日輪草の約束 前編

――あなたは、ぜったい、誰にも負けない。
 あの子はこの拳を両手で包み、一語一語区切るようにしてそう言った。まるでなにかに、祈りを捧げるかのように。

 あの夜、メトロの階段をあがってきた小夜を見た瞬間、ファットガムは「なんできたんや」と口の中で呟いた。呼び出したのは自分であったはずなのに。
 そして次に湧き上がったのは、実に自分本位な考えだった。

(こないな時間に来たってことは、抱いてもええんか。もちろん俺は本気で惚れとる。せやから今夜限りでやり捨てなんて絶対せえへん。ずっと大事にしたる。約束する)

 身勝手な男の理屈だ。たとえどんな時間であったとしても、会いに来ただけでは性行為への同意にはならない。普通に考えればわかるごく当たり前のことだ。けれどものぼせ上がっていたあの夜のファットガムには、その当たり前のことがわからなかった。
 いや、心のどこかで、おかしいということはわかっていた。だから歩き出してから、ファットガムは小夜と目を合わせることができなかった。後ろ暗くて、後ろめたくて。
 理性に欲という名の蓋をしたまま街を彷徨った、バレンタインの夜。

 そんなファットガムを冷静にさせたのは、小夜だった。
「どこまで……行くんですか」
 声に、絶望が含まれていた。

 それに気づいた時、頭から冷水を浴びせられたような気がした。のぼせ上がっていた頭が、一気に冷えた瞬間だった。
 あの時声をかけてくれて本当によかった。そうでなかったら、きっと取り返しのつかないことになっていただろう。

「あなたは、ぜったい、誰にも負けない」

 耳の奥で、もう一度小夜の言葉がこだまする。
 言葉の強さとはうらはらに、泣き出しそうな表情だった。それなのに小夜はファットガムを見上げて、泣きそうな顔のまま笑ったのだった。
 その瞬間、ギリギリだった理性が再び吹き飛びそうになった。

 朝見と別れた後誰ともつきあわなかったのは、彼女が忘れられなかったからではない。同じような想いを誰かにさせるのはもう嫌だと思ったからだ。だからこそ、ファットは女性との関わりをできうるかぎり避けてきた。
 小夜と出会ったばかりの頃、自分の気持ちをなかなか認めようとしなかったのは、そういった背景もあってのことだ。
 だがこのとき、ファットガムは心の底から思ったのだ。

 この女や、と。 
 この女だけはなにがあっても絶対に離さへん、と。

 小夜は知っていたはずだ。個性を使えないときの、「ファットガム」の限界を。
 サポート会社の人間の前でヒーローは文字通り丸裸にされる。彼らは担当ヒーローのスリーサイズはおろか、ファールカップの大きさまでもを把握する。
 裸にされるのは身体だけではない。彼らはスーツやアイテムを作るために、個々の攻撃力や耐久力など戦闘力のデータも取る。
 サポート会社の人間は戦闘そのものについては素人だが、戦闘を数値としてみることに関してはプロだ。

 ファットガムはリーチがあるぶん、近距離でのどつきあいではかなりの分がある。個性をうまく使えば、ステゴロの勝負でそうそう負けることはない。
 けれど直接衝撃を与えてくる近距離型の敵との相性はいいが、氷や炎、電気や風など、遠距離から特殊攻撃を重ねてくるタイプとの相性は、すこぶる悪い。
 そうだ。ファットガムにはオールマイトのような超パワーもなければ、エンデヴァーのように炎を扱えるわけでもなく、ホークスのような速さもない。ただひたすら単純に、向かってきた敵をこの身体で捕らえ、受けた攻撃を身体に蓄積させ放出する。そんな個性だ。
 しかも今回の任務では、ほとんど個性が使えない。

