風邪引き男は花金鳳花の夢を見るか 後編

 どこからか、花の香りがしていた。いや正しくは、ピンク色の花をイメージしたような香りだ。ややパウダリーなフルーティーフローラル。
 それはどこかで嗅いだことがあるような、甘いけれどもやわらかい香りだった。
 なんの香りだろう、と思いながらファットガムは目をひらいた。だが目前に花はなく、スモーキーイエローと灰白色のピローカバーが見えるだけ。
 まどろみのなかに漂っていたはずの微かな薫香も、いつのまにか消えていた。

 その理由をファットガムは瞬時に理解した。自分は夢を見ていたのだ。八重に咲くピンクの花によく似たひとのおもかげを。
 ひどくリアルな夢だった。己の額に触れたつめたい指先の感触や、用意された粥の熱さ、やわらかな声、彼女のつけている香水の淡い香り、そういったものが生々しく記憶の中に残っている。

(熱に浮かされとった割には、幸せな夢やったなぁ)

 夢の中ですらこれがずっと続いて欲しいと願い、実際にそれを口にした。ずっとそばにいてくれと。
 なんという甘ったれた夢。願望とはいえ、リアルでは絶対に言えない言葉だ。
「この人案外甘えたやから」と、以前相棒たちは小夜に告げたが、実にその通りだと思う。
 ほんまあいつら俺んことよう見とるわ、と内心でひとりごちつつ、ファットガムは身体を起こした。

 高熱が出た後のけだるさは残っているが、痛みや身体の重みは消えている。この感じなら、おそらく熱はさがっただろう。
 ん、と小さく声を上げながらファットは大きく伸びをした。だがしかし、その瞬間、とんでもない光景が目の中に飛び込んできた。

(ちょ……ちょお待ちぃ……)

 常ならばリビングに置いてあるはずの、自身の等身大クッションがベッドルームの床に転がっている。そこまではいい、もともと家にあるものだから。
 問題はその上だ。この場にいるはずのない人間が、自分を模したクッションの上に横たわっている。

(え……ちょ……待ち……いや……待って……)

 等身大ファットガムクッションの上に眠るのは、夢で会うほど恋い焦がれていた相手。そのひとがすやすやと寝息を立てている。営業用のスーツを着たまま、薄い毛布にくるまって。

(夢……じゃなかったん? え? 現実?)

 頭の中がぐるぐると回る。
 ファットガムは無意識に自分の顔を手のひらで覆った。夢だと思っていた記憶を必死にかき集めながら。

 「帰ってまうの?」「いかへんといて」「そばにいたって」

 ファットガムはざっと青ざめ、数秒の後、ぶわっと汗を噴きだした。朱が昇る、などというかわいいものではない、頭部全体に火がつくような勢いだ。
 おそらく自分は今、ゆでだこのようになっているに違いない。
 どうかすべてが夢であってくれと願ったが、小夜は軽々しく男の部屋に泊まるような女ではないはずだった。たとえ相手が発熱していたとしてもだ。

(これは…………あかんやろ!)

 声にならない叫びをあげながら頭を抱えていると、気配を感じたのか小夜がちいさく身じろぎし、そしてぱちりと目を開いた。

「ん……」

 真っ赤になって想い人を見つめていたファットガムと、目覚めた小夜の視線がからまる。
 ファットガムはますます慌てた。どんな顔をすればいいのかわからない。

 ふたりの間を天使が通る。
 そしてこの沈黙を破ったのは、のんびりした小夜の声だった。

「あ、ファットガムさん、おはようございます」
「……オハヨ……さん」
「お顔、まだ赤いですね。お熱はかりましょうか」

 小夜が何もなかったかのような顔で、体温計を取り出した。促されるがままに体温を測り、冷却シートをはがしてもらい、完了を知らせる電子音が鳴った後も、黙ったまま体温計を手渡した。
 どうしたらいいかわからなくなったとき、人は無言になることがある。今のファットガムがまさしくそれだ。

