目に入ってくるのは、見慣れたなんの変哲もない六畳間。淡いベージュのフローリングに、クリーム色の壁紙。カーテンとテイストを揃えた英国ビンテージ調のファブリックと、丸い木製のベッドサイドテーブル。
目に見える情報は同じはずなのに、いつもとはまったく違った気持ちで迎える、休日の朝。
常よりもエアコンの温度を低く設定していたけれど、体が少し汗ばんでいる。それは小夜を後ろから包むように抱きしめているひとの体温が、やや高いせい。
ふたりがぴたりとくっついて眠っていたのは、互いの愛情の深さばかりが理由ではなかった。小夜のちいさなシングルベッドは、大柄なファットと一緒に眠るには狭すぎる。たとえ今のファットが結果にコミットした状態であろうとも。
それでも小夜は、この状態を不快だとは思わなかった。暑いけれど、狭いけれど、それでもとても嬉しく、幸せだった。
俺と一緒になってくれ、とファットは言った。一生一緒にいてくれと。
彼からプロポーズされることを妄想したことはある。それになんと答えるか、想像したことだってある。
けれど実際に小夜の口をついて出たのは、「不束者ですが、よろしくお願いします」という、実に陳腐で前時代的な台詞だった。
しかも、動転しすぎてすぐに返事ができなかった。ずいぶん時間がたってから、やっとまともに声を出せるようになって返した言葉がそれだ。
(現実はドラマみたいに行かないものね……でも)
昨夜のやりとりを思い出しただけで、顔が熱くなる。ほてった頬を思わず覆った瞬間、背後からかすれた低音に呼びかけられた。
「小夜、起きとるん?」
うひゃっ、と思いながら、それでも表面上は必死に平静を装って、起きてます、と彼にいらえる。
けれどそんな小夜の演技など、ファットにはすでに見透かされているようだった。続いて振ってきたのは、からかうような、愉快そうな、そんな声。
「せやから、なんでまた敬語になっとんねん」
それに返事をしようとした瞬間、体をくるりと返された。
「おはようさん」
ファットが小夜に微笑んで、そして唇にキスを落とした。触れるだけの、優しい口づけ。だから小夜も、おはよう、と応えながら彼の顎に口づける。
唇に残る、朝ならではのざらりとした髭の感触。ふわふわした髪とは反対に、彼の髭はかたかった。どちらも同じ、金色だけれど。
「幸せやなぁ」
目を細めて微笑しながら、ファットがぽつりと呟いた。琥珀色の瞳に宿るのは、優しい光だ。小夜は、彼のこの笑い方がとても好きだ。
「結婚したら、これが毎日になるんやなぁ……。小夜と同じ部屋で寝て、同じベッドで目覚めて、ほんで一緒に朝飯食って」
「うん」
「それがずーっと続くんやで。こないに幸せなことあるかいな」
「そうね。まるで夢みたい」
「ちょお待ってぇ。それ、俺が先に言お思とったのに、先越されたわぁ」
小夜を包んでいた腕に軽く力が込められる。小夜は、うふ、と笑って顎を上げた。同じタイミングで降りてきたのはファットの唇。
この朝三回目のキスは、その前のものよりも長く情熱的だった。
少し長めのキスのあと、小夜は自身を抱きしめている腕のガーゼに気がついた。昨日彼が敵を確保した際につけられた傷だ。
個性使用資格を持つ医師に処置してもらったと聞いた。小夜には同様の資格を持つ家族が二人いる。父とそして長兄がそうだ。
昨日ファットガムは、どんな個性のどんな治療を受けたのだろうか。
「太志郎さん」
「んー?」
「この傷、もう大丈夫かな? テープはがしてもいい?」
小夜の問いに、ファットが呆れたような声を出す。
「いや、俺がはがしたほうがええやろ。もし傷がくっついとらんかったら、君、えらいことになってまうやん」
ちょお待っとって、と、ファットが小夜からやや距離を取り、ベッドの端でテープをはがしはじめる。
傷口を見せないようにして、ガーゼまでを取り払った彼は、静かな声で大丈夫や、と呟いた。
「ちょっと見せて」
