目覚めた瞬間、唇からこぼれ落ちた言葉がそれだった。見慣れた天井、見慣れた室内、そして座り慣れたソファ。だがここは私室ではない、己の事務所だ。
琥珀色の瞳が壁の時計を見やった。時刻は九時二十五分。
昨夜の自分の行動を思い返して、ファットガムはため息をついた。
事件続きで疲れ切っていたところに、小夜が結婚の話題を蒸し返してきた。
それについてはもう少し頑張ろうと話したはずだ。それが一年前というならまだわかる。しかしまだ三ヶ月程度しか経っていない。せめてもうちょい辛抱せえや、とファットガムは思ってしまう。
元々、同じ話を何度もされるのをあまり好まない性質だ。夕べは疲れていたので、なおさらだった。
そこから始まった諍いは、口論にすらならなかった。ファットが途中でそれを放棄したからだ。
『太志郎さんは、もう、わたしと結婚する気なんてないんでしょ!』
どうでもいい相手の言葉であれば、簡単に聞き流せただろう。けれどファットは小夜に惚れ抜いている。それだけに、我慢のならない一言だった。
だからいったん部屋を出た。急ぎではない事務仕事が残っているのは確かだったし、一度冷静になろうと考えたからだ。もちろん、ひととおり頭が冷えたら家に戻るつもりだった。
ところが、その後立て続けに事件が起きた。規模としては小さなものばかりだったが、どれも後処理に手間取った。事件続きで、どこもかしこも人手不足だ。
ファットが事務所に戻った時には、すでに朝の五時を回っていた。
体力に自信のあるファットだが、さすがに疲れがピークに達していた。だから五分だけと呟いて、倒れるようにソファに身体をあずけ――そして、今に至る。
おそらくは、そのまま眠りこけてしまったのだろう。
ファットはもう一度時計を見やった。十時のパトロールまであと三十分はある。今、家に戻れば、少しなら小夜と話ができるかもしれない。
(小夜もしつこかったけど、俺の態度もようなかった。……小夜のことや、もしかしたら一晩中泣いとったかもしれへん……)
ファットは取るものも取りあえず、事務所を飛び出した。
だが、家に戻ると、小夜の姿はすでになかった。
テーブルの上には、小さなメモ書きが一枚。それに目を通した瞬間、鎮火しかけた怒りの炎が、再び勢いを増した。
(朝になったから帰るて、なんやそれ!)
帰ってしまったことだけでなく、残されたメッセージがすぐに返信できるLIMEではなく、机上のメモ書きであったことが、ますます気に入らない。
(俺からは返事も欲しゅうないっちゅうことかい!)
だがその時、小夜のひび割れた声が脳裏によみがえった。
『太志郎さんにとっては、一緒に住むよりずっと都合いいよね。自分が会いたいときだけ連絡して、そのままどっちかの家に泊まって』
カチンときたが、反面、耳が痛かった。泊まり合うことが増えた頃から、小夜に甘えすぎているという自覚は確かにあったのだ。
(ほんで、帰ってしもたっちゅうことは、むっちゃ怒っとるっちゅうことやんな)
争いの途中で去った自分を小夜が待っていてくれると思い込んでいたことも、また甘えであることに、ファットはとうに気がついている。
(……ちょお落ち着こか……)
そう内心で呟いて、ポケットをまさぐった。指に触れたのは旧式のオイルライターだ。雨や風に強い構造のライターなので、なにかの時のために常に持ち歩いている。
続いてファットはサイドボードの引き出しを開け、白地の箱に金と赤の円が描かれた煙草の箱を取り出した。しばらくやめていたのだが、なんとなく捨てきれずにとっておいたものだ。半年ほど前のものだが、封を切っていないので吸っても問題ないだろう。
「やめても、こないなときに欲しゅうなんねんなぁ」
ひとりごち、どさりとソファに身体をあずけた。
