「ファット」
「あん?」
「朝の情報番組のオファーなんやけど、どないする?」
人気ヒーローともなると、こうしてメディアからも依頼を受ける。朝や昼の情報番組でヒーローに求められるのは、たいていは普段の活動を紹介された後に新番組や新商品のコーナーで相づちを打つといった程度の簡単なものだ。それでもファットガムは地元のテレビ局からのオファーであれば、できるだけ受けるようにしている。
「いつや?」
「2月9日。バレンタイン特集らしいで」
「それ以降やったら厳しいけど、9日なら行けるやろ。受けといてや。地元は大事にせんと」
「……あのひとの番組やで」
ファットガムの頬が、ぴくり、と動いた。かつて恋人であった朝見が総合司会を務めるその番組は、関西一の高視聴率を誇る。
黒衣の相棒の気まずそうな視線を、ファットガムは静かに受け止めた。こいつ、あの頃のあれ全部見とったもんなあ、と心の中で呟きながら。
*
朝見と別れた後、ファットガムは一時的な食欲不振に陥った。精神的なものが原因で食事量が減るのは、生まれて初めてのことだった。
例の爆破事件の直後であったため、体重を戻せていない状態でのそれだ。脂肪吸着の個性を持つBMIヒーローファットガムにとって、脂肪を蓄積できないことは死活問題となる。
それでも、朝見とよりを戻すつもりはなかった。食欲を失うほど彼女を愛していたけれど、あの別れの後と前とでは、ファットガムの中でなにかが完全に変わってしまっていた。
ただ太ればいいのと違い、自身の巨体を自由に動かせる筋肉を保持しながら脂肪を増やすのは至難の業だ。なかなか戻らない体型に悩んだ当時のファットガムは、懇意にしていた女医に請うた。
「センセ、食べなくても脂肪を蓄積できるお薬とかないやろか。もちろん合法の」
「んな都合のええもんあるわけないやろ。楽して太ろうとしなや。それになファット、身体のためには今くらいのほうがええんやで」
「せやかて、このままじゃおまんまの食い上げやん。ヒーローできなくなってまう」
「そのままでも戦えるんやろ?」
「まあ、多少は」
「やったら、そのまんまでええやん」
「多少でけるっちゅう程度やあかんねん」
「……おまえ今のほうが女の子にモテるで。その見た目なら、実力やなくルックス人気でやってけるんちゃうか」
「センセ、俺はちやほやされたくてヒーローやっとるんとちゃうねん。こちとら命かけてきれい事実戦するお仕事やで」
「自分それ、先週オールマイトが熱情大陸で言うとったやつやん」
と、あきれ顔で告げた後、女医はファットガムに鋭い視線を投げかけた。
「せやったら、女と別れたくらいで飯が食えへんなんて甘ったれたこと言うとったらあかんやろ」
頭をぶん殴られたような気がした。その通りだと思ったからだ。
今の自分は格好つけたことばかり言って、まったく行動が伴っていない。己に足りなかったのは気概だ。どんな真似をしてもこの世界で食っていくという、狂気にも似たその覚悟。
命がけだというのなら、なにがなんでも身体に脂肪を蓄えられるはずだった。
医院からの帰り、ファットガムはカロリーの高い食品を選んで口の中に詰め、咀嚼し、そして無理矢理飲み込んだ。これ以上はだめだと思ったら、平太に行って揚げ油のラードを飲んだ。微妙な温度に温められた動物性の油脂だ。そのままではうまくもなければ飲みやすいものでもない。けれど飲んだ。飲み込みきれなかった油が、涙の代わりに目の間から流れた。それでも、ぜったいに嘔吐だけはしなかった。
なにがあっても割られぬ盾を作るため、心に一本の矛を呑みこんだあの日々。
そしてファットガムは、脂肪を元に、いや、それ以上に増やしたのだった。
*
「ファット?」
「ああ、すまん。受けて」
相棒は目を見開いて、そしてゆっくりと両の口角をあげた。それはいつも彼がする皮肉な視線ではなく、ひどく柔らかく、そしてやさしいものだった。
そしてその日、もう一つの仕事の連絡がファットガムの端末に舞い込んできた。
