baby ! baby! I love you!

 初夏の夜は、静かに更ける。
 今宵は、恋人と過ごす二度目の夜。

 かすかに湿気を含んだこの時期特有の空気を風呂上がりの身体全体で感じながら、ファットガムは鼻歌交じりにリビングの扉をひらいた。
 とたん、琥珀色の瞳の中に飛び込んできたのは、ファットガムのTシャツを着てくつろぐ小夜の姿。シャツはコミット時のものだが、それでも充分な体格差があるので、小夜が着るとゆとりのあるワンピースのようになる。
 小夜が寄りかかっているのは、自身を模した等身大のクッションだ。このクッションは彼女の大のお気に入り。

「君、それ好きやなぁ」

 この言葉の半分はからかいで、もう半分はやきもちだ。自分に似せたクッションに嫉妬するなんて実に間抜けな話だが、正直面白くないのだからしかたがない。

「身体が包み込まれるような感じがして好きなの」
「ほお」

 せっかくここに本物がおるんやから俺に包まれとったらええやんか、と、本当だったら言いたいところだ。だが今はあえて口にはしない。
 焦ることはないだろう。ふたりですごす夜は、きっと甘くて長いはず。

「そろそろ小夜の持ってきてくれたワインあけよか?」
「いまお腹いっぱいだから、もうちょっとしてからでいい?」
「おう、ええで」

 あかるくいらえながら小夜の隣に腰を下ろして、ちらりと彼女を眺めやる。

(もうちょっとってどんくらいやろ。えっちの前と後ではずいぶん変わってくるやん。ほんでちいとばかり気になっとるんやけど、胸のとこ、また透けとんねんな。さきっぽがちょっとこう、ぽちってなっとんねん。こないだのとおんなじブラやろか。それともノーブラなんやろか。……それはそれでなかなか燃えんで。シャツをまくり上げたらもう邪魔なもんはなんもなくって、ふわふわのおっぱいがこう、そこにあるわけやろ? うん、悪うないな。ちゅうか、ええなノーブラ。や、レースの向こうにピンクの乳首が透けて見えるっちゅうのもなかなか捨てがたいんやけど。うん。ええな。どっちもええ。レースでもノーブラでもどっちでもええわ。どっちにしても、今夜はそこをいじくりたおしてもええっちゅう、もう、そういうあれやんな?)

 煩悩のかたまりのようになっているが、この男、一応関西を代表するヒーローである。だが煩悩だらけのこの男は、実に素直で率直だった。だから自身の思ったことを、気にせずまっすぐ口にする。

「変なこと聞くけど、こないだの夜用のブラみたいなん、どこで買うん?」
「え?」

 突然下着の話をされ、小夜は面食らっている様子だった。
 だが、焦ることはないなどと内心で呟きながらも、すでにベッド上の行為へと思考を進めてしまっているファットガムは、まったくそこに気づいていない。ニコニコと笑みながら、彼女の答えを待っている。
 やがて根負けした様子で、小夜が口をひらいた。

「あれはフランスのブランドのものだったから、デパートで」
「おフランス製かい。道理でおしゃれやと思うたわ」

 あっっっぶな……とファットガムは思った。
 ドンキ.オオテで買ったのかなどと言わなくて、本当によかった。

「今日もあれなん?」
「今日はイタリアのだけど……」
「海外製品が好きなん?」
「レースが凝ってるものが多いから」
「いつもそうなん?」
「……普段は日本の製品が多いよ……って、前もこれと似たやりとりしなかった?」
「何回聞いてもええやんか。確認したいんやから」

 小夜を質問攻めにするファットガムだが、相手に若干引かれていることにも、やっぱりまったく気づいていない。だから彼は、またしても思ったことをそのまま口にしてしまう。そこにムードとデリカシーは、まったく存在していない。

「せやって、今日もあれやろ? 俺たちの充実したナイトライフのために選んでくれたやつなんやろ? そこ、ぷっくりしとるし」

 ちょい、と胸元を指さすと、小夜は頬を赤く染め、両手をクロスするように折り曲げながら胸元を覆った。

「俺のために用意してくれたやつやん。あとでたっぷり見せてな」
「……だから、なんで笑顔でそういうこと言ってくるの? そう思っても黙ってて!」
「エー、だって嬉しなってしまうんやもん。しゃあないやん」

