「うん……ただいま」
少し照れくさそうに、ファットガムが笑う。それはさながら、曇天の下で破顔する地上の太陽。
おひさまのようにひとを安心させる、おおきくて明るい笑みだ。けれどその笑みを見ていたら、なんだか腹が立ってきた。
「ファットさん、なにかわたしに言うことありませんか?」
「や……ここで? ここ公衆の面前やで? 約束したんはここやのうて……」
「そうじゃなくて、またケガをしたってききましたけど」
「あっ」
ファットガムは手を口元にあてて、いたずらがみつかった子どものような顔をした。このひとは時たまこういう顔をする。本当にとてもかわいいけれど、今は流されてはいけないような気がした。
「さっきそれ聞いてめちゃくちゃ心配してたのに、どうしてそんな元気そうにたこ焼き食べてるんですか?」
「それについてはほんますまん。せやけど、たこ焼きは食うんは俺にとってはお仕事の一部やで。前の任務で減らした分の体重増やさなあかんし、任務中は腹一杯食えへんかったから、その分いま食べとこ思て……」
「それにしたってずるいじゃないですか。わたしなんてべちゃべちゃのたこ焼きしか食べてないんですよ!」
「なん? べちゃべちゃ?」
意味がわからない、と言う顔でファットガムが続ける。少し首をかしげながら。そんなポーズすらもまた、たまらなくかわいい。
「なんで君、さっきからたこ焼きの話しとんの?」
「なんでって……ファットさんの真似してたこ焼き作ったら失敗しちゃったからですよ」
ファットガムの疑問も当然だ。自分でも何を言っているのかよくわからない。本当に話したかったのはこんなことではないはずなのに。
けれどファットガムは、小夜の言葉を聞いてどこか嬉しそうに目を細めた。
「うん? 俺の真似しよ思ったの? もしかして、俺のことを考えて?」
「そうですよ……箱に書いてある通りに作ったのに」
「うん」
「うまくひっくり返せなくて」
ファットガムはやっぱりやさしい。こんなふうに意味のわからない難癖をつけられているというのに、すこし困ったような顔をしながら、笑ってくれている。
「おまけに焦げちゃって」
「さよか」
「美味しいたこ焼きが食べたかったのに、表面は焦げてるのに中がべちゃべちゃで」
うん、ともう一度言いながら、ファットガムが小夜の前にかがみ込んだ。
しゃがんでもらって、やっと目線が同じくらいの高さになる。わざわざそうしてくれた彼の思いやりを嬉しく感じていると、頭の上に大きな掌がのせられた。
よしよしと頭を撫でる、大きな大きなてのひら。その温かさに泣きそうになった。
「ほな、今度俺がうんまいの作ったるわ」
「弊社の切江にも、同じようなことを言ったんですか?」
「へ? キリエちゃん? いや、言わへんて。つうか、なんでここでキリエちゃんが出てくんの?」
「ファットさんのケガの話、弊社にて切江から聞きました。ほかにも個性治療受けたとか、いろいろ。いくら彼女の出身が江洲羽だからって、あまりにも詳しすぎるじゃないですか」
ファットガムが、合点がいったという顔をした。
「なるほど。君が怒っとるの、たこ焼きやのうてほんまはそこやな」
「……です」
「さよかぁ。そらすまんかった……この通り。まずは俺の言い訳聞いたって」
ファットガムが小夜のほうにかがみこんだまま、ぱあん、と音を立て、両手を合わせる。その手を拝むように顔の前に持ってきて、彼は続けた。
「俺な、前の任務で肋骨と鎖骨と右拳の骨折っとるんや。で、左腕も刃物でざっくり切られとってな」
と、彼はこのへんからこのへんまで、と、左腕の二の腕から肘にかけてを指し示した
