壁のカレンダーを眺めながら、ファットガムはため息をついた。
ふたりで平太に出かけたあの日以来、小夜の姿を見ていない。カレンダーの数字を追ってみれば、もう半月近く経つ。
小夜はファットガムの恋人でもなければ友人でもなく、言ってみれば業者のひとりだ。だからこれが別の時期であれば、まああることだと思う。
しかし小夜の訪れがなかったこの半月は、年末年始を挟んでいる。通常はどこの会社の営業も、年末には一年の締めくくりの挨拶に来るものだ。年始は年始で挨拶がある。
だが仕事始めから数日が経過した今となっても、小夜からはなんの音沙汰もなかった。年始の挨拶がこれからだとしても、年末の挨拶がなかったことはどうにも腑に落ちない。
「来ぉへん……」
はあーっ、と大きなため息をつきながら、同じセリフをもう一度。
そこにかぶせられたのは、相棒たちの声だった。
「やかましわ」
「そら来られんやろ。せっかくふたりでお出かけできたっちゅーのに、元カノの話されて、しかも未練たらたらな様子みせられたりした日にゃ、悲しゅうて顔なんか出されへんわ」
「わざわざコミット時にどんだけ食うかなんていらんデータの話までしてチャンス作ったったんに、あんたほんまなにしとんねん」
「はあ、なっさけな」
相棒たちの言葉が、ファットガムの大きな身体にグサグサと突き刺さる。
もちろん、あの日のことを自分から語ったわけではない。しつこい追求はあったが、すべてのらりくらりとかわしてきた。自身の恋愛事情をペラペラと語るほど、ファットガムは青くない。
昨夜、こいつらを連れて平太に行ったのは失敗やった、とファットガムは思う。
平太に出向いたのは、小夜と行ったあの日以来だ。ファットガム事務所は年末警備担当であったし、またファット自身が年末から今日までずっと休みなしだったためだ。休みがなかったのは年始に緊急呼び出しが続いたせいであるが、相棒をねぎらうのはまた別と、平太にて事務所の新年会を催したのが、大きな間違いであった。
「なんで好きな女とサシ飲みしとんのに、長々と元カノの話しとんねん」
少年は開口一番こう言った。この一言で、それまでかわしてきたことすべてが水泡に帰した。
相棒たちはどういうことかと少年にたずねる、少年はこういうことだと声高に語る。
以後、相棒たちからはいじられ通しだ。
「ほんま、あかんことくらい中学生でもわかるちゅーねん。なあ環、おまえもわかるやろ。こん人あほやで」
「ええ。バカかと思いますね」
雄英は冬休みが今日までで、明日から三学期だ。けれど一日おいた明後日は土曜。なので環には始業式と土曜の授業を欠席してもらい、そのままインターンを続けさせている。学校側には了承済みだ。
その環は、今のように相棒に対しては敬語を使うが、事務所のボスであるファットガムには友人同士のような砕けた言葉遣いをする。インターン初日にそうするよう、ファットガムが命じた。才能はあるがメンタル面に問題がある環に対しては、フレンドリーに接することから始めようと考えたからだ。「環くん」とは呼ばず、「環」と呼び捨てにしているのもそのためだ。
懐いてくれたのは嬉しいことだが、最近はあまりにも自分に対して遠慮というか容赦がなくなってきている気もする。
こちらではあほというところをバカというあたり、関東者の環らしいが。
「バカてなんやねん。しゃーないやんか、おっちゃんらが言いだしよったんやから。それまではけっこういい雰囲気やったんや」
そう、途中まではいい感じだったのだ。自己紹介と称して己を売り込みついでに小夜の情報を収集し、そこから好きなタイプに持っていって、あわよくば、と。
ところが一番いいところで邪魔が入った。悪いことに、なにがあっても出ないわけにはいかない電話だった。自分の持てるコネをすべて使って、やっと得られた貴重な情報だ。なんとしても逃すわけにはいかなかった。