 な、と小首をかしげてにかっと笑う、漢、豊満太志郎。
 ちなみに本人、自分がかわいいと思われていることは、充分すぎるほど自覚している。

「……また、そんなかわいい顔をして」
「せやろぉ、君の彼氏、めちゃくちゃかわいいねんな」
「太志郎さん、そういうのずるいから」
「なんでぇ? あかん?」

 恥ずかしそうに、そしてやや恨めしそうに、小夜はこちらを見上げてくる。その姿を見ていたら、ファットガムの胸に、さまざまな想いがこみ上げてきた。

(ほんま君とこうなれて嬉しなあ。小夜はいつもかわいいなあ。俺はほんましあわせやなあ。……なんやこう……やりたなってしもたなぁ。ええかな。ええやんな)

 くい、と小夜を引き寄せて、額にキスを落とした。嫌がるようすは、もちろんない。小夜は恥ずかしそうにしながら、それでもやわらかく笑っている。

「あとでっちゅうたけど、やっぱ、今からそのイタリア製の、見せてもらおかな」
「えっ?」
「ハイ、バンザーイ」

 両手をあげるジェスチャーをしながら満面の笑みを浮かべる、人気ヒーローファットガム。だがそれに反して、彼の恋人は困ったように眉を下げた。

「太志郎さん」

 小夜が居住まいをただして、ファットガムを見上げた。怒っているようすはないが、なにやら真剣な雰囲気だ。

「ん? なんや?」
「あのね、あまりにもムードがなさすぎ」
「え」
「スポーツじゃないんだから、そんなふうにバンザーイとか言われても。もうちょっとこう、雰囲気を大事にしてもらいたいんだけど」

 あっ、またやってもうた、とファットガムは頭をかいた。
 昔から自分はこうだ。好きな女の子と仲良くなると、嬉しくなってはしゃいでしまう。これが原因で恋のチャンスを逃したことも幾度かあった。だからこそ、女性に強い相棒からさんざん指導を受けたはずなのに。

「ごめん、許したって。俺、つい嬉しゅうなってしもて。あかんなぁ。前も似たようなことで怒られたことあったのに、ちいとも成長しとらんわ」
「……前?」

 小夜の声のトーンが、一段落ちた。
 やばい、と思った時にはもう遅い。小夜の顔からは、すでに笑顔が消えている。
 ファットガムの全身から、ぶわっと汗が噴き出した。

「前……」
「ちゃう……ちゃうねん。ちゃうねんで! ほんま、ちゃうね……」
「前、ですか」

(同じこと三回も繰り返しとる。それに敬語やん。しかも最後の、俺の語尾にかぶせてきよった。怒っとる……コレ完全に怒っとるやろ)

「ちゃうねん! アンタはデリカシーもムードもないから気ぃつけろって、君と付き合い始めた時からずっと相棒に言われてたんや。あの……黒いの……わかるやろ? せやから最初んときも、夜景の見えるレストランとか選んだりしたんや。あの……前ってそういう……そういうやつやで……他でこないなシチュエーションになったとかやあらへん。元カノのことでもないねんで……」

 しどろもどろになりながらもすべてを言い終えた瞬間、それまで真顔でいた小夜の表情がまたしてもかわった。むろん、よくない方向に。

(アーッ。俺、またよけいなこと言ってもうた。最後のあれはいらんかった。やらかしてもうた)

 最後の一言で、またしても墓穴を掘ってしまったことに気づいて汗をかき続ける、漢、豊満太志郎。

「誰も朝見アナのことだなんて言ってませんけど」

 や、ぜったい思っとったやろ、と心の中で突っ込みつつも、さすがにそれは口には出さない。ここでそれを言うべきではないということくらいは、ファットガムにもわかっている。

「そ……そやな……その通りや」

 ファットガムの全身から、ダラダラと汗が流れ続ける。
 どないしよう、と、ファットは頭を抱えたくなった。こんな小夜を見るのも、こんな塩対応も初めてだ。しかし、原因は自分の失言であることもまた、ファットガムにはわかっていた。

「ほんま俺、君とこうなれて嬉しいんや。せやからな、ちょっとばかりはしゃいでもうて……」

 自身の等身大クッションをずらして小夜の背後に回り込み、ファットガムはバックハグという力技に持ち込んだ。さいわい、小夜に嫌がるそぶりはない。

(これはどないしたらええんやろか。強引にチューしてごまかせ……ないやろな……まずごまかすって発想があかんわな……。これはちゃんと、本音で語らなあかんやつやんな……)

「今の俺には君だけやで」

 きゅっと抱きしめながら呟くと、腕の中の小夜から、ほんのわずかに力が抜けた。あ、これイケるんちゃう? と、ダメ押しをすべく口を開いたその瞬間、室内に機械音が鳴り響いた。

(ええええええええ、またぁぁぁぁぁ?)

