木枯らしに揺れる

「今日、ウチ来ぉへん?」

 届いたファットからのLIMEに「行きます」と返答し、小夜は軽く口角をあげた。彼から連絡が来ればやはり嬉しい。気が滅入るようなことがあったばかりなので、なおさらだった。

 枯れ葉舞い散る季節を迎え、世の中はどんどん不穏になっている気がする。オールマイトが活躍していた時代をこの世の春夏と呼ぶのなら、さながら今は秋。
 これから世の中は、いったいどうなってしまうのだろう。

 いたるところで小さな事件が起きている。ひったくりや強盗、放火に暴行。
 事件が増えれば、当然のようにヒーローの出動が増える。疲労が溜まっているのだろう。ヒーローたちからは、張り詰めた雰囲気が漂い始めていた。出入り業者へのアタリがキツくなる者もぽつりぽつりと出始めている。小夜のような若い社員が相手の場合は、なおさらだった。

 今さっきも、ねちねちといやみめいたことを言われたばかりだ。
 大阪港近くの、海難救助を主とするヒーロー事務所での出来事だった。ファットガムの同期だという女性ヒーローがさりげなく間に入ってくれたのでことなきを得たが、そうでなければ、小夜はあの潮の香りがする狭い事務所で、いまだストレスのはけ口として責められ続けていたかもしれなかった。

「さむ……」

 メトロ出入り口の階段を上がりきったとたん、吹き荒れる木枯らしが頬を打った。この風と共に、今年も冬がやってくる。
 もう十一月が終わろうというのに、ファットガムとの結婚話は、いまだ宙ぶらりんのままだ。

(もしかしたら、ずっとこのままになっちゃうのかな)

 とぼとぼと歩きながら、小夜は小さく息をつく。小さな不安が凝集し、いまにも押しつぶされそうだった。

 結婚には勢いが重要だという。タイミングを逃すとできなくなると。
 不安に駆られ調べてみたら、婚約とは名ばかりの状態でずるずるとつきあい最終的にパートナーが別のひとの元へ行ってしまったという話や、口約束を交わしたまま十年経つがいまだに結婚していないというような話が、そこらにいくらでも転がっていた。
 もちろん、ファットガムはそういうことはしないだろう。しないと思う。けれどこの世に絶対はない。だから不安になる。特に、人の心は移ろいゆくものだから。

(パパが頑固だからいけないのよ)

 父とファットは相変わらず連絡を取り合っているようだが、やはり色よい返事はもらえぬようだ。小夜も九月の終わりに父と一度話をしたが、不穏なご時世も相まってか、やはりダメだの一点張り。

(……今年中に籍だけでもいれちゃおうって、もう一回提案してみようかな……)

 それはここ最近、何度か言ってきたことだった。けれどファットが首を縦に振ってくれない。頑として、あかん、の一点張り。
 それどころか彼は、この話題を出されることすら、あまり好きではないようだった。

 うまくいっていないわけではない。頻繁に互いの家には泊まりあっている。急激に小さな事件が増え、休日を合わせることが以前よりまして難しくなったせいもあろうが、すでに平日休日の区別はなくなり、泊まった翌朝、相手の家から通勤することも増えてきていた。
 今から会おうと言われれば、小夜はファットを拒まない。小夜はそれを知っているし、おそらく彼も知っている。つまりは今、この関係のアドバンテージは、常にファットの方にある。
 昨今の事情を思えば仕方のないことではあるが、それが寂しくないと言えば、やはり嘘になるだろう。

 小夜はまたため息を吐いて、コートの前を合わせた。
 そこここに飾り付けられたクリスマスの装飾が、冷たい木枯らしに揺れている。早いものだ。ついこのあいだまで、ここはハロウィン一色だったのに。