あの時、小夜は「よ……」といった。続く言葉は何だったのだろう。
よけいなお世話なのか、酔いすぎですよなのか、あるいはよろしくお願いしますであるとか。あのタイミングで電話がかかって来なければ、自分と小夜の関係はなにかが変わっていただろうか。
そして通話を終えて戻ってきたら、すでに小夜は常連の年配者たちに囲まれていた。
「それにしたって、なあ」
「二件目誘うとか、なあ」
「「やりようはなんぼでもあるやんか」」
「……うう……ハモらんでもええやんか」
「ファットが地域の人たちとの関わりを大事にしとるんは知っとる。せやから百歩譲って平太での出来事はええわ。やけど、なんでそのまま帰すねん。勝負はそっからやろが。二件目行かへんならひとけの少ない道やら川沿いの遊歩道やら通って、チューでもしたったらええやんか」
相棒の言葉を聞きながら、帰り際のやりとりは絶対言わん方がええやろな、とファットガムは思った。満月の下で月が綺麗と言い合っただけなんて、笑われてしまいそうだ。
「そないなことできひんよ。ファットさん純情やねんから」
「なにが純情や。アラサー男が何サブいこと言うとんねん」
「自分、ほんまさっきから俺に厳しいな」
「そら、ヒーロー業はともかく、こと女に関してはファットガムセンセより上やと自負しとりますから」
「……まあ、おまえは……そやな」
ファットガムは白旗をあげた。
先ほどから厳しくファットガムを責め立てているのは、黒衣をまとった相棒だ。
この男はとにかく見た目がいい。すらりとした体躯に整った面差しを持つ、女受けする容貌だ。そしてこの男は美しいだけでなく、人の心の機微を読むのがうまい。なにしろ、ファットガム事務所に来る前は、敵相手のハニトラも行っていたくらいだ。そんな彼が陰でスケコマシと呼ばれていたことも、ファットガムは知っている。
この男、少し前につきあっていた女性とはすでに別れ、年末からはまた別の女とつきあっているらしい。次から次へとマメなこっちゃと思うが、そういう男から見た自分と小夜の関係は、さぞかしまだるっこしいことだろう。
それでも、とファットは思う。
小夜とはもう少し時間をかけて、ゆっくりと関係を育んでいきたい。
まず恋愛そのものが、ファットにとっては久方ぶりだ。元カノとは二年ほど続いたが、それももうずいぶんと前のこと。付き合い始めたのは六年も前だ。
ファットガムが二十二になったばかりの頃の話だ。朝見がアシスタントをしていた番組に呼ばれたのがきっかけで出会い、かわいい顔に似合わぬ食いっぷりのよさに惚れた。口説いて口説いて口説き通して、やっと振り向いてもらった女だった。
西の武闘派として名前をあげ始めていた頃のファットガムと、アシスタントではあるがアイドルアナとしてすでにそれなりの人気があった彼女。知名度も年齢も、いろいろな意味で彼女のほうが上だった。
だからこそ、臆面もなく真っ正面から好きだと言えた。失う物がなにもない若さ故の情熱だ。だが今のファットガムには、あれと同じことはできない。
二十二には二十二の、二十八には二十八のやり方がある。
なにせ小夜から見ればこちらはクライアント。自分で言うのもなんだが、ファットガムは関西地区で絶大な人気を誇るヒーローだ。
そんな相手に言い寄られてしまったら、彼女の立場で断ることは難しいだろう。話のもっていきようによっては、大問題にもなりかねない。
だからバカと言われようがヘタレと笑われようが、ここは慎重に慎重を重ねて困ることはない。そう考えるのは言い訳だろうか。
人は年をとればとるほど恋に対して臆病になる、と言ったのは誰だっただろう。
「せやけどなあ」
と、黒衣の相棒が片方の眉を上げてファットを見上げた。やけに挑発的な表情だ。
「俺、ほんまはなんで彼女が年末に来ぉへんかったか知っとるで」