「ほんで退院した日のことなんやけど、途中で敵と出くわしよってな。そんときはまだ脂肪ぜんぜんたらへんかったから身体に敵沈めんのは無理やし、右手の拳折れてもうてるしで、しゃあない思て左手でな、こう、敵をバッカーン殴ったら傷口パッカーン開いてもうて。そしたらそっから血ィドッバーン出てきよってな。君、血ィあかんやんか」
はい、とちいさく小夜は答える。
血がたくさん……どうしよう、想像しただけでクラクラしてきた。
「せやから傷口が完全に塞がるか、脂肪で敵沈められるくらいまで身体戻すかせえへんと君には会われへん思てなぁ。身体もどらんと、敵に出くわしたらやっぱりまたバッカーンやってパッカーン開いてまうし、そしたらまた血ぃドッバーンやん」
「そうですね…………」
「君、もうすでに顔色悪いやん。せやからな、血の話聞きたないやろな、心配させてまうな、思って黙っとったんや。ほんま申し訳ない。逆に心配かけてしもたんやなあ。次からはちゃんと話すから、許したって」
「……それは……しょうがないと思います。でもどうして、それを切江が知ってたんですか?」
む、とファットが口をゆがめる。
「ま、それもおいおいな。それより君、俺がここらじゃ有名人で、しかも目立つちゅーことわかっとる? 見てみ、ファットが女の子と揉めとんのか思てみんな見とるで。俺は別にかまんけど、君はまずいんちゃう?」
言われて周囲を見回すと、スマホを片手にこちらを眺めている人たちがかなりいる。たしかに、写真を撮られてSNSにでも乗せられたりしたらえらいことだ。
「キリエちゃんのこともちゃんと話すから、ちょっと場所変えよか」
「パトロールはいいんですか?」
「もうじき約束の二時やろ。ぼちぼち切り上げよ思っとったとこや。ま、相棒には一応、このまま出かけるて連絡入れとく。悪いんやけど、最初に決めた待ち合わせ場所で待っとってくれへん? 俺、車回してくるから」
はい、と答えて一旦ファットガムと別れた。
このあたりは車輌の入れないところや一方通行が多い。だから元々の待ち合わせ場所は、商店街を抜けた先の予定だった。
指定された交差点で待っていると、前方からきたイエローメタリックのSUVが小夜の前で止まった。運転席にいるのはファットガムだ。
車の中で着替えたのだろうか。彼はFとGの文字が印字されたコスチュームではなく、グレーのパーカーと黄色のダウンジャケットを着こんでいる。
どうぞ促され、助手席に乗った。
ファットガムの車は、大型のSUV。国産最上級の八人乗りモデルだ。と言っても、今の状態で大人が八人乗るのは無理だろう。
もともと、セカンドシートとサードシートが格納できるようになっており、後部座席が広く使えるタイプの車だ。しかもこの車は、持ち主の身体のサイズに合わせて運転席もが動かせるよう、カスタマイズされている。
今はセカンドシートが収納され、大きな彼でもゆったりと座れるよう、運転席の前後左右のスペースを広くとっている状態だった。
「あ」
落ち着いた内装とインパネ周りを目視して、小夜はちいさく声をあげた。
運転席前の中に六眼式のメーターがあった。小さいメーターが燃料計、水温計、油圧計、電圧計。ふたつの大きいメーターは、スピードメーターとタコメーターだ。
「ん? どないした?」
「男のロマンがここにも」
ああ、とファットガムが目を細める。
痩せている時にときたま見せる、セクシーな笑みだ。この姿の時にその笑い方は珍しいなと思ったけれど、完全なプライベートで丸々としたファットと会うのは初めてだ。もしかしたら、彼が自己プロデュースしているキュートでファニーなファットさんとは違った顔もこれからは見られるのかもしれない。
「よう覚えててくれたな。俺のメーター好き」
忘れませんよ、と心の中で呟いて、小夜は笑みを返した。だってほら、と、ファットガムの手元を見ながら心の中で呟く。