次いでふたを跳ね上げて、フリントホイールを回転させる。と、オイル特有の臭いと共に火がついた。炎を煙草に移し軽く吸い込むと、口腔内に苦みのある煙が広がる。それをゆっくり肺まで落とし込み、またゆっくりと吐き出した。
「あー」
低く掠れた声が出た。疲れた身体に久しぶりのニコチンは効く。くらりとファットの巨体が揺れた。
目をつぶったまま細く長く煙を吐き出し、ファットは携帯端末を手に取った。そのまま無意識に通話アイコンを押しかけて、次の瞬間、はっとした。自分がしようとしたことに気づいたからだ。
煙草をくわえたまま、いやいやいやいや、と、小さく呟く。
「なんで俺が謝らなあかんねん。悪いのはあっちやろ。そもそもこっちがめっちゃ疲れとんのに、あないしつこくせんでもええやん」
言い終えて、ファットは大きなため息をついた。これもまた自分に合わせて欲しいという甘えであることに、気づいてしまったからだった。
***
歩きながら、鉄板のたこ焼きを一気に腹に流し込んだ。
お定まりのパトロールだ。なにもなければそれでいい。ファットガムが定期的にここらを歩くというだけで、敵への軽い牽制になる。プライベートでなにがおころうと、人々の笑顔を守るのが、ヒーローたるものの勤めだ。
「腹がへってしゃーないわ!」
「声が大きい……帰りたい」
環が静かに呟いた。
雄英のヒーロー科は土曜もきっちり授業があるが、環には毎週のように公欠を取らせ、こちらに来てもらっている。切島は今回呼んでいない。
三年生の環と違い、一年生の切島にはこなさねばならないカリキュラムが多くある。本人はできるだけ多く現場を体験したいようだったが、今週は定期テストが近いこともあり、学業のほうを優先させた。現場でしか学べないことも確かにあるが、同時に学校で学んで欲しいことも多くある。
「ファット! 森伊蔵入荷したで!」
懇意にしている酒屋の前を通りがかった時、店主が声をかけてきた。これはおおよそいつものことだ。
「仕事終わったら寄るから、一本取っといてや。あと甘めのシャンパンで、なんかオススメある?」
「モエのネクターなんかええんちゃう?」
ほんならそれも頼むわ、と答えて、またはっとした。誰のための酒であるか気づいたからだ。無意識にそうしてしまったことが、むしょうに悔しい。
(まったく、俺はこんなにもおまえに惚れとるちゅーねん。なんでそないなこともわからへんのや!)
「ファット?」
「や、なんでもあらへん。気合い入れてくで!」
環の問いかけに、ことさら元気にそう告げる。が、強く聡いインターン生は、一瞬なにか言いたげな顔をして、次に軽く、眉をひそめた。
***
「環、今日はもう帰ってええで。お疲れさん」
八時のパトロールを終え、環に声をかけた。すると環はまたしても、何か言いたげな顔をした。
「なんや? 言いたいことあんなら言い」
「……早く……仲直りしたほうがいい……」
「はあ? なにぬかしとんねん。誰とや?」
「……まるわかりなんだよ。とにかく一刻も早く湧水さんと仲直りしてくれ……このままじゃ仕事にならない」
一息にそう告げて退室した環の背中を見送った。言い返さなかったのは、その通りだと思ったからだ。環の言葉通り、今日はまったくだめな日だった。
小夜と似た背格好の女を見ると振り返り、小夜と同じ香水の香りがしたらきょろきょろと香りの出所を探してしまう。その都度謝ろうと思いかけ、いやいや、と首を振ることの繰り返し。あれでは環に呆れられても仕方あるまい。
土曜だというのに、事件らしい事件がなかったことが幸いだった。まったく、昨夜のせわしなさが嘘のようだ。
「ほんま、あかんわ……」
ぽつりと呟き、ファットはソファに身体を預けた。先ほど相棒と交代したので、ファット自身ももうあがりだ。
思えば、土曜の夜に予定がないのは久しぶりのこと。本来であれば、小夜とふたりですごすつもりの夜だった。
