夏休みの長期インターンに訪れた環が、ぽつりと呟いた。彼の視線の先には、常ならばたこ焼き用の鉄板がおかれているはずのデスクにつっぷしている経営者の姿がある。
「あれか? あれはヘタレや。環はあんなおっさんになったらあかんで」
応えたのはファットガムではなく、影の中に溶け込む個性を持つ相棒だった。彼のヒーロー名はオンブル・ノワール、本名、
「おっさんってなんや。ファットさん、まだ二十代のヤングマンやで」
デスクを揺らして、ファットガムが顔を上げた。それに片方の眉だけをあげ、相棒がいらえる。
「若者はヤングマンなんて言葉使わんやろ。ほんで、ヘタレのほうは訂正せんのかい」
「……そっちはまあ、事実やからな。なかなかなあ、タイミングが難しねん」
「ファット……もしかして、先月『中央突堤でキメる』って気合い入れてたアレ、まだ言えてないのか?」
呆れたような環の声に、ファットガムは再びデスクに突っ伏した。そこに相棒の声が追い打ちをかける。
「だいたいな、つきあうだけで半年もかかっとったくせに、大事なこと決断すんの早いねん」
「せやって、俺、つきあう前からもう決めとったんやもん」
「……アンタがそう思とっても、向こうはちゃうかもしれへんやん」
「……そないなこと言われたらますます言えなくなってまうやんかぁ」
デスクの上に丸い顔を乗せたままべそべそ呟く巨漢は、とてもではないが、大阪という大都市を代表するヒーローとは思えない。相棒があきれ顔で続ける。
「……まあ、キツいこと言うたけど、実際は本人に聞いてみなきゃわからんやろ。あの子ええ子やし、言うてもそう悪いことにはならんのちゃうか?」
「ほんまぁ?」
「ん、ええと思うわ。なあ環」
「えっ? 俺ですか? そういうことを高校生の俺にふられても……」
「……やっぱ、あかんやろか?」
影道のこめかみに、一筋の血管が浮かんだ。この男、きれいな顔をしているが、口も悪ければ気も短い。
「そないデカい図体していつまでもうじうじされとったら、こっちの気まで滅入ってまうわ。あんたこの日ちょうどオフやろ? これやるから、次こそキメたれや!」
ばん、という音と共にファットの目前に叩きつけられたのは一枚の紙切れ。海浜公園で開かれる、大阪で一番大きな花火大会のチケットだった。
「有料観覧席やん。自分、キリエちゃんと行かんでええん?」
「あいつはその日、カニ子と一緒にロックフェスに行くんやて」
キリエは影道の恋人で、小夜と同じ会社に勤めるデザイナーだ。鋏の個性持ちで、同系の個性を持つ捜査官、蟹屋敷モニカの従姉妹でもある。
「そら相変わらず元気やな。せやけどほんまにええん?」
「アンタには日頃から世話になっとるからな。そのかわり、必ずキメてくるんやで」
「お……おう……」
言えんかったらまたヘタレ呼ばわりされそうやな、と思いながら、ファットはカレンダーを見やった。金曜だが花火の開始は七時からなので、小夜が定時であがれれば、まず問題なく間に合うだろう。
「なんなら花火の翌日も休んだらええよ」
「いや、それ自分が決めることやないやろ。この事務所の長は俺やで?」
「アンタ、昨年の夏も今年の正月、そのうえGWも、ろくに休みとってないやろ。こことアンタの誕生日とその翌日……それから湧水さんの休みと合わせて何日か休んだらええんや。せやせや、アンタの今年の夏休みはそれで決定」
「せやから、それ決めるのはおまえやのうて事務所代表の俺やろ」
「別にええやん。今年は必ず俺らと同じだけ休むんやで」
「俺はそないに休めへんよ。その間この街どないすんねん」
「それどの口で言うとんねん。潜入捜査で一ヶ月半この街開けたんはどこのどいつや」
