ラブマイナスゼロ
後編

 メトロの階段を上がりきると同時に、寒風が小夜の髪を揺らした。首筋を抜けるやいばのような北颪。2月の街に吹く風は、痛みを感じるほどに冷たい。
 下げていたストールをくるりと首に巻きなおして、数メートル先にある目的のビルに視線を転じる。そこでビルの壁にもたれて端末をいじっているのは、小夜の大好きなひと。
 今宵の彼はチャコールグレーのニットにベージュのチノ、以前も着ていたイエローオーカーのマウンテンパーカーを身につけている。その足元はごつめのブーツ。
 どこにでもいそうな、普通のカジュアルファッション。でもその力が抜けた感じが、やっぱり逆にかっこいい。

 視線を感じたのか、ファットガムがこちらに気づいた。軽く手を上げた彼に、小夜は駆け寄る。

「お待たせしちゃってすみません」
「や、こないな時間に呼び出してもうたんやから……」

 頭をかきながらファットガムが続ける。

「普段はそういうカッコしとんやな」
「はい」
「かわいいやん。お嬢さんってかんじや」

 ファットガムが軽く目を細めた。この微笑に、小夜は弱い。

「今日は、コミットさんなんですね」
「ああ。俺、明日から潜入捜査なんや」
「潜入ですか。珍しいですね」

 ファットガムが潜入捜査をするとは初耳だった。それに彼の事務所には、潜入に長けた個性を持った相棒がいたはずだ。
 小夜の考えを察したのか、また、ファットガムが目だけで笑んだ。いつもは大きく開かれている琥珀色の目。それをほんの少し細めるだけなのに、どうしてこんなにどきどきさせられてしまうのだろう。

「潜入って、なんやこう、響きがかっこええやろ?」
「かっこいいですね。で、正体がばれないように、そのお姿に?」
「せや。やけど絞りすぎてもうてな、もうちょい脂肪つけなあかん思とんのや。これやといざって時、ちょお厳しい」

 いざというときという言葉の意味を噛みしめて、足が震えた。正体を隠して潜入した捜査員が個性を使う状況。そこで考えられることはひとつだ。
 またしても小夜の思考を読んだのか、ファットガムが眉を下げ、ちいさく笑う。

「そんな顔せんといてぇ」

 声と共に、やさしくつつかれた頬。
 人差し指で小夜の頬に触れたまま、ふふ、とふたたび眼を細めたファットガム。その行動と、声の甘さにどきりとした。

 このひとは、こんなふうにスキンシップを取る人だっただろうか。
 いままで、こんなふうに触れられたことがあっただろうか。

 なんだか今夜のファットガムはいつもと違う、そんな気がする。いま彼がまとっているのは、男の色気だ。もともとこの姿になるとセクシーになるひとだけれど、今日は常よりも尚、その傾向が強い気がする。濃厚で濃密な色香が、全身からにじみ出ている。

「君ね」

 とまどう小夜に、ファットガムが静かに告げる。

「呼び出した俺が言うのもなんやけど、こないな時間につきあってもいない男に呼び出されて、来たらあかんよ」
「えーと……」
「あ、せやから俺が言うのもなんなんやけどもな」

 ファットが言わんとしていることはわかる。小夜も、電話をかけてきたのがファットガムでなければ来なかった。いや、実際のところ、彼であってもかなり迷った。
 答えあぐねている小夜に、ファットガムは、まあええわ、とぽつりと呟いて、そして続けた。

「ほな、行こか」
「どちらに?」
「ええとこ」

 低い声でささやくようにそう言って、ファットガムはゆっくりと歩き出した。向かったのはもっとも大きなアーケードに続くメインストリートでも、彼の事務所がある商店街の方向でもない。彼が入っていったのは、道路を渡った先にある細い路地だった。

