厨房におじいさんと壮年の女性がいる。注文を取りに来たのは中学生くらいの男の子だった。お店の子だろうか。
「ファットはいつもんでええ?」
「せやな。とりあえず俺はいつも通りに全種類10本ずつとたこ焼き。環は……好き嫌いなかったな。湧水さん、なんか食べたいもんある?」
「おすすめとかありますか?」
「なんでも食べれるなら、いろいろ入っとるセットがええんちゃう?」
「はい。それでお願いします」
「ほなら平太セット二つ。あと飲み物はいつものビールと……」
「あ、わたしもビールで……。ジョッキは中でお願いします」
「俺はジンジャーエール」
はい、と応えて男の子が注文をメモする。そうして彼はおずおずとファットガムに話しかけた。
「ファット……あのさ……もしかして、今日はお仕事の延長?」
「せや。どないしたん?」
「ん、数学の宿題でわからへんとこがあってん。せやけど、お仕事ならまた今度にする」
「今度で間に合うんかい」
すると少年は、やや困ったような顔をした。その様子で察したのだろう、ファットが大きな手で少年の頭を撫でる。
「中二の数学ならそう長くはかからんやろ。ええよ。湧水さんも、ええ?」
「はい。もちろん」
「せやけど……」
少年が申し訳なさそうに口ごもる。いい子だな、と小夜は思った。
「俺が見ますよ」
恥ずかしそうな声で入ってきたのは、環だった。それに男の子とファットが同時にこたえる。
「おにいさんが?」
「ええんかい?」
「中二の数学なら大丈夫かと」
「ほなら頼むわ。環、かっこええやん。惚れ惚れするわ」
「やめてくれ……」
ファットが顔を覆ってしまった環から少年に視線を転じて、楽しそうに告げる。
「ぼん。環はエリートやで。雄英で三本の指に入る言われとる逸材や」
「やめろ……」
「近頃はビッグスリー呼ばれとるそうや。未来のトップやな。ええ機会やからいろいろ教えてもらい」
「褒め殺しはやめろ……またパワハラだ……このプレッシャーが俺の心を押しつぶす……」
「パワハラちゃうで、環。褒めとんのや。ぼん、手が空いたら宿題でもなんでも持ってきたらええよ」
「うん。おにいさん、よろしゅうおねがいします」
ぼんと呼ばれた男の子は嬉しげに環に頭をさげ、厨房へと戻っていった。
串カツ屋は回転が速い。すぐに山盛りのキャベツと飲み物が供された。飲み物は中ジョッキが二つ――もちろんひとつはジンジャーエールだ――と、見たこともないような大きなジョッキになみなみと注がれたビール。
次いで驚くくらい大きな皿に、串カツが山ほど盛られて運ばれてきた。
「湧水さん、串カツは?」
「あ、実は初めてです」
「ええか。ソースの二度付けは禁止やで。大事なことはそれだけや」
「はい」
「では、いただきます」
大きな手を分厚い胸の前でばちんと合わせてから、ファットガムがすごい勢いで串カツを食べ始めた。三本〜四本をまとめて口に入れ咀嚼したかと思うと、次はビールを流し込む。まさに圧巻。といっても、汚い食べ方ではない。とにかく早いのだ。あれよあれよという間に、皿の上から食べ物が消えてゆく。
ただし、食べ方が汚いわけでもないのに、口の周りがソースやカツの衣で汚れていくのが大きな謎だった。
「ファット、また口の周り汚れとるで」
鉄板ごとたこ焼きを運んできた男の子が、呆れたように告げながら大きな手の上におしぼりを乗せた。「おん」といらえたファットが、それで口を拭く。
まるで大きな子どもと小さな大人だ。その関係性がおかしくて、つい口元が緩んでしまう。
ある程度食事が進んだ頃、お店の子が環に声をかけた。
「おにいさん、そろそろ勉強教えてもろてもええ?」
「いいよ」
「……そのあと、雄英のお話きかせてもろても?」
「もちろん、いいよ」
ノートを持ってたずねるお店の子に、環が下を向いてちいさく答えた。おおきに、と言いながら、隣に腰掛けた中学生を見つめるエリート校の逸材の目はとてもやさしい。
みている小夜までやさしい気持ちになりそうだ。
「いい子ですね、ふたりとも」
「せやろ。どっちもかわいいねん。湧水さん、次もビールでええ?」
小夜の飲み物が残り少なくなっているのに気づいたファットが、軽く手を上げる。と、背後から年配男性の声が響いた。