「よかった。お熱下がったみたいですね」
「……オオキニ」
「もしかして、どこか痛みます? いつもとご様子が……」

 心配そうにのぞき込まれて、ファットはやっと我に返った。

「や、ちゃう。ちゃうで。……ウン……大丈夫。ファットさんは大丈夫や。……ただ、ひとつ確認したいんやけど……」
「はい。なんでしょう」
「もしかして俺、君に帰らんといてとかそばにいたってとか、言うた?」

 小夜は少し困ったような表情をしたのちに、すっと視線をずらして、いいえ、と応えた

(あ、これ、言うた。言うたな、俺)

 穴があったら入りたい気分になって、右手で顔を覆った。つきあってもいない、しかもひそかに焦がれていた相手にそんなことを言ってしまった自分が、本当に恥ずかしい。
 小夜ちゃんはどう思ったやろか、こないにデカい図体のアラサー男に甘えられて。そう不安に思いながら、指の間から小夜の顔をみやる。
 呆れたのか、嫌われたのか、はたまたウザがられたか。
 だが、小夜の反応はそのどれでもなかった。

 小夜は唇をきゅっと引き結び、必死で明後日の方向を見つめている。おそらく目を合わせることすらできないのだろう。こんなに嘘がへたな子も珍しい。
 今しんどいのはこちらのほうだと思うのだが、これでは逆だ。小夜は早くこの話題を終わらせてくれとでも言うように、身体をそわそわと動かしながら目をそらし続けている。

 なんやかわいいやんなぁ、いま目が合ったらどうなるんやろか。
 そんなことを考えて、ファットガムは小夜が見つめている方向に身体を移動させた。すると、また小夜は目を合わさぬよう、首をかしげて視線をそらす。
 ほんまに嘘つけへんのやなぁ、と思いながら、また小夜の視線の方向へ身体を動かした。やはり小夜は目をそらす。
 それを二三度繰り返して、とうとう我慢が出来なくなり、ファットガムは吹きだした。先ほどまであんなに恥ずかしかったはずなのに、いまはおかしくてたまらない。

「ファットさん?」
「や。堪忍な。」

 片手で口元を抑えながら、笑いをこらえる。
 ひとしきり笑ったおかげで、己の失態も笑い飛ばせるような気がする。

「君の顔見てたら、ほんまのことわかったわ。実はな、甘えたこと言ったの自分でもなんとなく覚えとる。夢や思とったんやけど、現実やったんやな。ほんまおおきに」

 すると小夜はほっとしたように軽く眉を下げ、やわらかく微笑んだ。
 ほんまええ子やな、とファットガムは思う。そして同時に、心の底から君が好きだと。

「すまんかったなあ。なんや迷惑かけてもうて」
「いいえ、そんなことは。こちらこそ、勝手にこちらのファットさんをお借りしちゃってすみません」

 ファットガムクッションの顔の部分を撫でながら、小夜が笑う。
 「ちょっとそこかわれや俺ーッ!」と、心の中で叫び、同時にそんなことはおくびにも出さず、ファットガムも笑みを返す。

「や、そんなんは気にせんといて。俺と一緒に寝るわけにもいかへんやろし。逆にすまんかったなぁ。あれの上でちゃんと眠れた?」
「はい。ふかふかで気持ちよかったです」
「ん。ほんならよかったで」
「このクッション、すごくいいですね」
「おおきに。それ、一昨年出したグッズのサンプルなんやわ」
「どこかでまだ買えます?」
「これなぁ、受注生産で限定販売したやつなんや。せやからもう買われへん思うわ」
「残念です」

 そう言って肩を落とした小夜に、なんならここに本物がおるんやけどな、と言いかけてやめた。この子にはむかない冗談だろう。

「ほな、俺、朝飯作ろか? コーヒーかなんか飲むぅ?」

 そう言いながらベッドから降りようとしたところを、自分のそれより遥かに細い腕に制された。もちろん、力で勝てぬわけではない。

「だめですよ。今日は一日寝ていてください。熱が下がっても体力は落ちていると思いますから」
「……ハイ。ほんでも君、今日会社は?」
「土曜なのでお休みです」
「あ、そか」