 街灯があるのに、やや薄暗く感じるその通りを小夜は知らなかった。どこに向かっているのだろう。
 いつも饒舌なはずのファットガムは、黙ったまま歩を進めてゆく。
 隣に並ぶと、彼はなぜか歩を早めた。不思議に思って大きな身体の後ろにつくと、彼はまた、歩を緩める。
 なんだろう。自分が隣にいるのを誰かに見られたくないのだろうか。それとも、別の意図があるのだろうか。いずれにしても、いつものファットガムとはまったく違う。

 そのうちに、ネオンサインに彩られた看板が立ち並ぶ一角に出た。南国風の建物あり和風の建物あり、ビジネスホテル風の建物ありといった一貫性のない建物が並ぶ、どこか雑然とした雰囲気の通りだった。
 それぞれの建物の入り口は植え込みで隠されており、わかりやすい位置に、サービスタイム、ご休憩、ご宿泊と書かれた看板が設置されている。経験はなくとも、ここがどういう場所かということくらいは小夜にもわかる。
 ファットガムの歩調が、よりいっそう緩められた。

 それらのことに気がついた瞬間、小夜は目の前が真っ暗になったような気がした。降りてきたのは絶望という名の緞帳だ。

 まさかと思い、また同時に、やはりとも思った。
 四日前にチョコレートを渡したとき、ファットガムは微妙な顔をした。彼はあの時気づいたはずだ。小夜の気持ちに。
 個人的な返事はなく、事務的に来月のお返しの話をされた。その時点で望みがないことは、小夜にもわかった。

 いや、はじめからわかっていたはずだ。相手は人気ヒーロー。自分のようなごく普通のOLに手の届くような相手ではない。その証拠に、彼が昔つきあっていたのは一番人気の美人アナウンサーだ。
 ファットとは何度か食事をしたが、それはすべて仕事がらみだった。先月彼を看病したのも、こちらがずうずうしく上がり込んだから。
 この恋のつぼみが花開くことなどないと、はじめからわかっていた。そのはずだったのに。

 そんな相手から、バレンタイン当日の夜にいきなり呼び出されるということがどういうことか、考えなかったわけではない。恋心を悪用する男がいるということも、情報としては知っている。

 ただ救けてくれと言われたときの、切羽詰まった声が気になった。聞き慣れたハスキーな低音がひどく切実に耳に響いた。そう、まるで泣き声のように聞こえたのだ。
 だから来てしまった。さまざまな可能性を踏まえて考え、ファットガムならきっと、こちらの気持ちを悪用するようなまねはしないだろうという信頼もどこかにあった。

 けれど……と、小夜はすべてがわかったような気がした。
 歩き出してからずっと、ファットガムが黙っていた理由も。
 彼が今宵、小夜の前を歩きたがった理由も。

 おそらくファットガムは、小夜と顔を合わせたくなかったのだ。いや正しくは、彼が合わせたくなかったのは、顔ではなく目。
 なぜって、彼は素直で正直なひとだから。

 ファットガムは話もできなければ目も合わせられないような、そんな後ろめたい行為を自分に対してするつもりなのだ。きっと。
 それはいやだ、と小夜は思った。
 彼が自分を好いてくれて、そういう仲になるのならいい。けれど、ファットガムがこちらに対して後ろめたさを感じたまま行為に及ぶのだけは、どうしても嫌だった。

「あの……」

 前をゆくファットガムに、思いきって声をかけた。彼はやはり振り返らない。前を向いたまま、ゆるりといらえる。

「んー?」
「どこまで……行くんですか?」 

 たずねた声が、震えてしまった。本当に泣き出す寸前だった。
 すると前を歩いていたファットガムが、ぴたりと足を止めて、夜空を仰いだ。

 まるで永遠に続くかと思えた、だがおそらくは数十秒の沈黙。

 そののちに、彼は小夜が驚くくらい大きなため息をつき、ごく小さい声でなにやらぽつりと呟いた。
 ほんまになぁ、と言われたような気がしたが、本当にそうであったかはわからない。あまりに小さすぎるその呟きを、小夜の耳は捕らえきることができなかったから。