今日もあなたの手元には、メーターがたくさんついたごつごつとしたクロノグラフが。
「ところで、ケガはもう大丈夫なんですか? 切り傷もですが、骨も折れたんですよね?」
「パッカーンのあと、ちゃんと個性治療受けたんで大丈夫や。担当してくれたんがめっちゃ個性強いひとやったんで、傷も骨ももうくっついた」
「本当ですか。嘘はいやですよ」
「嘘やないって」
柔らかく笑いながら、ファットガムがエンジンをかける。静かだけれど確かなエンジン音が車内に響き、彼はゆっくりと車を発信させた。
ごつい車体に似合わぬ、静かでやさしい走り出しだった。国内最高峰モデルだけあって、シートも包み込むような座り心地だ。
この車は、持ち主にとてもよく似ている気がする。
小夜はステアリングを握るファットガムを見つめた。
いつも思うのだが、ファットガムの手はシルエットがきれいだ。ごつごつしているけれど、指が長い素敵な手。その手が高級感はあるがやや無骨なデザインのステアリングを握っている。ステアリングの向こうには、彼の好きなメーター器機がいくつも並び、シフトレバーのまわりにはスイッチがたくさん。
大型のSUVは滑るように市街地を往く。ビルの谷間に流れる、三車線の道路を。
周囲の景色が後ろへと消えていくのを横目で見ながら、小夜はファットガムの言葉を待った。それに気づいたように、彼は軽く眉を下げる。
「で、君が気にしとるキリエちゃんな。江洲羽の子やねん」
「それは知ってます」
「や、江洲羽言うても広いやん。今言うとるんは市やのうて商店街の話やで。ちなみに君、平太でキリエちゃんの親父さんにも会うとるよ」
「平太で、ですか?」
「ん。鞄屋のおっちゃんおったやんか、あの人。あのおっちゃんも個性鋏やねん。正確に言うと、キリエちゃんが裁ちばさみで、おっちゃんは革切り鋏」
「ええ?」
「で、キリエちゃんのいとこが同系統のもうちょい強い個性もっとって、ポリやっとる」
「警察の方なんですか……鋏系の個性の」
「そ。んで俺、そいつと昔、よう一緒に仕事したんやわ」
小夜はあんぐりと口をあけた。
「……初耳です」
「ま、担当ヒーローと身内が懇意にしとるとか、言いづらいやん。君んとこおっきい会社やし、いろいろあるんやろ?」
「確かにそうだと思います」
切江があの時伝えようとしたのは、そういうことだったのだろうか。だとしたら悪いことをした。勝手にいろいろ勘違いして。
「ほんでな、びっくりすることはまだあんねんで。あんな、さっき電話で本人たちの承諾得たから言うけども」
「はい」
「うちの相棒おるやろ。シュッとしたほう」
「はい。コスチュームのデザインのことで切江とケンカした方ですよね」
ふたりの激しいやりとりを思い出しながら、それがなにか、と小夜は首をかしげた。ファットが笑いながら続ける。
「キリエちゃんなぁ、今、あいつとつきおうとるんよ」
「ええええええ!」
「君、ちょっと驚きすぎ」
「だって……いつからなんですか?」
「いま君がケンカ言うたやん、あのあとすぐ。あいつ、あれでキリエちゃんのこと気に入ったらしいで」
「切江のほうはぜんぜんそんな感じなかったのに……」
くそったれだの、どあほうだのと、口汚く罵倒している姿しか思い出せない。だがそういえば、クリスマスの頃、新しい彼氏が出来たと言っていたような気もする。
「ま、男と女なんて案外そんなもんちゃうん?」
「それにしたって、早くないですか?」
「ほんまやなぁ。俺らなんか半年近くもだもだしとんのに」
「……わたしはちゃんとアピールしたつもりでしたけど……バレンタインとか」
「せやな。ずいぶん前からずるずる引き延ばしとんのは俺やんな」