ぴく、と、ファットガムの頬が引きつった。
「あの子な、年末インフルエンザで寝込んどったらしいわ」
大丈夫か、と腰をあげかけ、小夜の実家が大きな総合病院であったことを思いだし、ほっと息をついた。それよりも、気になることがひとつある。
「自分、なんでそないなこと知っとるんや」
「さあ、なんでやろうねぇ」
「あ゛ぁ゛?」
響いたのは、対敵用の低くドスの効いた声。
ギリギリのところで己を制し、ファットが相棒を睨みつけた。なにせ、この男の二つ名はスケコマシだ。
ビリビリとした空気を真っ向から受けとめ、黒衣の男はにやりと笑った
「俺の本業はスケコマシやのうてヒーローやで。情報収集が得意ななぁ」
「……ほどほどにしとき」
からかわれたことに気づいたファットが嘆息すると、相棒が再び片方の口角をあげて笑った。
この男は悪い奴ではないのだが、こういう悪趣味なところがある。これ以上いじられるのはたまらない。だからファットは立ちあがった。巨体を揺らして。
「パトロール行ってくるわ」
告げた瞬間、膝と腰がずきりと痛んだ。いや、身体じゅうの関節がさきほどから微妙に痛い。年末から休みなく活動していた故か、昨夜の捕り物で暴れすぎたか、それとも体重を増やしすぎたか。そういえば、身体も常より重い気がする。
脂肪は据え置きで、も少し筋力つけなあかんな、と心の中で呟いて、ファットガムは事務所を後にした。
「よってきーや」
「これ食うてってや」
市井のひとびとの声に、またな、と答えて歩を進める。
そういや今日は食欲もあらへんな、とファットガムが思ったその時、普段なら気にもとめない、ピンク色の物体が視界の中に飛び込んできた。
花屋の店頭に並んだ八重咲きのかわいい花だった。薔薇ほど派手ではなく、かといって百合ほど堅苦しくもない。きれいだけどかわいく愛らしい、華やかだけれど清楚な感じもする。その様子がどこか想い人に似ていると思った。
ファットガムは大抵の男性同様、花の種類にはうとい。チューリップと薔薇と百合とひまわりはわかるが、そのほかの花の名はよく知らなかった。桜と梅と桃も、結実していなければどれがどれやら区別がつかない。
「おばちゃん、これなんちゅー花?」
「なんやファット。うちに寄るなんて珍しなぁ。それはラナンキュラスや。かわいいやろ」
「ん、たしかにかわいいな」
ふわりと笑った小夜の顔が、脳裏に浮かぶ。
「これ十本ほどもらうわ。あとで事務所に届けといて」
「はいよ。ところでファット、あんたんとこ花器はあるんか?」
「あらへんな」
「せやったらアレンジにして届けよか? 籠やけど入れ物つくし、水替えもスポンジに水含ませるだけやから楽やで」
「ああ、ほんならそれで頼むわぁ」
「ラナンキュラスの他はなに入れよ?」
「俺そういうのわからへんからなぁ。花はピンクのそれだけでええねん」
「やったらこっちのフォックスフェイス入れたらどないやろ。黄色でコロンとしてて、なんやファットっぽいやんか」
花屋の店主が黄色い実を手に取った。確かに、上下逆さにして見ると、コロンとしたその実は自分とよく似ているような気がする。
彼女とよく似た可憐な花と、自分を思わせる厚みのある黄色の実。
「……ほんならそれも頼むわ」
料金を払い、店を出た。
好きな女に似ている花と自分と似た実を買うなんて、我ながら気持ち悪いとは思う。だがその二つが並んだ様子を想像しただけで、なんだか心が浮き立つようだ。
けれど浮き立つ心とは裏腹に、なぜか身体は重かった。
***
事務所に戻ると、すでにさきほどの花が届けられていた。
籠にいけられたそれを所長机に置き、自身もその前に腰を下ろす。と、壁のホワイトボートに、新たな伝言が書き込まれていることに気がついた。
ウィクトーリア社湧水さん、明日夕方挨拶伺い……と書いてある。
明日会えるんやなぁ、とファットはゆるりと口角を上げた。