 それらすべてを知った上で、嘘がつけないあの子は言った。
 あなたは誰にも負けない、と。
 それがどれほどのことかわからないほど、ファットガムは青くはなかった。

***

「タイ……ロ……きて……」

 どこからか、ファットガムを呼ぶ声が聞こえてくる。それはやや幼さの残る、やわらかな声だった。

「ん〜」
「タイチロ、起きて。もうおひるだよ」

 自らの本名と似て異なる名で呼ばれ、ファットガムはうっすらと目をひらいた。そのとたん飛び込んできたのは、こちらをのぞき込む、黒曜石のきらめきを有する大きな瞳。

「……もうちょい寝かせてぇな」

 ファットガムはごろりと転がって、反対側を向いた。
 潜入捜査の手応えはいまのところ上々だ。変に信頼を得てしまったのか、自分が使いやすいのか、あるいはその両方か、それなりに仕事を与えられ、布団に入ったのは明け方だった。
 今日は久しぶりにもらえた休みだ。できるなら、もう少し惰眠をむさぼりたい。

「タイチロ」

 と、ふたたびやわらかな声で名を呼ばれた。

 現在、ファットガムは、警察から用意された偽造免許に印字されている「豊海太一朗」を名乗っている。こうした潜入の場合、たいていは本名からは遠い名前を選択するものだが、今回はできる限り、響きが似ているものにする必要があった。
 こちらを覗きこみながら、黒い瞳の持ち主は続ける。

「サンドゥヴィーチつくった……タイチロの好きなオリヴィエはさんだやつ」
「それを早う言わんかい!」

 ぐうう、という腹の音と共に、ファットガムが勢いよく身体を起こす。と、自身によりかかっていた褐色の身体が、勢いに負けてひっくり返った。

「あ、すまん」

 筋張った腕をつかんで相手を起こし、スウェットからのぞく腰をぼりぼりとかきながらファットガムは食卓へと向かった。
 1DKの狭い部屋だ。布団から食卓までの距離は、ほんの数歩。

 テーブルの上にはファットガムの煙草とライター、そしてコッペパンにオリヴィエを挟んだ中東風のサンドイッチがいくつかと、ステンレスのカップにいれられた濃いめの紅茶が用意されている。
 オリヴィエとは、ゆで卵や鶏肉、豆などが入ったポテトサラダだ。ファットガムは、このボリュームのあるサラダをたいへん気に入っている。

「じゃあ、食おか」
「うん」

 目の前にいる相手は、身の回りの世話をするという名目で潜入先の組織からあてがわれた監視役だ。えげつない真似しよる、と組織に対して内心で悪態をつきながら、ファットはポテトサンドにかぶりつく。
 水分の少ないかためのパンをむぐむぐと咀嚼しながら、ステンレスのカップに映った己の姿に気がついて、ファットは苦笑した。
 そこに映るのは黒髪の男の顔だ。同じ色に、眉とまつげも染めてある。
 次いでファットは、桟からぶら下がるハンガーを見つめた。派手な柄シャツと黒のジャケットにスラックスといった、わかりやすいチンピラファッション。ちなみにジャケットのポケットには、警察から用意された携帯端末と偽造免許が入った財布を忍ばせている。
 BMIヒーロー・ファットガムの私物は、なにひとつとして持ち込んではいない。

 あいつらどないしとるんやろ、とファットガムは遠い目をした。
 あの夜猛威を振るっていた冬将軍は今はすっかりなりを潜め、季節は春の女神にその位置を譲ろうとしていた。



 それは、一月半ばの、ひどく寒い夜のことだった。

「なんであんたが行くんや! 潜入は俺の専門やろが!」

 片付けを終え帰ろうとしたところに飛び込んできた男を、ファットガムは眉を下げながら見つめた。
 彼の言い分も当然のことだ。黒のヒーロースーツに身を包んだこの男の個性は影だ。人や物の影の中に潜み、溶け込むことができる。故に潜入捜査はお手の物。
 ファットガム事務所への潜入の依頼のほとんどは、この男がこなしてきた。

「今回は個性使用での潜入ちゃうねん。せやからおまえには行かせられん」
「やったら、なんであんたがそんな任務受けんねん」
「俺が適任やったからや」
「よう言うわ。潜入なんて、どう考えてもあんた向けやないやろが」

 依頼は外国系の敵、つまりは海外マフィア組織への潜入だ。
 薬物を扱う海外敵は大まかにわけて三種に分かれる。
 アメリカ産のクスリを売買する南米系、アジア産のクスリを売買する東アジア系、そしてロシア産のクスリを売買する中東系だ。
 ルートがきっちりしていて、手広く仕事を行っているのが南米、東アジア。反して新参である中東系は、あまり大きな商売をしない。
 たいていは少人数のグループであり、個人で薬物売買を行う若手の敵を介するか、素人に直接薬を売りつける形を取っている。ひとつひとつの組織は小さいが、フットワークが軽く同じところに長居はしないため、足がつきにくい。ある意味ではやっかいな敵ではあった。