***
「ファットガムさん、入りまーす」
「お久しぶりです。本日はどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしゅう」
総合司会の女とは、まるで他人のように挨拶を交わした。
女は以前と変わらず美しく、そして年齢よりもやや幼く若く見える。つきあっていた当時アシスタントアナだった彼女は、昼の情報番組の司会を経て、朝の超人気情報番組の総合司会に出世していた。今ではすっかり朝の顔だ。
生放送の情報番組は、滞りなく進んだ。
ファットガムの紹介があり、新番組の宣伝があり、新人アイドルと話をし、バレンタイン特集のコーナーへ。
言うまでもなく、ファットガムに期待されているのはその食べっぷり。ファットガムは酒飲みでもあるが甘党でもある。こういう企画は大歓迎だ。
局の要望通り、ファットはデスク上に山と積まれたブランドもののチョコレートを次から次へと平らげていった。
「ちょお待って、俺、コレ好き。うっま!」
次から次へと高級チョコレートを口に運んでいたファットガムが、金色の箱に入ったチョコレートを食べ、声を上げた。
見た目はなんの変哲もない四角いショコラだ。けれど口溶けといい、甘さといい、香りといい、風味といい、他のものとは一線を画する。もちろんその前に食していたものもすべて美味であったが、なんとなく、これは別格のような気がした。
「ジャン=ピエール・エヴァンですね。こちらはカリブ産の上質なカカオをふんだんに使っていて……」
「なんやようわからんけど、俺はこれが一番好きやな。ちゅうてもどれもうまいから、こればっかりは好みの問題ちゃうか」
「それでは、ファットガムさんにはこちらを贈れば喜ばれるということですね」
「せやなあ。ただ、これに限らずファンからのプレゼントはなんでも嬉しいで。大事なんは気持ちやから」
男性アナウンサーとの会話に、曜日担当のお笑い芸人が軽口を入れる。
「ファット兄さんモテはるから、本命チョコもぎょうさんもらえそうでうらやましいわ」
「そないなことあらへん。たいしてモテへんよ」
「またまた。つきおうとる女性の五人や十人おられますやろ」
「そんなにおるわけないやろ。五人どころか一人もおらへんわ。ちゅーか、自分朝からなんの話しとんねん」
あまり上品ではない冗談に笑っていらえてみたものの、心の底ではよけいなことを言ったと思った。つきあっている女はいない。それはたしかに事実であるが、別れた女の前でわざわざ言うようなことでもなかった。
「ところで、こちらはゴダイバの新製品なんですが……」
と、朝にふさわしくない内容の話題を遮るように、朝見の声が割って入った。
ファットガムはちいさく安堵の息をつき、用意されていたチョコレートドリンクを、その場で一気に飲み干した。
***
小夜が毎月恒例のご機嫌伺いに訪れたのは、翌日2月10日のことだ。彼女と会うのは、インフルエンザで看病してもらって以来のことになる。あのあと立て続けに面倒な事件が続き、個人的に話す機会を逸してしまった上に、自身で進めている案件にも新たな動きがあった。小夜とのことはそれを片付けてからと考えているうちに、本日を迎えてしまったのだった。
サポート会社の営業はなにもなくても月に一度は挨拶伺いに来るものだが、こうした機会があるのはファットガムにとってはありがたい。こちらから連絡をとらなくても、彼女に会える。
けれどよく考えたら、彼女が出入り業者でなければ、もう少し簡単に想いを伝えられていたはずだ。しかし彼女が担当にならなければそもそも会えてもいないわけで、これについてはいいような悪いような、微妙なところでもあった。
「すこし早いんですが」
そんなファットの葛藤に気づいているのかいないのか、小夜が紙袋を二つ差し出した。ひとつは高級チョコレートの代表とも言える、ゴダイバの袋。そしてもう一つはちいさな金色のペーパーバッグだ。
「こちらは相棒のみなさんで、そしてこちらはファットガムさんに」
