給仕に案内されて座席に向かうと、窓際の席で専門書に目を通している父親の姿が見えた。ここシャイニングホテルの最上階の窓は、すべてが優雅な飾り枠で覆われている。細く繊細なアイアンでデザインされた装飾を通して差し込む光は、柔らかでやさしい。
「……お久しぶりです」
「座りなさい」
はい、と答えて席に着き、メニューをひらく。ランチのメニューは秋をテーマにしたコースだった。前菜にスープにメインが続き、最後にデザート。それぞれをひとつずつ選んで注文し、小夜はちいさく息をつく。
「本日はお時間をとっていただき、ありがとうございます」
「……ずいぶん他人行儀だな」
「大事なお話をするつもりで来ましたから」
「……豊満くんとのことかね」
「はい」
答えたタイミングで、給仕がドリンクを運んできた。といっても昼のこと、ワインではなく水である。すると父が小夜の手元のペリエを見て目を細めた。やさしく、そしてすこし、かなしげに。
「相変わらず炭酸が好きだな、おまえは」
そのまなざしに、小夜はかつての父を見た。厳しいところもあるが、基本的にはやさしいひとだ。多忙であまり家にはいなかったが、小夜は父が大好きだった。このひとの庇護の元で暮らしていたとき、小夜はたしかに幸福だった。
それでも、父親と決別することになろうとも、共に生きたいひとがいる。いま、そしてこれからの幸せは、そのひととでないと考えられない。
「……その話はメインディッシュが終わってからにしなさい。何を言いたいか、わかっているから」
常とは違う父の調子に、はいといらえる。
と、父は小夜の仕事についてたずね始めた。あたりさわりのない言葉を返しながら、小夜は運ばれてきた皿を見つめる。
前菜は白い皿の中央に美しく盛られた、サーモンマリネと秋なすだ。父の皿は真鯛のタルタル。
瀟洒なホテルに似合いの繊細なお料理を口に運びつつ、会話を続ける。
会社周辺の治安はどうだ。そうね、小さな事件がちょこちょこと……でも昨今はどこもそうでしょう? そうだな、うちの病院も小さな事件に巻き込まれた怪我人がしょっちゅう運ばれてくる。
次いで運ばれてきたのは、栗のポタージュスープだった。きれいな黄色。
この色は彼を連想させる。小夜はいとしい人を思い浮かべて、目を細めた。
と、その時、小夜は小さな違和感を覚えた。
店内に、あいたテーブルがひとつある。
「どうした?」
「テーブル空いてるの、めずらしいなあって思って」
このレストランはランチの予約を五組しか入れないことで有名だ。ゆえになかなか予約がとれない。テーブルがあいているのを、小夜は初めて見た気がする。
「直前でキャンセルが入ったのだろう。ごくまれにあることだ」
父はそうして、ミネラルウォーターをひとくち飲み、再び口を開いた。
おまえの家の周りはどうだ? 繁華街だから、それなりに。そうか、あの偏屈な男は元気かね? 偏屈? 不動産屋の社長とかいう男だ。ああ、分団長さんならお元気よ。
父との会話を続けながら、次いで運ばれてきた牛肉とキノコのフリカッセを口へと運んだ。鴨のローストをナイフで切りわけながら、父がつぶやく。
「……豊満くんはどうしている?」
小夜は弾かれたように顔を上げた。父から彼の話が出るとは思ってもいなかったからだ。
「事件続きだからな。多忙なのだろうと思っただけだ。といってもあの男のことだ。どんなに多忙でも、元気に笑っているのだろうが」
「……ええ。忙しいみたいだけど元気にしてる。それでも彼は相変わらず優しいの」
「……だろうな。そういう男だ」
「パパ……」
「……そんな嬉しそうな顔をするんじゃない。いいから食べなさい。料理がさめてしまう」
そっちから振ってきたくせに、と思いながら「はい」と答え、食事をすすめる。と、その時、入り口でちいさな騒ぎが起こった。
静かなレストランだ。ちょっとした音も意外に響いてしまう。それが興奮している声であればなおのこと。
どうやら予約ミスがあったらしい。レストラン側は予約が入っていない旨を丁寧にこたえていたが、客側は納得していないようすだった。