 ファットガムが半年ほど前から追っていたのが、この中東系の敵である。以前小夜と平太にいたとき入った電話は、この敵に関する情報だった。
このときもたらされた情報は大きかった。はっきりした拠点を持たずに行動していると思われていた中東系の敵には、実は元締めが存在する。というものだ。その時警察がマークしていた敵の実働隊は、七夕祭りで有名な東北の大都市にいた。そこから漏れた情報だった。蛇の道は蛇だ。密告者や裏切り者は、どこの組織にも存在する。

「しかも前任が三人も死んどるんやで! あんたのことや。小夜ちゃんが飲まされたクスリ扱っとる敵やから、その手で捕まえたろ思っとんのやろ」
「ちゃうて」

 ファットガムがやや目を細めて、ほろ苦く笑う。
 相棒の言うとおり、この敵を追っていた一番の理由はそれだ。だが、だからといって、このヤマは自分の手でなければと思うほど、ファットガムは子どもでもなければ傲慢でもない。
 実際、調査を始めた11月には、まさか自分が潜入することになるとはまったく思っていなかった。

「だいたい、なんであんたが適任やねん」
「この任務には条件が三つある」
「せやから、それはなんや」
「敵は中東系の勢力や。せやから、まずはアラビア語が理解できることが条件になる」

 薬物を取り扱っているこのあたりのヒーローの大半は、英語、中国語、アラビア語のどれかを解している。ファットガムも若い頃から薬物を扱う敵と戦ってきた経緯から、多少ではあるがアラビア語ができる。といっても、相手の話していることがなんとなく理解できる、といった程度だが。

「やったら、それこそ俺のほうが適任やんか。あんたのアラビア語、めっちゃあやしいやん」
「しゃんと話聞けぇや。俺が潜入するんは今までの捜査員と違うて実働隊やなく本拠地や。奴らは日本に来て長いし、日本語もでける。せやからおまえほど堪能である必要はないんや。向こうが話してることがだいたいわかればそれでええ。んで二つ目の条件な。顔が割れとらんこと」
「……俺、そんな有名じゃあらへん……あんたのほうがよっぽど顔が割れとるやんか」
「痩せた姿はそうでもないやろ。知っとる人間は知っとるが、知らん人間も多くいる。しかも相手は中東系の敵や。東洋人はみんな似たような顔に見えるんちゃうか。痩せて髪でも染めれば、正体気づかれることはないはずや」
「せやかて、その二つくらいやったら、あんたの他にもおったやろが……」
「せやなあ。問題は三つ目や。これがなかなかおらんかった」
「……なんなんや」
「XYZに耐性があることや」

 薬物の名を聞き、相棒がごくりと息を飲んだ。
 XYZ、それはあまりにも強力であるが故に、これがだめならもう後がないという意味を名に持つ自白剤だ。
 八年ほど前に開発され、その名の通り、今となってもこれ以上効果のある自白剤は作られていない。ただし、強力な薬だけあって、量を間違えると廃人になるか死に至る。

 そして前任者のヒーローの遺体からは、XYZが検出されている。
 おそらく、新顔は組織に入ると同時に自白剤を打たれる。潜入捜査を懸念しての、クスリによる洗礼だ。つまり、敵はそれだけ用心深い。

「そんなん……ファットもないやろが!」
「おまえ、俺がここ江洲羽に山ほどある病院の中であの女医者と懇意にしとるの、なんでや思とった?」

 相棒の顔色が、かわった。

「まさか……」
「……せや。あのひとはそっちの専門家やで」

 デビューして二年目の夏の話だ。
 ファットガムは自らの個性に限界を感じ、試行錯誤を繰り返していた時期がある。仕事に活かせないかと、薬物に対する耐性をつけることを思いついたのもその頃だ。
 自己流でいくつかのクスリに耐性をつけ、最後に手を出したのがXYZ。
 だが強力な薬物であったが故に、素人判断での投薬は大変危険なものだった。なんとか耐性をつけることには成功したが、そこに至る過程で死にかけた。その時ファットガムを救けたのがあの女医だ。