ファットガムにと渡されたのは、金色の地に青でジャン=ピエール・エヴァンと印字された袋だった。
「おおきに。気ィつこてもろて悪いなぁ」
「……こちらのチョコレート、お好きだとおっしゃっていたので」
「あの番組見てくれたんか。ありがとさん」
はい、と答えた小夜はその時ほんの一瞬表情を曇らせ、それから一拍ほどおいたのちに、にこりと笑って頭を下げた。
「では失礼いたします。ご用命などございましたら、いつでもご連絡ください」
「ご苦労さん。チョコレート美味しくいただくで。来月のお返し、楽しみにしとってな」
「はい」
今度こそ本当の笑顔をみせて、小夜がきびすを返す。彼女が退室したのを確認して、黒衣の相棒が声をかけてきた。
「ファット、追いかけんでええん?」
普段ファットガムの不甲斐ない女性関係について厳しいことをいう男の目は、今日は驚くほど優しかった。彼は続ける。
「あれ、あの子にできる精一杯の告白やん」
「せやろな……追いかけたいんは山々やけど、今はあかんやろ」
「……今こたえてやってもええんやないか?」
「あかんよ」
ほろ苦く笑みながらファットはいらえる。それを見た相棒が、困ったように眉を下げた。
「……まあ、あんたがそない言うなら……。ところで、もろたチョコはどないする?」
「おっきいほうは自分らで食うてええで。俺はこっちのをいただくわ。ほんでこの後もぎょうさんチョコ届くと思うけど、ぜんぶ俺から見えんとこやっといてや」
「しかし、いろんな意味で、ほんまタイミング悪いな」
「まあ、しゃあないわ。自分で決めたことや」
ぐっ、と人より大きな身体をひときわ大きく伸ばして、ファットガムは呟いた。
「さて、こっから俺はカラダ絞らな」
琥珀色の瞳が、炎のように揺らめいた。
***
2月14日の夕刻までに、ファットガム事務所に届けられたチョコレートやプレゼントは数え切れない。しかもその大半が、ジャン=ピエール・エヴァンのチョコレートである。それらはすぐに相棒たちの手でまとめられ、所長であるファットガムから見えないところへと片付けられた。
「ちょお、絞りすぎたな」
ファットガムが鏡の中の自分を見つめ、ひとりごちる。
仮眠室の鏡に映るのは、脂肪のほとんどない見事なエイトパックだ。ファットガムはローファット状態でも戦えるが、ここまで絞ってしまうとやや厳しい。明日の夜までに、腹筋が見えなくなる程度の脂肪をつけておかなくては。できるかぎり、顔に肉をつけずにだ。
まったく、体型のコントロールは難しいで、とファットガムが内心で呟く。
ファットガムが痩せたのは、敵内部への潜入捜査のためだ。
個性時代における潜入捜査方法は二通りある。敵の構成員となり内部深くに潜入する場合と、個性を利用し……例えば姿を消したり、優れた視覚や聴覚を利用したりして、アジト内の情報を得る場合だ。
大抵においてヒーローの潜入は個性を使用した後者である。だが、今回の依頼は非常に珍しいことに、前者であった。
対象は、薬物を扱う海外敵。潜入は2月15日、すなわち明日の夜。
潜入は本来ファットの仕事ではない。だが今回は珍しく、ファットガムに白羽の矢が立てられた。条件がぴたりと合っていたからだ。といっても、条件を満たしたヒーローが他にいなかったわけではない。今回の任務を快諾したのが、ファットガムただひとりであっただけだ。
そうだろうなとファットは思う。
敵の構成員になって紛れ込むタイプの捜査は、ヒーローでなくてもかまわない。むしろ、敵に顔を知られていない警察官のほうが適任だという声もある。
だが今回の案件は、警察の潜入捜査員が立て続けにふたりも殺害されている。こうなってしまうと、単独でも敵と渡り合えるヒーローに依頼がくる。
そしてファットの前任者であるヒーローも、前々回、その前の担当者同様、敵に正体を見破られ、拷問の末に殺害されていた。