 自分が発熱したのが木曜、熱でぶっ倒れていた昨日が金曜、そして今日が土曜というわけだ。ずっと寝ていたので、日にちの間隔がおかしくなっていた。

「朝ご飯ご用意しますね。と言っても、昨日相棒さんたちが用意してくださった冷凍のお雑炊になりますけど」
「充分や」
「お昼もなにか欲しいものがあったら買ってきますし、食べたいものがあるようなら作りますよ」
「や、そこまで君に甘えるわけにはいかへんて」
「こういうときには、誰かに甘えていいんですよ。ファットさんは皆を助けてるんですから。ご迷惑でなければ、夕飯も用意して帰ります」

 ね、と微笑まれ、ファットガムはくちごもった。
 薬物の件が片付いた時に交わした言葉を思い出したからだ。「ファットガムさんが困ったとき、いつでも連絡してください」と、小夜は言った。
 けれど、今それを口に出すのはためらわれた。いつのまにか、あの時の言葉は自分の中でひそかな支えになっている。別に使うつもりはなくても、胸の奥で大切にとっておきたい。

(なんや俺、自分で思うとったよりずっとずるい男なのかもしれへんな)

 年をとればとるほど人は恋に臆病になる。だからそのぶん頭を使う。ずるい大人が使うやり口だ。これを総じて、手練手管と人は言う。
 果たしてこれも手管の一つなのだろうかと自問して、近いが違うと自答した。
 使うつもりはない。ただ、いつか、もしかしたらと思いながら、大切に秘めておきたい。それだけだ。

「お昼はどうします?」

 小夜がもう一度、同じことをたずねてきた。彼女はこれについては一切譲るつもりはないようだった。
 以前もちらりと思ったが、お嬢さん育ちでおっとりしているのに、意外なところでこの子は強さを見せることがある。

「そんじゃ、昼はうどんが食べたい。うちのでかい土鍋でどーんと作ったって……とか、わがまま言うてもええ?」
「もちろんですよ。うどんすきにしましょうか?」
「ん……家にあるもん好きに使うて。よかったら君も一緒に食おうや。や、作ってもらう立場で言うのもなんなんやけども」
「ありがとうございます。ふたりでお鍋をシェアするとか、なんだか新婚さんみたいですね」
「……せ……せやな」

 ファットの顔が朱に染まる。それを見て自分の発言の意味に気がついたのか、遅れて小夜も頬を染めた。

***

 立ち上る湯気の向こうで、小夜が微笑んでいる。その手前には特大サイズの鍋、中身はだしと薄口醤油で仕立てたうどんすきだ。野菜や魚介、そして肉がたっぷり入った栄養満点の鍋である。

 こんなに幸せでええんかいな、と思いながら、ファットガムが自分のとんすいに具材を山と盛る。
 そして意外なことに、小夜は料理がうまかった。

「お花のにんじんや」
「あ、つい癖で」

 ファットガムの家に花型などない、だから包丁で作ったのだろう。にんじんで形作られた、かわいいねじり梅がとんすいの中に沈んでいる。

「実はわたし、子どもの頃にんじんが苦手で。少しでも好きになれるようにと母がいつもこうしてお花の形にしてくれていたんです。なので自分が作るようになっても、ついにんじんはお花にしてしまって。でも、よく考えたらちょっと恥ずかしいですね」
「そないなことないで。かわいいやんか。しかも見た目だけやのうて味もええわ。小夜ちゃん、料理なんてできるんやなぁ。お嬢さん育ちやからなにもできひん思うとったわ」
「古い体制の女子校出身なので。家庭科の授業にも力を入れてたんです、あの学校」

 ああ、と納得した。
 現在は高偏差値の女子大として名を馳せている姫百合女学院だが、設立当時は貴族や華族の花嫁養成校であった。その名残で、いまでも中高等部では茶華道や日舞の授業があり、師範資格をとらせて卒業させる。時代錯誤な話ではあるが、そういう学校であれば、なるほど調理指導にも力を入れているのかもしれない。
 そういえば朝見も料理がうまかった。食いしん坊だからと思っていたが、今にして思えば、あれもそういうことだったのだろう。