「やから、俺はあのひとには一生頭があがらん」
「……やったらなんで、俺が薬の耐性つけたい言うたとき反対したんや。耐性つけとくと便利やっちゅう意識はあったんやろが」
「……身体ボロボロになる言うたやろ。わかっててそんな真似させられるわけないやろが。大事な仲間に」

 言葉を切って、相棒をみつめた。彼は顔面蒼白のまま、こちらを睨みつけている。
 そうとう怒っとるなこれ、と思いながら、ファットは続けた。

「そういうわけでな、この任務にもっとも適性があるんが、俺や」
「あんた、なんでいつもそうなんや!」
「なんやねん。急におっきな声出さんといてや。びっくりしたわァ」
「あんたがあの女医に恩があんのと同じようにな、俺はあんたに恩があんのや」

 そのわりにはヘタレやなんやとけっこう言われとったよな。とファットガムは思ったが、それはさすがに口には出さない。

「武闘派の世界じゃ、女たらしこんで股と口開かせる俺みたいなんは軽んじられる」
「自分、きれいな顔して……ほんま言い方……」
「茶化すなや!」
「お……おお……」

 迫力に押される形で、ファットガムは黙り込んだ。

「そんな俺が一目置かれるようになったんはなぜか、俺が知らんとでも思とったんか!」
「おまえが優秀だからやて」
「ちゃうやろ。……全部あんたのおかげやないか……なあ……俺に行かせたってや……頼むから……あんたはこの街に必要なんや……」
「すまんなぁ、もうすべて決まった話や。すでに麻取や警察とも話がついとる。大丈夫や。一ヶ月もすれば帰って来れるて」
「……たとえ一ヶ月でも、あんたがいない間はどないしたらええねん。あんたのいないこの街、誰が守んねん」
「おまえらがおるやろ。俺はな、自分の留守すら任せられん男に背中を預けることはせえへんで。あと環のことも頼むわ。……あほう、泣きなや」

 男泣きに泣く相棒の肩を抱いて、そうささやいた。
 すでに今後の動きは決まっている。あとは決行の日を待つだけだ。

 しかし今回の潜入は末端ではなく本拠地だ。敵の人数そのものは少ないとはいえ、それなりの準備が必要となる。
 それらの準備がすべて整ったとの声がファットガムにもたらされたのはそれから半月後、2月の頭のことであった。



「タイチロ……」
「おう。うまかったで。ごちそうさん」

 二ヶ月前の関西に飛んでいた思考を現在にもどし、ファットガムは微笑んだ。そうして男は、空になった皿を見下ろして内心でため息をつく。
 とてもじゃないが、こんな量ではぜんぜん足りない。だが体型をコントロールすることは、今回の任務ではかなり重要な部分でもある。
 あと少しの辛抱だと心の中でひとりごちつつ、ファットガムは煙草をくわえ、オイルライターのキャップを親指で跳ね上げた。そのまま同じ指でフリント・ホイールを回転させ、火をつける。

「ハイ」

 即座に目の前に差し出されたのは、スチール製の小さな灰皿。
 まったく、よく「教育」されている、とファットガムはひそかに眉を寄せる。
 だがそれも、ほんの一瞬だけのこと。

「今日は休みやから、夜はタイちゃんがたこ焼き作ったるで。楽しみにしとき」

 豊かな黒髪を撫でながらそう告げて、ファットガムはくわえ煙草のまま、笑った。

***

 二月は、あっという間に過ぎ去った。
 百花の魁である梅は、すでに花を終えている。今年は春の訪れが早いのか、三月半ばを迎えようという今、すでにさくらがつぼみをつけ始めていた。
 ファットガムは、まだ、帰ってこない。

「湧水さん。来てもろうて悪いけど、今月は特にお願いすることないんやわ」

 黒衣の相棒が申し訳なさそうに告げる。
 そんなに気をつかわなくてもいいのに。本日の訪問は毎月恒例のご用伺いだ。なにもないことも、そう珍しくはない。
 けれど、と小夜は内心でひとりごちる。
 この事務所はこんなに広かっただろうか。いつも所長机でたこ焼きを焼いている大きな身体がないだけで、こんなにも室内が広く、寒々しく感じるなんて。