「一組分あいてるんだから、入れてあげればいいのに」
「本当に予約をいれているならいいが、そうでない場合は特例を作ってしまうことになるからな。即答できないのだろう。……だがこの場合は入れるだろうな」
父の言葉通り、結局のところレストラン側は客の言い分を受け入れた、というより、受け入れざるを得なかったようだ。このホテルではネットのみでなく電話でも予約を受け付けている。人的なミスがなかったとは言い切れないだろう。
直前にキャンセルがひと組出たのは、店側にとっても客側にとっても幸いだった。
新たな三名があいていたテーブルにつくと、レストランにまた静寂が訪れた。まるで、なにもなかったかのように。
小夜たちのテーブルにデザートとコーヒーが運ばれてくる。
コーヒーにミルクと砂糖を少しずつ入れ、小夜が本題に入ろうとしたその時、父が先に口をひらいた。
「小夜、少し気にならないか?」
「そうね……なんだか……煙い?」
小夜が応えた瞬間、フロアを揺るがす振動と共に衝撃音が響き渡った。慌てて音のした方を向いたその刹那、ばちばちばち、という音がして、照明が消える。
そしてどこからか、ものを燻したような臭いが漂ってきた。
「なに?」
次いで流れてきたのは、館内アナウンスの声。
「ただいま火災が発生いたしました。お客さまは係員の指示に従って避難してください。繰り返します、ただいま火災が発生いたしました。お客さまは係員の指示に従って避難してください」
小夜はごくりと息を飲んだ。
それはよく晴れた十一月の日曜日の、十二時三十一分のことであった。
***
そして十二時四十三分、ファットガムとサンイーターが現着する。
すでに警察と消防が到着し、消火活動が始まったところだった。建物のいたるところから黒煙が立ちのぼっている。
くそっ、と、ファットガムが太く低い声を漏らした。
「…………出火からまだ十分程度しか経ってへんはずやろ。それに最新式の防火システムはどないなっとんねん」
シャイニングホテル江洲羽はこぢんまりしているが歴史のあるホテルだ。アールデコ調の華麗な建物は八階建てで、国の重要文化財にも指定されている。
一階から三階までは吹き抜けで、ロビー、喫茶、テナントなどが入っている。四階は結婚式などで使われる大ホールが三つ。五階から七階は宿泊フロアで、八階は現在改装中の中小のホールと、レストランがある。
ホテルの建物そのものは大変古いものの、耐震補強と最新式のコンピューターシステムによる防火対策が施され、安全性には定評がある……はずだった。
「それが……火災発生と同時に、すべてシャットダウンしている状態です」
消防チームの言葉に、なぜや、とファットが小さくうめいた。しかもあの燃え方は尋常ではない。自然発火にしては燃え広がるのが早すぎる。
「火元はひとつではなく、一度にすべてのフロアから火が出たそうです」
「客の避難は?」
「三階以下の店舗の避難はすべて終了しています」
「この時間帯や、チェックアウトはあらかたすんどるやろ。宿泊フロアに残っていたのは連泊の客だけやな?」
「そちらもほぼ安否確認ができています」
「四階のホールは?」
「結婚式が二件おこなわれていましたが、さきほど全員の避難が終了したと連絡がありました」
「……その状況で、なんでレストランの客だけが全員取り残されとんねん!」
かっとして、切羽詰まった声が出た。結婚式の出席者より、レストランの客のほうがずっと数が少ないはずだ。
「八階の防火シャッターがすべて降りてしまっているんです」
「そんなん、手動の扉開けて出たらええやん」
通常、防火シャッターには人が通れるサイズの小さな扉がついている。万が一閉じ込められるようなことがあっても、その扉を手動であけて脱出できるはずだった。
「それが、防火シャッターの扉がすべて何者かによって溶接されていて」
「……なんでそないなことになっとんねん。や、聞くだけ野暮やな。この周到さ。計画的なテロ攻撃か……」
