いっそ セレナーデ
前編

「では、こちらで承りました」
「ん。遅うなってもうてすまんなぁ。もう定時なんちゃうん?」

 ファットガムは軽く窓の外を見やった。秋の陽はつるべ落としだ。いつのまにかガラスの向こうでは夜が始まっている。
 人の多い街特有の、ネオンきらめく華やかな夜が。

「はい。ですが本日はこのまま直帰の予定ですので。お気遣いありがとうございます」
「ならええんやけど」
「それでは、失礼致します」
「またよろしゅうな」
「こちらこそ、今後ともお引き立てのほどよろしくお願いいたします」

 一礼して退室した小夜の姿を見送って、ファットガムが自席に戻る。机上の鉄板にたこ焼きのタネを流し入れていると、横から相棒の一人が声をかけてきた。

「あの子、ファットのタイプやない?」
「ハア? なに言うとんねん。お仕事相手やないか」
「へー」
「なんやねん、その言い方」

 と、口を曲げてみたものの、彼の言わんとすることがファットにはなんとなくわかる。この黒衣の相棒はファットとの付き合いも長い。過去の恋人との出来事も知っている。
 彼の言うとおり、ファットガムは小夜のようなタイプの女性に、昔からはなはだ弱い。数年前に別れた恋人も、小夜と似たタイプだった。
 どことなく品があるが気取り屋ではなく、やや年齢より若く見える顔は整っていて、ちょっとした表情の変化でかわいくもなれば美人にも映る。そして育ちのよさゆえか、雰囲気はふんわりとしてるのに、腹の底には一本通った芯がある。
 しかも――これは相棒には話していないことだが――理系と文系の違いはあれど、小夜はかつての恋人と出身校まで同じだった。

 そしてファットには小夜を好ましいと思う理由がもうひとつあった。彼女はちゃんと飯を食う。好き嫌いなく、出されたものをきっちり食べる。
 むろん、小食で量が食べられない、アレルギーがある、健康上の理由で食事制限がある、などの場合は仕方ない。だがそうでないなら、ファットはしっかり食事をとる女のほうが好きだった。
 それに、とファットガムはいい匂いがしてきた鉄板を見据えながら思う。
 ほんまは悔しかったやろなぁ、と。

 小夜があの夜、老婆に施した応急手当は迅速かつ的確だった。あれは一朝一夕で得られるものではない。おそらくは、中高生の頃から救命講習などに何度も参加して身につけたものだろう。そうした講習というのはたいていにおいて人形相手に行われるものだから、生の患者を目の当たりにするまで、あの子は己の苦手に気づけなかった。そういうことだ。
 また体験実習で学生が大量の流血を目の当たりにすることなど、そうそうあることではない。その点でも、小夜は運が悪かった。いや、学年が上がってから発覚するよりはましだったのかもしれないが。
 いずれにせよ、小夜は医師の一族に生まれ医師を目指し、そして挫折した。それでもくじけず、別の目標に向かって努力し、大手のサポート会社に入社した。彼女は、そんな女だ。

(たしかに、心の強い女は嫌いやないな)

 そう思いかけたファットに、環の声が追いかけてきた。

「俺もそう思う……あのひとはファットの好きな女優さんに似ている」

(まあ、それも思わんでもないわ、たしかにちょっと似とるで)

 と、常からファンであることを公言している若手女優の顔を思い浮かべながら、ファットは心の中で苦笑した。
 けれどそれをここで認めるほど、ファットガムは青くもなく、また枯れてもいない。
 だからたこ焼きをくるくるとまわしつつ、あえて仏頂面を作った。