痛いところを突かれてファットは押し黙った。たしかに自分は、ひと月半近くこの街を留守にしたことがある。
「な。たまに休むくらいバチあたらへんて。俺が許可する。とりあえず翌日も休みぃ。なあ、みんな」
「……やから許可するもなにも、この事務所の長はおまえやのうて俺やろが」
本日三度目の事務所の長たるアピールは、相棒たちの是を唱える声にかき消された。
***
夕方とはいえ、7月の終わりの日差しは苛烈なまでに強い。じりじりと肌を焼く陽光にうんざりしながら、ファットガムは歩を進める。
ファットガム事務所の周辺は、大きなアーケードや商店街、商業施設がつらなる地域だ。車輌が通行できない区間や一方通行も多いため、ファットは自宅兼事務所にカースペースを設けず、徒歩5分ほどの距離にある月極のモータープールを利用している。
小夜は現地近くにあるヒーロー事務所に用事があるそうで、現地にて合流する予定になっていた。
「今出ればちょうどええ時間に着けそうやな」
時計を眺めながら、ぽつりと呟く。メーターが三つついたクロノグラフを巻く腕は、常とは違う、骨と筋肉を感じさせる太さである。つまり、今のファットはローファット。
それはむろん、小夜とのデートの為ではない。ヒーローたるもの、私的な事情で活動に支障をきたすようなことがあってはならない。少なくとも、ファットガムはそう考えている。
ではなぜ、脂肪が落ちてしまっているのか。それはひとえに後進育成に励んだゆえだ。
昨夜ファットは、環をジビエ料理専門店に連れて行った。食べさせたのは、うさぎに鳩に猪に鹿、そして熊。
そうなると、「再現」の個性を持つ環はその威力を試したくなる。師匠であり上司であるファットは、当然それに応えたくなる。
翌日はオフだ。痩せても問題ないだろうと、とことんまでやらせた結果がこれだ。
(鹿の角も、猪のぶちかましも凄かったけど、いっちゃんやばかったんはやっぱ熊やなぁ)
常よりもずいぶんと薄くなった腹を撫でながら、ファットが内心でひとりごちる。環は本当に強くなった。将来が実に楽しみだ。メンタルさえ育てば、もう心配することはないだろう。
(ま、今日は敵に出くわさないことを祈るだけや)
だが、良くないことというのは、得てしてこういう時に起こるものだ。
「きゃああ!」
と、その時、唐突に女性の悲鳴が響き渡った。
声がしたのはひとつ向こうのアーケードだ。反射的にそちらに向かって駆け出すと、少し先の通路で、異形系の男が暴れているのが見て取れた。
丸い体にたくさんの棘。その風貌に見覚えがある。先日指名手配されたばかりの若い敵だ。たしか個性はヤマアラシ。体中に生えている棘は一見すると体を守る針にみえるが、実はすべてに刃がついている。敵は戦闘時、その棘を飛ばして攻撃してくるという。実に攻守に優れた個性である。
むろん、普段のファットガムであれば難なく倒せる敵だ。針だろうが刃だろうが、脂肪で敵ごと包み込んでやればいい。だが今のこの体型でそれをするのは不可能だ。もしものことを考えて多少脂肪は残してあるが、刃ごと包むとなるとややきつい。
(やっかいやな。体中棘だらけやん)
だからといって、見過ごすという選択ができるような男ではない。
ファットガムは敵に向かって大きな足で大きな一歩を踏み出した。オフであろうが体に脂肪がなかろうが、救けを求める人がいるなら救けにゆくのがヒーローだ。
敵が近づいてくるファットに気づいて、棘を飛ばした。避けた棘の一本が腕をかすめる。裂ける皮膚、飛び散る鮮血。
赤い雫が自身のシャツを汚したのを目視したファットガムが、大きく舌打ちをした。