「小夜ちゃん、さっきファットがぎょうさん焼き鳥買ぉてったで!」

 江洲羽商店街を歩くと、通りに面した店の人たちから、こうした声がかけられる。ファットガムの関係者として地元の人たちに認識されているのは、大変ありがたいことだ。
 けれどそうした声は、好意的なものばかりとは限らなかった。正面からかけられる声とは違い、背に指さすような囁きには、嫉妬混じりの悪意のこもったものもある。
 
 この街に越してきて小夜が気づいたことのひとつがそれだ。そしてファットガムはモテる。小夜が思っていたよりずっと。

 ファットガムは人気ヒーローだ。全国的なランキングはそう高くはないが、関西、特に大阪では圧倒的な人気を誇る。だから小夜も覚悟はしていた。

 だがそれを想像することと実際に目の当たりにすることの間には、深く大きな隔たりがあった。

 もちろん彼のことを好きな人が何人いようと、それはそれだ。ファットの性格上、安易な気持ちで彼女たちに手を出すことはないだろうし、実際に、彼はそういうひとたちをいっさい寄せ付けない。
 だからこんなに焦ることも、不安になることもないはずだ。ないはずなのに、それでも時折、強い不安に襲われることがある。
 ファットの気持ちを疑っているわけではない。それは形のない、漠然とした不安だった。

 ひゅう、という凍えそうなエオルス音を耳にして、小夜は再びコートの襟をかき合わせた。本当に今日は風が強い。カルマンの渦が電線をかき鳴らすこの音はどこかもの悲しく、さみしさや不安を増大させる。

 プロポーズの翌朝買いに行くはずだった婚約指輪は、結局未だに、買えてはいない。

***

「おー、待っとったで。サラダが今でけたとこ」

 玄関扉をあけたとたん、あたたかい空気と明るい声が小夜を包んだ。

「ごはん作ってくれたの? ありがとう」
「なに、してもらうことのほうが多いんや。たまにはな。……っちゅうても、メインは買ぉてきた焼き鳥や。俺が作ったのは汁物とサラダだけやで。あ、もちろん米はぎょうさん炊いてあるけども」

 彼の言うとおり、テーブルの上には焼き鳥が山と積まれている。こんなの太志郎さんとつきあうまでは漫画でしか見たことがなかったなあ、と微笑ましく思いながら、小夜は再びファットガムに視線を転じる。

 だが彼が手にしている大きなボールの中身を見た瞬間、小夜の心に冷たい風が吹き込んだ。
 それに気づかぬファットガムが、鼻歌をうたいながら、サラダのボールをテーブルに置く。こんもりと盛られたそれは、中東でよく食べられているポテトサラダ、オリヴィエ。

 手の込んだサラダだ。ポテトをレンジで加熱してから潰し、鶏肉は蒸して裂く。卵をゆで、エンドウ豆とにんじんにも火を通してさいの目に切る。セロリなどの香味野菜や玉葱、ピクルスも刻む。
 それぞれ下ごしらえのすんだ材料を、塩胡椒、マヨネーズ、そして少量のサワークリームで和えて、できあがり。

 これをファットに教えたのは、潜入捜査先にいた少女だ。これほどの工程を必要とするサラダを、監視役としてそばに置かれた十四歳の子が、彼に作ってくれたという。それも毎日のように。
 小夜が知っているのはそれだけだ。詳しい事はなにも知らない。
 組織については話せないだろうが、その子自身については聞けば教えてくれるかもしれない。が、小夜は知りたくはないと思った。

 なぜって、その子はファットガムに特別な感情を抱いていたのだろうから。

 もちろんファットガムにとって、その子は要救助者のひとりだ。その十四歳の子も、死穢八斎會に監禁されていた幼女も、彼にとっては同じ未成年であり、等しく保護すべき対象だろう。わかっている、そういうひとだ。けれどどうしても、心がざわざわしてしまう。

