様子を似せるだけの物もある。彩果の個性は後者に近い。
正式な名称は『隠蔽擬態』。カメレオンのように、自身の色を周囲の色と同化させるという、至極単純なものだ。この個性を生かし、彩果は潜入捜査に特化したヒーローとして活動をしている。
「なるほど」
「では、これから報告書を作成します」
彩果の言葉に、ナイトアイは無言のまま軽く片手をあげた。おそらく彼の頭の中では、すでに作戦の構築がはじまっている。
頭脳派の上司の邪魔にならないよう、彩果はそっと自分のデスクへと戻り、報告書に取り掛かった。
***
「イーリス」
背後からかけられた声に、ぎくり、と、肩を強張らせた。
この低く張りのある声の主は、事務所のトップ、オールマイトだ。そして彼は、雇用者であると同時に、彩果の想い人でもあった。
「君の調査は、いつも完璧だから助かるよ」
「ありがとうございます」
自分の想いを気取られぬよう、ことさら簡単に彩果は答えた。
彩果の想い人は、彫りの深い面ざしと逞しい体躯の持ち主だ。そのうえ紳士的で、とてもやさしい。
だが彼は、敵と対峙した時に、圧倒的な力で相手を制する修羅になる。オールマイト、平和の象徴。この世を支える、孤高の柱。
雲の上の存在であるこのひとに恋をして、もうどれくらい経つだろう。
「報告書、そろそろ終わりそうかい?」
「はい。もう一度見直して、ミスがなければ終了です」
どれ、と腰をかがめて報告書を覗き込んだ、彼の手を見つめた。
分厚い掌、太く長い指、しっかりとした手首。
オールマイトの手はとても性的だと、いつも彩果はそう思う。
「うん。これでいいと思うよ。これは私が預かろう。お疲れ」
「はい、ありがとうございます」
軽く頭を下げると、多忙なボスは報告書を手に背を向けた。自身の執務室に戻っていく大きな背中を見送って、彩果は小さく息をつく。
ああ、ほんとうに、あのひとが好きだ。
今日のオールマイトが着ていたのは、ダークグレーのダブルのスーツ。シングルも格好いいけれど、体格のいい彼は、重厚感あるダブルのスーツもよく似合う。
ヒーローコスチュームでないのは、先ほどまでテレビ番組の撮影があったからだ。だが己のボスがグレーの衣服の下にヒーロースーツを着込んでいることも、彩果は知っている。それが平和の象徴、オールマイトだった。
と、その時、前方から盛大なため息が聞こえてきた。
音のした方角に視線を移すと、ナイトアイが眉間に皺を寄せている。
端正な面ざしの上司は、神経質そうに眼鏡をくいとあげ、イーリス、と、低くつぶやいた。
「渡さなくていいのか」
「なんの話です?」
「君がこの一週間、大事に持ち歩いているチョコレートのことだ」
「!」
あまりのことに、ごまかすこともできず絶句した。
バレンタインにせめて気持ちだけでも伝えたいと、用意したチョコレート。
だが、バレンタインの当日とその翌日、多忙なオールマイトは事務所に姿を現さなかった。地方での敵討伐が続いたせいだと聞いている。
タイミングを逃したせいで、そのままになってしまった。
日持ちするものだからと未練がましく持ち歩いてはいるが、渡すことはできないのだろうなと、心ひそかに諦めていた。ナイトアイは、なぜそれを。予知の個性で見たのだろうか。
「断っておくが、個性を使ったわけじゃない。これは予測だ」
「はい?」
「バレンタインの前日、近隣のショコラトリーで買い物をする君を見かけた。この時期、チョコレートときたらバレンタインだ。そしてさっき君が鞄を開けた時、同じショコラトリーの包装紙が、ちらりと見えた。私は、そこから導き出したことを述べただけだ」
「……」
「せっかく用意したんだ。今からでも遅くはないんじゃないか。彼は喜んでくれると思うぞ」
名前は出されなかったが、誰のことをさしているのか明らかだった。
どうしてわかってしまったのだろう。できるだけさり気なく、一部下としてふるまってきたつもりだったのに。
「あの……わたしの態度、そんなにわかりやすかったでしょうか……」
「いや、君は極めてさり気なくふるまっていた。他のスタッフはまったく気づいていないだろう」
「じゃあ、なぜ?」
「あまりにもさり気なさすぎて、逆に露呈してしまうものもある。たとえば、君がオールマイトを、『あえて見ないようにしている』ことや『冷たすぎず、かといって親愛の情を表わしすぎることもなく、接しようとしている』こと。それに私は気づいた。それだけだ」
「さすがですね……」
小さく息をついて、彩果は続ける。
「でも、やっぱりむりです」
「なぜだ?」
「怖いんです……今の関係性が壊れてしまったらと思うと」
最初から、相手にしてもらえるとは思っていない。