 もう一度大きく息をついてから、ファットガムが小夜にむかって振り返った。屈託ないいつもの笑顔で。
 その琥珀色の瞳には常と同じように、優しい光が宿っていた。

「もうちょい先ぃ」

 そう言って彼はまた歩きだした。先ほどまでとはうってかわった、早い歩調で。
 身長差のあるファットガムと小夜では、足の長さ、つまり歩幅が違う。だから彼のペースに合わせるために、小夜は小走りにならねばならなかった。

 ホテル街を抜けると、いきなり閑静な一角に出た。そのとたん、ファットガムの歩調がふたたび緩められた。軽く息を切らしながら隣に並ぶと、彼はこちらを見下ろして、やさしく口角を上げた。

 そうして五分ほど歩いた先にあるビルの前で、ファットガムは足を止めた。地下に続く階段がある、小さなビルだった。
 ファットガムが「ここやねん」としずかに告げる。
 階段の手前には置き看板がひとつ。それにBARと書かれていることを確認し、小夜はほっと息をついた。

 暗くまっすぐに続くやや急な階段に、ファットガムが先に足を踏み入れた。彼は階段を三段降りて、小夜に向かって手を差し伸べた。
 あ、と小夜は心の中で呟いた。普段はるか上にあるファットガムの顔が、自分のそれと同じくらいの高さにある。
 これは階段三段分の高さがなしえた魔法。

 立っているファットと同じ高さで顔を合わせるのは、小夜にとって初めてのことだ。やや金がかった琥珀色の瞳に映る、自分の姿。ゴールデンアンバーの中に閉じ込められた自分は、どこか頼りないたたずまいをしていた。

「ここの階段、急やから」

 手を差し伸べたまま、ファットガムが言った。
 その声を受け、小夜は彼の大きな手におそるおそる自分のそれを重ねる。指先が触れた厚い手のひら。続けて長い指が、小夜の掌をそっと包み込んだ。
 人を助け街を守り悪を挫いてきた手は、大きく厚く、そして温かい。

 手を引かれて階段をおりきると、木製の扉があった。ファットガムがお先にどうぞと言いながら、扉を開く。
 室内は薄暗いがいかがわしい雰囲気はない。カウンターとテーブル席がふたつあるだけの、小さな店だった。ちいさなキャンドルが点されたテーブル席には、客が二組。カウンターはあいている。バーカウンターの向こうには、ボウタイをしたバーテンダーが二人。一人は年配で口元に髭を蓄えている。もう一人は小夜と同じくらいの年齢の若者だった。

「いらっしゃいませ」

 低く呟いたのは店のマスターらしき年配のほうのバーテンダーだ。ファットガムがそれに軽くうなずいて、カウンター席に座った。小夜も彼の隣のスツールに腰掛ける。
 目の前にひとつキャンドルが置かれ、火が点された。

「なにになさいますか」
「俺はいつもの。ストレート……いや、今日はロックにしとくわ」
「山崎18年のロックでございますね」

 ん、とマスターにいらえて、ファットガムが小夜に向き直る。

「君はどないする? ここのマスターなんでも出来んで」
「山崎の12年をシングルで。炭酸割りにしていただけますか」

 かしこまりました、とマスターが答え、同時にファットが目を丸くした。

「しっぶいとこ狙ってきよんな、ハイボールかいな。カルーアミルクとか頼むんと思っとったわ」
「炭酸で割るのはもったいないかとも思ったんですけど、せっかくなのでわたしも山崎をと……」
「そういや君、平太でもカクテルやのうてビール飲んどったな。普段はなに飲んどるん?」
「スパークリングワインです。甘めのロゼとか」
「ああ、そっちはイメージぴったりや」
「炭酸が好きなんです。子どもみたいでしょう?」
「せやからビールとハイボール」
「はい」