「どないした? 浮かない顔やな」
「営業先でちょっと嫌なことがあったの……ほら、みんなピリピリしてるから」

 嘘を吐くのが苦手な小夜は、微妙に話をすりかえた。嫌なことがあったのは事実だ。これは決して嘘ではない。

「あー。最近はどこの事務所も忙しゅうなっとるからな。営業さんにあたる奴もおんのか。そら大変やったな。どないする? メシの前に、甘えさせ屋さんのファットさんがお腹にくるんでヨチヨチしたろか?」

 ヨチヨチ、という言葉と言い方がかわいくて、小夜は思わず吹きだした。

「笑うことないやん」
「ごめん、なんだかかわいかったから。よしよしはごはんのあとでお願いします」

 ええで、と満面の笑みで答えたあと、ファットは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。甘えるように、彼がささやく。

「ほな、そのあと、してもええ?」

 ファットの言からは、大事な言葉が抜けている。だが、これが何のお誘いか、小夜はすぐに気がついた。
 ふだん元気に誘ってくる彼が珍しく照れているものだから、小夜も気恥ずかしくなって、ちいさくうんとうなずいた。



「ごちそうさまでした。美味しかった」
「お粗末さんでした」

 食後の片付けはふたりでした。と言っても、食洗機に汚れた食器をセットして、テーブルやガスコンロをさっと拭くだけの簡単なものだ。

「太志郎さんって、案外お料理上手だよね」
「さよか? まあ粉モンは自信あるけども」

 ファットガムが作ってくれたオリヴィエは美味しかった。くいしんぼうの常として、彼は料理がけっこううまい。大鍋で作ったものを大皿にどんと盛り付ける豪快な料理だが、味は存外繊細だった。

「ほかも美味しいよ。角煮とか」
「ああ。あれは調味料ブチこんでひたすら煮ればええだけやから」
「味つけがちょうどいいの。あとお肉がとろとろで、お口の中でほろっと崩れるとこも好き」
「ほんなら、また今度作ったるわ」

 話しながら、キッチンからリビングまでの短い距離を、ふたりは手を繋いで歩く。これはおおむねいつものことだ。どちらから始めたということもない。気づけば手を繋いでいる。身体のどこかを触れあわせている。それは、とても甘くて優しい関係。

 けれどそれに慣れきってしまうと、そして他を知らないと、その温かな幸福に気づけない。哀しいかな、人というのはそういうものだ。

「ほい」
「うん」

 ソファに座って両手を広げたファットの膝の上に、小夜はちょこんと腰掛ける。すっぽりと身体全体を包み込まれて、小夜は無意識に微笑んだ。

「湧水小夜さんは、今日もよう頑張りました」

 頭の上で声がする。小夜の大好きな、柔らかで優しい響きだ。次いで大きな手のひらが小夜を撫でた。頭と、そして背中を。

「太志郎さん」
「ん?」
「大好き」
「知っとる」
「そこは、俺も好き、って返してくれるところじゃないの?」
「たまにはいつもとちゃう答えもええやろ?」

 と、言いながら笑ったファットに、小夜も笑みを返す。するとファットが小夜の頭に唇を落としながら、ささやいた。

「ほな小夜ちゃん。お食事とよしよしは終了しましたが、お風呂と俺、次はどっち先にしはります?」
「お風呂」
「いや即答かい!」
「だって一日働いて汗かいてるし、今日は風も強かったから、髪の毛にもほこりとかいろいろついてるだろうし……」
「ほな、お風呂は一緒に……」
「入らない」
「なんでやねん。ええやんか」
「……だって太志郎さん、絶対お風呂場で悪いことするでしょ」

 エーッ、とおおげさに驚いてから、ファットはいきなり声色を変えた。低く甘く、彼はささやく。

「そら、悪いことやのうて、ええコトやん?」

 突如耳元に流し込まれた少ししゃがれた低音に、ぴくり、と身体が反応する。それを確認したファットは、たたみ込むように小夜の耳たぶに唇を寄せた。

「なぁ」

 耳朶にかかる吐息は、すでに熱い。そのくせ、琥珀色の瞳はひどく冷静に小夜の反応を観察していた。それがわかるから、簡単に落とされてなるものかと思ってしまう。理性では。