 プロヒーローあるある、いいところでの出動要請。

 ファットガムはさすがに舌打ちをしたい気持ちになった。せめて仲直りするまで待っとってくれや、と心の中で叫びをあげて、ため息を吐く。

「呼び出しみたいですね」
「……ウン……」

 小夜から手を離して、ファットはもう一度盛大なため息をついた。しぶしぶ端末を開き、その内容を確認する。

「今日は事件が多くて、当番の事務所だけじゃおっつかんらしい……」
「そうですか」
「……待っとってくれる?」
「しかたないじゃないですか。事件は待ってくれませんし」

 いいと言いながらも、それでも小夜は敬語のままだ。
 しかも自身の失言に加えて、前回のデート時に引き続いての呼び出しだ。小夜がどんな気分でいるかと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。

「あんな……こんなふうにオフでもガンガン呼び出しかかるの、たぶん今月で終わると思うんや……」
「はい」
「来月からは、ほんま俺でないとあかんような案件だけになるから」

 ヒーロースーツに着替えながらそう告げると、返ってきたのは「わかりました」という事務的な返答。
 ファットは軽く肩を落としつつ、玄関扉へと向かう。

「ほな、行ってくる」
「お気をつけて」

 敬語のままではあったが小夜がくれたねぎらいの言葉にややほっとして、おおきに、と小さく答える。
 そしてファットガムは夜の街へと飛び出した。

***

「もー! ばか!」

 一人残された部屋で、小夜は頭を抱えながら自らの恋人を模したクッションの上に倒れ込んだ。

(わたしのばか)

 どうしてあんな態度を取ってしまったんだろう。
 出かける彼を、笑顔で送り出すことができなかった。ヒーローはいつどこでなにがあるかわからないのに。それほど危険な職業だ。サポート会社に勤めて、小夜は嫌というほどそれを目の当たりにしてきた。
 それなのに、つまらないやきもちであんな態度を取ってしまって。

 オフのファットガムにしょっちゅう呼び出しがかかるのは、とある筋――現在は地元ヒーローの調整役を務めている老ヒーロー――からの嫌がらせのせいだ。
 当の老人は今月いっぱいで調整役をおりると聞いている。だから彼は「来月からはこういうことはなくなる」と言ったのだ。嫌がらせを受けていることも、その理由も語ることなく。

 地味だがされるときついこの嫌がらせは、関西ヒーローの会合の場で老ヒーローがファットの相棒を馬鹿にしたことが発端で始まった。
 まっすぐで仲間思いのファットガムが、相棒の悪口を聞き流すはずもない。彼は衆人環視の中、老人にくってかかった。面子を潰された形になった老人はそれを恨んで、こうして未だに意趣返しをしてくる。
 小夜がそれを知っているのは、当の相棒からことの真相を聞かされたからだ。ファットガムはそれについて、一言も小夜に話したことはない。

 ファットガムは、小夜の恋人は、そういうかっこいい人だ。
 ほんとうに優しいすてきなひとで、本当だったら、ただのOLである小夜など相手にするはずもないひとだ。
 そんな彼がもてないはずがない。その証拠に、ファットガムの前の恋人は、関西地区ナンバーワンの人気アナウンサーだ。小夜と同じ大学出身の、とても優秀な美しい人。

 だからどうしても、昔の話をされると、彼女の顔が浮かんでしまう。
 そのたびに、小夜は少し悲しくなる。今のファットが好きなのは彼女ではなく自分であるとわかってはいるけれど、それとこれとはまた別だった。
 それだけではない。彼にとって小夜は初めての女性ではない。けれど小夜にとって、ファットガムは初めての男性で。
 もちろん、どれもファットガムが悪いわけではない。
 人が生きている以上、未来があれば過去もある。それもちゃんとわかっている。わかってはいるけれど、ああして面と向かって「前」などと言われてしまうと、やはりつらい。

 こんな心の狭い自分はいやだ、と小夜は思う。
 心が狭くて、ちいさくて、つまらないことでうじうじと悩んで。

 下着のこともまた然りだ。
 ファットガムにはああ言ったけれど、レースのみで作られたブラは、先ほど彼が指摘したように服の上からでも胸の先端のかたちを拾ってしまう。だから、パートナーとのナイトライフでしか使えない。普段使いできる人もいるのだろうが、小夜には無理だ。
 だからあの繊細なデザインの美しい下着は、ファットガムに見せる、そのためだけに用意した。