あーあ、ともう一度呟いて、ポケットから携帯端末を取り出し、LIMEを立ち上げる。そして自分のしている事に気づいて、小さくうなった。またしても無意識の行動だった。
ファットはさすがに苦笑した。もうこれは、こちらから折れるほかないだろう。昨夜はたしかに自分も悪かったのだ。
(小夜んち行って、直接謝ろ……)
と、心の中でちいさく呟いて、ファットは自分の後頭部をとんとんと叩いた。
***
ところが事務所を出たタイミングで報せが入った。相棒のひとりが敵から個性攻撃を受けた上、頭を打って市立大学病院に運ばれたという。受けた個性は触れたものの感覚をコントロールするもので、相棒は今、自分の体重を倍ほどに感じているらしい。幸いにして頭部の打撲は大事に至らず、感覚も朝までには元に戻るらしいが、今夜は仕事にならないだろう。
「すまんファット、この忙しいのに」
「かまへん、かまへん。おまえは身体もどるまでゆっくり休んどき。仕事はこっちでなんとかしとくさかい」
謝りたおす相棒にそう告げて、病室を出た。そして大柄な男は、大きく大きく息を吐く。
江洲羽は繁華街だ。土日祝日の夜勤は近隣の事務所が持ち回りでおこなう。今夜、ファットガム事務所は待機番だ。もう一人の相棒である影道は愛知に潜入中であり、環はまだ学生だ。つまり自分がやるしかあるまい。またしても長い夜になりそうだ。
(帰る前に、一服してこ)
喫煙者の形見が狭い昨今の風潮を反映してか、はたまた病院という場所ゆえか、喫煙所は建物の裏手にあった。申し訳程度に設えられたガラス張りの喫煙コーナーは、こぢんまりして寂しげだ。
扉をあけると、そこに先客がいた。
「やあ」
にこやかにこちらに向かって手を挙げたのは、童顔の救命医。
中に入るか否かほんの一瞬迷ったが、引き返すのも変な話だと思い直して、そのまま足を踏み入れた。なにもなかったような顔をしながら、也久の隣に腰をおろす。
「センセが煙草吸うとは思うてへんかったわ」
「よく言われますよ、似合わないって。しかも僕は医者だしねぇ」
紫煙を燻らせながら也久は笑う。それにファットも笑顔を返し、自身の煙草に火をつけた。
「ああ、センセ、敬語使わんでええで。俺のほうが年下なんやし。かわりにっちゅうんもなんやけど、俺もこの口調のままでいかせてもらうよって」
オーケー、としずかにいらえ、也久が紫煙を吐き出した。
「ほんでも、ふつうお医者さんって、スタッフ専用みたいなトコで吸うんとちゃうん?」
「僕は患者さんにはあまり面がわれてないからさ、この通りスクラブスーツを脱いじゃえば案外わかんないんだよ。スタッフ専用の喫煙コーナーはいろいろ煩わしいことも多くてね。面倒なんだ」
「……センセ、見かけによらずけっこうアレなトコあんねんな」
「それもよく言われる。僕、一見好青年ふうだからね。まあ、それでも小夜ちゃんは僕のこと好きになってくれたわけだけど」
ひく……と頬がひきつった。これは挑発なのだろうか。だがここで相手の思惑に乗ったら負けだ。だからあえて、笑顔を作った。その中に微妙な険を含ませながら。
「あれ? 俺いまセンセにマウント取られた? それ、十年前のことやんなぁ?」
「あ、なんだ。知ってたんだ」
「あたり前やろ」
「僕ね、今日はオフだったんだよ」
急な話題転換に、ファットは眉を跳ね上げた。あんたの予定なんざどうでもええねんと思いつつ、煙を吐き出す。
「ほんなら、なんで病院おるん?」
「夕方呼び出されて、さっき処置が終わったとこ」
「そら……お疲れさん」
「そ。実は激務なんだよ救命医って。それだけじゃなく、僕はDMATにも登録しててさ」
お、と、ファットはマスク下の眉を上げた。
DMATとは、Disaster Medical Assistance Teamの略で、機動性を持った救急医療チームのことだ。災害現場に赴き、ヒーロー、自衛隊、警察、消防などの関係機関と連携し、救助活動と並行しながら医療行為に従事する。