 けれど、ええやろ、という問いに答えた、だめという声は、すでに細く弱かった。大きな口の端が、ゆっくりと上がってゆくのが見える。笑みのかたちに。

 だが、その時、陥落寸前だった小夜と攻落寸前だったファットの上に、けたたましい電子音が鳴り響いた。
 あー、と声を漏らして、ファットガムが小夜を見下ろす。
 この音にはすでに慣れた。緊急出動要請だ。

「すまん」
「いってらっしゃい」
「……おん」

 と、答えた時ファットは、すでにコスチュームを羽織っている。木枯らし吹きすさぶ街へと飛び出していった大きな背中を見送って、小夜はちいさなため息をついた。



 ファットは一時間ほどで戻ってきた。コスチュームもたいして汚れてはいない。しかし、ただいま、と告げたその顔は笑っていたが、ひどく疲れているようすでもあった。
 彼はそのまま風呂に直行し、出てくるなり「はー!」と、声を上げ、大きな体をソファにあずけた。

 どうしよう。疲れているだろうし、いま、入籍の話をするのは避けた方がいいだろうか。

 思い悩みながら、ソファの前で立ち尽くしていると、ファットガムと目が合った。 
 すると彼は軽く身体を起こして、おいで、と言って両手を開いた。にっ、と大きく笑いながら。
 それにちいさくうんとうなずいて、けれどその場に立ったまま、小夜はしずかに問いかける。

「ねえ、太志郎さん。……もうさ、籍だけでも今年中に入れちゃわない?」
「あかんよ」

 ややかぶせ気味に、ファットが応えた。
 広げていた手を引っ込めて、彼は再びソファの上に寝転がる。それがどこか投げやりに見えて、小夜は軽く眉を寄せた。

 ひゅう、と耳の中でエオルス音が鳴り響く。鳴らしているのは、強く冷たい木枯らしだ。

「先に入籍しちゃって、説得は後回しにすればいいじゃない」
「そら順番がちゃうやろ。ちゅうか、その件については、もう何度も話したやん」

 面倒くさそうな声に、心の中の風音がいっそう強く大きくなった。心の中を、冷たい風が吹き荒れる。

「……じゃあ、もう一緒に住んじゃうとか」
「なんや、小夜。今日、ちょおしつこいで」

 顔は笑っていたが、いらだちを多分に含んだ声だった。それがますます腹立たしかった。

「……だって」

 ファットガムが、うんざりしたように大きくため息をついた。
 心の中を冷たい風が駆け抜ける。吹き荒れるのは木の葉を散らし樹を吹き枯らす、凍えるような木枯らしだ。

「だって、今の状態だったら、一緒に住んでるのと大差ないじゃない。っていうか、太志郎さんにとっては、一緒に住むよりずっと都合いいよね。自分が会いたいときだけ連絡して、どっちかの家に泊まって、そうでないときは離れていられる……それはそれは気楽よね」

 ファットガムの眉が跳ね上がった。彼を怒らせてしまったことに気がついたが、小夜ももう、収まりがつかなくなっていた。

 小夜はこの日、とても消耗していた。だから引き際を見誤った。
 ファットガムもまた、ひどく疲れていた。だから対応を誤った。

 そして押してはいけないスイッチというものは、たいていおいて、こういう時にこそ、押されてしまうものである。

「太志郎さんは、もう、わたしと結婚する気なんかないんでしょ!」

 この瞬間、室内の空気が一変した。

 空調が効いているはずなのに、室内の温度が数度下がったような気がした。目の前にいるのは大好きなひとのはずだ。だが、まったく知らない人のように見える。彼が声を荒らげた訳ではない、手を挙げるそぶりがあったわけでもない。本人は威嚇しているつもりもないだろう。
 けれど小夜はいま、威圧感に押しつぶされそうだった。大きな身体から、ゆらりと立ち上っているのは激しい怒気だ。

