パーテーションの向こうの仮眠室から聞こえてきた声に、ファットガムは目を覚ました。ブラインドからうっすらと朝日が漏れている。自身が横になるには小さすぎるソファ――それでも一般的には充分大きくはあるのだが――をきしませながら立ち上がり、あえて明るい声を出した。
「ああ、小夜ちゃん。起きたぁ?」
はっと息を飲む気配がした。その後流れるしばしの沈黙。この間ファットは決して自分から声をかけない。ブラインドを開けつつ、向こうからの返答を辛抱強く待つ。
しばらくして、消え入りそうな声で「はい」といういらえが返ってきた。
大丈夫やろか、とファットは思う。
自分がここで目覚めた理由がわからず、小夜は軽いパニックを起こしているに違いなかった。良家の子女だ。飲んだ翌日に覚えのない場所で目覚めたことなど、はじめてに違いない。
そんな小夜にこれから嫌な話をせねばならないと思うと、ファットガムの心は重かった。
「俺、そっち行ってもええ? それとも君がこっち来る?」
「……いきます」
蚊の鳴くような声とともに、動く気配があった。少しして、パーテーションの向こうから小夜が姿を現した。
「お見苦しい姿ですみません」
「いや、そんなことないで。とにかく、ここ座り」
ソファの向かい側に用意した椅子に腰掛けるよう促して、ファットはわざとらしく微笑んだ。
小夜の顔色はよくない。が、昨夜診療ついでに女医が化粧をおとしてくれたおかげか、本人が言うほど彼女の姿は見苦しくはない。いや、むしろこれはこれでいい。きちんと化粧を施したビジネスパーソンとしての小夜もきれいだが、素顔の小夜にはメイクしているときにはない、どこか素朴なかわいらしさがあった。
「すみません、あの……」
「あー、大丈夫や。なにもしてへんよ。俺、ここで寝たし」
大きな身体はソファに収まりきらなかったけれど、それはこの際仕方あるまい。あのまま小夜を一人にするわけにもいかず、かといって自宅に連れ帰るわけにもいかなかった。
「ファットガムさんが、ソファで……?」
「かまへん、かまへん。それより君、大丈夫かいな? まず、水飲み」
常備しているミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して、小夜にそのまま手渡した。ありがとうございます、といらえた白い顔は、どこまでも頼りなく儚げだ。
「吐き気とかあらへん?」
「はい」
「ゆうべのこと、どこまで覚えとる?」
「……会社のひとと食事をしていて、店を出た瞬間に足元がぐらっときて……」
「うん」
「気がついたら、ここにいました。ファットさんが保護してくださったんですね。ありがとうございます」
「俺と会うたことも覚えてへん?」
「……すみません」
「や、謝らんでもええで。あんな、昨夜、君が店の前で男に抱えられとったんで、心配して声をかけたんや」
「はい」
「そうしたら男は逃げてしもて」
詳細を語ってはいないが、嘘はついていない。だいたいのところは合っている。おおむねこれでいいだろう。物は言いようだ。
「で、君が寝てもうてたんで、そのまま事務所に連れてきたんや」
話を進めればすすめるほどに、小夜の顔は青ざめていった。
「わたし……とんだご迷惑を……」
「ちゃうて」
「……本当に、お酒でこんなことになってしまうなんて……恥ずかしいです」
これはへたにフォローを入れてもむだだろう、とファットは気づいた。だから単刀直入に行こうと思った。元来、回りくどいことは好きではない性格だ。
「ちょお、聞きたいことがいくつかあるんやけど、ええ?」
「はい」
「あの男、彼氏やないて言うとったけど、小夜ちゃん、あいつに気ぃあるん?」
「いえ……。そういうわけでは……」
今のはまるきり私情やんな、とファットは内心で舌打ちをした。