「自覚はおありだったんですね」
「……君はほわっとしとるようで、ごくたまーにものごっつ鋭いパンチ浴びせてきよるよな」
「お嫌いですか?」
「いや、むしろそういうとこやろ」
ファットガムが前を見ながら静かに告げた。
そういうところをどう思っているのか読み取れはしたけれど、できれば口にしてほしい。
「せやったらこっちからも言わせてもらうけど、俺かてちょこちょこと遠回りにアピールしてきたつもりなんやけど。ちゅうかな、ただの業者さん思っとったらそんな何度もサシ飲みなんかせえへんよ。あとはあれやなあ、看病してもろた時の帰り際とかもな。……まあ……あれはええとこで邪魔が入ってもうたけども」
「あれ、やっぱりそうだったんですか……」
「なん? 人が悪いわぁ。気づいとったんならあのまま残ってくれたらよかったんに」
「勘違いしないように、って自分に言い聞かせてましたし、ファットさんご自身も目線を合わせただけって言ってたじゃありませんか」
「や。どう考えてもあれ、壁ドンやったやろ」
「ファットさん人なつこいですし、事務所のみなさんともスキンシップ多いのであまり特別な意味はないのかと」
「んなわけないやろ。君だからやん」
信号が赤になり、車が止まった。ファットガムが前方に向けていた視線を小夜に向ける。照れくさそうに、けれども真摯でまっすぐに。
「いま俺がああいうことするのは、君だけです」
ちゃんと言って欲しいと思っていたくせに、いざそういう雰囲気になるとどうしていいかわからなくなるのが小夜の悪いところだ。
赤面したまま答えに窮していると、ファットガムがまた前を向いた。信号が青になったから。
そして車はふたたび、市街地をゆっくりと進み始める。
「まあ、そないなこともあってやな、キリエちゃんに俺の話をしたんはうちの相棒で、彼女は君が知っとると思いこんで言うてしもたと、そういうことみたいですねぇ。ほんで、ふたりとも君に謝っとった」
「そうだったんですね……」
小夜は社内での自分の行動を思い起こしながら、顔を覆った。穴があったら入りたいし、謝らなくてはいけないのはこちらのほうだ。あんな啖呵を切ってしまって。
やがて大型のSUVは、高速に乗った。周囲の景色が飛ぶように流れていくのを、小夜はぼんやりと見つめた。
「切江ちゃんについてはそれでええ?」
「はい……なんか……すごく恥ずかしいです」
「俺は嬉しいけどな。焼き餅やいてくれたんやろ?」
まんざらでもなさそうな声でファットガムがつぶやく。
言わないでぇぇぇ……と内心で叫びながら、小夜は再び顔を覆った。
「で、次は一番大事なやつやな。俺たちの話」
君と俺の話でもなく、君の話でもなく、「俺たち」という表現にどきりとした。なんだか、まるきりの他人ではないような、そんな言い方。
「さっき言うたように、引き延ばしとる自覚のあるファットさんは、二月の君の質問の答えについてはですね、今ではなくもうちょっとだけ先延ばしにしようと思っとります」
「え、まだ引き延ばすとおっしゃる」
「おっしゃりますねえ。目的地についてからでもええですか? せっかくやから」
「わかりました」
ファットガムは未だ目的地を告げない。けれど、どこに向かっているのかはなんとなくわかる。
フロントガラスの向こうはグレイに煙る曇天模様。春と呼ぶには寒すぎる気温のなかを、イエローメタリックの車は進んでゆく。
「では話題を変えましょうか? 本当にお疲れ様でした」
「ああ。うん。今回なぁ、ほんまいろいろあったんやけど、君のおかげで無事に戻って来れたわ。あのおまじないめっちゃ効いたから、これからもおっきい仕事の前にやってもろてもええ?」
「もちろんです」