このように大変な危険が伴う捜査でありながら、このタイプの任務はヒーローにとってうまみが少ない。潜入という仕事の都合上、成功しても詳細が明らかにされないからだ。地味な結果のみが淡々と報道されるため、民衆からの人気にはつながりにくい。
だからたいていのヒーローは、こうした任務をきらう。
けれどこれは、ファットガムがひそかに追い続けていた案件でもある。故に断るという選択は、ファットの中ではあり得なかった。
「小夜ちゃん来ぉへんかな。顔見るだけでええんやけども」
唐突に己の口からもれた言葉に、ファットガムは苦笑した。
四日前に来たばかりの彼女が、しかも定時をすぎたこんな時間に来るはずがない。それはわかっている、わかっていて尚、漏らさずにいられなかった。
死地に赴くその前に、好きな女に会いたいと思ってしまうのは当然だ。
ファットガムは「お」と小さな声を再び漏らし、鏡の中の自分をみつめて息を吐いた。
下半身を覆うインナーは、脂肪が少ないこの身体に合わせてつくられたものだ。それだけに、すべてのラインをくっきりと際立たせてしまう。
「おまえ、元気やな」
呆れながら声をかけたのは、他人ではなく、己の男としての部分。
こうした生死に関わるような大きな任務の前、ファットガムは性欲が強まる。死ぬ前に子孫を残したいという生物としての本能だ。こういう話は他でもよく聞く。大きな任務の前後にそういう気分になる、というヒーローは少なくない。
今回は特にそれが強かった。それだけ危険な任務であると、自分でも理解しているからだ。
「顔見るだけでええとか言うて、こんなんなってたらあかんやんなぁ」
これではなおさら、会うことなんてできやしない。
欲が強くなると言っても、相手が誰でもいいというわけではない。
かといって、自分が求める相手がそれに応じてくれるとも限らない。
そもそも、求めることを許されるような仲でもなかった。
*
事務所の外扉を開けたとたんに、2月の北風が頬を打った。この姿だと寒さが堪えると思いながら顔を上げる。と、ファットガムは目前に、信じられないものを見た。
事務所近くの電柱の前に、見覚えのある女が立っている。
あやうく下の名を呼びかけて、そして思いとどまった。自分が彼女をその名で呼んでいたのは、もう四年も前になる。今はもう、その名で呼んでいい相手ではない。
ファットガムに気づいた女が、こちらに向かって手を上げた。
「自分、こんなとこでなにしとんねん」
「ちょっと近くに来たものだから」
女……朝見はそう言って、小さく笑った。
「自分みたいな売れっ子が、こんな繁華街うろうろしとったらあかんやんか」
「大げさよ。人気女優でもあるまいし」
「あかんて」
「今日はそっちの姿なのね」
「ん」
ファットガムが低く答えるのと同時に、通りをゆく若い女性たちの声が耳に飛び込んできた。
「ね、あのひと朝見アナに似てへん?」
「まさかぁ」
「せやけど一緒におる人もめっちゃかっこいいやん。本物やない?」
「ええー?」
ファットは大きく舌打ちをし、朝見にささやく。
「ほら、言うたやろ。騒ぎになってまうやんか」
「じゃあ、ひとけのないところに行かない? 話があるの」
ファットガムは大きく目を見開いて、目前の女を眺めた。
職業がらか、つきあっていた頃とかわらないコンサバティブな服装に、キルティング加工が施されたハイブランドのバッグ。そして彼女はバッグの他にもう一つ、ちいさな紙袋をさげていた。
金色の紙袋に印字されていたのは、青のロゴ。
「あなたの部屋はどう?」
「……すまんなぁ。今とっ散らかってて、女の人を通せるような状態やないんやわ」
「じゃあ、事務所は?」
「あかんやろ。仕事場やん」
「平太はどう?」
「……平太もあかん」
「そう……じゃあ、こっちならいい?」
「え? ちょお待てって」
ファットガムの言には従わず、朝見はすたすたと裏口に向かって歩いて行った。しかたなく、ファットガムもその後を追う。いずれにせよ、裏に回らねば自分の家には入れない。