「あほんだらが……」
呟いた時にはもう、ファットは敵の目前に迫っている。敵が再び棘を放った。金色の髪の偉丈夫は体をひねってそれを避け、反転しつつ敵に左拳を叩きつけた。
人体には、急所がいくつかある。こめかみや喉仏、みぞおちなどがそうだ。
そしてヤマアラシは頭部と腹部に棘がない。けれど敵はその弱点を補うべく、頭部にヘルメットを着用し、腹部を守るように前傾姿勢を取っている。
故にファットが狙ったのは敵の鼻と口の間、すなわち人中。ここを攻撃されると人は一瞬呼吸が止まる。
そしてここを攻撃する利点がもう一つある。
顔面を強打された衝撃で、敵の頭がのけぞった。そうなると必然的に、もう一つの急所がむき出しとなる。そう、下顎だ。
ファットは敵の下顎に向けて、拳を突き上げるように繰り出した。強烈なアッパーカットを受け、敵の体が後方に弾ける。
そのまま背後のワゴンに激突し、敵はがくりと頭を垂れた。
「なにしてくれとんねん。俺の彼女血ぃ苦手やねんぞ」
だがこの声は、すでに意識を失っている敵の元には届いていない。それに気づいたファットは、嘆息しながら呟いた。
「なんや自分、思うてたより打たれ弱いやん」
意識を失った敵を拘束するのは楽な仕事だった。
すでに通報はされている。あとは警察の到着を待つだけだ。
ただ、とファットは再び嘆息した。問題があるとすれば、この腕だ。
(けっこうすっぱり切れてもうたな。今日は会うのもやめといたほうがええやろか……)
見るに、縫わなければいけないレベルの裂傷だ。出血も多い。血を見るのが極端に苦手な小夜は、これを見たら倒れてしまうかもしれない。
まいったなぁ、と内心で呟きながら止血を試みていると、背後から爽やかなテノールが響いた。
「大丈夫ですか? ヒーローの方ですよね」
振り返った先に、一人の男が立っていた。身長は環くらいだろうか。すらりとした体型に整った顔立ちの、いかにも女性受けしそうな容姿の若者だ。
「せやけど、なん?」
「手当させてください。僕は医者です。医療の個性使用資格も持っています」
告げながら、若い男は個性使用資格証明を掲示した。個性に医療接着とある。
「あ、お医者さん。そら助かるわ。個性『接着』ちゅうことやけど、傷、すぐ塞げます?」
「……真皮いっちゃってますが、きれいにスパッとやられてるので大丈夫かと思いますよ」
青年医師が手持ちのキットから液体を出し、ファットの傷口を洗浄する。続いて消毒と止血をすませ、青年は掌から透明な粘液を噴出させた。それがみるみるうちにファットの傷口を塞いでゆく。
「乾くまで、少し押さえさせてくださいね」
「すごいなぁ。これで傷がくっつくんか」
「はい。僕の体から出る主な成分は、オクチルシアノアクリレートとn-ブチルシアノアクリレートをブレンドしたものに近いそうなんです」
「ほぉ」
よくわからないが、とりあえずわかるような顔をしておいた。青年医師はにっこりと微笑んで、続ける。
「医療の現場で使用されている接着剤とほぼ同じです。が、なぜかそれより治りが早いんですよ。接着剤が乾いたら、上からガーゼで保護しておきますね」
そろそろいいかな、と続けて、医師が傷口から手を離した。
表面上は、ぴったり塞がっているように見える。縫うよりもよほどきれいだ。
便利な個性があるもんやなぁと半ば感心しながら、ファットガムは医師を見下ろした。
先ほども思ったが、青年はあざとかわいいと言われて人気を博している俳優によく似ていた。学生と言ってもおかしくないくらいの童顔だが、発言や手際から察するに、新米医師ではないだろう。ファットと同じくらいだろうか。