 ファットガムが納得したようにうなずいたのと同時に、二人の前に飲み物が置かれた。一つは飲み口が広いロックグラス、そしてもう一つは背の高いタンブラー。

「では、かんぱい」
「ハイ」
「来てくれておおきに。バレンタインの夜やのに悪いなぁ」

 いいえといらえて、グラスを合わせた。口の広いロックグラスも、ファットガムの大きな手の中に収まるとダブルのショットグラスくらいの大きさに見える。
 互いのグラスの中で揺らめくのは、柔らかな色をした酒だ。彼の瞳の色とよく似た、深いけれども透明感のあるアンバー。

「……なにかあったんですか?」

 いや……とファットガムは少し気まずそうな顔をした。

「任務前に、誰かとお話したい気分になってん」

 その誰かがどうしてわたしだったのでしょうか、という言葉をハイボールと共に飲み込んだ。
 とたん、オーク樽熟成特有の甘い香りが口の中で広がった。ウイスキーなのに果実香があるのが不思議だけれど、これは美味なる酒が持つ特徴のひとつでもある。
 単純に見える水割りやハイボールというものは、実はバーテンダーの腕によって大きく味がかわるものだ。この店のハイボールは美味しかった。酒の持つ重厚な味わいとソーダの爽やかさのマリアージュが見事なほどに。
 しかし飲み込んだ酒は美味であったが、飲み込んだ言葉は微かな苦みを小夜の奥に残したままだ。その苦みをごまかすように、小夜は口を開く。

「素敵なお店ですね。ここにはいつも?」

 詰問するような言い方になってしまったことに気づいて、小夜は軽く眉を寄せた。あの美しい年上のひとが頭に浮かんでしまった自分を、嫌悪してしまったから。

 するとファットガムは、目だけで笑った。小夜の好きな、やや目を細めるだけのセクシーな笑い方。
 けれど男性的な色気はそのままだが、メトロの出口でみたときの笑みとは、なんとなく雰囲気が違う気がした。あの時よりも今のほうが、目の光がやわらかい。

「ここはぼくの隠れ家です。ひとりになりたいとき、ここ来るねん。しずかでええんや」

 グラスを回しながらファットが呟く。氷が溶けて、からりとちいさな音を立てた。

「誰かと来たんは、はじめてや。なあマスター」
「そうですね。いつもおひとりでいらっしゃいます」

 乾いたクロスでグラスを拭きながら、マスターが答える。
 小夜は今の言葉の意味を問いかけ、やはり再び口をつぐんだ。
 どうしていつもこうなのだろう。一番聞きたいことを聞くことができない。自分の中にこんな臆病者がいるなんて小夜は知らなかった。隣に座る、金色の髪のヒーローに出会うまで。

 ファットガムがグラスの酒をちびりと飲んだ。明日からの任務を控えているからだろうか、いつもの豪快さとは違う、ゆったりとした飲み方だった。

 飲みながら、とりとめのない話をした。
 商店街にできた新しいスイーツのお店のこととか、ジャムは苺とブルーベリーとではどっちが好きかとか、ほんとうにそんな、些細なことを。

「……あのさ」

 一杯目のグラスが空になる頃、ファットガムがぽつりと言った。

「はい?」
「せっかくやから、連絡先交換せえへん? 仕事用のやのうて、個人で使うてるほう」
「え、あ、はい」

 どきどきしながら、バッグから端末を取り出した。
 期待してもいいのだろうかと思いかけた自分に、甘い考えは捨てなさいと言い聞かせた。相手は人気ヒーローだ。心に抱いた恋の花が咲くことなどない。決して。

