八階まで一気に駆け上がり、ファットガムは空気呼吸器の面体を装着した。ファットは身長が高く、そして煙は上部に溜まる。一酸化炭素中毒になったら、ミイラ取りがミイラになってしまう。
自らのヒーローコスチュームがじりじりと焼かれるのを感じながら、ファットは炎の中を先へと進んだ。身体中のどこもかしこもが熱かった。だが、そんなことを気にしている時間はすでにない。
急げ、と心は逸る。一刻も早く、救助を待つ人たちの元へと。
防火シャッターに開けられた、ファットにとっては狭いその穴をどうにかこうにかくぐり抜け、また先へ。
と、黒煙うずまくその先に、救助隊の面々が太い柱を前に苦心している姿が見えた。彼らが撤去したのだろう、柱のまわりには、崩れてきたとおぼしき資材がいくつか積み上げられている。
これは難儀しただろう、とファットは思った。
救助に当たったメンバーは、狭所での救出を想定して選ばれた小柄でスピーディなタイプばかりだ。
「ファット!」
煙塵のなか駆け寄る巨躯に気づいたヒーローの一人が、歓喜の声を上げた。
「自分らちょおさがっとき! この柱どかせば終いやな?」
直径一メートルほどもある柱だ。このサイズなら、自分ひとりでやったほうがおそらく早い。そう判断したファットは、白い漆喰に塗られた柱を両の腕でがっちりと抱え込んだ。
(熱っつ!)
抱えた瞬間、じゅうう、とコスチュームとグローブが焼ける音がした。だが、この炎の向こうで助けを待っているひとたちは、もっとつらい思いをしているはずだ。
だからファットは抱えた腕に、よりいっそうの力を込めた。急激に加えられた不可に耐えかねて、細かな筋繊維がぶちぶちと切れる。
「だりゃぁぁ!」
かけ声と共に、巨大な円柱を背後へうっちゃる。
数秒おいて、柱が床にぶつかる衝撃音と振動が、周囲に響き渡った。
すかさず救助メンバーが観音開きの扉に近寄り、そして息を飲んだ。
彼らの目は見た。閉ざされた扉の隙間から這い出る黒煙を。そして耳は捕らえていた。扉の向こうから聞こえてくる、微かな風切り音を。
密室状態の部屋の中で、火は酸素を消費しつくす。炎は少しでも酸素を得ようと、わずかな隙間から空気を取り入れ、煙を逃がす。これはバックドラフト現象の兆候のひとつ。
「悪いんやけど、誰かこっち側の扉開けてくれへん? わかっとると思うけど、開けたら一気に炎吹きだしてくるから、開けた扉が自分らの盾になるよう壁にはりついとるんやで」
一切の躊躇も見せず、ファットが静かに告げた。
すでに覚悟はできている。
この扉の先は火の海だろう。けれどここを突っ切って、改装中の薄い壁をぶち壊してしまえば、レストランの入り口に辿り着く。もうひとつあるシャッターを切って進むより、よほど早いはずだ。
「ファット…おまえ」
「そうや。俺が行く」
「危険だ。炎に強い個性の俺たちが……!」
「いや。ここは俺が行かなあかんとこやろ。こっから先は火の海や。救助者抱えて来た道戻るのは無理がある。それやったら、俺が三人抱えて飛び降りるのがいっちゃん早い」
「だけど……それではファットが……!」
「ええから開けんかい!」
救助隊の一人が大きくため息をついて、観音開きの右扉に手をかけた。こうなったときのファットが絶対に譲らないことを、彼は知っていたからだ。
対するファットは左側の扉の前に立ち、小さくうなずく。それを合図に、救助隊員がホールの扉を一気にあけた。
ごう、という爆音と共に、噴き上がる炎。それは爆発に近い炎上だった。
一気に吹き上がった炎は暴れ狂う龍のように、扉の表面を、天井を、床を、赤黒い舌で舐めつくす。
紅蓮の焔は少しのあいだ扉の周りで猛威を振るい、そして少しずつ威力を弱めていった。
しかし火勢が弱まったのは、空気の出入り口となり、一時的に爆発的な炎上を見せた扉周りだけのこと。ホールの中は、依然として激しく燃え続けている。金赤に輝きながら広がる炎は、俄然勢いを増すばかりだ。その中にぽつりぽつりと見える黒い塊は、焼け落ちた資材の残骸だろう。
この中に飛び込んで行くのは、狂気の沙汰だ。
だが、ここをいかねば間に合わなくなる。
「ほんじゃ、いったるか!」
ファットガムは巨体を揺らして、炎の中に飛び込んだ。
***
壁の向こうから、爆発音が響いた。
建物全体が揺れるほどの衝撃に、クローク側の天井ががらがらと崩れてゆく。粉砕された天井の破片がレストラン内を舞ったが、それを不快に思えるほどの余裕はなかった。室内にはすでに黒い煙が充満している。全員床にうずくまり、できるだけ身体の位置を低くしているが、煙に巻かれるのはもう時間の問題だろう。
(――怖い)
小夜はハンドタオルを口元にあてながら、きゅっと目を閉じた。