「無理をしなければ半日ほどで完全に塞がると思います。できれば明日までヒーロー活動は控えていただけると……と言っても、私服でいらっしゃるし、きっと今もオフなんですよね」
「せや。ほんでこれからデートやねん。あ、今夜、えっちしてもええやろか?」
「できれば今夜は避けていただきたいところですねえ」
さよかぁ、と肩を落としたファットを見て、青年医師が気の毒そうに微笑んだ。そんなふうに笑うと、ますます印象が柔らかくなる。
この男はモテるだろうなと、下世話なことをぼんやり思った。
「お泊まりにしたらいかがです? 明日の朝なら傷も完全に塞がっているかと」
「そらええアイディアやな。彼女に提案してみますわ。おおきに」
「いえいえ、オフなのにお疲れ様です」
「先生もオフやろうに、えろうすんませんな。やけどほんま助かったで。実は俺の彼女、めちゃくちゃ血ィ苦手やねん」
「……ああ……そういう方、たまにいらっしゃるみたいですね」
「そうなん?」
「ええ。僕の知り合いにも一人いますよ」
へえ、と答えたところに、警官隊が到着した。幸い見知った顔ばかりだ。これなら自身の正体を説明する必要もないだろう。
「僕はヒーローにうといので、失礼ながらあなたのことを存じ上げなかったのですが、せっかくの機会です。ヒーロー名をお聞きしてもよろしいですか?」
あー、と、ファットは躊躇しながら天を仰いだ。
正直な話、この姿はある意味企業秘密だ。できうる限り隠しておきたい。けれど相手は応急手当をしてくれた恩人でもある。
答えに窮していると、様子で察したのだろう。青年医師がちいさく、失礼しました、と呟いた。
「では、僕はこれで」
「ん。おおきに」
すまんな、と思いながら笑みを返したその時、若い巡査が敬礼しながら、この姿の時に呼んではいけないその名を呼んだ。
「ファット、お休みのところご苦労様です」
年配の警官が慌てて若い巡査の口を塞いだが、時、すでに遅し。青年医師はファットの頭のてっぺんから足のつま先までに視線を走らせ、次にはっと息を飲んだ。
「……ファット……ガム……?」
しゃあないな、とファットは大きく笑んで、ないしょやで、と人差し指を口に当てる。それを受けた青年医師は静かに微笑み、そして彼は再びきびすを返して歩き出した。
(なかなか粋な男やな)
夕暮れのアーケードの下を軽やかな足取りで進む青年の後ろ姿を見送りながら、ファットは心の中で呟いた。
***
海浜公園のオブジェの前にたたずむ愛しい女の姿が見えた。
いつもと違うその様子がどうしようもなく愛おしくて、我慢しきれずファットは弾かれたように駆けだした。
恋というのは難儀なものだ。かつて武闘派でならしたアラサー男をも、少年のようにしてしまう。
待った? ううん、わたしも今来たところ。
交わされる、恋人たちのありがちなやりとり。だがそのやりとりを、ありがちなだけですまさないのが、ファットガムという男。
「それどないしたん? めっちゃかわいいやん!」
胸の前で両手を広げ、ファットは叫んだ。それは彼がキャラクターをつとめる「たこ野郎」のCMで見せたポーズとほぼ同じ。
「や、ちゃう。ちゃうで。小夜はいつもめちゃくちゃかわいいんやけども、今日は特別かわいいんや。見てるだけでどきどきしてまう」
「太志郎さん、褒めすぎ」
「褒めて悪いことなんかいっこもないやろ。かわいいんやからしゃあないやんか。もうかわいすぎて目が潰れそうやぁ〜。浴衣姿の俺の彼女、ほんま世界一かわいいわ。俺は世界一の幸せもんやなぁ」
「わかった……わかったから……太志郎さん、声大きい……」