 にこにこしながら、ファットガムも携帯端末を出した。画面のサイズが一番大きいモデルだった。それでも彼の大きな手の中におさまると、こぢんまりして見えるものだ。

「ほお」

 小夜のロック画面を見たファットガムが声を上げた。それはつもった雪の中で咲く、たくさんのひまわりの画像。

「珍しなぁ。雪の中に咲くひまわりて」
「ですよね。ちょっと幻想的で素敵だなあと思って。SNSで写真家の方が待ち受け用にと配布されていたので、使わせてもらっちゃってるんです」
「ん。別世界みたいやなぁ。これCGちゃうん?」
「違うみたいですよ。たしか、甲信越地方で撮ったと書かれてましたね」
「すごいな。これは俺も見てみたいわ。この辺じゃ無理やろけど」
「そうですね。甲信越でもめったに見られない現象だったみたいですよ」

 これは自然のいたずらでおきたものだ。暖かい日が続いて夏の名残のひまわりが咲いたその数日後、一気に冷え込み、大雪が降った。そうそう起きない現象だ。
 沖縄あたりでは2月にひまわりが咲くところもあるらしいが、このあたりではだいたい夏だ。雪とひまわりの組み合わせは、まずありえないだろう。

「ああ、待てよ。そういや」

 と、ファットガムがグラスを傾けながら続ける。

「3月にひまわりが咲く岬があるちゅう話は聞いたことあんなぁ。なんでも、桜より早う咲くらしいで」
「それは初耳です。どのあたりなんでしょう?」
「どこやったかなぁ。たしか隣県だったと思うんやけども……ああそうや、日輪岬」
「ああ、地名もそのままひまわりなんですね」
「なん?」
「ひまわりのことを日輪草とも言うんです。行ってみたいですね」
「せやったら、一緒に行こか。俺、車出すわ」

 えっ、と弾かれたように顔をあげ、ファットガムを見つめた。彼は照れくさそうに笑っている。

「俺が任務から帰ってきたときまだ咲いとるようやったら、一緒に見に行こ。終わるまで一切連絡はとれへんねんけど、帰ってきたら一番に電話するから」
「……そういうの、まるで恋人同士みたいですね」

 思いきって、そう言ってみた。彼はなんと応えるだろうか。

「せやなぁ、恋人みたいやな」

 帰ってきたのは、やっぱりどちらともとれぬ曖昧なものだった。

 振り子のように、心は揺れる。
 わたしは期待してもいいのでしょうか、それともやっぱり違うのでしょうか。そんな言葉を飲み込んで、小夜はハイボールの入ったグラスを軽く揺らした。
 そんな小夜の心を知ってか知らずか、ファットガムは約束やな、と、また笑った。

 その後、同じものを二杯ずつ飲んで、バーを後にした。
 帰りはホテル街を通らず、川沿いの遊歩道を歩いた。目的地はこの先にあるこぢんまりしたタクシー乗り場だ。
 メトロで帰ると言った小夜に、ファットがタクシーを使うようにと言い張ったからだ。
 本当は、遊歩道の先の乗り場より、駅前の大きなタクシー乗り場のほうが近い上に車も多い。それでもふたりとも、そちらに向かおうとは言い出さなかった。

 ちいさな乗り場に着いたとき、一台のタクシーが客を乗せて走り去ったばかりだった。客待ちのタクシーも、他の客もいないタクシー乗り場で、小夜はファットガムと向き合った。

「今日は、ほんまおおきに」
「こちらこそです。バーのお代も払っていただいてしまって…」
「そら、こないな時間に来てもろたんやから当たり前やん」
「話して、気分転換になりました?」
「おお、めっちゃなったで。明日から頑張れそうや」
「あの……」
「なん?」

 やはり言わなければ、と小夜は思った。
 先ほどの約束は嬉しかったけれど、これ以上気を持たされて引っ張られるのはつらい。今日の呼び出しにも、連絡先の交換にも、ひまわりの約束にも、意味があるのかもわからない。
 だってこのひとはいつもそうだ。気があるようなそぶりをするのはその時だけ。