「ファットさんもご自身でお料理されたりするんですか?」
「まあ、身体が資本やから。極力ちゃんとしたもんとるよう心がけとるな……ちゅうても気ぃ抜くとたこ焼きばっかになってまうんやけど」
「ファットさんのたこ焼き、美味しいですもんね」
「せやろぉ。あれ、俺特製のレシピやもん」
「ほんと、世界一美味しかったです」

 六年前の自分なら即、結婚しよ、と思ったところだ。まあ、今も少し、思ったけれども。

「高校の文化祭でもたこ焼き屋さんをされたんですよね。あのラックに飾ってあるお写真、その時のものですか?」
「うん」

 ここリビングダイニングには、士傑時代の友人たちとのスナップがいくつか飾ってある。クラス写真、体育祭、そして文化祭。かつて同じ夢を見て切磋琢磨の日々を送った、大事な仲間たちとの写真だ。
 あれから十年。自分と同じように今も同じ業界で闘う者もいれば、夢破れ別の道を歩む友もいる。そして志半ばで命を散らした友も。
 彼らと過ごしたあの日々があって、今の自分がある。
 夢破れた友や命を落とした友の意思を引き継ぐと言ったら傲慢かもしれないが、彼らの想いを忘れたくなくて、当時の写真をもっとも目につく場所に置いている。
 盾であるこの身体がどれほど傷つこうとも、心に呑んだ一本の矛を折ることだけは絶対すまい、彼らと己に恥じるような行動だけはとるまいと、あの写真を見る度、そう思う。

「……士傑は俺の原点やから」

 静かに告げると、察したように小夜が軽く眉を下げた。この子は聡くそして優しい。だからきっと気づいただろう、原点という言葉に秘めた、己の覚悟を。
 だからごまかすように、話を変えた。

「いろいろ大変やったやろ。台所やらなんやら全部俺のサイズに合わせとるから」
「流しの位置が高くてびっくりしました。でも、踏み台が置いてあったので」
「ああ、あれな、環や相棒らが来た時のために置いとんのや。たまにここで鍋パとか粉モンパーティーとかすんねん」

 すると小夜は、少しほっとしたような顔をした。

「事務所のみなさんが使うためにおいてあったんですね。わたしてっきり」
「てっきり?」
「いえ……なんでも」

 そう言って、小夜はかまぼこをぱくりと口に入れ、下を向いた。なんとなく、彼女が何を考えていたのか、わかる気がした。

 ファットガムはずるずるっとうどんをすすり上げ、また新たな具を山盛りにして器に持った。あっという間にそれもたいらげ、おかわりのうどんを器に入れる。
 そして声を落とすようにして、低くささやいた。

「女のひとは、もうずいぶん長いこと、ここにはあげてへんよ」
「はい……」

 君は特別、と続けようか迷い、結局やめた。ヘタレな自分に苦笑しつつも、ファットは言葉を紡ぐ。

「せや、今度事務所で粉モンパーティーやるとき来てや。たこ焼きもやるけどお好み焼きもあるで」
「楽しそうですね」
「めちゃ楽しいで。気楽に来てや」
「ありがとうございます。楽しみです」
「俺もやわ」

 微笑みあって、ファットガムは座り直した。鍋の中の具材すべてを平らげるつもりで。

***

 窓の外はすでに藍色に染まり始めていた。いつの間に眠ってしまったのだろう。

「熱が下がっても身体は消耗しきっていると思うので、今日は一日横になっていてくださいね」

 うどんすきを食べ終えた後の小夜の言葉を思い出し、その通りだったな、と肩をすくめる。
 壁時計の短針は六の文字を指していた。ベッドサイドのテーブルに視線を向けると、昨日と今日で出たであろう洗濯物が、きちんとたたんでおいてある。そして台所から流れてくる、おいしそうなにおい。

 しばらく真顔で天井をみつめていたファットガムが、カッと目を見開いた。

(なんや昼間は気づかんかったけど、コレ……いけるんちゃう?)