「なんやファット、女の子くどいとんのかいな」
お店の常連だろうか、やけに親しげだけれど。
それに気さくな人気者が笑顔でいらえる。
「せやなあ。そやったらええんやけど、残念ながら、このひとはサポート会社の担当さんや」
「いや、ちゃうやろ。自分、サポート会社のひとはいつも名前で呼んどったやんけ。せやのにカッコつけて苗字にさんなんかつけて呼びよって。ほんまは口説こう思とるんちゃうか。おねえちゃん、気ぃつけや」
「ちゃうて」
すこし困ったように笑いながら、ファットガムが小夜を見下ろした。小さい声でこちらに向かって、うるそうてすまんなあ、と呟いてから、彼が続ける。
「ちゃうねんけど、俺の立場で若い女性を名前呼びするのはあかんのや。おっちゃんらの時代と違うて、今日びいろいろややこしねん」
「あの……」
話の腰を折って申し訳ないと思いつつ、口を挟んだ。
そういえば、ファットガムは前野のことを苗字ではなく名前で呼んでいた。
「もしかして、環くんの『たまき』も苗字ではなく名前なんですか?」
「せや」
「だったらわたしも」
「なん?」
「わたしも今までの担当と同様、名前で呼んでいただきたいです。ファットガムさん、これからはどうぞ小夜とお呼びください」
もちろん、若い女だからという理由で名前で呼ばれるのはごめんだ。だが歴代の担当が名前にちゃん付けで呼ばれていたなら、自分が女性であるという理由で苗字で呼ばれるのはなんだか納得いかない。
「君、かわいい顔して意外に難儀な性格しとんな」
「よろしくおねがいします」
「……んん……まァ、君がええ言うなら俺はかまんけどな……ええと……下の名前なんやったっけ?」
「小夜です」
「ほんなら、小夜ちゃん。これからよろしゅう」
特製であろう巨大なジョッキを掲げて、ファットガムが笑った。小夜もそれに合わせて、自分のグラスを軽く掲げる。
「お、なんやファット、女連れなんて珍しなぁ。コレか」
新たにのれんをくぐってきた客が、小指を立てながら声をかけてきた。本当に地元で愛されているヒーローだと、小夜は思う。
「ちゃうねんて。お仕事相手や」
「なんや、情けない」
「まあそこまでにしといたれや。ファットはアレ以来、浮いた話ないんやから」
「ちょお……おっちゃんら、その話はやめてんか。恥ずかしわァ」
「あれ以来?」
思わずオウム返ししてしまった小夜に、ファットが恥ずかしそうに顔を覆った。
「ン……俺、前に仕事でちょっと大きなけがしてん。そんときにな、あんな危ないことするならもうついていかれへん言われて、振られてしもたんよ」
「あん時は大変やったなぁ」
「ほんまやな。ずいぶん長いことメソメソしよってな」
「おっちゃんら、そんな古い話もうやめてえな」
金がかった琥珀色の目を細めて、ファットガムが笑う。困ったように。
「相手がここらじゃ有名な子ォやったんで、周りも未だにこんなふうやねん。ほんま、堪忍な」
「有名?」
またしても返してしまった小夜に、ファットガムは大きな手で口元をおさえ、しまった、という顔をした。
「ん。まあ、ちょっとなぁ。あんまおっきな声では話せへんのやけど」
「ヒーローですか?」
「同業やないな」
「女優さんですか?」
「女優でもないなぁ」
「モデルさん?」
「モデルでもないわ」
「えーと……じゃあ、かしゅ……」
「話さん言うとるやろ。……君、かわいい顔してぐいぐい来よるな。ええとこの子どころか江洲羽のオバチャン並みやで。それはそうと」
と、ファットが話題を変えた。
「君、さっきの応急手当、めっちゃ手慣れてたやんか。どこぞで講習でも受けたんか?」
どう答えるか一瞬迷ったが、小夜は正直に話すことにした。隠していても仕方ない。そもそも医師の一族に生まれて別の道を歩んでいる時点で、不自然なのだ。
「医学部だったんです」
「ハア?」
「わたし……もとは医学部の学生だったんです」
「ほお」
「……でも、どうしても血がだめで……途中で転部したんです」
なぜ会ったばかりの人にこんなことを話しているんだろう、と小夜は思った。だがなぜだろう、全てを話してしまいたい気分になっているのは。