「おそらく……実は今日、最上階のレストランで、ある大物政治家が昼食を取る予定だったそうで……犯人はそれを狙ってのことかと」
(小夜……)
「しかも肝心の政治家は直前になって予約をキャンセルしたらしく……」
「なんやそれ! レストランの客は全員とばっちりかい!」
ぎり……とファットは歯がみした。
落ち着け、と必死に自分に言い聞かせる。焦りは禁物だ。まずは消防と連携して救出作戦をたてなくては。
私情はどうあれ、この場合ヒーローが優先するのは、八階の救助活動だ。煙と熱は上にあがる。おそらく最上階はたいへんなことになっていることだろう。
シャッターが降りている状態であっても、地下で発生した火災の煙が空調のダクトを伝って広がり、最上階の人間が燻されて亡くなった例が過去にある。
「八階フロアの防火シャッターは三カ所やな?」
二つはホール側にあり、もう一つは厨房とレストランフロアとの間にあった。そのため厨房スタッフは外の非常階段を使い、すでに全員が避難を完了しているとの話だった。
「レストランの窓ガラス割って、はしご車で中に突入でけへんのか?」
「八階の窓は特殊な強化ガラスでできている上に、すべてがアイアンの飾り枠で覆われています。飾り枠を撤去してから強化ガラスを割るより、シャッターを切った方が早いとのことです」
「ちゅうことは、八階は大階段の消火をしつつホールからレストランに向かう組と、非常階段から救出にむかう組に分かれたらええちゅうことやな。店内に残されとるんは何人や?」
「客が十一人、フロアスタッフが三人との情報が入っています」
「……予約五組しか入れへん店のスタイルに助けられたな。や、政治家がキャンセルしたから四組か……環、おまえ、いっぺんに何人運べる?」
「四人だ」
「そうか。俺は十人や……」
本来ならばもう二、三人運べるが、徹夜続きで痩せてしまったせいで今は十人が精一杯だ。だが合計十四人であれば、ギリギリなんとかなるだろう。
作戦はすぐに決定した。
外の非常階段を使っての救助はレストランと非常階段をつなぐ壁を破壊できるパワーと救助者全員を抱えて動ける機動力から、ファットガムとサンイーターが選ばれた。このふたりであれば、いざとなったら八階から飛び降りることも可能だ。片方は脂肪で落下時の衝撃を吸着し、もう片方は空が飛べる。
改装中のホール側からの救助はポータブルCAFSを背負った消防隊が消火活動をしながらヒーローと共に救助に向かい、七階から下ははしご車とポンプ車で消火しつつ、建物内に取り残された人がいないかヒーローが捜索をおこなう。
「行くで!」
ファットガムの巨体が、アールデコ様式の螺旋階段を一気に駆け上がる。華奢なアイアンのきざはしが、BMIヒーローの体重を受け止め、悲鳴のような軋みを上げた。
***
レストラン内に閉じ込められた人々は、灼熱の地獄の中にいた。
エレベーターは止まっている。屋外と建物内にひとつずつある階段は、どちらも閉ざされたシャッターの向こうだ。頼みの綱である防火シャッターの扉が溶接されていることに気づいた瞬間、人々は自分たちが閉じ込められてしまったことを悟った。その瞬間、ある者は泣き、ある者は叫び、ある者は顔を覆った。
室内の気温は、すでに耐えられないくらい高くなっている。
彼らを苦しめているのは熱だけではなかった。
空調ダクトからじわじわと黒煙が忍び込み、上部に滞留し始めている。一酸化炭素を多分に含んだ煙だ。吸い込んだら最後、あっという間に一酸化炭素中毒に陥ってしまうだろう。
苦しい、と小夜は内心で呟いた。
けれど、正面にいる背の高いスタッフのほうが苦しそうだ。非常口に向かった際、誘導のために声を上げ続けていたせいだろう、彼は煙を吸ってしまっていた。いち早くそれに気づいた父がすぐに彼を横にならせたが、酸素が減りつつあるこの室内ではそれ以上の処置はできない。
火災による死亡原因で最も多いのが、一酸化炭素による中毒死である。
(太志郎さん……)
