おひさまが出るのは嬉しいけれど、この季節特有のじっとりとした湿気を含んだ暑さには閉口させられる。デパートの立体駐車場の中に陽光は差し込まないが、蒸し暑いことにはかわりない。
個性の都合上、比較的暑さに強い自分でこれだ。彼はもっとつらいだろうなとひそかに思った。
小夜は内心で息を吐き、隣を歩む大柄な恋人の顔を仰ぎ見る。大きな顔に浮かんでいるのは玉の汗。やはりとても暑そうだ。
「なん?」
視線を感じたのか、彼――ファットガム――がかがみ込みながらたずねてきた。ファットガムは大きいから、かがんでもらっても彼の顔は小夜の頭よりずいぶん上の位置にある。
「暑いなあって思って」
「せやなぁ。お店ん中は涼しかったけど、ここは蒸してかなわんわ」
眉を下げつつ汗を拭いたファットガムのもう片方の手には、イタリア語の店名が印字されたショッピングバッグが握られている。
その中身は彼の服――ではなく、小夜のランジェリーだ。ファットガムの家にお泊まりした時に着るための、繊細で美しい下着たち。
一枚は袖に刺繍があしらわれたペールブルーのシルクのガウンだ。ミドル丈で、小夜が着て、ひざがギリギリ出るくらい。同色のブラとショーツも購入した。ブラは薄手のチュールのみで作られており、カップも当て布もなく、透け感が強いセクシーなものだ。
それだけでなく、ファットガムは普段使いもできそうな、シンプルなパウダーピンクのキャミとタップパンツ、そしてショーツを選んでくれた。
男の人と下着を選ぶなんて、半年前の自分には思いもしなかったことだ。恥ずかしさはあるけれど、なんだか少し幸せな気分。
「それに、いっぱい買ってもらっちゃって悪いなあって」
「そないなこと気にすることあらへんて」
ファットはにかっと大きく笑い、そして次に、声のトーンを一段落とした。
「あとでたっぷり見せてや。これ着たとこも、脱ぐとこも」
耳孔に流し込まれた声の甘さと内容の際どさとに、どきまぎした。つきあってそろそろ三ヶ月になろうというのに、小夜は未だファットガムのこうした一面にどきどきさせられっぱなしだ。
恥ずかしくてなんと答えればいいかわからず、大きな手をきゅっと握りしめながら、太い腹に顔を埋めた。
立体駐車場の端に、ファットの車は止まっていた。すでに見慣れたイエローメタリックのSUVは、大きな彼にぴったりの大きな車だ。この車は運転席を含め座席のシートが自由に動かせるようカスタマイズされている。持ち主の身体のサイズが変わるためだ。
今は丸いファットガムでも座れるようセカンドシートを収納し、運転席のスペースを広く大きくとっている。
ファットと共に、小夜は車の中に乗り込んだ。彼がエンジンをかけるのと同時に、エアコンが作動する。
流れてきた冷たい風を受け、ほっと小さく息を吐いた。
「あとね、ちょっと意外だったかな」
「なにが?」
ランジェリーショップでの彼は想像していた以上に紳士だった。はしゃがず騒がず冷静で、店員との会話もそつなくこなす。
それを告げると、ファットガムはおひさまのように破顔した。
「そら、下着屋でふたりん時みたいにはしゃいどったら、小夜恥ずかしいやろ。高級店やったし。ファットさんはいちおうアラサーの大人なんで、それくらいはわきまえとります」
ファットは白い歯を見せてにかりと笑いながら続ける。
「しかし、個室対応されるとは思うてへんかったから、びっくりしたわ」
彼の言う個室とは、ランジェリーショップのVIPルームのことだ。
幸いにして予約がとれたので、人目を気にせずゆっくりと買い物ができた。まったく、外商カードさまさまだ。
とはいえ、若い小夜が外商顧客でいられるのは、親の財力故である。両親が大口の顧客だから、娘である小夜もその対象になっているというだけだ。
さすがにカードの引き落としは自分の給与口座からだが、いろいろな意味で自分は恵まれているのだと小夜は思う。
「太志郎さんも、いろんな百貨店のお客さま担当課からお誘いが来るんじゃない?」