「おまえはそんなふうに思とったんか……」

 噛みしめるようにそう告げて、ファットは大きくため息をつく。彼は必死で怒りをこらえているようすだった。
 小夜は言ってはいけないことを言った。謝るならば今だろう。けれど……。
 けれどこのため息を、今日は何回聞いただろう。ため息は人を傷つける。そして傷つけられた人というのは、往々にして、攻撃的になるものだ。

 だから小夜は、きゅっと口を引き結び、まっすぐにファットガムを見すえた。吹き荒れる木枯らしを内包した視線が、怒気を抑えようとしていた琥珀色の瞳とぶつかる。次の瞬間、金がかったアンバーの奥でゆらめいていた炎が、よりいっそう強く燃え上がった。
 ――怖い。
 それでも絶対に、目だけはそらすまいと小夜は思った。
 すると彼は唐突に、片方の口角だけを上げて笑った。瞳の奥に怒りの炎を宿したままで。

「おまえがそう思うんなら、そうなんやろ。ほんで、もうこの話は終いや」

 この言葉を言い終わるや否や、ファットは立ち上がり、先ほど脱いだヒーロースーツを手に取った。そして彼は、小夜に背を向け歩き出した。

「太志郎さん?」
「事務所戻る。やり残した仕事思い出したわ」

 背を向けたままファットは言った。

「でもね、太志郎さん。まだ話が……」
「終いや言うとるやろ」

 今まで小夜が聞いたこともないような、冷たい声だった。冷たかったのは声だけではない。ばっさりと切り捨てるような、こちらに二の句を告げさせぬような、そんな言いかた。

 足音を立てて、彼は部屋を出て行った。最後まで、一度たりとも振り向かず。

***

 ファットは朝になっても帰ってこなかった。

 夜間、何度かサイレンの音を聞いた。夜中に出動があったのかもしれない。今までもそういったことが何度かあった。それでも小夜が泊まりに来て、朝起きたとき彼がいないということは一度もなかった。

 九時すぎまで待ってみたが、やはりファットは戻らなかった。彼は今日、日勤のはずだ。おそらく夜まで戻らないだろう。

 待つかどうかしばらく迷い、いったん帰ることにした。「朝になったから帰ります」と書き置きし、身だしなみを整えて外に出た。
 気分は最悪なのに、悔しいくらいにいい天気だ。昨日の風が嘘のような、ぽかぽかとした小春日和。

 泣きすぎたせいで目がぱんぱんに腫れていたが、自宅に帰る気にもなれなかったので、小夜はそのまま駅へと向かい、メトロに乗った。
 行き先は関西でもっとも背の高いビルだ。大阪の街が一望できる、展望台のあるところ。

土曜日の展望台は賑わっていた。三階分の高さをぶち抜いた、三層構造の展望台はいつきても見事だ。
 小夜は大きく息をついて、大阪の街並みをみつめた。大阪は関西の要であり、日本で二番目に大きな都市だ。
 そんな大きな街を、ファットガムは守っている。

 あんなに怒った彼を見たのも、おまえと呼ばれたのも、会話の途中で突き放されたことも、諍いめいたことをしたのも、すべて初めてのことだった。

(なんであんなこと言っちゃったんだろう……)

 ひどいことを言ってしまった。
 今にして思えば、タイミングも話の持っていきようも最悪だった。

 ファットガムの立場になって考えたら、怒るのも当然のことだ。 
 結婚に反対しているのは、小夜の父だ。それなのにファットは積極的に父と関わりをもとうと努力してくれていた。反して小夜が父を説得しようとしたのは一度だけ。

 しかも、昨夜のファットは見てわかるほど憔悴していた。そういったことをあまり表に出さないひとであったのに、それだけ昨夜は疲れていたということだ。

 それでもファットは小夜のために夕飯を用意してくれていた。
 両手をひろげて「おいで」と優しく言ってくれた。
 そんな彼の愛情に偽りなどないことは充分知っていたはずなのに、つまらないことでやきもちをやいて、小さな不安に振り回されて、言ってはいけないことをいくつも言った。