「所長、いま留守にしとんねん。もしかして、話聞いとる?」
「潜入捜査と伺っています」

 小夜は答え、そしてわずかな沈黙が流れた。
 ファットガムはいつ帰ってくるのか、連絡はあるのだろうか、いや、そもそも無事でいるのか。そういったことが知りたい。
 けれどヒーローが民間人にそうしたことを語るはずがないことも、小夜にはよくわかっている。

「その敵を追ってた理由は?」
「いいえ。内容に関することは、いっさい」
「せやな、口が裂けても言わんやろな。そういう男や」

 なんだろう。ヒーローが仕事について多くを語らないなんて、しごく当たり前のことなのに。
 小夜の気持ちを読んだのか、相棒が息をついてちいさく笑った。

「あのひと、かっこええやろ」

 どう答えたらいいのかわからず、曖昧に、ええ、と小夜は答えた。

「湧水さん、ちょっとだけ俺の話聞いてくれます?」
「はい」
「俺の得意はご存じの通り個性を使うた潜入や……せやけど、ここ来る前はそれだけやのうて、敵ややくざの女たらし込んで情報を聞き出すような、そんな仕事もしとったんですわ。ほんでな、自分の身体ひとつ、個性ひとつで戦う武闘派の多いこの界隈では、そういうの馬鹿にされんねん……俺、ここに来るまではずっと、スケコマシ呼ばわりされて馬鹿にされとったんですわ」

 サポート会社の営業としてはリアクションに困る話題だ。
 このひとはどうして、こんな話をするのだろうか。

「せやけど、そんな俺があのひとの下についてから、ただのスケコマシから女もコマせる……まあスケコマシ呼びは変わりないんやけど……潜入のエキスパートとしても周りから一目置かれるようんなったんですわ。それがなぜかわかります?」

 小夜は、首を横に振りながらいいえと答えた。ファットガムがこの界隈で慕われているのは知っている。だからといって、相棒になったというだけでそれまで馬鹿にされていた人間が急に認められるようになるとは思えなかった。

「ファットがな、俺がここに入ったばかりの頃、関西ヒーローの会合の場でくそったれの老害とやりおうて」

 相棒の言うくそったれの老害とは、彼が以前所属していた事務所の長だ。実力的にはそうでもないが、長年ヒーローを務めていたため、現場をしりぞいた後もこのあたりではそれなりの力をもっている。今は警察に協力してこのあたりのヒーローの調整役を務めていると聞く。主に長期休暇時のローテーションや、緊急呼び出し時のヒーローの選択をする役職だ。

 その調整役が事務所持ちのヒーローが集まる場で、相棒のことを馬鹿にした。

「普通はそんなん聞き流すと思うんやけど、あのひとはそやないねん……俺は自分の背中を預けられん男を相棒にせん。あいつはすごいヤツや。せやから俺の相棒馬鹿にする人間はたとえ目上でも許さんちゅうて、 衆人環視の中、けっこうな剣幕で老害にくってかかったらしいんですわ……」

 ファットガムらしい話だ。彼ならきっと、いや絶対にそうするだろう。仲間のために怒る姿が目に浮かぶようだ。

「そっからや、周りの俺を見る目が変わったんは。上からは認められ下からは慕われるあのひとは、ここらみんなの兄貴分や。そのファットガムにああまで言わせた男だと、それだけで俺は一目置かれるようになったんや……」

 そのせいであのひと老害に目ぇつけられてもうてな、と相棒は続けた。
 以来、ファットガムは色々と面倒ごとを押しつけられるようになったという。

「あのひと、そういうこと一言も言わへんのや。そんで俺はなんも知らずに、若い所長やからええように使われよる思とった。ことの顛末を知る人間に教えられるまで、ずっと……」

 それもまたファットガムらしいと小夜は思った。身も心も、信じられないくらいに大きいひとなのだ。そして優しい。
 だから好きになった。もうどうしようもないくらいに。

「老害の嫌がらせな、未だに続いとる……。年末年始に呼び出しが続いたんも、半分はファットの実力やろうけど、もう半分はそのせいや。そんでもあん男、愚痴一つ漏らさへん。それどころか、いつも笑いながら一番キツい仕事自分の手で処理しとんねん」
「はい」
「そんでな、俺らがあの老害の悪口言うと『そないなこまいことはええやんか。俺たちの仕事は困ってるひとを救けることやねんから、それさえできてりゃそれでええやろ』っちゅうてまた笑うんやわ」
「ファットガムさんらしいですね」
「そうなんや。うちの所長は、ファットガムっちゅうんは、そういう男やねん……」