彼女があの男に気があろうがなかろうが、やったことを許すつもりはない。なのになぜあんなことを聞いたのかと問われると、ただ知りたかったから、と答えるしかない。らしくないことを聞いてしまった自分を心の中で叱責し、ファットガムは大きく息をついた。
だが小夜は、今の質問とファットのため息を別の意味にとった様子だった。彼女の口から出た言葉は実に説明めいたもので、ファットはますます申し訳ない気分になった。
「彼、秋の配置換えで、ある女性ヒーローの担当になったばかりだったんです。そこで女性ヒーローと接するときの心得を聞きたいと……わたし、こちらに来る前はミッドナイトのチームにいましたから。そのときに社内では話しにくい内容も含まれるからと言われて……だから社外で会ったんです」
「ああ、うん。今のは俺の質問が悪かったわ。堪忍してな。あの男に気があろうがなかろうが、君にはなんの落ち度もあらへんで」
「あの……?」
「小夜ちゃん、ゆうべ何飲んだか覚えとる?」
「ファジーネーブルです。はじめはノンアルで通していたんですが、何度かお酒を勧められるうちに、同僚相手に固辞し続けるのも角がたつかと思って、できるだけアルコール度数が少ないものを頼みました」
「うん」
「ただ……その一杯も飲みきった覚えがないんですよね」
「せやろな。君、飲みもんが運ばれてきてから、席立ったりせえへんかった?」
小夜は少し考えこむような顔をした。
「……しました……会社の端末に電話がかかってきたので……ただおかしなことに非通知の番号で、出たら切れてしまったんですよね……」
「そんときやな。おそらく電話かけてきたんもその男やろ。やり方はいくらでもあるよって」
意味がわからない、といったふうに小夜が小首をかしげる。
「あんな、君、あの男に一服盛られたんや」
「え?」
小夜がふたたび青ざめた。嫌な役回りだ。それでも言わねばならないのが、この職業のつらいところだ。
「いわゆるレイプドラックや。最近繁華街で出回りはじめたタチの悪いヤツでな、無味無臭で、酒に混ぜるととたんに意識があやうくなる。数時間で効き目は切れるが、その間何をされてもクスリを盛られた側は目覚めへん。その隙に悪いことしたろっていうヤツや。実はこの界隈でも、一件被害が出とる」
ひゅ、と小夜が言葉にならぬ叫びをあげた。
「ああ、大丈夫やで。さっきも言うたけど、君はなにもされてへん。悪い思たけど、君が気ぃ失うとる時に医者に診てもろたんや。医者の話やと、クスリそのものはひと晩寝れば抜けるそうや。その後も吐き気やらめまいやらなければ心配あらへんて」
小夜を不安にさせぬよう言葉を選んでそう告げながら、ファットガムは昨夜の女医とのやりとりを思い出していた。
*
「ファットよかったなぁ、あの子、処女やったで」
パーテーションの向こうから出てきたドクターの声に、ファットは飲んでいたコーラを盛大に吹き出した。
「なにいきなりとんでもない個人情報ばらしとんねん。それは言うたらあかんやつやろが」
「なんや、あの子、おまえのコレやないんかい」
言いながら小指を立てた女医に苦笑を返し、ちゃうて、とファットはいらえた。みんながみんな似たようなことを言うところをみると、本当にそう見えるのだろう。
「やって、おまえの好きなタイプやん」
「まあ……そうかもしれへんけどな、そういうのとはちゃうねん。サポート会社の担当さんや。潰れて男に抱えられてるところを見かけたんで、保護したんや」
「ま、今夜のところはそう言ういうことにしといたるわ。で、いくつか検査したけどな、おまえの予想通り、最近出回り始めたアレや。しかも、けっこうな量入っとったで」
「ほんまか」
「血液中のアルコール量はたいしたことなかったから、効かせよう思てクスリ増やしたんやろな」
「あのガキ……」
ファットは歯を食いしばり、内心で続ける。
(クスリいうたら俺の専門や。その俺の管轄でトーシロがクスリに手ェ出しよって。きっちり思い知らせたる)