いろいろあったその中身を知りたいと思ったが、それが無理であることも小夜はわかっている。
彼らヒーローには守秘義務がある。小夜たちサポート会社の社員が、ヒーローに関する情報を外に漏らしてはならないように。
だから小夜はこれからもという言葉の意味を噛みしめながら、ゆっくりと両の口角をあげた。今はそれで、充分だ。
やがて車は高速を降り、海沿いの道路をまっすぐに進んだ。一つ目の信号を越えた先の道路標示に、日輪岬の文字が見える。
標識を確認するために見上げた先には、チャコールグレイの空があった。視界いっぱいに広がる、重たい雲。けれど、陰鬱な空の下にあって、心はとても軽かった。
ファットガムはそのまま、とりとめのない話を続ける。
任務中、毎日のように食べていた中東風のポテトサラダが、とても美味しかったこと。
作り方を教わったから、今度作ってくれること。
たこ焼きを上手に作るコツも、その時に一緒に作りながら教えてくれること。
インフルの時に小夜が作った茶碗蒸しが美味しかったので、また作ってほしいこと。
そんなファットガムの語りを聞いていたら、いつのまにか、岬の駐車場についていた。三月に咲くという珍しいひまわりが売りの場所なのに、平日であるためか、それともこんな天気のせいか、岬にはまったく人がいなかった。
これはこれでよかったのかもしれない。ファットガムは有名人だし、彼の体型では人目を忍ぶことなどできないだろう。あまりにもこのひとは大きすぎるから。
ところが――。
「なんやこれ。……すまん、小夜ちゃん。ほんま申し訳ない」
遊歩道を上りひらけた場所に出た瞬間、ファットガムが大きな身体を丸め、頭を抱えた。
ひとけの少ないもう一つの理由がわかったからだ。
岬一面にひろがる背の高いひまわりの群生は、それはそれは見事だった。だが、そこに見える色彩は緑一色。
ここから見える範囲に、黄色い花はひとつもない。冷たい海風を受けて揺れるのは、緑色の硬いつぼみばかりだ。
街中は、春の訪れが早いと感じるくらいだったのに。
「ここ、寒いですものね。でもこの環境で、この時期にひまわりがつぼみをつけているのはすごいです」
「すごいかもしれへんけども。なんやねん、これ。この時期になると満開になるてHPやらガイドブックやらに書いてあったっちゅうに。わざわざこんなとこまで連れてきて、さんざん引っ張って……こないに間抜けな話があるかい。ほんまごめん。堪忍したって」
「大丈夫です……それに」
それになんだかこういうのって、と、小夜は思う。
互いの気持ちを測りながら、行ったり来たりを繰り返した半年間。その終わり、いや始まりがこれだなんて、逆に自分たちらしいではないか。
「探しましょう。これだけあるんですもの、もしかしたら一輪くらい咲いているかもしれない」
思いきって、謝り倒しているファットガムの手をとった。
彼の手は分厚くてしっかりしているけれど、形は綺麗だ。ころころとした丸い身体からは想像しにくい、ごつごつとした甲と長い指。
でもこれはいつも明るく楽しく笑いながら、そしてきっと誰もいないところでは歯を食いしばって、市井の民を守り続けているひとの手だ。そんな強くて優しく大きな手をきゅっと握って、小夜はファットガムを見上げる。
「絶対あるはずです。行きましょう」
このあまたあるひまわりの中で、ただひとつだけ咲く一輪を見つける。それは、何億もの人がいるなかで、ただひとりのひとをみつけるのに似ている気がする。
たくさんの恋のつぼみの中でみつける一輪。それは天にも地にもかけがえのない、唯一無二の存在だ。
「せやな、いくか」
と彼が笑い、そして続ける。
「やけど君、めっちゃ男前やな」
「ファットさんほどじゃありませんよ」