すぐに来るはずの救援が、いまだに来ない。それがどういうことか、この場にいる三人すべてが理解していた。
爆発音は改装中のホール方面から聞こえてきた。消防及び救助チームのいる方向だ。おそらく、なんらかのトラブルがおきたのだ。
『もしも後続のヒーローが到着できないようなことが起きたとしても〜』
数分前の自分の言葉を思い出し、小夜は思わず眉を寄せた。残ることに不安はないということを強調しかっただけなのに、それが現実になってしまった。
(言霊ってほんとにあるんだなぁ。気をつけよう……)
あの時、小夜が自分から残ると言ったのは、自己犠牲の精神からでも、ファットガムの立場を守りたいからでもなかった。結果的には同じことなのだが、あの時の小夜は、ただ単純に、あれ以上彼を苦しめたくなかった。それだけだった。
救助におけるヒーローの鉄則を、小夜はファットから聞かされている。トパーズを溶かしたような夕陽を浴びながら、金色の髪のやさしいひとは言ったのだ。
『俺が一番助けたい、守りたいと思ってるのは君や。他の誰より、君のことが一番大事や。せやけど、もし救助現場に君がいあわせて、ケガひとつない状態やったら、やっぱり俺は君の救助を最後にする……ちゅうか、そうせなあかん』
あの苦しげな声が、忘れられない。
あの時小夜は思ったのだ。救助を後回しにされた方と、それを決断した方とでは、いったいどちらがつらいのだろうかと。
そして小夜は答えを出した。そういったことがもしも自分たちの上に起きたとき、より苦しむのは後者、すなわちファットガムだと。
たとえそれがヒーローとしての鉄則だとしても、君が残れと告げたが最後、ファットガムはそうした自分を責めるだろう。知っている。そういうひとだ。
だからあのやさしいひとに、そんな選択をさせることだけは絶対にしない。もしもそんな日が来たならば、弱音は吐くまい、不安な顔も絶対すまい、笑顔で残ると告げるのだと、小夜はそう心に誓っていた。
室内の温度はじりじりと上がり続けている。火の手が上がっていないこの部屋でこれだ。シャッターや壁の向こうは、どれほどだろうか。
(それでも、ぜったい、彼は来る)
それは希望でも予想でもなく、確かな信頼。
どんな危険が待ち受けているとしても、ファットガムは絶対に来る。だから小夜は、これから先同じようなことが起きたとしても、何度でも「わたしは最後で」と言うだろう。
たとえ、どんな現場であっても。
***
暗赤色の龍の舌を思わせる激しい炎が、べろりとファットの身を舐めた。すでにコスチュームのあちこちが焼け落ち、背中側からは煙までもが出始めている。
けれどもう、痛みも熱さも感じなかった。
この火の向こうに、小夜がいる。
レストランの中はいま、どれだけ熱いだろう。取り残されるということは、どれほど怖く、心細いことだろう。
ファットガムとつきあってさえいなければ、小夜は間違いなく、あの時救け出されていたはずだった。
小夜は静かに笑っていたが、怖くなかったはずがない。
その証拠に、ファットが現場に辿り着いたとき、小夜は安堵の表情を見せた。あの時小夜は、助かったと、心の底から思っただろう。
(それなのに、俺はあいつに残ると言わせてしもた……)
ファットガムが躊躇していることに、小夜はおそらく気がついた。だからこそ、小夜は恐怖を表に出さずに笑んだのだ。
「あなたは絶対、誰にも負けない」
そう言ってくれたあの時と同じように、本心を押し殺して。
(ほんまやったら、残ってくれと俺が頭を下げなあかんかったんや)
ヒーローというのは因果な商売だ。
休みの日でも呼び出しがある。食事の時も、デートの時も、寝ている時ですらそうだ。
そこに救けを求めているひとがいるなら、なにがあっても救けに走る。ヒーローというものは、そういう存在でなければならない。
そして、己の身を削るように人々の為に日々戦い続けているというのに、もっとも大事な人間と救助の場で鉢合わせた場合、身内の救助は後回しだ。
もちろんそのまま置き去りにするつもりはない。たとえなにが起ころうと、命に代えても、かならず救ける。
だが置いて行かれたほうの身になってみれば、これほど哀しいこともないだろう。
小夜の父が、ファットと小夜の結婚を反対している理由もよくわかる。
(けど……ほんでも……)
その時、うねりを上げて火柱があがった。噴き上がる焔に焼かれた天井が、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。
前方に飛び込み、間一髪で落ちてくる瓦礫をよけた巨体は、ごろごろと炎熱の床上を転がって、そして再び立ち上がった。
(ほんでも、俺はおまえと一緒に生きたいんや!)