小夜の声に、ファットは再びあきれ顔を作った。
「別にええけども……しかし、君はあれやな。やきもち妬くくせに俺の昔の恋愛について知りたがったり、血ィ見たら卒倒してまうくせに傷痕見たがったりするんやな」
そういうことじゃなくて、といらえようとしたところ、一気に距離を詰められた。あっと思った時にはもう、見えていたはずのテーブルが視界から消え、代わりに見慣れた精悍な顔が目の前にあった。
一瞬にして、小夜はファットの大きな手によって、ベッドの上に縫い止められていた。
「怖いモンとか嫌なモンほど見たいんやろ。小夜ちゃん、Mッ気あるからなァ」
あ、と小夜は小さく声をもらした。今、彼は小夜をちゃん付けで呼んだ。
「ところで、優しくいじめられるのと激しくかわいがられるの、小夜ちゃんはどっち好きィ?」
「……待って、汗かいてるから」
「かまへんて。な? ええやん。今はこの体やし、いつもはできひんようなやり方で愛したるで?」
「わたしがかまうの。シャワー浴びてからじゃないといや」
む、と呟き、ファットが胸元に伸ばしかけていた手を止めた。
この時点で、小夜は自分の希望が通ることを確信している。なぜって彼は優しいから。本気で嫌がるようなことを、絶対にしないひとだから。
「わかった。せやったら俺からもひとつお願いがあるんやけど、ええ?」
「なぁに?」
「シャワー、一緒に浴びよ」
「えっ?」
「ええやんか〜。な。抱っこしてすみずみまできれいに洗ったるで」
ああ、と小夜は息を吐いた。このあと彼が何というのか、わかったような気がしたからだ。
そしてそれから数秒後、ファットガムの口から出た言葉は小夜の予想通りのもので。
「やなん?」
少し首をかしげながら、甘えたように告げられるこの言葉に小夜は弱い。小夜はそれを知っているし、おそらくは、ファットガム本人も知っている。
これはすでに駆け引きですらない。付き合いが深まるにつれて生じた、なれ合いにも似たやりとりだ。あとは譲歩できる部分とできない部分、どこで折り合いをつけるかだけ。
共に暮らすようになったら、こういうことはきっと、もっと増えるのだろう。
「すみずみは……自分でやるから」
小夜はそこで折り合いをつけた。それを理解したであろうファットが、ん、といらえて満面の笑みを浮かべる。それは小夜の好きな、邪気のない笑い方だ。
「ほな、行こか」
ご機嫌のファットガムに手を引かれて、共にバスルームへと向かった。そう広くはない1LDKだ。寝室から浴室まで、たいした距離があるわけでもない。
だが小夜はその短い距離を進む中、彼の手に小さな四角いパッケージが握られていることに気がついた。
いつの間に用意したのだろう。
パッケージの中身は円柱状に成形された、ラテックス製の薄膜だ。それが何のために存在しどんなときに使われるのか、中学生でも知っている。
「太志郎さん。そっちの手に持ってるの、なに?」
「さあ、なんやと思う?」
返されたのは、やはり邪気のない声と邪気のない笑み。
だが小夜の恋人、いや婚約者は、清濁併せ持つ大人の男だ。そして大人というのは、表面上は無邪気に笑い、その内面でよこしまなことを考えられるものである。
「すぐ、その体に教えたるわ」
首を少しねじ曲げてふっと笑ったその顔は、ついさっきまでの無邪気さが嘘のような、匂い立つような色気が滲む、大人の男のものだった。
***
「小夜……」
ファットガムがささやきながら、まどろみかけていた小夜の髪をさらりと梳いた。湿度の高いバスルームとくらべ、エアコンの効いた寝室は心地よい。さっぱりと汗を流し、濡れた体をきれいに拭き取ってもらえたのだからなおさらだ。
「怒っとる?」
「怒らせるようなこと、したの?」
するとファットは、いたずらが見つかった子どものような顔をした。
かわいい、と小夜は思う。
「や、それはしてへん思うけど、俺、けっこう夢中になってもうたから、ちょおやりすぎたんやないかなと……俺のほら……おっきいやん」