「せやったら、俺ともどっかの現場で鉢合わせする可能性があるっちゅうこっちゃな」
「そうだね。だから災害時に彼女の側にいてやれないのは、僕も君と同じなんだ。流先生はそれを失念してるよね」
「おん……」
にこにこと微笑み続ける也久からは、あからさまな敵意は感じられない。だが、先ほどからの挑発的な発言から見るに、好意的であるというわけでもなさそうだ。飄々として、どうにもつかみどころがない男である。
「センセ。本題はなんやねん。俺に言いたいことあんねやろ?」
「小夜ちゃんとケンカしたんだって?」
さらりと告げられ、ぎょっとした。あやうく、なぜ、と問いかけて、すんでの所でそれを飲み込む。話の出所はひとつしかない。
「なんで僕が知ってるか、知りたい?」
「いや、別に知りたないし、知るまでもないわ。あいつは俺とケンカしたからって、ホイホイ他の男んとこに行くような女やないねん」
「どうしてそう思うの?」
「どないもこないもあるかいな。小夜はそないつまらん女やない。ほんで」
と、いったん言葉を切って、ファットは煙を吐き出した。
「俺も、そない中途半端な惚れさせ方はしてへんのや」
口に出す前は虚勢であった言葉は、言い終える前に確信にかわった。
そうだ。小夜は簡単に他の男になびくような女ではない。也久と関係を持つのなら、ファットとケリをつけてからにするだろう。そういう女だ。
「すっごい自信だね」
「当たり前やん」
「そのわりには、さっきすごい顔してたよねぇ」
「まァ、センセにはそれくらいのサービスしたらんと。センセの存在は、俺と小夜の仲をより甘くするための調味料や。言うなればスイカにかける塩みたいなもんやなァ」
ははっ、と声を出して也久が笑う。そして彼は低く低くつぶやいた。
「だったら、もっと大事にしてやれよ」
声の奥に、押し殺された怒りが潜んでいた。
童顔の救命医と関西を代表するヒーローの視線がぶつかった。どちらも視線をそらさない。小さな火花を散らしながら、一合、二合と目と目で打ち合う。
それを数回繰り返し、やがて也久が口唇を開き、ぽつりぽつりと語り始めた。
*
この都市でもっとも高いビルの展望台で、小夜を見かけた。憔悴した表情、泣きはらした目。あまりにも目もとが腫れていたから、はじめよく似た背格好の別人かと思ったくらいだ。かなり長いこと泣かないと、ああいう腫れ方はしない。
親友の、年の離れた妹だ。かわいいとは思っていたが、恋慕を抱いたことはない。縁談を持ちかけられた時も、あの子となら楽しい家庭が築けそうだと思った。それだけだ。
だから小夜が人気ヒーローとつきあっていて、その男と結婚したいと言っていると知ったときも、残念だけれどしかたがないと息を吐いた。その程度だった。
けれど泣きはらした目でひとりたたずんでいる小夜を見た瞬間、それをさせている男を、許せないと思った。
だから声をかけ、当たり障りのない話をしながら「彼となにかあったのか」とたずねた。うまくいっていると彼女は答えたが、それが嘘であることは明らかだった。
あの時「僕にしといたら?」と口にしたのは本心だ。小夜に恋はしていない、けれど愛を育んでいくことはできるだろう。そう考えたからだ。
告げた瞬間、小夜の瞳が大きく揺らいだ。少なくとも、也久にはそう見えた。だがそれは、本当にほんの一瞬だけのこと。
「ありがとうございます。でもわたしは太志郎さんでないとだめなんです」
毅然とした声で小夜は言った。也久の目をまっすぐ見つめながら。
「残念、振られちゃったか。じゃあ、相談に乗ろうか。話くらいは聞いてやれるよ」
純粋な気持ちの中にほんの少しの下心を潜めて、也久は告げた。相談という形から始まる略奪愛は存外多い。ウブな小夜は知らなくとも、三十半ばの也久はそれを充分すぎるほど知っている。