力ずく、あるいはクスリを使って弱者を抵抗できなくさせ、その心身を蹂躙する。こうした犯罪はファットガムがもっとも嫌うものだ。
あの男は小夜と同じウィクトーリア社の社員ときいている。朝になったらすぐに引っ張るつもりだ。そして枝葉を引くことで、芋ずる式に大元までも検挙する。
これ以上被害者を増やすつもりはない。
「ま、量が多いちゅうても即効性のクスリやから明日の朝には抜けるやろ。このままここで朝まで寝かしとき。そんで吐き気とかめまいとかがなきゃ大丈夫や」
「え、センセんとこであずかってくれるんちゃうん?」
「うちんトコはアル中ヤク中のおっちゃんらで満床や。っていうかおまえ、この子あのおっちゃんやらと同じ部屋で寝かす気かいな」
「……そら無理やな」
「せやろ。気張りや。その子、今なら何しても朝まで目ぇ覚まさんで」
「なんちゅーこと言うねん。んな真似するか、ボケ」
慌てて声を荒らげたファットの上に高笑いを残して、老女医は事務所を出て行った。
*
「あとはこっちに任しとき。君に悪さしようとしたヤツは、ファットさんがちゃーんと引っ張ったる」
「はい……」
悲しげな声にたまらなくなり、ファットは視線を窓の外に転じた。
よく晴れたいい天気だ。今日はきっと、おだやかな小春日和になるだろう。
こんな状況でなければきっと、もっと楽しかっただろうに。だがこんな状況でなければ、彼女と事務所でふたりきりになることなどなかった。
「君、いまキモチ悪いとか、めまいがするとか、あらへん?」
「大丈夫です」
「なら、朝飯にするか。お腹すいたやろ? ちゅうてもこの事務所ですぐ作れるんはたこ焼きくらいしかないんやけども、ええ?」
「たこ焼き? ここで作れるんですか?」
「作れるどころやあらへん。得意料理やわ」
両手を胸の前で開いて、おどけてみせると、小夜が笑った。八重の花が咲くように。
*
「うわー、すごい。魔法みたいですね」
「そら大げさやわ」
タネを流し込んだり、表面が焼けてきたたこ焼きをくるくると回したりするたびに、小夜はおおげさに喜ぶ。聞けば彼女は自家製のたこ焼きは初めてだと言う。
憎からず思っていた相手に褒められれば悪い気はしない。だが、ファットの中でなにかがひっかかっていた。
「こんなに美味しいたこ焼き、初めてです」
「さよか。小夜ちゃんのいれてくれたお茶もうんまいで。うちで使てるお茶とおんなじもんとは思えんくらいや」
「それは大げさですよ」
そう言ってまた笑った小夜を見て、やっと気づいた。
(これはカラ元気や。小夜ちゃんは俺に気ィ使ことる。大丈夫言うて笑うことで、こちらを安心させようとしてるんや。あんなことがあったばかりやのに)
世の中には自分がされたことを大げさに触れ回り、泣き叫ぶ者がいる、つらいつらい、かなしいかなしいと。
それも心を癒やすひとつのやり方ではあるだろう。
だが世の中には、表面は笑顔のまま心で涙する者もいる。どちらがつらいと断じるつもりはない。
けれど。
(無理せんでもええねん。君は君のままでおったらええねん)
「あんな、小夜ちゃん」
「はい」
「無理に笑わんともええんよ。あんなことがあったんや、気持ちの整理がつかんやろ」
「……だいじょうぶです…わたし……」
「うん。小夜ちゃんは頑張り屋さんやからな。ちゃんと知っとるで。せやけど今は気張らんと、ファットさんに頼ってええんよ。敵と戦って倒すだけがヒーローのお仕事ちゃう。俺らヒーローっちゅうのは、心細くて震えているひとを支えるためにおるんやで」
な? と小夜の顔をのぞき込む。そのとたん彼女の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい……わたし」
「うん、ええよ。泣きたいなら泣きぃ」
「あの……」
「うん?」
「おなか……お借りしてもいいですか?」
エッ? 腹? 大胆やな! と叫びたいところを必死でこらえて、「ええよ」と答えた。