「なんや、環まで」
「他の女性の時と……食いつきかたが違う」
「食いつくておまえ、そないな言い方やめえや」

 口調とは裏腹に今度は笑顔でいらえながら、言うようになったとファットは思う。こちらに呼んだばかりの時は、まともに口もきけなかったのに。
 はじめて環の才能を目の当たりにしたとき、ファットガムは衝撃を受けた。
 これはかなりの逸材だと。それこそ自分など、簡単に飛び越えていってしまうくらいの。
 弱々しい印象を受けるが、内に秘めているものは強い。メンタルさえ育てば、こいつはプロの世界でもトップを狙える。伸ばしてやりたい、と心から思った。だから週末ごと、休みがあるごとに呼び出し、事件がなくても連れ歩いた。
 その甲斐あってか、近頃は実戦にもずいぶんと慣れてきた。普段はおとなしいのに、こと戦闘となると、こちらが舌を巻くほどの力を発揮する。問題は未だに街中で声をかけられる度に、びくびくしてしまうこと。
 それでも、ファットや相棒に軽口をたたけるくらいには成長したのだ。それを思うと、なんだか嬉しい。

「環、まさかおまえ、そんでぼんの勉強みてくれたんか。妙な気ぃまわしよって」
「ファットもいい年なんだし、そろそろ新たな花を咲かせてみてもいいんじゃないかと思う」
「なんやおまえ、飲み屋でたむろするおっちゃんみたいなこと言いなや。お仕事相手や言うとるやろ」

 そう答えたファットガムが、焼き上がったたこ焼きをひとつ、口に入れる。
 それが、この事務所での合図。
 環を含めた相棒たちが串を手に鉄板に群がり、それぞれがたこ焼きを食べ始める。

「お仕事相手でもええやんか。もともと俺らは出会いが少ないんやし」

 はふ、はふ、と熱々のたこ焼きと格闘しつつ、相棒のひとりが言う。
 相手をじろりとにらんでおいて、ファットガムはふたつめ、みっつめ、よっつめと、たこ焼きを次々と口に入れた。
 出会いがないからと言って、それはあまりに安易であろう。いくら自分好みの子だからといって、そう簡単に恋には落ちない。自分はそこまで安くない。

「俺はそこまでしょっぱくないで。それにあちらさんにも選ぶ権利はあるやろ。俺みたいにおっきな男が好きな子もおれば、ジョニーズ事務所の皆さんみたいな線の細い美青年を好む子もおるやん」
「いやぁ、見てる限りでは、向こうもファットに気があるんちゃう?」
「そら、あちらさんが営業スマイル使こてるからそう見えるんやろ。感じよく笑とるだけで好かれてる思うほど、俺は青ないねん」

 あっという間に空になった鉄板の火を落として、ファットガムが立ち上がる。

「環、パトロール行くで」
「ファット! 口の周り」
「ファ?」

 環に差し出されたティッシュで口元を拭きながら、なんやしらんけど俺の周りの未成年はみんなおばちゃんみたいに世話焼いて来よるな、とファットガムは思った。

***

「あ」

 事務所を出てすぐ、前を歩いていた環が間の抜けた声を上げた。
 なんや、とたずねようとして、ファットガムは続く言葉を飲み込んだ。環の視線の先にあるものを、見てしまったからだ。
 そこに小夜がいた。若い男と共に。
 相手はファットとはまったく違うタイプの、線が細くてすらりとした、いかにもといった風情の優男。
 ふたりは談笑しながらちいさなビルに入っていった。あのビルのテナントはたしか、若い女性が喜びそうな創作料理と甘ったるい酒を出すこじゃれた店ばかりだ。

(なんや……彼氏おったんか)

 心の中でそう呟いて、ファットガムが分厚く丸い肩を落とした。

(なんやねん、これ)

 ファットガムは驚いていた。肩を落としてしまった自分自身に。
 出会って数週間の仕事相手だ。しかも一度飯を食べた程度の。それなのに、どうして自分はこんなにも気落ちしているのだろうか。