「それも、お気持ちだけで」
「なんで? 同じ男として、彼の気持ちを代弁することができるかもしれないよ? 君、男の心理みたいなのわからないだろ?」
「そうですね。たしかにわたしは、人としても女性としても経験がたりません」
と小夜は眉を下げて笑った。
「それでも、也久さんは太志郎さん本人じゃありませんから。言いたいことは太志郎さんに言いますし、聞きたいことも太志郎さんに聞きます」
きっぱりとそう告げて、小夜は去っていった。泣きはらした目で、それでもまっすぐ前だけ見て。
*
「それは見事なくらいだったよ。小夜ちゃんらしいよね。強くてまっすぐで、一途でさ」
「……せやな」
「小夜ちゃん、なんだかんだ言ってガッツあるからねぇ。流先生は誤解してるみたいだけど、あの家で一番メンタルが強いのは小夜ちゃんだよ」
「おにいさんたちについてはよう知らんけど、小夜が強いのは確かやな」
ゆうべ、敵ですら怯むファットの怒気を、小夜は真っ正面から受け止めた。ファットは一般人に手をあげないという絶対的な信頼があるとしても、その腹の座り方は尋常ではない。
ずるい女は、諍いごとになると泣く。コトを有利に運ぶためにだ。ファットは根が優しいし情深い。だから女に泣かれると弱い。けれど小夜はそうしない。むしろ、ファットの前ではめったに泣かない。昨夜などはその強さが正直癇に障ったが、小夜の強さに救われている部分も、確かにあった。
「しかしまいっちゃうよな。悔しかったからちょっと意地悪してやろうと思ったのに、君は小夜ちゃんを信じ切ってる。小夜ちゃんは小夜ちゃんで君のことしか見えてない。君たちそんなに想い合ってるのに、なんでケンカなんかしてるのさ」
「ほんまになァ」
苦笑しながら、ファットは煙草をもみ消した。反して隣の也久が、二本目の煙草に火をつける。
「まあ、いいさ。詳しくは聞かないでおくよ。するんだろ、仲直り」
「するに決まっとるやろ」
「大事にしてやってくれよな。親友の妹なんだ」
「あんたに言われんでも、世界一幸せにしたるっちゅーねん」
そのために、今、しなくてはいけないことがある。
ファットが静かに立ち上がった。それを見た也久は微笑を浮かべ、紫煙を吐き出す。ゆっくりと。
「帰る前にひとつ教えといてあげようか。小夜ちゃんね、昔から憧れてる結婚セレモニーがあるんだよ。君、それ知ってる?」
「なんや、最後にまたマウントかい。そんなん知らんわ。せやけどそれも小夜の口から直接聞くよって」
「いいから聞いとけって」
そして童顔の医師は、笑いながら言葉を紡ぐ。ゆるりと紫煙を燻らせながら。
***
車に乗り込んですぐ、小夜に電話をかけた。とにかく、すぐに声が聞きたかった。
コールがなって回線がつながる。聞こえてきた「はい」という声に、ファットの心臓が跳ね上がった。
「もしもし、俺ぇ……」
堂々と話すつもりだったのに、口から出たのは引くほど情けない声で。
「太志郎さん?」
「せやせや」
小夜がぴたりと押し黙った。夜間の病院の駐車場はしずかで、どこかもの悲しい。晩秋の車内の空気は、冷たくぴんと張り詰めていた。
「太志郎さん……」
「小夜、俺な」
薄暗い沈黙のあと、ふたりの声が重なった。いつものふたりであったなら、互いに譲り合うところだ。だが、今日ばかりはどちらもそれをしなかった。
「わたしから先に」
「いや、俺から先に言わせてや」
そしてまた、互いの上に沈黙が流れる。けれど今携帯端末を通して互いの間に流れる空気は、先ほどのものよりも少し明るく、甘かった。
「たぶん、おんなじこと言おうとしとると思うんやけど」
「うん。……たぶん、そうだと思う」
「ほな、せーので一緒に言おか」
「……ん」
「せーの!」
そうして、「すまん」という低音と、「ごめんなさい」という声が重なった。