 夕飯には大根のそぼろ煮と茶碗蒸し、白身魚の酒蒸しを作ってくれると言っていた。汁物はけんちん汁にして野菜がたくさん取れるようにすると。
 普通、好きでもない男のために。そこまでするものだろうか。

(うん……なんぼ優しい言うても、好きでもない男の部屋に泊まった上に、洗濯と翌日の食事三食準備してくれるとかありえんやろ。これ、脈あるんちゃう? …………ちゅーかこれ、いったらなあかんやつちゃう?)

 と、小夜がベッドルームに顔を出した。

「調子はいかがですか?」
「うん。ほんま大丈夫やわ。熱も上がってこんようやし。ホラ」

 これでおでこに手を当ててくれるようなら脈ありやと思いながら、ファットガムが前髪を上げる。失礼しますね、と小夜の手がファットの額に当てられた。

(うん、いける。決めたる。ちゅうてもここでこの手つかんでガバァ抱きしめたら……泣くな。うん、泣く。泣いてまうで。ここベッドルームやし、絶対あかん。小夜ちゃんは俺んこと信頼して泊まってくれたわけやし、そん気持ち裏切るような真似だけはしたらあかん。うん、あかんな。ガバァはなしや。ガバァ禁止。ちゃんとこう、順序守らな。中学生みたいに、好きですから始めなあかんねん)

「ホントですね。よかった」

 ほっとした表情を見せた彼女に、少し申し訳ない気持ちになりつつも、ファットガムは思考を続ける。

 しかし告白すると言っても、どのタイミングでするかが問題だ。ここでするのか、リビングでするのか、はたまた別の場所がいいのか。

「明日の食材は大丈夫でしょうか。必要なら買ってきましょうか」
「や、大丈夫や。明日は自分で作れる思うし」
「お外にはまだ出てはダメですよ。熱がさがって二日はおうちにいてくださいね」
「ハイ」

(そや、帰り際……帰り際や! それなら拒絶されてもお互い気まずうならんとすむ。ドアを開けたタイミングや。うちの階段はマンションと違うて他に人が通ることもないし、壁ドンやらなにやらしても、開放感があるぶん安心できるやろ。うん、それや、それでいこ)

 会話しながらフルスピードで思考する、彼女いない歴四年、士傑高校ヒーロー科出身、現ヒーロー事務所経営、豊満太志郎二十八歳、もちろん独身。

「では、わたしそろそろおいとましますね」

 ん、と答えて身体を起こし、立ち上がった。
 心臓がかつてないくらい大きく音を立てている。こんなに緊張するのは何年ぶりだろうか。
 どうかうまいこといきますように。拒絶せえへんといてや。と心の中で呪文のように繰り返し、玄関先まで歩を進める。
 そして小夜が失礼します、とドアを開けたタイミングで呼び止めた。

「小夜ちゃん」
「はい」

 と、振り返った彼女の頭上に手をついて、壁ドンならぬ扉ドン。恐怖心をあたえぬよう細心の注意を払いながら、小夜に向かってかがみ込む。
 彼女からふわりと香るのは、ピンク色の花束を連想させる薫香だ。小夜によく似合う、やわらかなフルーティフローラル。
 小夜は驚いたように目を見開いたものの、幸いにして嫌がる様子はみられなかった。

(よっしゃイケる! ここでいかな男がすたる。気張りや、俺。この勢いで告って、オッケーもらえたらガバァ抱きしめて、あわよくばチューも!)

「あんな、俺」

 精一杯気取った声で、君のことが好きやねん、と続けようとしたところに聞き覚えのある声が被さってきた。

「最悪だ……」

 そらこっちのセリフやわ、と、瞬時にファットは突っ込んだ。そしてこの声の主がファットガムの思う人物であるのなら、あとに続く言葉は決まっている。

「……帰りたい」

(やっぱりおまえか、環ーッ! せめて終わるまで待っとってくれや――――ッ!)