 不意に横から負のオーラを感じ取り、ファットは隣のインターン生を見やった。環は11月の冷たい風にマントをはためかせながら、どうしたらいいかわからないといった体で青ざめている。
 「環」と声をかけると、彼は一瞬身体を硬直させてから、それでもちいさく「はい」と答えた。ええこやんな、と思いながら、自分よりも遥かに細い肩をばしりと叩く。

「なんて顔しとんねん。お仕事や、お仕事」

 それだけ告げて、ファットガムは次の路地を右に曲がる。環が慌てて、その後を追った。

***

 11月の木枯らしをその巨体に受けながら、ファットガムが街をゆく。

 あのあとは特に事件らしい事件もなく、環と事務所に戻り、そして退勤した。ファットガムの自宅は事務所ビル内にある。ただし、中でつながってはいないし、入り口も別だ。事務所の入り口は通りに面した表側に、自宅の入り口は裏手にある。
 今日はなんとなく、まっすぐ家に帰る気にも、相棒たちを誘う気にもならなかった。だから行きつけのお好み焼き屋に出向いて、店の材料がなくなるまで食べまくった。アルコールは入れていない。こういう気分の時に酒を飲むとろくなことにならないことを、ファットガムは知っていた。

「なんやねん」

 吐き捨てるように、呟いた。
 常ならば機嫌がいいはずの食後にファットが悪態をついてしまったのには、理由がある。先ほどのビルの前で、ふたたび小夜をみかけたからだ。

(なんでこんな日に限って何度も会うねん。繁華街やったら江洲羽以外にもあるやろ。なんでよりにもよって、俺の事務所のすぐそばで男と飲んどんねん。男連れの時に会いたないねん)

 心の中で悪態を着きながら、それでも小夜から視線をはずすことができない。そんな自分自身にも、ファットは腹を立てていた。
 だが。

「ん?」

 ふと、ファットガムは小夜の様子がおかしいことに気がついた。
 酔っているのだろうか。足取りがおぼつかない。千鳥足もいいところだ。はらはらしつつ見ていると、突然、小夜の身体が崩れ落ちた。
 あっと声をあげそうになったその刹那、隣にいた男が小夜を抱きかかえた。そこまではわかる。自分でも同じことをするだろう。だがこのとき、男の口角がゆっくりとあがったことを、ファットガムは見逃さなかった。
 それはひどく、嫌な感じのする笑い方だった。

(なんや、いまの)

 ファットガムは縦にも横にもとにかく大きい。声も大きく迫力がある。地元の言葉ではあるが、己の言葉遣いが時に荒々しく聞こえてしまうことも、知っている。
 だから一般人を相手にするときはできるだけあたりを柔らかく、常に笑顔を心がけてきた。市民のみなさんを怖がらせることがないように、ファニーでキュートなファットさんというキャラ作りを大事にしてきた。
 けれど、今この瞬間、それらすべてが吹っ飛んだ。

 大きな身体が大きな一歩を踏み出し、怒号をあげる。

「自分! 彼氏かなんかしらんけど、女のコどんだけ飲ましとんねん!」

 小夜を抱き抱えていた男が、びくりと硬直した。その時にはすでに、ファットはふたりの目前にまで到達している。

「彼氏では……ないです」

 小夜が小さくそう漏らし、そして大きく息をついた。
 かなりつらそうだ。どれだけ飲ませれば、こんなふうになるのだろうか。

「彼氏とちゃうん?」
「会社の……同僚……です」

 ほっとしたと同時に、男に対し、ますます怒りがわいてきた。恋人でもない女とサシ飲みしここまで酔わせる男が考えていることは、たいていひとつだ。

「……なに考えてこないに飲ませたんや」

 押し殺した声で告げると、男がぶるりと大きく震えた。その様子にファットガムは確信を持った。答えなどもう聞くまでもない。

「いや……別に、なにも……」
「嘘も大概にせぇ!」

 叫んだ瞬間、ふたたび小夜の膝がかくりと落ちた。目前の男をぶちのめしてやりたいのはやまやまだが、今はとにかく小夜を放っておくわけにはいかない。

「その手ぇ、離さんかい」

 ギリギリ残された理性でそう告げると、慌てたように男が小夜から身を離す。ファットが手を伸ばして、崩れ落ちかけた身体を支えた。
 この身に沈め続けた敵たちに比べると、小夜の身体の、なんとたよりないことか。