ファットが言うとおり、彼の男性自身は一部では有名な大きさだ。
だがしかし、そのおおらかさゆえに雑だと思われがちなファットガムの行為は、実はきわめて丁寧だった。小夜に負担がかからぬよう、巨大なそれを無理なく受け入れられるよう、入念な下準備を怠らない。
行為の後に小夜がくったりしてしまうのは、「巨大な彼自身」という質量が原因ではない。与えられ続けた快楽に、脳と体がついていかないがゆえだ。
ファットと体を重ねているとき、このひとは海だ、と小夜は感じることがある。
かつて小夜は、叔父の所有するヨットで沖に出たことがあった。小さなヨットをゆさぶる荒波と、その後におとずれた、油を流したような凪。
それは動と静、暗と明、そして生と死を小夜に意識させたはじめての経験だった。
ファットとの行為は、まさに、それに近い。
寄せては返す金色の波は、小夜を時にやわらかく包み込み、時に荒々しく煽り揺さぶり弄ぶ。そこに痛みは伴わない。あるのは緩やかな、あるいは激しい快楽だけだ。
本来であればこの身に生命を宿すための行為は、エクスタシーという名の小さな死を小夜に刻む。そして事後に訪れるのは、静かな凪。
大丈夫よ、と応えながら、小夜はちいさく息をついた。
「ほんま?」
「うん。ただ、もうちょっとだけ休ませて」
「ほんなら、なんか飲む? 持ってくるわ」
「冷蔵庫に昨日仕込んだアイスティーが入ってるの。お願いしていい?」
「うん。俺ももろてええ?」
「もちろん」
与えられた快楽の余韻に身を任せながら、小夜はそっと目を閉じた。
やがて、大きな手にグラスを二つかかえて、ファットが戻ってきた。
ほい、と手渡しされたグラスの柄は、色とりどりの大きめな水玉。古き時代に流行った柄のレプリカだ。素材も薄いクリスタルではなく、気泡の入った厚手のガラス。
スタイリッシュな昨今のグラスと比べ、無骨であるがかわいいデザインと、厚手のグラスならではのやさしい手触りが気に入って、買い求めた。
このグラスはどこか、ファットと似ている。そう思って目を細めたら、怪訝そうな顔をされた。
「なん?」
「……幸せだなあと思って」
「さっきも言うたけど、そら俺もやで。せっかくやから、もういっぺんチューしとこか」
待って、と返す前に、すでに唇は奪われている。同時にファットの大きな手が、グラスを持つ小夜の手を支えていた。中身がこぼれないように。
こういうときにいつも思う。とぼけているようで、このひとは案外抜かりない。
はじめは強引だったが、結果的には優しい口づけのあと、小夜は、もう、と少しふくれてみせた。すると彼はきれいな歯を見せてにかりと笑った。やって大好きなんやもん、許したってや。長い腕で小夜を包み込みながら、ファットがささやく。
ああもう、と小夜は内心でため息をついた。
大きくて強くて抜かりない上に、このひとは甘え上手だ。ほんとうに。
「ほな小夜が元気になるまで、これからのことお話しよか」
「お話?」
「せや。例えば結婚式はどないするとか、新居はどこに構えるとか、そういう。あー、その前に君のご両親にお会いして承諾を得なあかんな」
急に具体的な提案をされ、どきりとした。どこかで夢物語のように考えていたことが、急に現実みを帯びてきたからだ。
(ほんとうに、本当に太志郎さんにプロポーズしてもらったんだなぁ……)
「母はこの時期の学会には参加しないはずだから大丈夫と思うんだけど、父は多忙だから、二週間くらい前から話通しておかないとだめかも」
「え、お母さん専業主婦ちゃうん? 意外やったわ」
「うん。母は眼科医。とりあえず、それとなく両親に話して、予定空けておいてもらうようにするね」
頼むわ、とファットがうなずいて、次は住むとこやなぁ、と腕を組んだ。
「申し訳ないんやけど、体の大きさの関係もあって、俺は今住んどるとこが都合ええんや。とりあえずはあそこでもええ?」