 同じように彼に質問攻めにされたとして、と、小夜は考える。
 自分がもっとかわいい女性だったなら、甘えた声で「あなたのために選んだの」と言えるのだろうか。
 もしくは、もっと大人の女性だったら、「そうよ」と返して、そのまま彼を誘えるのだろうか。
 そのどちらも、今の自分にはとうてい無理だ。どうしても恥ずかしさが先に立ってしまう。
 こんなにあのひとが大好きなのに、どうしてもう少しスマートな返しができないのだろう。

 それにファットガムは自分の感情に正直でストレートに気持ちをぶつけてくるけれど、行為そのものはとても優しく丁寧だった。はじめての小夜でも痛みが少なくすむように、ちゃんと時間をかけて愛してくれて、スムーズにことを進めてくれた。

 考えれば考えるほど、大事にしてもらえているということがわかる。それなのに、過去に嫉妬して不機嫌になるなんて、まるで子どもだ。
 自分のだめさに、涙が出てきた。

(ばかばか。大ばか……)

 等身大クッションに埋もれながらしくしく泣いていると、唐突にがちゃり、という音が響いた。続いて聞こえてきたのは、慣れ親しんだ声。

「ただいまァー!」

(えっ、やだ)

 反射的に身体を起こして、リビングの姿見を見やった。
 見事にまぶたが腫れている。目もまっかだ。これでは泣いていましたと言っているようなもので、このままではファットガムを心配させてしまう。それにこんなみっともない顔を、彼には見られたくない。

 だがもうどうしようもない。目を冷やすことはおろか、顔を洗う時間もない。ファットガムはすぐにリビングにくるだろう。

 困り果てた小夜がとっさにとった行動は、寝たふりをすることだった。

「あれ、寝てしもたんか」

 やや残念そうな響きに、小夜の胸がずきりと痛む。それもそうだ。前回も同じように出動したファットガムを待っていて、ここで眠ってしまったのだから。
 やさしい彼は小夜を起こしたりはせず、そのままベッドに運んでくれ、自身はこのクッションの上で寝た。ひどく疲れていただろうに。

「早う帰ってきたのに、残念やな」

 しごく小さな呟きと共に、小夜の身体がふわりと浮いた。ファットに抱き上げられたのだ。
 小夜は泣きそうになった。自分はさっきあんな態度をとったのに。いまも寝たふりをしているというのに。このひとはこんなにも優しい。

 「このままでいいの?」と、内なる自分が問いかけてくる。いいわけがない。この優しい人はまた小夜にベッドを明け渡し、自身はクッションで眠るかもしれない。そんなことはさせたくなかった。

 だが予想に反し、ファットガムは小夜を抱き上げたまま動きを止めた。微動だにせず、ただ、小夜を見下ろしているようす。

 どうしたんだろう。もう、嫌になってしまったのだろうか。
 そうかもしれない。出がけにあんな態度をとってしまったんだもの。

 小夜の推測を肯定するかのように、ファットガムが大きなため息を吐いた。

(このままうまくいかなくなるなんて、いや)

 そう考えた瞬間、身体が動いていた。くるりと彼の頭に手を回し、ぎゅっと首にしがみつく。

「おぉ?」

 耳元で響く、驚いたような声。
 小夜はファットの肩に顔をうずめて、ちいさくちいさく呟いた。

「……ね」
「ん?」

 蚊の鳴くような声でささやいた「ごめんね」という言葉は、果たしてファットに届いただろうか。

 だが抱きついたのはいいけれど、このあとどうしたらいいか、小夜にはわからない。どうしようと思っていると「どないした? 気分でも悪いんか?」というやさしい声が、耳孔に流れ込んできた。

 ああ、本当にこのひとは、どうしてこんなにもやさしいのだろう。

 小夜は思いきって、ファットの肩にうずめていた顔を上げた。心配そうにこちらを見つめている、琥珀色の瞳。

(世界でいちばん、あなたが好き)

 ファットガムの大きな口に、小夜は自分の唇を押し当てた。

***

「あれ、寝てしもたんか」

 自身を模したクッションの上で横になる小夜をみとめて、ファットガムが小さく呟いた。
 二回続けてはさすがにないんちゃうか、と思いかけ、二回続けてデート中に呼び出しがかかって出動した俺も俺やんな、と思い直した。しかもその前のやりとりがやりとりだ。これでは愛想を尽かされても仕方がない。

「早う帰ってきたのに。残念やな」

 ひとりごちながら、小夜の前にかがみ込んで、そのまま彼女を抱き上げた。
 今夜は一緒に寝てもええやろか、なにもせえへんから。
 そう内心で呟いてベッドに向かおうとしたその時、小夜がきゅうと眉を寄せた。次いで、への字になった口元。

(もしかしてこれ……起きとるんちゃう?)