「この子は俺が責任持って送ってく。ええな」
「は…はい」
「そんならさっさと去ね」

 男が一度大きく全身を震わせて、次に弾かれたように駆けだした。
 本当に爆発する寸前だった。だがいつまでも、去った相手にかまけているわけにはいかない。もちろん場合によっては後ほど呼び出すこともあろうが、まずは目の前の小夜をどうするのかが問題だった。
 軽く肩を上下させ、大きく深呼吸してから、ファットが腕の中の小夜に向かって声をかける。

「大丈夫かぁ?」
「はい……」

 言葉とは裏腹に、小夜は動かない。否、うまく身体が動かせないようすだった。これはもう、仕方あるまい。

「イヤかもしれんけど、我慢してな」

 意を決して、ファットガムは小夜を抱き上げた。いくらなんでも、妙齢の、しかも酔い潰れた女性を腹に挟むわけにはいかなかった。

「小夜ちゃん、家どこや? 送ってっちゃる」
「……はい」
「はいじゃわからんのやけど」
「……はい」
「そんならファットさんちで介抱したろか?」
「……はい」
「さよか、って、ええ? 小夜ちゃん、いくら酔うとるいうても、女の子がそないなこと言うたらあかんよ」

 自分が言った下品な冗談を棚に上げ注意したファットに、小夜はまた、はい、とこたえた。
 俺、男として意識されてへんのやろか、と、ファットは心の中で呟いた。
 キュートでファニーなファットさんは江洲羽を守るマスコット。安全安パイ、正義の味方。
 ヒーローとしてはもちろんそれでいいのだが、一人の男として考えると、やはり切ない。

「あんな、ファットさんも男の子なんやで。……ちゃんとそういう機能もついとるし、そゆことしたいっちゅう気持ちもあんのや……君、ほんまにそれわかっとる?」
「はい……」

 ファットガムはマスク下の眉をひそめた。よく考えたら、先ほどから小夜は何をきいてもはいしか言わない
 今の小夜と似た状態の人間に、以前出くわしたことがある。相手は飲酒していたが、飲んでいたのは酒だけではなかった。

「君、悪いけどいったんうちの事務所に連れてくで。ええか」

 それに対する返答は、やはり同じ、はいという一言。
 ファットは内心で大きなため息をついて、ふたたび大きな足で大きな一歩を踏み出した。

***

 事務所には、すでに誰もいなかった。
 腕の中の小夜は泥のように眠りこけている。できるだけしずかに仮眠用のベッドに寝かせ、上からそっと毛布を掛けた。
 シーツを替えたばかりでよかったと思いながら、携帯端末を取りだし、押し慣れた番号をプッシュする。
 ツーコールで常から世話になっている医者が出た。年齢不詳の――といってもかなりの高齢ではある――薬物に詳しい女医者だ。

「どーも、ファットガム事務所です」
「なんやファット、こんな時間にまたかいな」
「いつもすんませんな。実は、今日診て欲しいのは俺でも相棒でもないんや。ただどうしても気になるよって……センセ、来てもらえへんやろか」
「時間外の出張診療は高うつくで」

 かまへんよ、と告げると、五分で行くわ、と女医が答える。おおきに、といらえて電話を切った。
 どうにも嫌な予感がする。

 ファットは大きく息をつき、眠る小夜の顔を見つめた。
 夕方同じこの場所であれほど明るく見えた彼女の顔は、今はひどく青白い。目前の小夜がこのまま消えてしまいそうに思えて、ファットは少し、不安になった。

2021.3.27
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月とうさぎ