 振り子のようにこちらに近づいたかと思えば、次の瞬間には遥か向こうへ遠ざかる。遠ざかってはまた近づいて、近づいてはまた遠ざかる。その繰り返し。
 もう、こんな永久機関じみたどっちつかずの関係は嫌だ。叶わないならそう言ってほしい。この恋のつぼみがこれ以上ふくらむ前に、希望も何もかも摘み取ってほしい。
 ここで切り捨ててもらえれば、次に会うときまでには笑えるようにしておくから。

「どうして、わたしだったんでしょうか」

 いろいろな言葉を省略して、そうたずねた。
 おそらくファットガムは、すべてわかっているだろうから。小夜の気持ちも、聞きたいことも、すべて。
 するとファットガムは、いたずらがみつかった子どものような顔をした。眉を下げながら、彼は続ける。

「せやなあ。こないな時間に呼び出したり、連絡先聞いたり、デート誘ったり、ええかげんはっきりせえ思うわな」

 そうして彼は、腰を大きくかがめて、小夜と目線を合わせた。近づいたのは琥珀色の瞳だけではない。二人のあいだで揺れ続けていた振り子もだ。
 振り子は近づく。小夜の心すれすれに。

「いつまでも引っ張るようで、ほんま悪いんやけど……」

 近くまで来た振り子がまた遠ざかる。遥か向こうへ。
 小夜は軽く眉を寄せた。ファットガムはそれに気づいたようすだったが、そこには触れず、まっすぐに小夜を見つめて静かに続けた。

「その答え、潜入捜査が終わるまで待ってくれへん? もちろん、ええかげんな気持ちとちゃう。あんな……そやって君が待っとってくれとる思たら、俺、めちゃめちゃ頑張れそうな気ィするんやわ」

 返す言葉を失って、小夜は唇を引き結んだ。
 ファットガムが控えた任務が、それだけ危険であるとわかってしまったから。

 小夜たちヒーローのサポートを生業にする者たちは、クライアントであるヒーローの心理についてもある程度のことを学んでいる。高校や大学、会社の新人研修など、さまざまなところで。

 そのなかで「ぎりぎりのところで人の生死をわけるのは生きるための目標の有無である」という話を聞いたことがある。目標のあるなしで、ヒーローの生存率は大きく変化するらしい。もちろん生き延びられるのは前者だ。
 だからヒーローは危険な任務に赴く前に、絶対に生きて帰るための目標を作り、自らを縛ることがある。たしか、そんな話だった。

「なんやこれ、ドラマとか映画やったら死亡フラグやんなぁ」

 声をあげて、ファットガムが笑う。
 このひとはとてもよく笑う。もともとの人柄がほがらかだからだろう。ファットガムという人は、ほがらかで、おおらかで、そしてやさしい。
 けれどやさしいこのひとが笑うのは、楽しい時だけではない。ファットガムは人を安心させるためにも笑う。そのことを、小夜はすでに知っている。

 目前の景色がじわりと滲んだ。せり上がってきたのはファットに対する恋心と涙。だが今は、絶対に泣いてはいけないと思った。
 なにか言わなくては。けれど、なんと言えばいいかわからない。笑って危険な任務に赴くこのひとへ贈る、正しい言葉はなんなのか。
 わからぬまま、小夜は必死に涙をこらえた。

「ああ、悪い冗談言うてすまんなあ。心配させてしもたか。大丈夫やで。危険はないんや」

 そう言いながら、ファットガムが眉をさげる。困ったように。

 そもそも、最初からおかしかったのだ。切羽詰まった声でいきなり会いたいと言ってきたり、物色するような様子でホテル街を通ったり。それはきっと、彼自身にまったく余裕がなかったからだ。
 いま一番不安なのはきっと彼であるはずなのに、このひとはこうして自分のことよりも人のことを心配する。
 大きくて、強くて、朗らかで、明るくて、おおらかで、そして優しい人。
 そんな彼にわたしができることはなんだろう、と小夜は己に問いかける。