小夜は当然そのつもりだった。多忙なファットにとって、職場と家は近いほうがいいに決まっている。自宅と事務所が同じ建物内にある現在の場所は、彼にとっては理想的だろう。それにファットの自宅は小夜の部屋よりずっと広い。
それだけでなく、あそこは全てをファットのサイズに合わせて建てた、彼のための住まいだ。そこを離れることは合理性に欠くだろう。一般的な間取りでは、普段のファットは出入りするのも困難だ。
そう口にすると、ファットから思いもかけない言葉が返ってきた。
「せやけど、ええん? やってここ、パパに買うてもろたんやろ?」
「え? なんで……」
わかったの、という言葉は、ファットの顔に浮かんだからかうような笑みにかき消された。そうか。すべてはお見通しというわけだ。
「ここ、賃貸にしては造りがしっかりしとるし、エントランスも立派やん」
ほんで、とファットは指を折りながら話し始めた。
小夜の部屋は、ファットガムの事務所から三駅ほど離れた場所にある。JRとメトロの両方を利用できる便利な立地だ。小夜の会社からも近く、加えてすぐそばには公立の大学病院や大きな公園があり、治安もいい。関西有数の人気エリアのひとつだ。
その人気エリアに建つ11階建てのマンションの、8階東南向きの角部屋。間取りは8畳のLDに6畳のベッドルーム、ディスポーザーをはじめとする機能が充実した独立キッチン。バス、トイレ、洗面所もすべて別。
オートロックでセキュリティも充実、エントランスにはコンシェルジュもいる。
「こんだけの条件がそろった物件、なんぼ業界三位の大手ちゅうたかて、二年目のOLさんの給料で買うのも借りんのも、無理があるやろ」
「か……管理費と修繕積立金は自分ではらってるから……」
説明する声が裏返る。悪いことをしているわけではないのに、言い訳じみた語りになってしまうのは、きっと、ファットガムが体を張って得たお金で自社ビルを建てているからだ。若くして独立し、事務員さんや相棒など、従業員も雇っている。そんな彼と比べたら、父親の用意してくれた家に住みつづけている自分は、やはりどう見ても甘ちゃんだ。
「最初はね、長兄が使ってたの。わたしのために買った部屋じゃないのよ」
小夜の父がこのマンションを購入したのは、長兄が近隣の公立大の医学部に入学した年のこと。長兄は臨床研修を終了するまでこの部屋を使い、その後、次兄が同じ大学病院に研修医として勤めながらここに住んだ。
その後、社会人になった小夜が、会社からも近いということでこの部屋に入り、今に至る。つまりこの部屋は兄たちのお古なのだが、ものが住宅であるため、あまり声高に言えることではない。
「――と言うわけでね、父が兄のために買った部屋を使わせてもらってるだけ。部屋の名義は父のままなの」
「ええて」
と、ファットガムが苦笑した。
彼は、小夜が後ろめたく感じていることすらも見透かしているようすだった。
「君が恵まれた環境で育ったことを責めるつもりはないし、君も恥じることはないんやで。そらぁ自社ビルのローンをヒイヒイいいながら払っとる身からしたら、うらやましゅうはあるけども、実家が太いっちゅうんはええことやん」
「うう……」
「そんな顔せんと、笑ってや。まあ、この部屋はパパの持ちモンいうんがわかったんで、お返しすればええとして、次に考えなあかんのは式やな。いや、その前に指輪か?」
小夜には、子どもの頃から自分の結婚式でやりたいと夢見ていたことがひとつある。ただしそれは少し子どもっぽい。そして彼がいま語りたいのは、そういった小さなことではないだろう。
どう応えようかと小夜が逡巡していたその時、ファットの腹の虫が特大クラスの鳴き声をあげた。
「……スマン」
気まずそうに、彼が金色の眉をさげる。
気づけば、目覚めてからずいぶん時間が経過している。ローファット状態のファットガムは、ひどくお腹がすいているはずだった。