 叫びたい気持ちを抑えつつ、ファットガムが顔を上げる。と、あげた視線のその先で、白マントを羽織った青年が後ろ向きで震えていた。とたんに沸き起こったのは罪悪感だ。
 よく考えれば、環とてインターン先の上司が女を口説いているところなど見たくもないに違いない。口説かれている小夜もまた同様に、こんな様子を見られたくはなかっただろう。
 そう、環のせいではない。扉を開けた状態で告白しようとした自分がすべて悪いのだ。

 なんで俺家の中で告白せえへんかったんやろ、と己に問いかけ、すけべなこと考えとったからやんな、と己に応える。
 だが今は、ともかくこの場をなんとかせねばならない。

「や、ちゃうねん!」
「……てない……」
「ああン?」
「俺は……何も見てない……見なかった……」
「そうやないって、今のはな、目線を合わせてお礼を言おうと思ただけやて」

 我ながら苦しい言い訳だと思った。けれど環に対してはこれで乗り切るしかない。
 だがこの言葉を信じてほしい者は信じず、信じなくていい者が信じてしまったようだった。信じなくてもいい者、すなわち小夜が恥ずかしそうに微笑みながら告げる。

「そんな。お気になさらないでください。お互い様ですから」

(ああ……うん、君はそういう子やったな。この苦しい言い訳を世界中の人が嘘や言うても、君は信じてくれる。そういう子やわ。せやけどごめん、ファットさんもっとよこしまやねん……ただのすけべな男やねん……)

 この強固なる信頼を喜ぶべきなのかそれとも嘆くべきなのか、いまのファットにはわからない。
 すっかりファットガムの言葉を信じた様子の小夜を目の当たりにし、空気を読むに聡い青年が大きなため息をついた。懐疑的な視線をこちらに向けたまま。
 環が諦めたような顔をして、持っていた袋と籠をファットガムに向けて差し出した。

「これ、ファットのところに持っていくようにと」
「おおきに」

 環が持ってきてくれたのは、レトルト系の食材と、先日ファットガムが求めたラナンキュラスのアレンジメントだ。

「あ、フォックスフェイスと花金鳳花ですね。かわいい。いただきものですか?」
「ん……そんなとこ。これ、はなきんぽうげ言うん?」

 見ただけで花の名が出てくる小夜に感心しながら、ファットはたずねた。花屋の店主はラナンキュラスと言っていた気がするが。

「はい。ラナンキュラスとも言いますね。うちの学校では和名で花金鳳花と呼んでいたんですが、一般的にはラナンキュラスのほうが通じると思います」
「ほお」
「かわいい花ですよね。華やかなのにどこか清楚で。あとフォックスフェイスを逆さまにいけるとすごく雰囲気がかわりますね。コロンとしていて、丸い時のファットガムさんみたい。とってもかわいいです」
「……そっちの花は、君に似とるで。かわいいとことか」

 えっ、と小夜が頬を染めてこちらを見上げる。

「俺と君、ふたり仲良う籠に収まっとるやんなぁ」

 思いきってそう告げて、ファットガムはあははと笑った。受けた小夜も恥ずかしそうにうふふと笑う。
 なんやええ感じやんなぁ、とほのぼのしたところに、また背後からかけられた声。

「俺は何を見させられているんだ……つらい」

 インターン生の存在をすっかり忘れていた大人二人が、はっとしながら青年に向き直る。

「環。来てもろて悪かったなぁ。めちゃめちゃ助かったで。熱も完全に下がったしもう心配ないわ。そうみんなに伝えたって」
「……帰りたい」
「うん、帰ってええ。今日はもう帰ってええで。お疲れさん」
「ではわたしも失礼します。ファットガムさん、お大事に」
「え? 君も……ん……ほんまおおきに」

 名残惜しいが、さすがに二日連続で引き留めるわけにはいかない。
 顔で笑って心で泣いて、小夜と環を二人同時に見送ってから、自宅に入った。
 ドアが閉まると同時に大きな鉄の塊に身体を預け、ファットガムはため息をつく。

「……なんや……めっちゃ疲れたわ……」

 言葉通り、今の数分でかなり消耗したけれど、反面、心は軽かった。告白は先伸ばしになってしまったが、きっと、この恋の見通しは明るい。

「なあ、小夜ちゃん」

 愛しい女の名を呼びながら、ファットガムはラナンキュラスの花びらにくちびるを落とす。
 すけべでよこしまなくせにけっこう乙女チックやんなぁ俺、と心の中でつぶやきながら。

2021.4.21
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月とうさぎ