顔を見合わせ微笑みあったあと、手をつないだまま岬に群生しているひまわりを見て回った。二メートル以上はある、背の高いひまわりたち。ひとりであれば埋もれてしまいそうな錯覚に襲われるだろうけれど、今日は大丈夫。
だって今は、ひまわりに負けないくらい大きい、おひさまのようなひとと一緒だから。
「小夜ちゃん」
「はい」
「あそこ、見てや!」
ファットガムが岬の端を指さした。転じた視線の先には、他のひまわりよりも一段も二段も背が高い、巨大なひまわり。
三メートルはあろうかというそれが、堂々と開花している。海をバックに凜然と咲く一輪の色は、ゴールデンイエロー。
「すごいすてき。たくさん咲いているより、ずっと素敵じゃないですか」
「しっかし、こいつデカいな。なんか親近感わくわ」
「ふふ、高さがあるだけじゃなく、茎もしっかりしてて太いですし、お花そのものもすごく大きいですよね。ファットさんみたい」
花の下までたどり着き、小夜がそう告げた時、ゴールデンイエローの花弁に白いなにかがふわりと落ちた。グレイの空から次から次へと落ちてくるのは、小さな小さな雪片だ。
「……雪やん」
返す言葉を失って、小夜は黄色い花の上におちる白い雪を見つめた。こんなことがあるなんて。
チャコールグレイの空、白い雪片、広がる紺碧の海、緑色の葉やつぼみ、そしてゴールデンイエローの花。
「きれいやな」
はい、といらえるかわりに、握ったその手に力を込めた。変に声を出したりしたら、泣いてしまいそうだったから。
雪の中に咲く一輪のひまわりは、ほんとうにとても幻想的だった。けれど岬の突端に吹く風は強く、都会のそれとは比べものにならないくらいに冷たい。凍りつきそうな潮風が、身体を芯から冷やしていく。
「……なあ、小夜ちゃん。ちょお、提案があるんやけど」
震えながら小夜はファットガムを見上げた。大好きなひとが、こちらを見下ろして照れくさそうに笑う。
「抱っこしてもええ?」
「えっ?」
「まだ体型戻りきっとらんから、服に余裕あってすかすかやねん。君がここ入ってくれたらお互いぬくいんちゃうか、って思うんやけど」
よければ、とダウンジャケットの前を開けられたので、思わずはいと答えてしまった。すぐにことの重大さに青ざめたけれど、時、すでに遅し。間髪おかず、ファットの手が小夜の脇に差し込まれ、そのままひょいと抱き上げられた。瞬時に小夜を包み込んだのは、もふっとしたお肉の感触と彼のぬくもり。そうして彼は、小夜をくるんだまま、ダウンのファスナーをしめる。
「重くありませんか?」
「あんな、俺は沈ませ屋さんのファットさんやで。君の5人や10人、楽勝やっちゅうの」
小夜をその身体に吸着させながら、ファットガムがささやく。当然のことながら、彼の顔はいま、小夜のそれのすぐそばにある。
「俺、いまめっちゃ幸せやわ」
「……わたしもです」
「これからは、ふたりの時は名前で呼んだって。知っとるやろ? 俺の名前」
「豊満さん?」
「いや、そこは名前で呼んでくれるとこちゃうん?」
ははっ、と声をあげた彼の笑みは、やっぱりとても大きくて。
「太志郎さん。……なんか、ちょっと恥ずかしいですね」
「いっそのこと、呼び捨てでもええで」
「呼び捨てはもうちょっと慣れてからで。でもわたしのことは呼び捨てでお願いします」
「エー。それ、なんかズルない?」
「いやですか?」
「……まあ……ええけども」
ほんの一瞬ふくれっ面になったあと、ファットガムは小夜、と耳元でささやいて、そしてまた破顔した。
初めて会った時も思ったけれど、このひとの笑顔はまるでひまわりが咲くようだ。にこにこしながら、ファットがまた口唇をひらく。
「あのさ」
「はい」
「いま、チューしてもええ?」