***
小さな四人がけのテーブルの上に並ぶ皿の数々に、ファットガムは感嘆の溜息を漏らした。
具だくさんのミネストローネに、ポテトサラダ、脂ののったスペアリブのローストと、サーモンのパイに山と積まれたブリオッシュ、それにゴルゴンゾーラのニョッキにほうれん草のキッシュ。
「いつの間にこない作ってたん? テーブル乗りきらへんやん」
「スープとサラダとキッシュは、夕べ太志郎さんがお風呂に入っている間に。あとはごめん、ピガールの冷食なの」
「いやいやいやいや、充分やて。俺ぎょうさん食うから準備もたいへんやったやろ。ほんま、ありがとなぁ」
そう告げて、ファットガムは、ぱん、と両手を胸の前で合わせた。
「ほな、いただきます」
そこから先は恒例行事のようなものだ。食材を取り、口に入れ、咀嚼し飲み込む、その繰り返し。
「どれもうまいで。小夜はほんま料理上手やな。俺の好きな味付けや」
小夜の用意してくれた食事は、どれもファット好みの味付けだった。
個性の関係上、ファットにとって食は命だ。
愛する女性と食の好みが合うということは、彼にとって非常にラッキーなことだった。それは調理技術の優劣よりも、ある意味では重要なことかもしれない。
「ありがとう」
嬉しそうに小夜が笑う。
それに微笑みを返しつつ、ファットはブリオッシュを五個、まとめて口の中に放り込んだ。
***
「ごちそうさまでしたっ!」
顔の前でぱん、と両手を合わせ、ファットが叫んだ。
食べるときも、そして食べ終わったときも、食材と作ってくれた人への感謝を欠かさない。人並み外れた量を食べるファットにとって、それは最低限の礼儀のひとつでもある。
食後のコーヒーをずずっとすすり、ファットは先ほどの続きを口にした。
「な。今日、婚約指輪買いに行かへん?」
「うーん、一生ものだから、どんなのにするかちょっと考えたいな。いままで考えたことなかったから」
「婚約指輪て、ダイヤが一個乗っとるやつちゃうん?」
「太志郎さんが言ってるのはソリティアよね。でもソリティアにもいろんなデザインがあるのよ。それにソリティア以外にも、エタニティとかパヴェみたいに普段使いできそうなものもあるからそれも魅力的だし……そもそも石はダイヤに限らなくて、誕生石にしたり、好きな宝石にしたりっていう手もあるの。それからマリッジリングとおそろいにするっていうのもひとつだし、ダイヤの中にも色のついたものもあるから。太志郎さんのイメージだとイエローダイヤよね。そしてイエローダイヤと言えばやっぱりティファニ……」
「いや君、めちゃめちゃ考えとるやん」
ぱしりとツッコミを入れると、小夜が頬を染めながら、そうかも、とつぶやいた。素直すぎてツッコミ甲斐がないような気もするが、これはこれでかわいいのだから良しとする。
「とにかく、いろいろありすぎて迷っちゃいそう」
「ま、ファットさんの月収の三ヶ月分までやったら好きなの買うてええから、ゆっくり考え。一緒にいろいろ見に行ってもええし」
「ありがとう。お返しに、わたしからは時計をプレゼントさせてもらおうかな」
「や、そない気ぃ使わんでええよ」
「両親が結婚したときね、父が母に指輪を贈って、母は父に『一緒に時を刻んでいきましょう』って言って時計を贈ったんだって。それってちょっと素敵じゃない? だからね、わたしも結婚するときにはそうしたいなってずっと思ってたの」
ああ、とファットは目を細めた。
そういうことならありがたく受け取ろう。
「たしかに、一緒に時を刻むっちゅうんはええな。俺からも小夜に時計送りとうなってきたわ」
「そしたらわたし貰いすぎになっちゃうじゃない。なんなら指輪やめて、おそろいの時計にしようか?」
「や、指輪は指輪で買うたるわ。俺の嫁っちゅう証でもあるし」
(それに君、さっきあない嬉しそうに指輪について語っとったやん。ほんまは欲しいんやろ? 指輪)
そうファットが口元を緩めた時、インターフォンが鳴った。