「あー、前に案内が来て入ってみたんやけど、外商さんっちゅうの? 担当のひとが毎月来よるやん。俺、あんま家におらんから、事務所に来るんや。それがうっとうしくなって、やめてもうた」
お客さま担当課とは外商顧客担当課のことだ。たしかに彼らは、毎月直参するだけでなく電話攻撃もかけてくる。多忙なファットガムは、さぞかし閉口したことだろう。
「便利は便利なのよ。なかなか手に入らないものでも、電話一本入れればさっと用意してくれるうえに希望すれば家まで届けてくれるし、こうして足を運んだ時も、サロン回しにすれば手ぶらでお買い物が続けられるし」
大抵の百貨店には、ホテルのようにコンシェルジュが在中する外商顧客専用のサロンがある。購入した品物をそこに回すよう伝えておけば、荷物だけでなく会計までもサロンですべて行えるしくみだ。
小夜がよく利用するデパートでは、疲れたらサロンの一角にある喫茶コーナー――調度品も含めて、ホテルの喫茶室のような雰囲気のコーナだ――で飲み物をいただきつつ、休むこともできる。そこで供される飲み物はすべて無料だ。
「……君はそないな環境をあたり前として育ったわけやな。学生時代に仲良うしとったお友達も、みんなそんなやろ?」
「え? あ……うん……そうね」
「や、責めとるんとちゃうで。君の育った環境について、もっと知りたい思うただけや。さよか、外商かぁ。先のこと考えると、俺ももっかい入ってみてもええかもしれへんな」
「先のこと?」
「ん。まあ、いろいろ思うとこあんねん」
お茶を濁すように笑んだファットが、小夜のほうに身体をひねってかがみ込んだ。このあとなにが起きるのか、小夜はすでに学習している。
目を閉じると、予想通り、額に乾いた唇が落とされた。
さて、と呟いてファットガムが小首をかしげた。丸い姿の時のファットは、こうしたちょっとした仕草がとてもかわいい。
「このあとどないする? 最近おうちデートばっかりやったから、ドライブがてら外でなんか食うてこか? なにがええ?」
「太志郎さんは?」
「俺は小夜に聞いとるんや」
なんでもええっちゅうんはあかんで、と続けたファットに、小夜は先ほど彼がしたように、少し首をかしげていらえた。
「だって、太志郎さんといっしょだと何でも美味しいから」
「ン゛ッ゛」
「いっしょにいられるだけで嬉しいし」
「ン゛ン゛ッ゛」
「太志郎さん?」
「あー、もー」
声を上げながら、大きな手で大きなお顔を覆ってしまった、大きな恋人。
「そないかわいいこと言うのやめてや〜。俺、君のそゆとこに弱いんやから」
「言わない方がいい?」
するとファットは手を顔から離し、む、と真顔になって考えこんだ。数十秒の後、彼は眉を寄せながら口を開いた。
「や。ぜんぜん言われへんちゅうんも寂しいな」
ぐい、と肩を引き寄せられ、もふり、と彼の身体に沈められた。ファットのお腹が沈めるのは衝撃や敵だけではない。要救助者や子どもを運ぶ時にも使われる。そして小夜を愛するときも。
戦意のないときのファットガムの身体は、ふかふかしていて気持ちがいい。
「なんぼでもかわいいこと言うたってぇ。ほなら俺は何度でも、小夜に好きやって言うわぁ」
大好きやで、という声と共に、唇にキスが降りてきた。ちゅっ、と、かるく触れるだけのキス。
ファットガムはおひさまのような笑みを浮かべる。
「ほなさっきの続きです。肉と魚やったらどっちがええやろか?」
「……お魚かな」
「ほんなら寿司にしよか。待っとって。予約取るわ」
そう言いながら、ファットは携帯端末を取り出した。彼は大食漢だから、外食するにもいちいち予約が必要なのだ。
「どうも〜、ファットガムです」
電話の相手に向けてだろう、ファットが誰もいない空間に、軽く頭を下げた。
こういうところも、人柄だと思う。誠実で温かくて人情に厚い、誰よりも優しくてそして強いひと。