「ファット、たこ焼きやります?」
「ん? 今はええわ」
今は目前のアレンジメントを眺めていたい。
(やって、かわいいやん。小夜ちゃんによう似た花と、同じ籠に収まる俺に似た実……)
思わずウフフと声を漏らしてしまった。
相棒たちが気味の悪いものを見るような目でこちらを眺めているのに気がついたが、そんなのもう、どうでもいいような気がした。
「あれ、どないしたんや」
「見なかったことにしとき……」
「あの黄色い実、ちょっとファットっぽいですよね。それにあのピンクの花……」
「見たらあかんし言うてもあかん。何考えてんのか透けて見えるだけにサッブイわ」
「でも……」
と、環が首をかしげる。
「それにしても、なんかおかしくないですか? ファットが何も食べずにずっと花を見つめてるなんて」
「……そういやぁ……そやな」
「そういえば、あん人、出勤してから何も食うとらんのちゃうか。今日はまだたこ焼きも焼いとらんで」
普通のオフィスで、出勤してから昼までの間何も食べないのは普通のことだ。が、しかし、このファットガム事務所では普通ではない。たいていにおいて、所長のファットガムはなにかしらの食物を口にしている。
三人は顔を見合わせ、そして次におそるおそるファットを見やった。
とろんとした目、上気した頬。うふふと笑いながら花を見つめる、けだるげな表情。その身体は、朝より一回り小さくなっているようにも見える。
「あれ、もしかして恋に焦がれてるんじゃなくて……」と環が声を震わせると、「発熱しとる?」と相棒が答える。
環が意を決したように立ち上がり、ファットガムの額に触れた。
「……熱い」
「ほんまかいな」
環の言葉を受けた相棒もまた立ち上がり、ファットガムの額をおさえる。
「うわぁ。熱っっっゥ! こらあかん。センセ呼べ!」
このときのファットガムの体温は39度。そしてそれから半日後の検査で、彼のインフルエンザ陽性が確定した。
***
「インフルエンザですか、心配ですね」
「そうなんや。鬼の霍乱やで。昨日発熱しよってな」
「あん人年末からこっち休みなしやったから、疲れも溜まっとったんやろ」
「大変だったんですね。お大事にとお伝えください」
ファットガムはこの建物の上で一人暮らしだったはず、大丈夫だろうか、と心配しながら小夜がきびすを返しかけた、その時。
「ところがなぁ」
と、続けた者がいた。黒衣の相棒である。
「ちょお、困ったことがあってん。さっきファットからすぐ食えそうなもん頼むわ言われてこれ買うてきたんやけど」
「はい」
相棒が袋を掲げる。中には、スポーツドリンクと栄養補給のゼリー、そしてレンジで加熱するタイプの冷凍雑炊が入っていた。
「よう考えたら、俺ら誰もインフルやってへんのやわ。しかも、予防接種も受けとらん」
「あ、では私がお届けしましょうか。インフルエンザは年末にやりましたし。このあとは特に用事もありませんから」
夕方からのアポイントメントであったため、会社には社には戻らず直帰すると伝えてある。定時はすでに過ぎていることだし、そのあたりは問題ない。
「ほんまかいな」
「お住まいはこの上でしたよね」
「いや助かるわあ」
お任せ下さい、といらえて、小夜は事務所を後にした。
*
事務所の扉が閉まると同時に、環が声をあげた。
「あの……俺、予防接種受けてますよ」
「心配すな。俺らも受けとる」
「こんなことして、あとでファットに怒られませんか」
「せやって、あのふたり、見てていらいらせえへん? あんなんどっからどう見ても両思いやん」
「まあ、そうですけど……業者さんにああいうことをお願いするのはまずいんじゃ……」
ここは街の平和と正義を守るファットガム事務所だ。だが悲しいかな、この中で一番まともな発言をしたのが高校二年生の環であった。
それに大人ふたりが笑いながら応える。