「えええ。普通、そういうこと聞きます?」
「やなん?」
小首をかしげて、つぶらな瞳でこちらを見てくるファットガム。
これはずるい、と小夜は心の中で呟いた。
かわいいし、あまりにあざとい。このひと、自分がかわいいのぜったいわかってやっている。こちらが断らないことも、自分のこうしたしぐさが可愛く見えることも、ぜんぶわかって聞いている。
「……いやではないです。ただ、わたしまだ、バレンタインの日の答え聞いてないんですけど」
「ええ、それはせやから、そういうこっちゃろ。流れでわかって。それに俺、お花ぜんぜん咲いてへんかったから、なんや心折れてもうたもん」
すねたように、ファットがぷいと横を向く。小夜は両手で大きな顔を挟んで、無理矢理に自分のほうを向かせた。もちろん力で勝てるはずがない。彼がさせてくれているのだ。
もしかしたら、このかわいいひとはこんなやりとりすらも楽しんでいるのかもしれない。
だから、もう一押し。
「何言ってるんですか。目の前にこんなに大きいのがひとつ咲いてるじゃないですか。ね、頑張りましょう。あの写真みたいに雪まで降ってます。舞台としては最高じゃないですか。ね」
「君、ほんま譲れんとこは絶対譲らんよな」
面白そうに、細められた眼。やっぱりこのひと、楽しんでいる。
「どうしても、言ってもらいたい言葉があるんです」
「ほんなら君、これから敬語は禁止やで。そしたら言うちゃる」
うん、とうなずいて、小夜はファットガムの目を見つめた。
「……ちゃんと、太志郎さんの口から聞かせて」
「そんな色っぽい言い方、反則やん。ファットさんのファットさんがプルスウルトラしてまうわ」
おどけて言いながら、もう一度彼は目を細めた。いつもの豪快な笑い方でも、市民に見せる親しみのある笑顔でも、コミットしているときの色気のある微笑でもなく、どこか照れくさそうな、そんなほほえみ。
「あの夜君を呼び出したんは、好きやからや。どうしても、君やなきゃあかんかった」
「……わたしも、呼んだのが太志郎さんじゃなければ行きませんでしたよ」
ん、とファットガムが照れくさそうに笑う。白い雪の中に凜と咲く、ゴールデンイエローのひまわりの前で。
「君のこと、めちゃくちゃ好きやっちゅーねん」
「わたしも、太志郎さんのことが大好き」
「ここまで来るのほんま長かったなぁ。俺たち」
「ほんとうに」
そうして、大きなおめめと大きなお口が近づいてきた。小夜はそっと目を閉じる。と、やわらかい彼の口唇が小夜のそれに重なった。
ちゅっと音をたててついばむようにやさしく触れる、そんなキス。
おそるおそる目をあけると、目の前に優しくてかわいい彼のお顔がある。どきどきしていると、小夜のおでこにファットガムが自分のそれをこつんとつけた。
「せやから、俺とつきおうてや」
ハスキーだけれどやさしく甘い、それはコーヒー味のキャンディーのようなささやき。
はいといらえて、彼を見つめた。金がかった琥珀色の瞳の中に映っているのは自分の姿だ。
「小夜、惚れとるよ」
言葉と共に、もう一度合わせられた唇。なごり雪の降る中で春のおひさまのようなひとと交わす二度目のキスは、さきほどよりも、ずっと情熱的なものだった。
開いてゆく。
小夜がこの半年間、胸の奥で育て続けた大きなつぼみが、いま、ゆっくりと。
開花した花は、きっと美しく咲き誇るはずだ。
厳しい寒さと雪の中で凜然と咲く、奇跡のひまわりのように。
2021.5.15
恋のつぼみ本編はここで終了です。この先は同シリーズの番外編になります。
引き続きお楽しみいただけたら幸いです。
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