誰だろう、と小夜が立ち上がり、モニターを見やる。すると次の瞬間、彼女の顔がさっと曇った。
「どないした?」
「なんかね、エントランスからじゃなくて、扉前のチャイムを押してるみたいなの……それなのに、扉前のカメラには誰も映ってなくて……」
む、とファットガムが眉を寄せた。このマンションはオートロックだ。入り口で予め設定された番号を押すか、鍵をかざすか、あるいは中の住人に鍵を開けてもらえねばエレベーターホールには入れない。
もちろん他の住人が入るタイミングと合えば、それに乗じて侵入することは可能だが、この場合、そういった偶然は除外した方がよさそうだ。
「ヤな感じやな。俺が出てもええ?」
「うん。お願い」
自分のいるときでよかった。これが小夜一人の時であったらと思うとぞっとする。いたずらにせよ、あまりタチのいいものではない。
(こないなことがあるんなら、早々にウチに来てもらうかな。俺とつきおうとることで敵に狙われることもあるやろし、心配や)
内心でそう呟きつつ、扉を開ける。
と、その途端「あたるくんのサプライズほうもーん!」と叫びながら、若い――といってもファットと同じくらいの年齢であろう――男が飛び出してきた。
反射的に、ファットは男の手首を取った。そのまま男の親指を下に押しつつ、外側に向け捻り上げる。これは地味だが、一瞬にして相手の動きを止めることができる極め技のひとつだ。もちろん加減はしているが、それでもかなりの苦痛を伴うだろう。
「アアアアアア!!」
ファットにとっては想定内の叫び声を上げ、男が手にしていたフライドチキンチェーンの袋を取り落とした。
「そら、もったいないやろ」
嘯きながら、ファットがあいたほうの手で、地面にキスする寸前のチキンの袋をキャッチする。そして大阪を代表するヒーローは、不敵な笑みを浮かべつつ、不審な男を罵倒した。
「なにがサプライズや、ボケが」
飛び出してきた時のセリフから察するに、男は敵の類いではなく、小夜の知り合いなのだろう。しかし一人暮らしの女性の家にいきなりたずねてきた上に、不安を煽るような登場の仕方をしたのが気に食わなかった。しかも男は美男子ではないが今風で、女性受けしそうな雰囲気がある。それがますますしゃくに障った。
だからといって、ファットにできるのはここまでだ。敵かどうかもわからないのに、私的な感情で相手を制圧するわけにはいかない。
けれどこのとき苦悶に喘ぎながら男が放った言葉に、ファットの顔色が変わった。
「ファ……ファット……ガム?」
「なんやコラ! なんでこの姿の俺がファットてわかんねん! 何者やワレェ! 小夜の知り合いちゃうんかい! ああ?」
威嚇しながら、手首をひねる手に力を込める。むろん、ほんの少しだけ。
「……うわ……ガラ悪……本物だ……アア……痛い痛い痛い痛い……痛いけどすげえ……ファットだ……俺……ファットに……いだだ……手首……極められてる……ッ」
「なんなん自分? 痛がりながら喜んで、気色悪ゥ」
言いながら、ファットは思わず笑ってしまった。自分の正体を知っているのは不気味だが、男の言動にはどこかおかしみがある。
すると背後で、小夜の声がひびいた。
「あ……
「……よう……小夜」
「え? にいさん? 自分、小夜のお兄さんなん?」
ファットは瞬時に手を離し、痛みにうずくまる男と小夜を交互に見やった。
似ていない……実にまったく似ていない。だが、小夜が兄さんというのだから、実際のところ、そうなのだろう。
(……やってもうた……)
いずれ義兄になるであろう人間の関節を極めてしまったという事実に、全身から嫌な汗がにじみ出る。
「どうも、小夜の兄の、湧水中です」
男……いや小夜の兄は、さっきまで極められていた手首をさすりながら、ファットを見上げてにこりと笑った。
2021.8.19
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