 こんなにも彼を愛しているのに、そしてあんなにも彼に愛されていたのに。どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
 窓ガラスの向こうに広がる愛する人が守る街が、せり上がってきた涙でぐにゃりと歪んだ。

「小夜ちゃん?」

 いきなり背後からかけられた声に、びくりとした。聞き覚えのある爽やかなテノール。振り向かなくても、声の主が誰かすぐにわかった。これはかつて、小夜が憧れ続けたひとの声。
 涙がひっこんだことを確認してから、振り向いた。そこに立っていたのは、やはり予想通りのひとで。

「也久さん……」
「いやあ、びっくりしたよ。近くに住んでるときはぜんぜん会わなかったのに、こんなところで会うなんてさ」
「近くに?」
「うん。僕んちね、病院のそばだから」

 ああ、と息をついた。市立大学病院は小夜が住んでいたマンションの目と鼻の先だ。ついでに言えば、このビルも。

「今日はひとり?」

 どういらえるべきか迷っていると、也久が小夜を見つめながら、何かを察したように静かに笑んだ。
 土曜であるにもかかわらず、小夜はビジネススーツを着ていた。それなのにメイクは軽く粉をはたいた程度。ひと晩泣き続けたせいか、目の周りも腫れている。
 聡明な也久がそこから諸々の事情を導き出したとしても、なんら不思議なことではなかった。

「也久さんはお休みですか?」
「うん……と言っても、いつ連絡くるかわかんないからさ。あんまり遠くには行けないんだよね。だからよくここに来るんだ。病院からはすぐだし、ここからの景色を見ていると、この街の医療をこれからも支えていくぞ、って気持ちになれる」
「……ご立派ですね」
「なに言ってるんだい。君の彼のほうがよっぽど立派じゃないか。この街の平和を守っているんだからさ」

 そうですね、と答えて小夜は曖昧に笑った。
 也久には悪いが、そろそろ失礼しなくては。ファットガムとああいうことがあった後だから、なおさら誤解を生むような行動は避けたかった。

「浮かない顔だね。彼とケンカでもした?」
「いいえ、彼とはうまくいってます」

 深く切り込んできた質問に、視線を窓の外に向けたまま答えた。もともと視線をはずしておけば、嘘がばれることもない、そう思っての行動だった。だが――。

「君、相変わらず嘘つけないんだなぁ。顔に出すまいと力入れすぎて、鼻の穴めちゃくちゃふくらんでるよ」

 慌てて鼻をおさえると、也久が笑い声をあげた。笑いながら、彼は唐突に窓の外を指さした。

「あそこに市立大学病院があるじゃない?」
「はい」
「そのすぐそばに背の高いマンションがあるでしょう。僕ね、いまあそこに住んでるんだ」

 いや聞いてませんけど、という言葉を飲み込んで、はいと答えた。也久が指したのは、小夜が住んでいたマンションからほど近い場所にあるタワマンだ。三年ほど前に建ったばかりの、高級物件。

「いいマンションですね」
「うん、なかなか快適だよ。高層階だから夜景はきれいだし、セキュリティもしっかりしてるし、ただ一人で住むには些か広くてね。二人ならちょうどいいかと思うんだ。どうかな?」
「はい?」
「彼とうまくいってないなら僕にしといたら、ってこと。幸いりゅう先生のお許しは出ている。僕を選んでくれたら、彼に負けないくらい大事にするつもりだけど」

 ごう、と心の中に一陣の風が吹いた。

 小夜は唖然として初恋の相手を見つめた。
 実年齢より遥かに若く見える童顔の医師は、小夜を見下ろしたまま、静かに笑み続けている。
 柔らかな小春日の太陽のように。

2021.10.15
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月とうさぎ