「今日行きたいんやけど、ええやろか。うん、連れは一人や。大丈夫? おおきに。連れの食べる量? 普通で大丈夫やで。女のひとやし。おう、せや。俺の彼女や。小夜ちゃん言うてな、めっちゃかわいいねん。親方にも紹介するって言うといて。ん、ほんじゃ七時に」
一気にそうまくし立て、ファットは電話を切った。
彼女という言葉をこんなふうに間接的に聞かされると、なんだかとてもくすぐったい。
「とりあえず七時で予約取ったから。それまでちょっと時間あんなあ。せっかくやから海のほうまでドライブしよか?」
「うん」
「そやなぁ、この時間なら大阪港の夕陽が見られるんちゃうかな。ロマンチックやで。どやろか?」
ささやくような恋人の提案に、小夜はちいさくうなずいた。
***
ファットガムが連れてきてくれたのは、大阪港の中央突堤の広いデッキだった。大阪でも有名な、夕陽がきれいなデートスポット。
ほんとうに見事なサンセットだった。トパーズを溶かしたような初夏の陽光が、青みがかった銀色の海と鉄色にけぶる工場群を照らしている。
ここに来るのは久しぶり、と、小夜は心の中でつぶやいた。
あの時も今と同じように、工業地帯と海を陽光が照らしていた。違うのは日差しの強さと――。
「あれファットちゃう?」
「ほんまや、ファットや」
ちらほら聞こえてきた声に、小夜は過去への旅を中断した。
ファットガムはとにかく大きいので、お忍びデートが難しい。前にも夜の駐車場で似たようなことがあり、その時の彼は隠すつもりはないようだったけれど、今はどうだろうか。いいのかな、と内心で呟きながら、隣にいる大きなひとを見上げた。
「俺はかまへん」
降ってきたのは優しい声と、優しい微笑み。
「俺は小夜とつきおうてること隠すつもりはないんや。注目されてまうから、君にはすまんと思とるけど」
ううん、と首を振った。
隠すつもりはない、とはっきり言ってくれたことがとても嬉しかった。
「ありがとう」
なんの、と答えたファットガムの声の、やわらかな響き。
その刹那、彼の金色の髪がトパーズ色の陽光を弾いてきらめいた。なんてきれいなんだろう。おひさまのようなひとの、おひさまのような髪。
どきどきしてしまったことを悟られたくなくて、小夜は思わず口を開いた。
「ね、太志郎さん。ここって、昔はウッドデッキだったよね」
「せやで。って、なんや、もしかして来たことあったん?」
「ずいぶん前に」
「……ウッドデッキやった頃っちゅうと、少なくとも五年以上は前やな。で、君、誰と来たん?」
このとき自分の目が泳いでしまったことを、小夜は確かに自覚した。
それをヒーローであるファットガムが見逃すはずもない。彼の琥珀色の目が、すっと細められた。それはファットがたまに見せる、色気を含んだ目の細め方とはまったく違う表情で。
「……男やな?」
「うん」
なんと答えようか少し迷って、本当のことを伝えることにした。当時の小夜が抱いていたほのかな気持ちはあるけれど、なにかが起きたわけではない。
後ろ暗いことはなにもなかった。
「十年くらい前に兄の友人が車を買ってね、新車でドライブだって、連れてきてくれたの」
「ほお」
琥珀色の瞳が、ぎらりと光ったような気がして、小夜は慌てて付け加えた。
「兄と、そのひとと、わたしの三人で来たの」
「なんや。お兄さんも一緒やったんかい」
「当たり前じゃない。兄の友人だもの。どちらかというとわたしはおまけ」
工業地帯に沈んだ太陽と、あのひとの白いクーペと、やわらかな笑顔。
兄とその友人と小夜とでここから海に沈む夕陽を眺めて、家に帰った。それは小夜の心の奥底に眠る、やさしいひととの、やさしい思い出。
「十年くらい前っちゅうと、小夜は中学生やな。そういや詳しく聞いたことなかったけど、お兄さんとは年離れとんの?」
「うん。一番上の兄とは10歳、次兄とは6歳離れてるよ。あの時わたしは14歳だったから、兄たちは24歳」
「14歳?」
そら微妙なお年頃やな、と呟きながら、ファットは天を仰いだ。
「中二から中三にあがるころだったかな。兄たちは国試通ったばかりで」