「まあええんちゃう? めっちゃ心配そうにしとったし。こうしてこっちでお膳立てしてやらんと、あん子も立場上お見舞いひとつ行かれへんやろ」
「立場といえばファットもや。さっきはああやってけしかけたけど、俺ら無名の相棒と違うて、ファットは有名ヒーローでここの所長や。立場上、担当営業に想い伝えたりできひんやろ。有名であることを悪用できるような男ともちゃうしな」
「……」
「それに目病み女に風邪引き男ちゅうてな、熱のあるときの男っちゅうのは色気が増すもんなんよ。これがきっかけで二人ができあがってくれたら、めでたいやんか」
そんな会話が事務所内で繰り広げられていたことなど、小夜は知るよしもない。手渡された食材を手に、裏へ回り、階段を昇り、ファットの家の扉前へ。
扉の前で大きく深呼吸して、小夜はファットの家の呼び鈴を押す。
一呼吸して返答があった。インターフォン越しに聞こえてきた声は、いつもよりどこかセクシーで。
「ウィクトーリア社の小夜です。事務所のみなさんに頼まれて食材をお持ちしました」
「なんや、あいつら君にそんなこと頼んだんか。堪忍なぁ。許したって」
数十秒ののち、扉があいた。出てきたのはパジャマ姿のファットガムだ。だが、その姿はいつもよりずいぶんと小さくなっている。顔も、肩も、胸も、そしてお腹も。
熱で脂肪が燃焼した魅惑のイケメン、コミットさんがそこにいた。
「おおきに」
「お大事にされてくださいね」
「ぉん」
と、小夜から食材の入った袋を受け取ろうとしたファットガムが、うぉ、と小さく声をあげ、その場にがくりと膝をついた。
「大丈夫ですか?」
「んー、だいじょぉぶぅ」
これは絶対大丈夫ではないだろう。
ファットガムのこんな姿を見るのは初めてで、小夜の胸の奥がきゅうんとうずいた。
「……まずファットさんはお布団に戻りましょう。食材は後で片付けます。申し訳ありませんが、ちょっとだけ上がらせてもらいますね」
「ん……」
失礼します、と言ってから玄関のあがりかまちに足をのせ、ファットガムをゆっくりと立ち上がらせた。といっても、小夜は軽く手を貸すだけだ。痩せたといっても元が元。コミット時のファットガムは筋肉質のがっちり体型だ。とても小夜に支えきれるような重さではない。
持ってきた食材はそのままに、声をかけつつ歩を進めた。廊下をまっすぐ行くと大きな扉があり、その先は広めのリビングダイニングだった。
オレンジイエローのラグが敷かれたその部屋には、大きなテレビに大きなソファと、そしてファットガムの等身大ぬいぐるみクッションが置かれていた。
「寝室、どちらですか」
「……あっちぃ」
彼が指さした先に、開け放たれた扉があった。なんとかそこまで歩かせて、規格外の大きさのベッドに、大きな身体を横たわらせる。
「おーきに……」
「ノドとか乾いてませんか?」
「……カラカラやわ」
「今持ってきます」
「や、悪いわぁ。あんまり長く一緒にいると移ってまうで」
「インフルエンザは年末に罹患したので大丈夫です。食材しまうのに冷蔵庫を勝手に開けさせてもらいますね」
「ん……」
寝室を出て、キッチンへ。
ファットガムの家は、置かれているものすべてが規格外の大きさだった。彼の身長に合わせて作られているのだろう。流し台の高さには冷や汗が出たし、その脇の冷蔵庫の大きさは業務用レベルだ。
小夜は雑炊を巨大な冷凍庫に入れた。肉や魚介類がたくさん詰まった、充実した庫内だった。スポーツドリンクと栄養ゼリーは冷蔵庫へ。こちらはビールが数本と調味料、加工品が少し入っていただけで、すかすかだった。
昨夜今日で食べ尽くしてしまったのかもしれない。それを裏付けるかのように、冷蔵庫の脇に空になったきゅうりの袋とトマトのパックが放置されている。
念の為と野菜室をのぞいたが、ねぎや白菜はあるけれど、体調不良時にそのまま生で丸かじりできそうなものはなにもない。