軽く手を広げると、小夜が腹にしがみついてきた。昨夜も似たことを思ったけれど、この身に埋もれて肩をふるわせる小夜の身体の、なんと頼りないことか。
彼女がこんなふうにできるのは、小夜がファットガムというヒーローに対して絶対の信頼を抱いているからだ。
男としてはどうなのやろか、と思いかけ、ファットガムは首を振った。今は己の気持ちなどどうでもいい。
子どものようにしがみつき、肩をふるわせ泣く小夜。己と比べて遥かにか細い、そのちいさな身体を抱きしめてしまいたいとファットは思った。ただ慈しむ、そのためだけに。
ファットガムがそろそろと小夜の背に両手を伸ばしかけた、その時。
「おはようございます」
声と共に開かれたのは事務所の扉で、開いたのは環だった。
次の瞬間、扉を開けた側、迎えた側、その双方が硬直した。
始業前の事務所に、ふたりきりの男女。
しかもふたりともが前夜と同じ服を着て、女は男の身体に埋もれるようにしながら泣いている。
そのうえいまファットガムは、小夜を抱きしめようと手を伸ばしかけたところだった。
「……なんてことだ……ファット……思いあまってこんなことを……」
「や、環。ちゃう! ちゃうねん。これには深い訳があんねん」
「……心に後ろ暗いものがある人間は……総じてそんなことを言う……最悪だ……帰りたい」
「せやから……!」
と、いいかけて、ファットはまたあんぐりと口を開けた。
環の背後に、相棒たちの姿が見えたからだ。
「……え? そらあかんやろ」
「げっ……ファット……とうとう……」
硬直していた三人を目視して、相棒二人も声を上げる。
とはいえ相棒たちの言葉は、この地域特有のノリのひとつだ。おそらく本気で言っているわけではないだろう。ファットガムの人となりを充分に理解しているからこそ言える、愛あるいじり。彼らとの付き合いが長いファットにはそれがわかる。
だが、小夜はそうはとらないだろう。
「ちゃうて。やめんかい。おまえら、黙って聞いてりゃ思いあまってやのとうとうやのと。なんや、人聞きの悪い」
呆れたように相棒たちにそう告げた後、ファットは腰を大きくかがめて、小夜の頭をよしよしと撫でる。
「うちの連中は口が悪うてすまんなあ。落ち着くまで、君はも少しここで休んどき。もしこの後具合悪うなったら、我慢せんとここに電話し。夕べファットガム事務所で診察を受けた言うたら、すぐわかるはずや」
女医の電話番号を渡して、小夜をソファに座らせる。そうしてファットは環の元まで歩を進めた。顔面蒼白のまま、じっとりとこちらを見あげる少年の視線が痛い。
「環」
「はい」
「悪いが、ここで小夜ちゃん見たってくれ。で、落ち着いたら家まで送ったって」
「俺が……女性とふたり……無理だ……帰りたい」
「薬物事件の被害者や。クスリ盛られて倒れかけてたとこを俺が保護した。それ以上のことはされてへんけども、不安定になっとる。そのへん考慮して、ちゃんと接したり」
耳元でそう告げたとたん、環の表情が気弱な少年から若きヒーローのそれへとかわった。
「わかった」
答えた声は、先ほどとはうってかわった力強いもの。こういうところ、やはり見所があると、ファットは思う。
この場合、プロのヒーローをつけるべきかもしれないが、今の小夜は男とふたりになることに不安をおぼえる可能性がある。しかしファットガム事務所は男所帯だ。とすれば、小夜にはまだ男の香りのしない環をつけるのが最適だろう。
環は身長こそ高いがまだまだ線が細く、表情にも幼さが残っている。
そしてファットガムは相棒に向き直って、声を張り上げた。
「さあ、お仕事やで。事情は道々説明するわ。このファットさんの管轄で卑劣なクスリ使うたこと、死ぬほど後悔させたろやないか」
ばし、と右拳を左の掌底にたたきつけ、ファットガムは片方の口角を大きくあげた。
2021.3.30
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