「で、そのお友達ちゅうんが、小夜の初恋のひとっちゅうわけやな」
「ええっ? なんで?」
わかったの、という言葉は省略したが、ファットはそれも察したようすだった。
に、と白い歯を見せて彼は笑った。イギリスの児童文学に出てくる、にやにや笑いの猫のように。
「ビンゴやな。君な、すぐ顔に出んねん。わかりやすいにもほどがあんで。やけど安心し。十年前の淡い思い出にやきもち妬くほど、君の太志郎さんは青ないで」
「え、わたしは妬くよ」
「エエ? ……ウン……まあ、君はそやろな。肝に銘じとくわ」
「でもやきもち妬いてもらえるような関係でもなかったのよ。初恋っていうよりほんのりとした憧れに近い気持ちだったし、向こうはわたしのこと友達の歳の離れた妹としか見てなかったもの」
「まあ、まともな24の男からしたら、中学生は中学生やろからな。やけど、そのころの小夜もかわいかったやろな」
「普通だよ。太志郎さんは? カッコよくてもてたんじゃない?」
え、と、ファットは小さく漏らし、次に少し呆れたような顔をした。
「君はあれやな、やきもち妬きなくせに、こないなことは聞いて来るのな」
「だって、気になっちゃうんだもん」
「まあええけども。中学の頃やろ? 俺、そっちはからっきしで、飯食うこととケンカすることしか考えとらんかったわ」
「そうなの?」
「すけべなことはそれなりに考えとったけど、それが自分の恋愛に結びつくとは思うてへんかったな。せやから、それくらいの年齢の子の恋愛感情みたいなモンに、俺はうといねんなぁ……」
と、ファットは一瞬悩ましげな表情をし、大きく息をついた。
「太志郎さん?」
「小夜。ちょっと気になったから言うとくけど、過去に関しては、今の俺にはどないもできひん。29年近く生きてきて、つきあった子とか好きやった子は、多ないけど何人かはおる。一人は小夜も知っとるな」
「うん」
「それ以外の子についても、言わんで欲しいなら言わへんし、聞きたいちゅうなら包み隠さず全部話すで。ほんでこっからが本題なんやけど、これから先、俺は君を裏切るようなことは絶対せえへん。せやから、過去は過去ってある程度割り切ってもらえへん?」
「……うん……」
答えながらも、小夜の心中は複雑だった。
(太志郎さんの初めての彼女ってどんなひとなんだろう、中学ではいなかったと思っていいのだろうか。そうなると高校? でも士傑は男女交際禁止だし)
「やから、昔のこと勝手に想像してやきもち妬かない」
よけいなことをぐるぐると考えていたら、ちょん、と、鼻をつままれた。
思考を読まれた気恥ずかしさに、小夜はちいさくはいと答える。
「まぁ、今言うたことは心のどっかに置いといてくれればええから。それはそれとして、前に見たことあるかもしれへんけど、ここからの夕陽はめちゃくちゃきれいなんや。せやから、俺と一緒に見たってや」
「うん……あの時はあの時できれいだったけど、太志郎さんといっしょに見る今のほうがずっときれいな気がする」
「アカーン。君、そういうとこやで!」
大きな手で大きな顔を覆ってしまった、大きな恋人。
ちなみにこの仕草、本日二度目だ。
「小夜のそゆとこにな、俺弱いねん。ちょっとのやきもちなんか、ほんまかわいいもんやなぁ」
よしよし、と、大きな手が小夜の頭を撫でる。
これ以上ない幸福感に包まれながら、小夜は前方を見つめた。目前の巨大なトパーズが、金色の光を放ちながら工業地帯へと沈んでゆく。美しいサンセットの中で過ごす、大好きなひととの時間。
「きれいね」
「せやなぁ…………」
と、ファットガムがなにか言葉を続けようとして、それをやめた。
なに、と問うたが、返答はない。
彼は頭をばりばり掻いて、小さく小さく息を吐いた
「小夜。ちょお、変なこと聞いてええ?」
「なに?」
「俺のこと好きになったのって、いつ頃?」
「ええ? なんで?」
「や、ちょっとした好奇心」
「ええとね、はっきり自覚したのは十二月くらいなんだけど……」