相手が何を言うかわかっていた。わかってはいたが、それでも言葉になるとやっぱり嬉しい。思わず顔に笑みが浮かんだ。
小夜も同じように、笑っていてくれるだろうか。
「ごめんね。ひどいこと言って……」
「いや、俺の都合に合わせてもろてたんはほんまやし、甘えすぎやとも思とったんや。あと途中で席立ってごめん。頭冷やしたらすぐ戻るつもりやってんけど、事件がおきてもうて、事務所戻ったら朝やったんや。ほんで五分だけと思てソファに座ったら、そのまま寝落ちしてもうた」
「そうだったの……お疲れ様。そんなに疲れてたのに、気遣いできずごめんね。わたし、昨日はちょっと情緒不安定になってたみたい……」
「なんで?」
不安になるには理由があろう。だが、小夜はすぐに答えなかった。辛抱強く、小夜、ともう一度呼びかける。
すると小夜は、あのね、と前置きをして、ゆっくりと語り始めた。
「先が見えなかったから……太志郎さんがわたしのこと好きでいてくれてるのはわかってる。すごく大事に思ってくれてることも。それでも、今の状態がずっと続いたら、って思ったら不安になっちゃったの。それに、太志郎さんはモテるから」
「いや、そないモテへんて。そらヒーローなんてやっとると多少はワーキャー言われることもあるかもしれへんけど、それはファットガムっちゅうヒーローに対しての声援であって、素顔の俺にむけられたモンやないねんで」
「そんなことない。モテるよ。太志郎さんはカッコいいもん」
おおきに、と小さく答えた。
確かに、カッコいいかどうかはまた別として、身に覚えがないわけではない。ファット自身は小夜以外に興味はないが、それでも特別な好意を示してくる相手は一定数いる。
「あんな、もしそやったとしても、俺には小夜だけやで。どんな女に言い寄られたかて、関係あらへん。俺は小夜だけがおってくれたらそんでええんや」
ほんまやで、とささやくようにそう告げると、返ってきたのは、うん、というちいさな声。
小夜の言いたいことはよくわかる。いや、さきほど也久と話をして、わかった気がした。
小夜のことを信じているし、愛されているのも知っている。それでも、小夜に言い寄る男がいれば面白くない。相手の姿が見えてしまえばなおさらだ。それは人が人であるがゆえに、そこに愛があるがゆえに起こりえる、小さなゆらぎ。
昨夜の小夜があんなにも不安定であったのも、おそらくはそういうことなのだ。
「ほんでな、先が見えへんちゅうとったけど、俺もいつまでもこのままでええとは思うてへんで。ああ、そか。これもっと早う言うたったらよかったんか。あんな、俺、一年は頑張ったろ思とんねん。来年の8月まで頑張って、ほんでもあかん言われたら……」
うん、と小夜がちいさくささやく。軽く深呼吸して、ファットはもう一度口を開いた。
「おとうさんと決別することになっても、俺んとこ来てもらえへんやろか。ほんで、俺と新しい家族を作ろ」
小夜は黙ったままだ。その理由はすぐにわかった。くすん、と鼻をすするような音が聞こえてきたから。
君はほんま、直接見えへんとこで泣くんやな、と小さく低く息を吐く。
「あー、もう。ほんまはいますぐそっち行って、小夜のこと抱きしめたいわ」
「……来る?」
「行きたいのはやまやまなんやけどなァ。相棒が個性事故にあってもうて。や、大事ないで。なかったんやけど、今夜はゆっくり休ませたろ思てな。俺がかわりに事務所待機になったんや。そんかわりちゅうたらなんやけど、明日会えへん?」
「……ありがとう。明日は夕方からなら大丈夫」
「昼、なんかあんの?」
也久の端正な顔が脳裏に浮かび、それは絶対ありえへん、と苦笑した。なるほど嫉妬というものは、こういう形でも忍び寄ってくるものなのか。
「父と会うの。わかってもらえるまで、わたしからもちゃんと話をしようと思って。今まで太志郎さんにばかり負担をかけてごめんね。何度も父の相手をしてくれてありがとう」