またシンクには、使用した鍋や食器がそのままの形で置かれていた。きっと、食洗機にセットする気力もなかったのだろう。
冷凍の雑炊を持ってはきたが、これはこのまま帰れない、と小夜は思った。
「あの、よければお夕飯ご用意していきますね。そのご様子ではご自分でされるの、無理でしょう?」
「ええ、悪いわぁ」
「だいじょうぶですよ。困ったときはお互い様じゃないですか」
図々しいとは思いつつも勇気を出してした提案に、ファットガムは少し考え混むような顔をして、やがて恥ずかしそうにいらえた。
「おおきに……あるもん好きに使ったって」
「はい」
冷凍雑炊にするか作るか迷って、こちらで作ることにした。冷凍雑炊は明日の朝、彼が一人になった時のためにとっておいたほうがいいだろう。
「雑炊とおかゆ、どちらがいいですか?」
「……おかゆさんがええ」
「何か入れてほしいものあります?」
「たまごさん入れたって……あとネギも」
「はい」
おかゆさん、たまごさん、という言い方が可愛くて、つい口元が緩んでしまった。
***
先ほどまでふうふういっていたファットガムも、今はよく眠っているようだった。明日には熱が下がればいいのだけれど、と思いながら壁の時計を眺めた。
時刻は十時を回っている。ファットガムに食事をとらせ、片付けものや洗濯をしていたらあっという間に時間が溶けた。
彼のことは心配だけれど、一人暮らしの男性の家にいつまでもお邪魔し続けるわけにはいかない。
冷却シートを張り替えたらおいとましようと思いながら枕元に近づいて、彼の額に手を伸ばした。
と、その時、ファットガムが誰かの名を呼んだ。
自分の名のようにも聞こえたが、朝見の下の名のようにも思えた。なぜなら彼女の下の名と小夜の名は、音の響きが似ているから。
それでも小夜は「はい」と応えた。彼を安心させたいと思ったからだ。
するとファットガムはほっとしたような表情になった。
「なんや、君が看病してくれとるなんて、夢みたいやなぁ……そか……夢か。夢やな」
夢じゃないですよと言いさして、口をつぐんだ。彼があのひとの名前を呼んだら耐えられないと思ったからだ。
しかし、小夜が応えあぐねているその数秒のうちに、ファットガムはふたたび寝息を立てはじめた。
寝ぼけていたのか、それとも熱に浮かされたのか。いずれにせよ、高熱が出ているときは、大人でもたまにあることだ。
そう思って立ち上がろうとしたその時、再び声がかけられた。
「帰ってまうの?」
「え? あ、はい」
「いかんといて……」
小夜は目を見開いてファットガムを見やった。彼の目は閉じている。夢でも見ているのだろうか。けれど、いまにも消え入りそうな、弱々しい声だった。いつもの力強いファットガムとは別人のような、その様子。
思わず枕元に座り直すと、彼はもう一度、小さく呟く。
「そばにいたってぇ」
打ち込まれた言葉の弾丸は、小夜の胸に大きな風穴を開けた。
反射的に「大丈夫、いますよ」と答え、同時にこれはしかたない、と小夜は思った。
好きなひとからのこんな懇願に抗える女がいたら、見てみたい。とうてい自分にはむりだ。
こんな銃弾を撃ち込まれたら、彼に恋い焦がれている自分は両手をあげるほか、方法はない。
「ずっと、そばにいます」
応えた声にもう一度かぶせられた、おおきに、というちいさないらえ。
小夜は心の中で大好きです、と呟いて、未だ熱を持つ額に手を当てた。
あなたがいま夢に見ているのは、誰なのでしょうか。
それが自分であるとうぬぼれることは、許されるのでしょうか?
わからぬままに触れた金いろの前髪は春のひざしのようにやわらかく、小夜の指のあいだをさらさらと流れ落ちていった。
2021.4.17
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