褒め殺しにあって顔を真っ赤にしている小夜は、黄色をベースに水色のぼかしが入った有松絞りの浴衣姿だ。帯は鴇色と生成りのリバーシブルの麻で、生成りの面には市松の織り柄。それをすっきりとカルタに結び、レースの三分紐で止めている。
「いやぁ、ほんま、浴衣めっちゃ似おとるで。ほんでも、今日は仕事やったんやろ? いつ着替えたん?」
「駅側の公園入り口に着替えるためのコーナーが設置されてて、そこで」
「そんなんあったんか」
「うん。浴衣のレンタルとか着付けとかのサービスもあったよ。それより太志郎さん、大丈夫?」
と、小夜が声を落とした。
「なにが? 痩せたっちゅうんは昨日の夜伝えといたやん?」
「腕の怪我……」
腕のガーゼを指して、小夜が心配そうに眉を下げた。
「あー、これなァ。痛みないからすっかり忘れとったわ。来るとき敵に出くわしたんや。そんときバッサリやられてもうて。せやけど心配あらへんで。ちょうど個性資格持っとるお医者さんがおって、その場で傷塞いでくれたんや。今日一日おとなしゅうしとったら大丈夫やて」
「ほんとう?」
「おん。ほんまやて。ホラ」
ぐるぐると小夜の前で腕を回した。今日は安静にということだったが、これくらいなら特に支障はないだろう。ちなみに血のついたシャツはすでに着替えた。
「そう……早く治りますように」
と、小夜がファットの拳にそっと触れ、頬を寄せた。ファットの胸がとくりと泡立つ。
小夜をみているといつも思う。実家が太い、育ちがいい、というのはこういうことなのだろうと。それは決して経済面だけの話ではない。花にんじんや負けないおまじないなど、小夜の普段の言動からにじみ出るやわらかなあたたかさと、いざという時に見せる芯の強さは、彼女が深く豊かな愛情を得て育った証だった。
「太志郎さん?」
「や、なんでもないで。ほな行こか」
ん、と小夜が答えて二人は共に一歩を踏み出す。
少しずつ暗くなりはじめているが、大地や空気には未だ夏の太陽の残滓が潜んでいる。海沿いに吹く風は強いがひどく生ぬるく、気温はまだまだ高かった。
ファットが額に滲んだ汗を、手の甲でぬぐう。
「小夜、暑ない? 和装って案外暑いんやろ?」
「暑いは暑いけど、わたしは暑いのよりも寒いほうが苦手だから」
「そうなん? 初耳や」
「言ってなかったっけ? わたしね、個性の都合上、身体が冷えやすいの」
「せやからTバックはいやや言うとったんか!」
ベッド上での会話を思い出した。いちいち冷えると言っていたのはそのせいか。小夜の個性は湧き水。手から少量の冷水が出る。
「……そうだけど、そういうことを大声で言わなくてもいいからね……」
ハーイ、と応えて、ファットは小夜を抱き寄せ、頭頂部にキスを落とした。もう、と小夜が頬をふくらませたが、彼女が怒っていないことは目を見るだけであきらかだ。
やわらかな視線、柔らかな声。
幸せやなぁと心の中で呟いて、ファットは歩を進めた。小夜と同じ速さになるよう、そうしていることを悟らせないよう、細心の注意を払いながら。
***
想像していた以上に、いい席だった。
チケットには有料閲覧席としか書いていなかったので、砂浜に並べられたビーチチェアから観覧する一般席だと思っていたのに、案内されたのはそこよりも数段高い場所にしつらえられた特別観覧席だった。隣席とのあいだには間仕切りがあり、完全にプライバシーが保たれている。
座席はビーチチェアではなく合皮ではあるがソファであり、テーブルもプラスチック製のそれではなく、ガラス製。ウエルカムドリンクとして振る舞われたのは、上質のシャンパンだった。
(あいつ……妙な気ィ回しよって……)
これほどの席を、あの如才ない男がパートナーの予定も確認せず用意するはずがない。おそらく彼は、ファットのためにこの席を取ってくれたのだ。