「そんなん気にすることないて。君のおとうさんやんか」
ありがとう、と小夜はちいさくささやいて、続ける。
「ちょうどこっちに来る用があるらしいから、明日の昼、シャイニングホテルのレストランでランチすることになってるの」
「豪勢やな。シャイニングホテルて、ランチは五組しか客入れへんとこやん」
「父の定宿なの。建物が好きなんだって」
シャイニングホテル江洲羽は、規模は小さいが国の重要文化財に指定されている歴史あるホテルだ。さすがに近年、耐震補強と最新式のコンピューターシステムによる防火対策がされてはいるが、アールデコ調の瀟洒で華麗な建物は、たいへん古い。
「あー、あそこの建物は確かにかっこええもんなァ。ほんなら明日は久しぶりに外で待ち合わせて、そのあとゆっくり飯でも食おか。昼フレンチやったら、夜は何がええ? 和食? それとも中華にしよか?」
「太志郎さんはなにが食べたい?」
「俺の希望やのうて、君の希望を聞いとるんやで」
「太志郎さんが食べたいものが食べたいな。一緒におでかけできるだけで嬉しいから」
君はほんまこういうとこなあ、と嬉しく思いながらも、そもそも二人で外食することすらも久しぶりであることに気がついた。気づけばここ二ヶ月ほどは家で会うばかりで、デートらしいデートをしていない。これでは小夜が不安になるのも当然だ。
「ほんなら、予約とかせえへんといて、街ぶらついて、よさげなとこあったら入ろか? そのかわり何件か店はしごすることになるかもやけど。ええ?」
「ん。いろいろ食べれてたのしそう」
「ほんまはな。俺も早く一緒になりたいねんで……いつも思とるよ、帰しとうないって」
うん、と答えた小夜の声は、耳がとろけるほどに甘かった。
とりとめのない会話を少ししてから、通話を切った。
次いでファットはポケットの中の煙草を、車内のダストボックスの中に放り混んだ。苦い煙草はもういらない。
なぜって、小夜は煙草味のキスを好みはしないだろうから。
***
鼻歌まじりに弁当四個をたて続けに平らげて、五個目の弁当に手を伸ばした。そんなファットガムの様子を見ながら、環が静かに口角を上げる。
「ちゃんと謝れたんだな。よかった」
「せやから、なんでそう思うんや」
「昨日のダメっぷりが嘘みたいだからさ」
「おまえ、ほんま最近生意気やで。ほんで、なんで俺が悪いの前提やねん」
弁当のごはんをすべて口の中に放りこみ、咀嚼しながらファットが嘯く。
だが確かに、環の言葉どおり今日のファットは絶好調だ。二日連続の夜勤からの日勤で身体は疲れきってはいたが、気持ちは充実しきっている。少しばかり脂肪と体重が減ってしまったのが気がかりだが、大きな事件でもない限り、これもなんとかなるだろう。
なにせ今夜は小夜と久しぶりのデートだ。小夜と一緒に街を歩いて、小夜の好きなスパークリングワインを飲んで、そしてそのあと、あんなことやこんなことも……。
むふふ……と思わず笑みをもらした。それを見た環があからさまな呆れ顔を作ったが、そんなことは気にしない。
五個目の弁当を完食した瞬間、聞き慣れた機械音が鳴り響いた。緊急出動要請だ。これがヒーロー事務所の日常。
しかし、次いでスピーカーから流れてきた音声に、ファットガムは手に取った六個目の弁当を取り落とした。
「十二時四十分。江洲羽警察署及び消防署より、近隣のヒーロー事務所に出動要請。
シャイニングホテル江洲羽にて火災発生。繰り返します。シャイニングホテル江洲羽にて火災発生。
最上階レストランの客とフロアスタッフが現場に取り残されているもよう」
「シャイニングホテル……やて?」
目の前の景色が、一瞬にして、すべての色を失った。
2021.10.23
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