ファットガムの姿が脳裏に浮かぶ。大きな心と大きな身体で人々を救ける、小夜の大切なひと。
今まで深く考えず彼を送り出してきたけれど、彼を待つ人々はこんなにも心細い気持ちであったのかと、小夜は初めて思い知った。
ヒーローという仕事の尊さと、そしてそのほんとうの重みも。
(はやく……救けにきて……)
心の中で呟いて、小夜はぎゅっと目を閉じた。
***
「狭っま!」
華奢なアイアンの非常階段は、ファット一人が通れるギリギリの幅しかなかった。これでは、要救助者を吸着させた状態で階段を降りるのは無理だろう。階段のほうがおそらく持つまい。今の体重でさえ、キイキイと軋みをあげているくらいなのだ。
(それぞれで歩いてもらうか、最悪、全員抱えて飛び降りるしかあらへんな……)
個性で衝撃を殺せるとは思うが、念の為、下にはエアマットも用意させた。まだ脂肪を燃やし尽くすわけにはいかない。他のフロアの救出に向かう可能性もあるからだ。
宿泊客も含めた全員の無事が確認できるまで、脂肪はできる限り温存しておきたい。
「ファット!」
八階の非常扉にファットが手をかけた瞬間、異変に気づいた環が叫びを上げた。彼が続きを告げるより早く、ファットが扉を開き、環を抱えて建物内部に飛び込む。
同時に、扉の向こうで爆音と共に火柱があがった。ファットは環を抱えたままごろんごろんと床を数回転がって、「熱っつ!」と叫んで、立ち上がった。
六階の非常扉が爆発したのだ。熱と煙は上部にあがる。一通り煙と炎がおさまったのを目視して、ファットは扉から頭を出して階下をのぞいた。予想通り、六階部分の階段がはじけ飛んでしまっている。これはもう、飛び降りるしかないだろう。
そして二人はあらかじめ確認しておいたもっとも薄い壁の前に立ち、叫んだ。
「ファットガム事務所や! 救出に来たで!」
「これから壁を破壊しますので、少し離れてください!」
はい、という返事が聞こえてきたので、ふたりは壁を破壊する。大きな拳と牛の蹄で。がらがらと音を立てて崩れ落ちる瓦礫の向こうに、ファットがもっとも守りたいと願う女がいるはずだ。
「ファットガム!」
「サンイーターも!」
二人のヒーローの登場に、救助を待っていた人々が歓喜の声をあげる。
同時に小夜とファットの視線がからんだ。小夜から不安そうな表情が消え、みるみるうちに笑顔へと変わる。
よかった無事や、と笑みを返しかけたその瞬間、ファットはちいさく息を飲んだ。
「ファット……」
「……せやな……」
状況を瞬時に悟った環が、ファットを見上げる。優秀なインターン生に応じた声は、自分の口から出たものとは思えぬほどに、ひどく掠れて弱々しかった。
要救助者が、17人いる。
これは火災発生直前に入店した三人が、ホテル側の予約者リストになかったからだ。
(どないする? いつもの身体やったら、あと三人くらいならいけたかもしれへん。せやけど今はどない頑張っても十人がいいところや)
ファットガムは己の限界を経験で知っている。むろんこれが戦闘であったなら、無理を通した。
だがここは失敗が許されぬ救助の場だ。無茶をして、救けられるはずの十人を死なせるわけにはいかない。
「あー、こちらファットガム。すぐこっち向かえそうなヒーローはおるか?」
パーカーにつけたインカムで、ホール側のヒーローに連絡を取った。相手も意図を悟ったのだろう。トラブルか、と即座に返してきた。それに、三人オーバーや、と静かに答える。
「了解。すぐ向かう!」
「どんくらいかかる?」
「もうすぐひとつ目のシャッターが切れる。五分、いや、三分で行く」
「頼む」
と、告げてインカムを切った。
ファットガムは一度目を閉じ、そして口唇をひらく。つらい言葉を紡ぐために。
「申し訳ないが、一度に運べるのは十四人までです。つまり、三人の方にここにとどまってもらうことになります。……大丈夫。ホール側からの救助隊がこちらに向かっとりますんで……」