 なんとなく、彼が何を言おうとしているのかわかる気がした。
 お互いの立場から、どこまで言っていいのかはわからない。だから小夜は微笑みながら答える。

「そうですね……世界で一番、かっこいい人だと思います」
「……そりゃ盛りすぎちゃうん?」
「わたしにとってはそうなんです」

 相棒がゆっくりと両の口角を上げ、無人の所長机を見やった。つられるように、小夜もおなじところを見やる。

「……待っとってやって」

 はい、と小さく答えた小夜に、相棒はまた、ちいさく笑った。

***

「ただいま」

 誰もいない自宅玄関の扉をあけて、小夜は小さく息をついた。

「……待ってるよ……待ってるけど……」

 だって、約束したんだもの。
 日輪岬に三月に咲くひまわりを見に行こうって、そう、言ってくれたんだもの。
 だが続く言葉のかわりにこぼれ落ちたのは、涙だった。

 待っとってやって、と相棒は言った。
 あの流れから、わざわざ待っていてくれということは、おそらく、ファットからはなんの連絡もないということだ。そしていつもの彼であれば、あんなことは決して言わない。
 プロヒーローですら不安定になっている。ファットガムの不在は、彼らにとってそれほどに大きい。
 そしてそれは、ファットガムがおかれている状況がそれだけ危険であることを、暗に示唆しているとも言える。

「大丈夫。ファットさんはぜったい、誰にも負けない」

 己を鼓舞するために呟いて、部屋着に着替える。

「今日はな、小夜ちゃんがファットさんの真似してたこ焼きつくっちゃるで」

 大好きなひとの口調を真似てつとめて明るくひとりごち、またため息。

 常にたこ焼きの匂いをさせていたファットガムの事務所、それが今日は無臭だった。
 あの香りが懐かしくて、どこかで彼を感じたくて、仕事帰りに大型スーパーに寄って、たこ焼き粉とたこ焼き器を買った。

 外箱に書いてある通りに生地を作り、電気式の鉄板に流し込む。
 とたん、いい匂いが部屋の中に広がった。あのひとがさせていたのとよく似た、美味しそうな香りが。

「ええと……かたまってきたら回すんだよね」

 ファットガムがやっていたように、竹串で生地をつついてみる。だが、想像していたのと異なり、生地はくるりと回ってはくれなかった。形が崩れ、ぐずぐずになった塊が、丸い穴の中でぶすぶすと音を立てる。

「少し早かったかな……」

 今度はもう少し時間をかけてみた。くるり、と生地は回ったが、よく見ると黒い焦げができている。
 ファットガムが事務所で作っていたときは、あんなに簡単そうにくるくると生地を返し、美味しそうな球体が次々とできあがっていたのに。

 悪戦苦闘の末、いくつかのたこ焼きができあがったが、全体的にべちゃっとしていてお世辞にも美味しいとはいえない仕上がりだった。

「ファットさんのたこ焼きが懐かしいな……周りがカリッとしていて、中はふわとろで……」

 と、べちゃべちゃのたこ焼きを咀嚼しながら呟いて、違う、と、心の中で叫んだ。同時に、ぼろぼろと涙が溢れ出る。

 懐かしいのはたこ焼きじゃない。
 欲しいものもたこ焼きじゃない。
 いま、心の底から欲しているのは――。

 小夜ちゃん、と呼ぶ掠れた声と。
 優しい光を宿した、金がかった琥珀色の瞳と。
 丸い身体にはやや不釣り合いな――だがとても綺麗な――長い指を有する大きな手と。
 おひさまのように破顔する、おひさまのようにあたたかい、おひさまのように大きなひとだ。

「……太志郎さん……」

 ずっと呼んでみたいと思いながら、一度も呼んだことのないその名を、小夜は初めて声に乗せた。
 少し焦げたお出汁とソースの匂いがする、その部屋で。

2021.5.4
- 13 -
prev / next

戻る
月とうさぎ