子どもの頃は、ヒーローになりたいと思っていた。
けれど小夜の個性は戦闘には向かないものだった。その名も湧き水。指先から少量の真水が出るだけという貧弱なもの。
結局、ヒーローになるのを早々に諦めた小夜は、兄たちがしていたように医者を目指した。成績は良かったので、医学部への内部進学もすんなり決まった。
ところが一年時の春に行われた早期臨床体験実習の場で、小夜は大量の出血を前に気を失ってしまった。自分が流血を受け付けない性質だということを知ったのは、その時だ。
慣れなければと努力をしたが、どうしてもダメだった。逆に克服しようとすればするほど、小夜の症状は悪化した。
見かねた父親が小夜に転部を進めた。医者の道は諦めるようにと。
小夜はしばらく悩んだが、最終的に転部を決めた。否、決めざるを得なかった。このまま医学部にいても、症状が改善するとは思えなかった。
小夜が通っていた大学では、学内での転部は一定の成績を収めていれば留年せずに行える。だが、小夜は次の道を時間をかけて考えた。なんとなくで学部を選び、なんとなくで卒業するのはいやだった。人より一年長く大学に通う羽目になったのはそのためだ。
「いろいろ考えて、サポートアイテムの開発に携われたらと思ったんです。子どもの頃に憧れていたヒーローに関わる仕事がしたいなって。だから専門の学部に進みました」
今は希望した部署ではなく企画営業課にいるが、いつか開発担当になれるよう、自分にできることを頑張って行こうと考えている。
あの頃のことを思い起こすと苦しくなるが、自分が恵まれていたということも小夜にはわかっている。医学部の入学金や一年分の学費は、決して安くはない。その後に進んだ学部も然りだ。また、両親がどうしても医者になれと強要するタイプではなかったのも幸いだった。転部は両親に理解と経済力があったからできたことだ。
話し終えた時、とん、と、ファットが空になった三杯目のジョッキをカウンターに置いた。
小夜ははっとした。クライアント相手に、なんという話を。
医師への道を断念した話をすると、みんな気の毒そうな顔をする。それなりに大きな病院を経営する家に生まれたにもかかわらず医者になれなかった女への、同情の視線。
調子に乗って、ペラペラとよけいなことを話してしまった。どう返したらいいか、ファットガムも困っていることだろう。
自らの失態に気づいた小夜が青ざめた、その時。
「さよか」
と、ファットガムがにかりと笑った。
まあるい顔に浮かんだ、まあるくて大きな笑み。
このひとはすべてが大きく、すべてが丸い。顔も目も身体も、そして笑い方さえも。なんて愛嬌があるんだろう。見ているだけで、なんだか安心してしまう。
「小夜ちゃんは、頑張ったんやなぁ」
「……」
「いろいろあってんけど、ちゃんと自分でやりたいことを見つけて前に進んだやんか。そら、すごいことやで」
「……ありがとうございます」
「いやいや、礼を言うんはこっちのほうや」
「……」
「俺たちヒーローはな、己のヒーロースーツを着ているときは、何があっても弱みを見せたらあかんねん。どないにしんどくっても、それを市民のみなさんに悟られたらあかん。なぜならこのスーツを着ているとき、俺らはヒーローやからや。言わば、ヒーロースーツちゅうんは俺らの誇りやな。サポート会社さんが作ってくれるスーツやアイテムは、俺らの誇りを支えとんのや。せやから」
ここでファットガムは一旦言葉をきって、きれいな歯を見せてまた笑った。まっすぐにこちらを見つめてくる瞳は、どこまでもやさしい、金がかった琥珀色。
「それを作る道に進んでくれて、ありがとうなぁ。これからも俺らを支えてや」
あやうく泣きそうになり、下を向いた。返す言葉が出てこない、今話したら、きっと声が震えてしまうだろうから。
どうしようかと迷っていると、背後からまた声がかけられた。中高年層特有のこうしたノリを小夜は苦手としてきたけれど、今は少し、ありがたかった。
「おーおー、かっこエエこと言うとんな」
「おまえそんなこと言うて、元カノに振られたあと、そこで泣きながら揚げ油のラードがぶ飲みしとったやないか」
聞こえてきた衝撃の言葉に、溢れかけていた涙が一気に引っ込んだ。