 よく見ると、小夜の頬と口元が、ぴくぴくと動いている。

(エー。……どゆこと?)

 小夜は嘘がへただ。それと同じように、狸寝入りもへたなのだろう。
 ファットは常から小夜の嘘がつけないところをかわいいと思っているのだが、いま、この状態での寝たふりは、正直堪えた。

(なにコレ? もしかしてあれか、もう俺とはしたないから寝たふりしてやり過ごそうっちゅう……そういう……そういうあれか?)

 小夜を腕に抱いたまま、ファットはがっくりと肩を落とした。抱かれたくないというだけならまだいい。なんとか修復のしようがある。
 だが、話すことすらしたくないから寝たふりをしてやり過ごそうとしているのだとしたら、それはかなり重大だ。
 自分の不用意な言葉は、それだけ小夜を傷つけてしまったのだろうか。

 ただ一言が、全てを終わらせることがある。

 ファットガムはそれを一度経験している。その言葉の前と後とでは、ふたりのすべてが変わってしまう。そんな言葉があることを、ファットガムは知っていた。そのはずなのに。
 泣きたい気分になりながら、ファットは大きくため息をついた。

(俺は君が大好きなんやけどな)

 と、思ったその時、自身の首に、小夜の腕が巻き付いた。

「おぉ?」

 ヒーローらしからぬ間抜けな声をあげると、小夜がなにやら小さく呟いた。なんと言ったかよく聞き取れなかったが、いったいどうしたのだろうか。

「どないした? 気分でも悪いんか?」

 告げると、小夜がいきなり顔をあげた。目をとじていたときには気づかなかったが、目のまわりが腫れている。きっと泣いていたのだ。

(堪忍してや)

 そう口にしようとした瞬間、小夜のやわらかい唇が、自分のそれに押し当てられた。ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。
 小夜からキスをされたのは、これがはじめてのことだ。

「エッ? あの、小夜……小夜さん?」
「はい」
「……さっきのあれ、怒ってへん?」
「あれ?」
「その……前がどうとか」

 言った瞬間、小夜の身体がこわばった。
 またよけいなことを言ってしまったか、そんなふうに思いながら、腕の中の彼女を見下ろす。

「怒ってません」

 こたえながら、すっと小夜は目をそらした。これは、彼女が嘘をつくときの癖。
 
(いや、嘘やろ。君、嘘つくとすぐわかんねん。それ、ぜったい怒っとるやん)

「許したって?」
「……次、気をつけてもらえれば」
「ハイ」
「あと……もうちょっとムードを大事にしてもらえたら……」
「善処します」

 先ほどと異なり、今度はまっすぐにこちらを見つめてきた小夜にそう答えると、もういちど頬にキスをされた。
 嬉しくなって、こちらからも熱烈なやつをお返したるで、と言いかけて、すんでの所で思いとどまる。
 今の今だ。また怒られてしまうかもしれない。

「これからどないしよか? 小夜が持ってきてくれたワインあけて、飲みなおそか。こっちにワインとグラス持ってくるわ」

 待っとって、と小夜をクッションの上に座らせようとしたその刹那、ちいさなつぶやきがファットの耳孔に飛び込んできた。

「……いまは太志郎さんのほうがいい」
「エッ?」

(これはまあ、ええちゅうことやんな? )

「よう聞こえんかったから、もういっぺん言うて」
「もう言わない」

 ふい、とすねたように横を向いてしまった小夜の髪にキスをひとつ。

「せやなぁ。俺も、ワインより小夜のほうがええわ」

 耳元で低くささやくと、小夜は恥ずかしそうに、もう一度ファットガムの肩に顔をうずめた。

 初夏の夜は静かに、けれども甘く、更けてゆく。

2021.6.17

こちらの続きは年齢制限作品になりますのでPrivatterに掲載しています。
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月とうさぎ