「あの、お手をお借りしてもいいですか? こう、グーにしてもらって」
「ええけど? なん?」

 突然の提案に、ファットが元から大きい目をますます大きく丸くした。小さく笑んで、小夜は答える。

「おまじないです。わたしこどものころ緊張しいだったので、リラックスさせるために母がよくやってくれたんです。……子どもみたいではずかしいですが、よろしければ」

 普段はおどけているけれど、こういうときにひとを馬鹿にしたり笑ったりしないところも、ファットガムの魅力のひとつだ。彼はちいさくうんとうなずいて、そっと右拳を差し出した。
 失礼しますと前置きし、小夜はその手を両手で包んだ。両の手のひら使っても包みきれない、大きな、大きな拳。

 小夜は彼の攻撃力や防御力を、データですべて確認している。この拳がインパクトの瞬間、どれほどの威力を生むのかも。
 そしてまた同時に、個性未使用時の、この拳の限界も。
 敵の攻撃を蓄積する脂肪がないということは、反撃時の威力もまた激減する。そしてそれをもっともよく知っているのは、目前にいるこのひとだ。
 それでも個性を使えぬこの姿でゆくと彼は言う。それなら、自分ができることは一つしかない。

「大丈夫。きっとうまくいきます」

 大きな拳を包んだ手に力を込めて、己の額に当てながらつぶやいた。ここまでは母が幼かった小夜にしてくれたのと同じことだ。
 けれど小夜は、そこにもうひとつだけ言葉を加えた。
 それは強い願いであり、祈り。

「あなたは、ぜったい、誰にも負けない」

 念を込めて呟いて、顔をあげた。とたん、目前にいたファットガムが眉間にきゅっと皺を寄せた。

 失礼なことをしただろうか。怒らせてしまっただろうか。命をかけて戦っているヒーローに、サポート会社の営業ふぜいがと。

 小夜が謝罪の言葉を口にしようとしたその刹那、彼の表情がくしゃりと崩れた。口をおおきくへの字にまげて、大きな目をより大きく見開いて。
 それは小さい子どもが泣き出す寸前の表情に、ひどく似て。

 こんなに強いひとも泣くことがあるのだろうか、と思った瞬間、ファットガムがかがめていた腰を伸ばして、ついと上を向いた。彼は背が高いから、そうされてしまうと小夜からはいっさいの表情が見えなくなってしまう。

「あの……」
「……ごめん、ちょお……そのまんまで待っとって」

 常よりも、ますます掠れているように響く彼の声。それを追うように聞こえてきたのは、ぐす、という鼻をすすり上げるような音。

 彼はしばらくのあいだ無言で上を向いていたが、やがて、こちらを向いた。
 金色の髪のヒーローが、赤い目をしてへにゃりと笑う。

「ええなぁ、今の」

 ははっ、と声を上げて笑ってから、彼は続ける。

「俺、今ならオールマイトにも勝てるんちゃうか、って気ィするわ」
「平和の象徴と戦う状況って、ヒーローとしてはアウトでは?」
「せやなぁ。俺、敵になってまうやんな」

 そう言いながらまたファットガムが笑ったので、小夜も彼に合わせて笑った。そうしてふたりが顔を見合わせ笑っていると、向こうから一台のタクシーがやってきた。

「……時間切れやな」

 目前にとまったタクシーに、小夜が乗り込む。

「運ちゃん。これで頼むわ。おつりはとっといてんか」

 ファットガムが財布から万札を取り出して、運転手に手渡した。

「そこまでしていただくわけには……」
「ええねんて。ほな」
「……待ってますね」
「うん」

 扉が閉まり、タクシーが夜の闇の中へと滑り出した。あっという間に、街の灯りとファットの姿がはるか後方へと流れていく。
 手のひらに残るファットガムの拳の温かさを思い出して、小夜は静かに目を閉じた。
 どうか無事で、と祈りながら。

 そして翌日、江洲羽の街から、BMIヒーロー・ファットガムの姿が消えた。

2021.4.29
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月とうさぎ