「ん」
「今から思えば、最初に好きって思ったのは初日かもしれない……。強い風の中で、わたしを守るように立っててくれたでしょ?」
はあ、とファットは呆れたように口を開けた。
「なんやキミ、ちょろいな」
「ひどーい」
「せやけどそれから十二月までって…けっこう期間あるやんか。最終的に心を決めたのってやっぱあれ? 痩せた俺を見て?」
「違うよ。その前。コスに血がついてたことがあったでしょ?」
ああ、と、ファットガムが目を細めて微笑した。
ヒーロー活動の時に彼がよくする大きな笑い方も好きだけれど、小夜はファットガムのこの微笑がとても好きだ。やわらかくて、やさしくて、春先のおひさまみたいにあったかくて。
「あんときはすまんかったなぁ」
ううん、と小夜は首を振る。
「手袋を外したあと、わたしから見えないように、片手で血を隠してくれてたでしょう」
「ん、できるだけ見えへんようにしたろ思てな」
「あれを見た時、もうごまかせないなぁって思ったの」
「なん? ごまかす?」
「うん、だって担当ヒーローを好きになっちゃうなんて、サポート会社の営業としては、絶対だめじゃない?」
「ああ。まあ……せやな」
「だから住む世界が違うって自分に言い聞かせて、考えないようにしてたの」
「同じやで」
「あの時はそう思ったの。雲の上の人だって。でもやっぱり好きになっちゃった」
「さよか。ありがとな」
お礼をいいたいのはこちらのほうだ。雲の上に住む人が、こんな普通のOLを好きになってくれるだなんて、出会ったばかりの頃には想像すらできなかった。
「太志郎さんは? わたしのこといつ頃好きになってくれたの?」
「俺ぇ?」
ええ、俺ぇ? ともう一度呟いて、彼は頭をかいた。めずらしく歯切れが悪いのは、照れているのか、それとも別の理由があるのか。
「俺なぁ、小夜と出会うまでっていうか、出会うてからも、普通の人とは恋愛せえへんって考えてたんや」
「そうなの?」
「そうや。俺の仕事は危険が伴うし、必要に応じてやけど無茶もする。ヒーローなんて聞こえはええが、いつなんどきなにがあるかわからへん職種や。死んだ仲間に取りすがって泣く家族を、何組も見てきた」
そういえば、ファットが前の恋人と別れた理由もそこだった。
危険なことはしないでと泣いた彼女と、それはできないと答えた彼と。
その出来事はきっと、彼の心中に大きな傷として残っているのだろう。
このひとはやさしいから。できるだけ他者を傷つけたくないと思うような人だから。
「あとな、災害とか起きたとき、俺らは家族と一緒にいてやれへんやろ」
「そうね」
「それに自分が向かった現場に家族がいた場合も、特別扱いはできん。それどころか、場合によっては後回しや」
知っている。
基本的に基本的にレスキューの現場では怪我人や病人、老人、そして子ども、妊婦が優先される。だが状態に差がなく全員が健康な成人である場合、現場にいるヒーローは己の身内の救助を最後にする。
それがヒーローにおけるレスキューの鉄則であるのだと、社内のヒーロー研修で聞いたことがあった。
「せやからもう恋愛はせえへん思とったんやけど、あかんかった」
ファットは大きく息をついた。彼が動くたびに、金色の髪が同色の光を弾きながら微かに揺れる。それがとても美しいと小夜は思った。
「もうごまかせん思たのは、君が変な薬飲まされた頃やな。自分の気持ちを認めたのはそんときやけど、惚れたのはたぶん、それより前」
「いつ?」
「スーツのズボンが擦り切れるんも気にせず、応急処置しとったやろ。あんときや」
小夜はあんぐりと口を開けた。それを見たファットが、ははは、と声を上げて笑う。
小夜が応急処置をしたのは、ふたりが初めて出会った日の話だ。
「……太志郎さんだって、わたしと同じくらいちょろいじゃない」
「せやな。俺たち、ちょろい同士でお似合いやん」
「そのわりに、つきあうまでは時間かかったけどね」