自宅に続く裏階段の入り口に、朝見は寄りかかった。彼女にとっては勝手知ったる階段だ。このビルを建てたばかりのころ、この階段を昇って朝見は自分に会いに来た。自分はそれを、嬉しくも誇らしい気持ちで迎えたものだった。
それは甘く懐かしい、けれどひどく遠い思い出。
「……相変わらず、優しいのね。太志郎」
「……」
「その気もないのに期待を持たせるようなこと、絶対にしない。変わらないわね」
「……話ってなんやの?」
「まずは、わたしの番組に出てくれてありがとう」
「ああ、そんなんこちらこそや。呼んでくれておおきに」
「あとね、ずっと謝りたかったの……あの時のこと」
具体的な言葉はなかったが、何の話をしているのか、ファットにはよくわかっていた。
「いや、あん時は俺も悪かったんや。怒鳴りつけたりしてもうて。……怖かったやろ。俺、声も身体もデカいから」
『おまえは俺にクズになれっちゅうんかい!』
『クズでもなんでも、わたしはあなたが生きていてくれればそれでいいのよ』
思い出すのも苦しい、不毛なやりとり。
ファットガムが敵でもない女性を怒鳴りつけたのは、後にも先にもあれきりだ。
「それだけ、わたしはあなたの誇りを傷つけたってことでしょう」
「ほんでも、別の言い方があったわな。あん時は俺もまだガキやったから」
「……好きだったのよ」
「知っとるよ。俺も、あん頃は君にめちゃくちゃ惚れとったわ」
飯が食えなくなるくらいに、という言葉をかろうじて飲み込み、ファットが続ける。
「話って、そんだけ?」
「……もうふたつばかりあったけど、ひとつはもういいわ。答え、わかっちゃったから」
うぬぼれではなく、朝見が何をしに来たのかも、ファットガムにはわかっている。そうするために、彼女がどれほどの勇気を必要としたのかも。
「もうひとつはね、報告。わたし、夕方の報道番組きまったの。春からはキャスターよ」
「ほお。そらあおめでとさん。夢かなったやんか。ほんまはバラエティより報道やりたいちゅうとったもんな」
ええ、と応えながら、朝見がまっすぐにファットガムを見つめた。
「ところで、どんな子なの?」
「あぁン?」
「あなたが好きな子」
「なんやねん。藪から棒に」
「部屋はともかく、平太にも連れていけないってことは、そういうことでしょ」
「う……」
「で、番組で彼女はいないって言ってたところを見るに。まだつきあってはいない」
「ようわかるな」
「わかるわよ。あなたそういうとこ、昔から誠実だったから。そういう嘘はつかないじゃない。そして、一度決めたらその女性しか見ないの。そうでしょ」
「……せやな」
ファットガムは器用な男ではない。一度に愛せる女は一人だけだ。朝見の時もそうであったし、小夜を想う今もそうだ。そしてきっと、それはこれからも変わらないだろう。
「君の言うとおりや。いま好きなひとがおる。頑張り屋でまっすぐで嘘がつけへん、かわいいひとや」
「そう……」
「ちょっと似とるで、君と」
「……やあね。嬉しくないわよ、そんなの。……ほんま……いややわぁ」
アナウンサーである朝見は、関西出身なのに常に標準語を話す。ファットとつきあっているときもそうだった。普段から標準語を使っておかないと、ちょっとした瞬間に関西のイントネーションに戻ってしまうからだと、苦笑交じりにもらしていた。
そんな朝見の口から関西の言葉を聞いたのは、これがはじめてのことだ。
朝見は、しばらく顔を上げようとしなかった。
ファットガムも、その顔を上げさせようとは思わなかった。
そして、二人の間にはもう、語るべき言葉はなにもなかった。
「じゃ……わたし、もう行くわ」
「……ん」
元気でな、と言おうとしたが、やめておいた。言える筋合いではないだろう。
だからせめてと、仕立ての良いカシミアのコートを羽織った後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
「……参ったで……ほんま……」
朝見が自分に会いに来た本当の理由が、ファットガムにはわかっていた。