あちらはヒーロー界の大スター、こちらは昨春に高校を卒業したばかりのルーキーだ。彼のような大人の男性から見たら、自分など、子どものようなものだろう。
「気持ちはわかるが、伝えることも大切だ。オールマイトは女性からのアプローチに慣れている。断るとしても、そう悪いことにはならないだろう。それにきっと」
「きっと?」
「彼は、君の気持ちを喜んでくれると思うぞ」
「そうでしょうか」
「保障する。それにオールマイトは、そのショコラトリーのチョコが大好きだ」
いまのはナイトアイなりのジョークなのだろうか。笑うべきかどうか迷って、彩果は曖昧な笑みをうかべた。
ナイトアイは、黙ったまま眼鏡をくいと持ち上げる。
でもきっと、ナイトアイの言うとおりではあるのだろう。オールマイトは女性にもてる。女性から思いを寄せられていることに慣れている彼は、きっと上手にスルーしてくれるに違いない。
彩果は顔をあげ、電子ボードを見やった。
青いライトがついているのは、ナイトアイと自分と、そしてオールマイトだけ。他のスタッフは、誰もいない。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げると、ナイトアイは無言のままうなずき、そして再び書類に向かい、小気味よい音で判を押し始めた。
***
小走りで、タワーの外に出た。
途端、びゅう、と吹いた風に押され、彩果はちいさくたたらを踏んだ。ビル風の強いこの街の冬は、存外寒い。
だが、先ほどの自分の行動を思い出しただけで、彩果は顔が熱くなる。
「あの……オールマイト。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ウン、大丈夫だよ、なんだい? なにか相談ごと?」
「いえ、あの……これ、受け取ってください」
「えっ。なに? おみやげかなにか?」
差し出した包みを前に、オールマイトはひどくおどろいた顔をした。
それもそうだ、バレンタインからすでに一週間が過ぎている。なんでもない日に、いきなり部下から菓子屋の紙袋を渡されて、驚かないほうがどうかしている。
「あの……怪しい物は入っていないので、それはわたしが退室してから開けてください」
「それはいいけど……」
「では、失礼します」
「エ? もしかしてそれだけ?」
「ごめんなさい、そうです!」
そうして彩果は、逃げるように退社した。
「はー。でも渡しちゃったんだなぁ。ほんとに」
ぶつぶつと呟きながら、蜘蛛のオブジェを抜け、水が流れるガラスの壁の裏にまわった。
そこは彩果のお気に入りの場所。白いガゼボと、それを見おろす背の高い赤い薔薇のモニュメントがあるだけの、小さなスペース。
春と秋には植込みに薔薇が咲くその場所からは、この街を象徴するトラス構造のタワーがよく見える。
バレンタインの名残りだろうか、いつもはオレンジ色のタワーが、今日は七色にライトアップされている。
「今日のタワーは虹色なんだ……」
ぽつりと、ひとりごちた。
かつて彩果は、自らに『カメレオン・ガール』というヒーロー名をつけていた。『イーリス』と言う自分には過ぎた名をつけてくれたのは、憧れの人。
企画で雄英を訪れたオールマイトが、当時ヒーロー科の一年生だった彩果に言った。
――女の子がカメレオンっていうのは微妙だな。イーリスっていうのはどうだい? 虹の女神のことだよ――と。
「あの時のオールマイト、カッコ良かったなぁ……」
シルバーエイジのコスチュームに身を包んで、背にはマントをなびかせて。
チョコレートに添えた手紙を、彼はもう読んだだろうか。好きですと一言だけ書いた、短い手紙を。
目の前のタワーの輪郭が滲んで、ぽろりと涙がこぼれて落ちた。
ずうずうしい、と彩果は心の中でつぶやく。
気持ちを伝えるだけでいいなんて、うそっぱちだ。オールマイトが追いかけてきてくれなかったことが、こんなに悲しいなんて。
と、その時、ポケットの中で携帯端末が鳴った。
気分じゃないなと思いながらも、画面を確認せずにホームボタンを押した。すると耳に流れてきたのは、覚えのある、落ち着いた低音。
もしもし、私。と、声は告げる。
それにかろうじて「はい」とだけ答え、彩果は相手の言葉を待った。
足が、がくがくと震える。
「チョコレート、ありがとう。あれは数日遅れのバレンタインと、受け取っていいのかな?」
はい、と再びいらえた。声が裏返らないよう、震えないよう気をつけながら、彩果は続ける。
「気持ちだけ、伝えたかったんです。明日からはまた、いつものようにお仕事頑張ります。だから、この一件に関してはスルーしてください。職場で公私混同するような真似をしてしまい、申し訳ありません。お電話ありがとうございました」