と、その時、どん、と言う音と共に大地が震え、尾を引きながら龍のように天へと昇った光が、天高い場所で炸裂し、漆黒の夜空に色とりどりの花を咲かせた。
花火大会のはじまりだ。
牡丹に続いて菊が三連。八重に三重に菊花残光。そしてひまわり。花の名を冠する花火が次々に夜空に打ち上げられてゆく。
「太志郎さん、ほんときれいねぇ」
「……ぉん」
小夜はシャンパンを傾けながら、空に花が咲く度に感嘆の溜息を漏らす。けれど、ファットはそれどころではない。これからする一世一代の告白に、気持ちのすべてを持って行かれている状態だ。
「わあ」
と、小夜が声をあげた。
会場にしつらえられた台の上を、金の星が滝のように流れ落ちる。長さは百メートルほどもあるだろうか。まさに圧巻の光景だった。
「ナイアガラ!」
パンフレットを見ながら、小夜が叫んだ。パンフレットにはそれぞれの花火のイメージ写真と解説が書かれている。小夜は合間にそれを確認しながら見ることも、また楽しいようだった。
「次は冠菊だって」
小夜の言葉が終わらぬうちに、ひゅーん、という音が聞こえ、数秒遅れてまた空に大輪の花が咲いた。
長くゆっくりと枝垂れながら、空に金の星が流れる。きらりきらりと光露がきらめき、小夜の顔を照らし出した。
「小夜……」
「なに?」
「や、めっちゃきれいや思うてな」
「そうね。花火師さんたちの一年の努力がしのばれるわ」
そやのうて、と言いかけて、ファットは続く言葉を飲み込んだ。
きれいなのは花火やのうて君やねん、意識しなければさらっと言えそうなセリフだが、諸々で気持ちがいっぱいいっぱいになってしまっている今のファットガムに、そんな言葉が告げられようはずもない。
「……ん、せやな。俺、今のがいっちゃん好きや。かむろぎく言うんか」
「しだれ柳とも言うみたい」
「お、そっちのほうがイメージに近いな」
「そうね」
こて、と小夜がファットに体を預けてきた。なかなかいいムードだ。
二人がけのソファだから、そうなるのも、しごく当たり前のことなのだけれど。
(これ、言うなら今なんちゃう? きれいな花火と、ほろ酔いかげんの彼女とで、絶好のシチュエーションなんちゃう?)
どどん、と、音が鳴る度に、光の龍が天高く舞い、そこで大輪の花を咲かせる。ぱん、ぱん、と咲く華の合間に、チリチリと音を立て回転しながら飛びまわるのは金銀の蜂。
ファットは自分に寄りかかる小夜の肩をそっと抱いた。己のがっちりしたそれとはまったく異なる、頼りなげで細い肩。
これから先も、ずっとこうして肩を並べて生きていたい。ずっと一緒に過ごしたい。果たして君は、同じ気持ちでいてくれているのだろうか。
(言うで、言うで、今度こそ。次の花火が上がったら)
ぱーん、という音と共に開花した、大輪の菊花。
長くゆっくりと尾を引きながら白銀の花弁がこちらに向かって降りてくる。先ほどと同じ冠菊だ。ただし先ほどの菊は錦冠で、こちらの菊は銀冠。
ファットは大きく息を吸い込んで、思いきって声を上げた。
「湧水小夜さん」
「はい?」
「俺と――」
だがしかし、漢、豊満太志郎の一世一代の告白の上に、ドドドドドドドド、という強烈な響きが被さった。
大地を震わせながら、速射連発の花火があがる。海浜公園花火大会の目玉である、三百連発のスターマインだ。
彩色、紅玉それぞれの千輪菊が立て続けにあがり、空に小花が一斉に咲いた。それを追うように、円の周りに大きな輪を持つ土星や椰子の木、ポインセチアに万華鏡といった華やかな花火が宙を彩る。
(タイミング悪ぅ……)
俺と一緒になってくれへん?