救助を待っていた全員が息を飲んだ。そして彼らの視線のほとんどが、そのまま三人のスタッフへと移動する。たしかに定石であれば、スタッフは自らの安全よりも客の避難を優先せねばならないだろう。そして定石通り、二人のスタッフが、自分が残ると声を上げた。
残るはあと一人だが、ことはそう簡単ではない。
最年長らしきスタッフの顔色が、明らかに悪い。おそらくは煙を吸い込んだのだろう。あの状態では置いてはいけない。
だが彼は、力を振り絞って自身の責務をまっとうしようとした。
「……私も…………残ります」
「お言葉とてもありがたいのですが、我々は体調が悪い方を優先せねばなりません」
環の言葉に、ファットはうんとうなずいた。
そう、それがセオリーだ。環は正しい。そしてこの場合のレスキューで、セオリー、定石と言われることがもうひとつある。
(……言わなあかん)
ただ一言が、今まで築き上げてきたすべてを壊してしまうことがある。その言葉の前と後では、まったく世界が変わってしまう。そんな言葉があることを、ファットガムは知っている。
おそらく、これから自分が小夜に告げる言葉は、そういうものになるだろう。
現場に救出にきたヒーローの身内がいた場合、救助は最後にまわされる。それがヒーロー社会における、レスキューの鉄則だった。
これについては、小夜にも一度伝えたことがある。中央突堤で、沈む夕陽を眺めながら。
(せや。それが鉄則や――せやけど……)
ファットは迷った。
そもそも恋人は近しい知人ではあるけれど、法的には身内ではない。
(いや。心情的にはすでに小夜は俺の嫁や。そこをごまかすことはできひん……)
ならば言わなくてはいけない。だがそれを告げるのは怖い。未だかつてないくらいに。
これで二人の関係が壊れてしまうのなら、それはしかたのないことだ。これから告げる言葉は、それだけ重いものだから。
けれどファットが心配しているのは、そういうことではなかった。
(俺の口から残りぃ言われた小夜は、どないな気持ちになるやろか……)
これから告げる言葉は、小夜の心を深く傷つけ、絶望させることだろう。ファットはそれが、なにより怖い。
「どなたかもうお一人、ここに残っていただけないでしょうか? 先ほどファットが言ったように、反対側から救助隊がこちらに向かっています。すぐに後続のヒーローが到着するはずです」
要救助者とファットを交互に見ながら、環が言った。
そうだ。今は私情を交えず、一刻も早くここから人々を救出せねばならない。これだけの熱と煙だ、早く言わなければ。けれど――。
だがその時、立ち尽くしたまま逡巡しているファットガムの耳孔に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「わたしが残ります」
ファットは弾かれたように声の主をみやった。この声の主を、自分が違えるはずはない。
「わたしは、ファットガムの身内ですから」
ね、と、小夜が艶然と微笑んだ。
その瞬間、ファットの足元から頭までを、一気に震えが駆け抜けた。
(笑いよった……)
「あんた、ファットの身内やったんか?」
「はい。ですからわたしが残ります。ヒーローの家族は最後。そうでしたよね、太志郎さん」
(こいつ……この状況で笑いよった……)
ファットと小夜の視線が絡まる。
「……せや……」
「豊満くん! 小夜を見捨てる気かね? それに私はまだ君たちの結婚を許してはいないぞ!」
「お父さんは黙ってて。なんと言われても、わたしの心はすでにファットガムの妻です。それに太志郎さんはわたしを見捨てたりしない。もしも後続のヒーローが到着できないようなことが起きたとしても、必ず救けに来てくれる」
だから大丈夫、と続けて、小夜は再びファットに向かって微笑んだ。
(おまえ、なんでこないな状況でそないなこと言えんねん……なんで笑えんねん……)
けれどその理由を、本当はファットも知っている。
小夜は力もない、身体もない、個性も弱い、戦えず己の身すらも守れない。
だがこの女の心には、決して割られぬ盾があり、決して折られぬ矛がある。
そんな女だからこそ、ファットは小夜を愛したのだ。