女は男の誇りを傷つけ、男は女の願いを切り捨てた。そんな別れ方をしたふたりだ。もしやりなおしたとしても、同じことの繰り返しになるだけだ。ファットガムはそれを知っていたし、おそらく朝見もそうだろう。
賢い女だ。覆水が盆に返らぬことに思い至れぬはずはない。
だから、よりを戻すためではなく過去と決別するために、朝見は来た。未練を断ち切り、春から迎える新たな環境で、自分がより高く羽ばたくために。
普段のファットであれば、それを心から歓迎しただろう。あえて自分を傷つけに来た彼女のために、未練を断ち切るこの汚れ役を喜んで演じたことだろう。
だが今は、どうにもやりきれない気分だった。ただでさえ、大きな仕事の前は神経が高ぶる。
ファットガムには、朝見に対する未練はない。けれど一度胸の底に沈めた思い出を、無理矢理引き出され、広げられたような気分ではあった。
「ファットさんかて、誰かに癒して欲しい時くらいあんねんで……」
ヒーローも人の子だ。誰かにすがりたい夜もある。特にこんな、危険な任務を控えた夜は。
まったくと頭を振った瞬間、ファットガムの脳裏に浮かんだのは、ひとりの女の顔だった。
反射的に、そらあかんやろ……と心の中で呟いて、同時に、どうしても会いたいと強く思った。
けれど今夜は、何もせずに帰すことなどできない気がした。身体がひどく欲している。女の肌に触れ、肉と欲と快楽とそして優しさに包まれ、溺れるように過ごす一夜を。
むろん誰でもいいというわけではない。いま欲しているのは、小夜ただ一人だ。
現在のファットにとって愛と欲と熱は同じ位置にある。それらがばらばらに存在し手が届かなかった年齢はすでに過ぎ、同時に、同じ位置にあるそれらを分けて考えられる年齢に至るにはまだ遠い。
ファットガムは己に問いかける。
あと十年、いや二十年もしたら、危険な任務の前であっても、好きな女の顔を見るだけで満足できる境地に至るのだろうかと。
それに対する、己からの答えはない。
胸の中でこだまするのは、いらえではなく小夜が過去に言ってくれた言葉だ。
「じゃあ、ファットガムさんが困るようなことがあったら連絡してください。いつでも行きます」
「ずっと、そばにいます」
(あかん……!)
心の叫びとは裏腹に、ファットガムはポケットから携帯端末を取り出した。ホーム画面に表示されている時刻は九時。つきあってもいない女性を呼び出すには、非常識ともいえる時刻だ。けれど。
(あかんて……)
心の声を無視して、流れるように指が動く。
受話器マークのアイコンを押し、連絡先をスクロールする。
(やめんかい!)
頭の奥で己が怒れる声がする。だがファットの指はそのまま、ウィクトーリア社担当と書かれた画面の、通話ボタンを押した。
「はい、湧水です」
驚くべきことに、ワンコールで相手が出た。
「こんばんは。ファットガムさんですよね?」
「ん……」
「どうかされました?」
「……小夜ちゃん、前にうちの事務所で君が言ったこと覚えとる? その……俺が困ったときっちゅう、あれ……」
「覚えてますよ」
矛盾しているが、ファットガムはこのとき、己の申し出を断ってくれと強く祈った。断られれば、諦めもつく。
会うだけで帰してやれるとは思えない。だから会ってはいけない。けれどもどうしても会いたい。二律背反するこの感情は、いったいなんだ。
欲なのか、本能なのか、情熱なのか、恋なのか、愛なのか。それともそのすべてであるのか。
「今夜……俺のこと救けてくれへん?」
端末の向こうで、はっと息を飲むような気配がした。
そして緞帳のような重たく厚い沈黙が、ファットガムの上に降りてきた。
2021.4.24
ファットはコミットしても腹筋は割れないんですが(hrks先生談)今回は本人が言うように身体を絞りすぎたのでエイトパックになってます。このあと少し戻します
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