そう言ったのだが、聞こえただろうか。不安に思いながら小夜を見下ろす。と、彼女がこちらを見上げて、眉を下げつつにこりと笑んだ。
(うっわ、微妙〜。どっちなんや、コレ)
三百も続く連射はまだ終わらない。海沿いの大地と空気を揺るがせながら、鳴り渡る轟音。それと共に弾ける、色彩豊かな炎の花々。
返事を促したとて、これでは互いの言葉は聞こえまい。
なんとなくいたたまれなくなって、ファットは空を見上げた。
敵相手に目をそらしたことなど一度もないのに、惚れた女を前にすると、どうして自分はこうも情けない男になってしまうのだろうか。
やがて長く続いた連発も終わり、最後の締めくくりとなる大玉が打ち上げられた。それは、飛游星を含んだ巨大な冠菊。
虹色の星々が踊るようにくるくると円を描きながら空を彩り、黄金の花弁がゆっくりと尾を引きながらこちらに向かって流れ来る。
そして、天空に静寂が訪れた。
静かになった空と対照的に、地面は帰路につく人々で賑わい始める。それでも小夜は黙ったままだった。
漢、豊満太志郎の一世一代の告白は、果たして小夜の耳に届いたのだろうか。それとも――。
大きな口を大きくへの字に曲げて、ファットは自身の時計を眺めた。メーターがいくつもついた、お気に入りのクロノグラフ。時刻は午後九時になろうというところ。
そろそろ帰ろか、と声をかけようとしたその時、いきなり小夜が口をひらいた。
「はい」
「あん?」
「不束者ですが、よろしくお願いします」
膝の上で指を揃えて、丁寧な所作で頭をさげた、愛しい恋人。
「え? あ……」
顔を上げた小夜が、恥ずかしそうに笑った。
ファットの顔に朱が昇る。
「もしかして、聞こえとった?」
「はい」
「いじわるやなぁ。俺、めっちゃ心臓バクバクいわしとったんやで。すぐ応えてくれたらよかったのに」
「ごめんなさい。ちょっと動揺してしまって。聞き違いだったらどうしよう、ってぐちゃぐちゃ考えてたら太志郎さんが花火を見始めたから……。花火が終わって落ち着いたらお返事しようと思っていたら、こんなに時間がかかってしまいました」
言われてみれば確かにそうだ。視線を先にはずしたのは、他でもないファット自身である。その後もずっと、空を見ていた。
「アッ、そか。そやな。俺、なんで小夜に関してはこないヘタレになってまうんやろ。めっちゃ恥ずかしわァ……せやけど、ちゃんと言わなあかんよな。うん。もいっぺん言うわ。こんなヘタレな俺やけど、一生一緒にいたってください」
「はい、よろしくお願いします。でもね」
と、小夜は唇に人差し指を当てて、「太志郎さんはヘタレじゃありませんからね」と続けた。ファットはファットで「もー、ほんま大好きや」と応えて、自分より遥かに小さい体を抱きしめる。
「な……このあとどないする? 今夜は小夜を帰しとうないねん。一緒にいたいんや」
小さな耳に唇を寄せ、静かにささやく。と、小夜はくすぐったそうに身をよじらせた。
「その意見に同意します」
「よっしゃ! 抱っこしたまま寝てもええ?」
「はい」
「じゃあ、どこにしよ。ウチ来る? それともせっかくやから、近くのホテルにでも泊まってこか? いつもの体やと無理やけど、今ならどこでも泊まれんで」
「たまにはうちに来ませんか?」
「ええん?」
つきあって四ヶ月になるが、そういえば小夜の家に行ったことはなかった。
「もちろんです」
「せやったら、そうさせてもらおかな。って、君、なんでさっきから敬語になっとるん?」
「え? あ……なんでだろ……」
と、小夜は顔を赤くした。それを隠すように、頬を両手で覆うしぐさがかわいい。
「……もしかしたら、まだ動転してるのかも……あまりに嬉しくて」
「嬉しいのは俺も一緒やで。俺な、君のこと大好きやねん……ってこれ、さっきも言うたな。なんや、俺も動転してるみたいやわ。嬉しすぎて」
俺たちやっぱり似たもの同士やなんやなぁ、と続けて、ファットはすっかり静かになった空を見上げた。そこに広がるのは、墨を流したような空と、小さな星々。
けれどファットガムには、花びらから金の光をしたたらせて咲く焔の華が見えたような気がした。
希望と共に光り輝く、大輪の花が。
2021.8.14
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