「時間がかかった分、大切にしよ思とるで」
「……うん」
「これから先も、ずっとや」
ふと、ファットの声のトーンが変わったような気がした。
「ほんで、さっきもちらっと話したけども、俺が一番助けたい、守りたいと思とるのは君や。他の誰より、君んことが一番大事やで。せやけど、もし救助現場に君がいあわせて、ケガひとつない状態やったら、やっぱり俺は君の救助を最後にする……ちゅうか、そうせなあかんねん」
苦しげな声だった。
こうした場合、救助を後回しにされた方と、それを決断した方では、いったいどちらがつらいのだろうか。
他の人はどうかわからないが、自分たちの場合は、後者の方が前者より苦しむのではないかと、小夜は思った。
「やけど、後になっても小夜のことは絶対救ける。それだけは覚えとって」
「はい」
「せやからな……あの……」
「ん?」
「あのな……」
と、彼が何かを言おうとした瞬間、電子音が鳴り響いた。
ファットガムの携帯端末からの、着信音だ。ヒーローは休みの日にも出動要請がかかることがあるため、映画館や飛行機など、よほどの場所でない限りマナーモードにはしていない。
「……お仕事の電話や、ちょお待っとって」
ごめん、と、ファットが顔の前で手を合わせて、小夜から少し距離を取った。仕事関連の通話の時はいつもそうだ。けれど小夜はそれも当然だと思っている。ヒーローは特殊な仕事だ。民間人には聞かせられない話もあるだろう。
それよりも、と、小夜は内心で独りごちる。
いま彼は、何を言おうとしたんだろう。そっちのほうがよほど気になる。
今日のファットは歯切れが悪い。
もしかしたら、なにか大事なことが言いたくて、ファットはこの場所を選んだのかもしれない。
意外とロマンチックなところのあるひとだから。
(一緒に住もう、とか言われちゃったらどうしよう)
きゃー、と心の中で叫びながら、顔を覆った。
そんなことになったらどうしよう。なんて答えよう。いや、もちろん答えはイエスだけれど、どんなふうに返したらすてきだろうか。
言われてもいないことを勝手に想像して顔を赤らめていると、大きな手に頭を掴まれた。
「ひゃっ?」
「なに一人で騒いどんの」
誰何の声をあげるまでもない、片手で小夜の頭を掴んでいるのは大好きな彼で。
「え? わたし、騒いでた?」
「おん。なんやきゃあきゃあ言うとったで」
自分では気づかなかったけれど、独りごちていたのだろうか。
恥ずかしいと思いながら、話題をそらすべく、というか、本題に戻すべく、小夜は勇気を振り絞る。
「……電話の前、何か言おうとしてなかった?」
「あー、電話しとったら全部とんでしもたわ。思い出したら言うな」
ああ、残念、と小夜は小さく息をついた。
タイミングを逃してしまった。きっとそういうことだろう。ファットが何を言おうとしたのか、とても気になるところだけれど。
「ぼちぼちええ時間やなあ。飯食い行こか。ほんま、あっこの寿司めちゃめちゃうまいねん」
大輪の花がひらくように、ファットが笑う。
そうねと小夜はちいさくいらえる。
恋の形はさまざまだ。焦ることはない。
自分たちと同じようにサポート会社の社員とヒーローという立場にありながら、知り合ってすぐにつきあう二人もいれば、半年以上の時間を要した自分たちのようなカップルもいる。
(時間をかけてちょっとずつ進んでいくのが、わたしたちだものね)
小夜はファットの小指に触れた。何も言わなくても、大きな手が小夜の手を包み込む。
こうして、言葉にせずとも通じることもあるのだ。少しずつ時間をかけてそれを増やしていけばいい。
見上げた先には金色の落日と、金色の髪をしただいすきなひと。
この落日の光景が、自分たちにとって幸せな思い出になりますように。
小夜は心の中でそう呟いて、一歩を踏み出した。
大好きな彼と、手をつないで。
2021.7.28
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