「あん時は私服やったからええねん。せやけど、おっちゃんら、そういうカッコ悪い裏事情はばらしたらあかんて」
「ラードを……飲む?」
「ああ。たまに飲みたなるねん。ごくたまーにやけどな」
ファットは笑いながらそう言ったが、それは果たして本当だろうか、と小夜は思った。
たしかに世の中には変わった嗜好のひとがいる。だから、溶かしたラードを飲むのが好きなひともいるだろう。だが見る限り、ファットガムは大食漢ではあるけれど、特殊な味覚を持っているわけではなさそうだった。彼おすすめのこのお店は、たいへん美味しい。
コスチュームを作っていることもあり、サポート会社の社員は担当ヒーローの個性についてかなりの情報を知っている。例えば、ファットガムの脂肪吸着とその解放について。
ファットガムは衝撃を吸収するたびにカロリーを消費する。つまり、吸収した衝撃が大きければ大きいほど、彼は痩せる。なので個性の都合上、ファットガムの脂肪は多ければ多いほどいい。
失恋や体調不良で食欲不振に陥ったとしてもだ。BMIヒーローファットガムは、体重を減らすわけにはいかない。
だから手っ取り早く動物性の油脂を溶かして飲む。そういうことではないだろうか。
太ると言うと簡単そうに聞こえるが、彼の場合、重たい身体を自在に動かせる筋肉を維持しながら、脂肪を蓄えなければならない。あまり知られていないことだが、ファットガムの筋肉量はかなりある。小夜も、はじめてデータを確認したときには驚いた。あの巨体を動かすためには、これほどの筋肉を必要とするのかと。
そして鍛えながら太ることは、単純に身体を絞ることより難しい。
ファットガムの大きな身体は、そうした努力の積み重ねで作られたものだ。なのにこの強くて優しい人は、なんでもないことのように笑う。
そういえば、と小夜はかつて担当していたミッドナイトの顔を思い浮かべた。そういえば、ミッドナイトもそうだった。陰で努力し、表では笑う。ヒーローというのは、総じてそういうことができる人たちの集まりなのだろうか。
「変な話を聞かせてもうて、すまんなぁ」
ファットガムが、大きな身体をちいさく縮めてささやいた。どう答えていいかわからなかったので、いいえ、と小夜はちいさく答えた。
*
「お、もうこないな時間やんな。お開きや。小夜ちゃん、駅まで送ってこ」
すっかりお腹もいっぱいになったころ、ファットガムが壁の時計を見あげて言った。
念の為、会計時に経費で落としますからと言ってはみたが、やはりファットは頑なにそれを固辞した。
「ウチの都合でつきおうてもろとるんや、最初のこれはいつもこっちで出しとるさかい」と言いながら。
「……風が、出てきましたね」
店を出た瞬間、環が街路樹をみあげてぽつりと呟いた。
「せやなあ」
ふたりのやりとりを聞いて、そうだろうかと首をかしげた。
だがたしかに、街路樹が揺れている。こうして歩いていてもそう風圧は感じないのにと思いながら角を曲がった瞬間、小夜はその理由に思い至った。
ファットガムが、常に自分と環の風上となる位置にいる。だから小夜は風を感じない。環もそれは同様だろうが、彼はそれにすぐ気づいた。だから彼は店を出たとき、上を見たのだ。
「小夜ちゃん、どないしたん? 酔ったか?」
「いいえ。なんでも」
応えながら、あたたかい気持ちになっている自分に小夜は気がついていた。
心の奥の一番柔らかいところにとどまったちいさななにかが、微かな熱を放っている。
市営地下鉄の入り口で彼らと別れ、ファットガムの巨大な後ろ姿が見えなくなるまで見送った。こんなことをしたのは初めてだ。どうして自分がそんなことをするのか、よくわからない。だが――。
ごう、と、一陣の風が吹いた。乱れた前髪を直しながら、小夜は小さく息をつく。
秋の風を金風と呼ぶ。
このとき小夜は、自分の心の中に柔らかでやさしい、けれど印象的な金色の風が吹いたことに気づいてしまった。
この風に乗って運ばれてきたちいさな種子が熱を持ち、胸の奥で根付いたことも。
2020.3.24
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