では失礼しますと、切ろうとしたところに、低い声が追いかけてきた。
「君、今どこにいるの?」
「事務所の下の、薔薇のモニュメントのところです」
「わかった。すぐ行く」
「え? オールマイト?」
そのまま通話が切れ、彩果は驚いて上を向いた。
数秒置いて、自社タワーの最上階に、ごくごく小さな人影が踊った。
高層ビルに入っているオフィスの窓は、たいていはめ殺しになっている。オールマイトの事務所があるタワーもまた、例外ではない。
だがオールマイトの執務室だけは別だ。執務室にしつらえられているのは、鉄扉と強化ガラスでできた、二重の大きな引き違い窓。
なぜなら、主人がそこから出入りするからだ。
二重窓は、オールマイトが出た二十秒後に自動的にしまり、施錠されるよう設定されている。
人影が、隣のビルのヘリポートに着地した。そこから彼はまた跳躍して、別のビルへと飛び移る。
ああ、やっぱりカッコいい。そう彩果がため息をついたほんの一瞬の間に、彼の姿はビルの谷間に吸い込まれていった。
おそらく、地上に降りたのだろう。どのあたりに降りたのだろうか。おそらく、ひとけのない場所であろうが。
「イーリス」
背後から声をかけられ、びくりとした。
さすがに速い。どのあたりに降りたのかはわからないが、そこからここまで、一瞬で駆けてきたのか。その上で、息一つ切らしていないのはさすがだった。
オールマイトは先ほどとは違い、前髪を下ろして、眼鏡をかけていた。
それだけでずいぶん、雰囲気がかわる。別の人みたいだ。
あの触角のように立ち上がった前髪は「オールマイト」の特徴のひとつなのだなと、しみじみ思った。
彩果の考えていることをみすかしたのか、オールマイトが朗らかに笑う。
「ああ、これ? プライベートの時は髪をおろして、一見して私だとわからないようにしているんだよ」
「そうなんですか」
「ところで、さっきのチョコと手紙なんだけど」
「はい」
「ありがとう。とても嬉しいよ」
オールマイトがすこし照れ臭そうに、人差し指を顎にあてた。そんな仕草もかわいいなと、彩果は思う。
「イーリス、君さえよければなんだけど、これから食事に行かないか。夕飯、まだだよね」
「はい」
「焼肉なんて、どうだろう」
「大好きです!」
力強くそう答えると、ぷ、とオールマイトが噴き出した。
「君、食べるの本当に好きだよね。ほっそい身体でよく食べるよなと、前から思っていたんだよ。ここから歩いて行けるところにね、夜景も楽しめる焼き肉店があるんだ。そこでいいかい?」
常よりも早口で、オールマイトが言った。やや慌てているようにみえるのは、うぬぼれだろうか。
彼は続ける。
「完全な個室になってるから、周囲の目も気にしなくていい。イーリス……いや、彩果」
「オールマイト?」
「今はプライベートだから、名前で。ね」
と、オールマイトがはにかむように笑った。
こんなに年上で、こんなに筋肉質で、こんなに大きい男の人なのに、はにかんだ彼は、とても可愛い。
かわいい彼のせっかくの申し出に答えたいのはやまやまだったが、オールマイトの本名を彩果は知らなかった。彼の名は、スタッフにすら公にはされていない。知っているのは、おそらくサー・ナイトアイくらいのものだろう。
オールマイトの名前と個性は、シークレット。有名な話だ。
「としのり」
「はい」
「私の名前だよ。俊典。プライベートではそう呼んで」
「いいんですか?」
「うん。ここは薔薇の下だから」
ふ、と笑った顔は、いつもの太陽のようなそれとは、少し違う、色香を含んだものだった。
「呼んでみて」
「としのり……さん」
ん、とオールマイトが満足そうに笑んで、彩果の耳元でささやいた。
「知ってるかい? 薔薇の下で、って言葉ね、英語だと別の意味を持つんだよ。今日、君は私と秘密をわかちあった。そうだね」
「はい」
「これからも、君と薔薇の下で会えるといいな」
耳に流し込まれた声は、低く、そして甘かった。
空気が澄んでいるからか、ガゼボも薔薇のオブジェも、そして虹色のタワーも、いつもよりずっと綺麗に見える。
いや違う、と彩果は思う。
それはきっと、彼のそばにいるせいだ。好きな人と見る景色は、いつもより綺麗に見えるものだから。
じゃ、行こうか、彩果。と、赤い薔薇の下で差し出された手。
はい、俊典さん。と、いらえて、大きな掌に彩果は自分のそれを重ねる。
大きくて厚みのある彼の手のひらは、想像よりもあたたかだった。
2018.2.24
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