「よう言うた! さすが俺の嫁や!」
身を切られるよりも胸が痛い。心が燃え尽きてしまいそうなほどつらい。
けれどもヒーローとして、今はこう告げるよりほかはない。
「必ず救助は来る! ……せやから、ここで待っとけ!」
「はい」
「では私も残るぞ」
立ち上がった父親を見て、小夜がしずかに告げる。
「太志郎さん。父は若く見えますが、来年七十歳になる高齢者です。先に救出をお願いします」
「任せとき!」
いらえると同時に、ファットは小夜の父親の腕を掴んで、腹の中に吸着させた。そして自身の周りに救助者を集め、抱え込む。
「おいやめろ、私も残ると言ってるんだ」
「じゃかあしい!」
抵抗し、暴れる小夜の父に向かって、ファットガムが吠えた。
「ここは救助の現場、俺の領域や! 大事な娘助けたかったら、ガタガタぬかしとらんと黙ってプロの指示に従わんかい!」
小夜の父を脂肪でぎっちりと捕まえたまま、ファットは声を張り上げる。
「サンイーター、行くで! スタッフのお二人も待っとってください!」
そうしてファットガムとサンイーターは、十四人を抱え扉の外へと飛び出した。
***
地上では懸命の消火活動が繰り広げられていた。
すでに救急車数台と市立大学病院のドクターカーが待機している。救助した人々をそれら医療関係者に託し、ファットは建物を見やった。
消火は続けられているが、いまだ火の手は収まらない。むしろ上階の延焼は先ほどよりも激しくなっているように見える。
と、その瞬間、八階から激しい火柱があがった。アイアンの窓枠が吹き飛び、粉々になった強化ガラスが地上へ降り注ぐ。
「八階救助チーム。応答せよ。なにが起きた!」
「二次爆発です。衝撃で柱が倒れ、奥への入り口を塞いでしまいました。これから柱の撤去にかかりますが、少し時間がかかるかもしれません」
「……なんやて……」
インカムから聞こえてきた声に、ファットが目を見開いた。そこに追い打ちをかけるような声が続く。
「まずいな……ホールの燃焼はまだ続いていたはずだ。その状態で中が密室状態になったら……」
密封状態になった部屋の中では、炎が凄い勢いで中の酸素を消費しているはずだ。酸素が減ることによっていったん炎は収まるが、逆にそれがやっかいな状況を作り出す。
柱を撤去し扉を開けた瞬間、急激に流れ込んだ酸素が炎に触れ、爆発にも似た延焼がおきるだろう。俗に言うバックドラフトだ。
それだけではない。二次爆発がおきたくらいだ。中はかなり危険な状態になっているに違いなかった。改装中のホールは資材だらけで、引火したら危険なものも数多くある。
(小夜!)
ファットは口を引き結び、大きな一歩を踏み出した。向かうはホテルの入り口だ。非常階段はもう使えない。大階段を通りホールを抜け、レストランを目指すしかない。
「ファットガム、どこへ行く! 中は危険だ」
「俺が行かんでどないすんねん!」
止めようとするいくつもの手を振り払い、ファットが叫んだ。非常階段側は六階から出た炎が再び強まっている。三人ならば環一人でも救い出せるが、あの炎では空からの救助はできまい。熱は上部にあがるものだ。
「待て、すぐに別のルートを探索する!」
「それじゃ間にあわへん。空気呼吸器だけよこせ!」
ファットはボンベを肩にさげ、再び建物を見上げた。八階からは激しい炎と黒煙が上がり続けている。ふたたび歩を進めようとしたファットのパーカーの裾を、環がつかんだ。
「俺も行く!」
「おまえは来たらあかん」
「見くびらないでくれ、俺はもう一人前だ」
「ちゃう。おまえにしかできひんことがあるんや。そっち任せてもええか?」
「俺にしかできないこと?」
「せや」
と、ファットが続きをささやいた。それに環が無言でうなずく。
「よっしゃ、行くで」
ファットガムは巨体を揺らし、ふたたび炎の中へと飛び込んでいった。
2021.10.29
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