まったく、偉そうにヒーローなどと名乗っているが、自分はとんだエゴイストだ。
ヒーローをやめるつもりはない。災害時にも、おそらく一緒にいてはやれない。救助の場にいあわせれば、おまえの救助を後にする。また怖い思いをさせるかもしれない。心配をかけ、泣かせることもあるかもしれない。
それでもおまえを手放せない。それでもおまえと一緒にいたい。
こんな男のわがままを、おまえは許してくれるだろうか。
(そのかわり、ヒーローやない時の俺のぜんぶをおまえにやる。この身体も心も、俺のすべてはおまえのもんや! 俺はおまえがそばにおってくれたらそれでええ。これから先、愛する女はおまえひとりや!)
黒煙と紅の炎渦巻くその先に、改装のために作られた壁が見えてきた。あの壁の先に、小夜がいる。
ファットが空気呼吸器の面体をはずして吠えた。
「この壁壊すぞ! 離れとき!」
***
壁の向こうから聞き覚えのある声が響いた。それは小夜が待ち望んでいた、少ししゃがれた低い声。
数秒おいて、クロークの向こうにある壁が砕けた。間髪おかず、丸い巨体が飛び込んでくる。
「遅なってすまんな!」
いいえ、と応えたつもりだったが、それは言葉にならなかった。だから小夜は黙って首を振った。
壁の向こうでは、炎の渦が轟音を立てながら周囲を燃やしつくしている。あの炎をくぐり抜け、このひとはここに来てくれたのだ。
すばやくファットが持っていた呼吸器の面体をスタッフたちに装着し、酸素を吸わせた。次いで二人を身体に吸着させて、空いた手で、小夜を引き寄せ抱き上げる。
その瞬間、小夜はぎくりと身体をこわばらせた。
(あつい……)
自身を抱きしめているその腕が、焼けるように熱かった。
見れば、ファットのコスチュームである黄色いパーカーの大半が焼け落ち、上半身のほとんどがむき出しになってしまっている。かろうじて残っているのは、フードと肩のまわりだけ。
(熱いのは手だけじゃない……胸も……肩も……首も……顔も……)
触れているファットガムの、身体すべてが熱い。同時に小夜は、ファットの身体から立ちのぼる、焦げ付くような匂いに気づいてぞっとした。
ファットガムのコスチュームで、最も重要視されるのは伸縮性。
布地の伸縮性を生かすために、耐火性と耐熱性を落とさざるを得なかった。だから普通の衣服よりは燃えにくいという、その程度の耐火性しかない。
そしてファットガムの個性は脂肪吸着。彼は人や衝撃を大きな身体に吸着し沈める強固な盾であり、蓄積した衝撃をもって反撃すれば強力な矛となる。だが、それだけだ。
熱に強い個性ではない。炎を相殺できるわけでもない。
これほどコスチュームが焼けていると言うことは、彼の全身はひどい熱傷を負っているはずだった。
それなのに、炎の中を彼は来た。誰よりも速く。
「苦しかったろ。新鮮な空気吸うてや」
自身が先ほどまで使っていたのであろう呼吸器の面体を、ファットが小夜に装着した。彼が持っていたボンベと面体は三組。つまりもう、ファットガムの分はない。
(だめ、これはあなたが――)
小夜は面体をはずそうともがく。すかさず大きな手が伸びて、それを阻んだ。困ったように、ファットは笑う。
「ちゃんと着けとかなあかんよ」
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
どうして、こんなになってまで、このひとは――。
「怖い思いさせてすまんな。もう大丈夫やで」
涙の理由を勘違いしたであろうファットガムが、すまなさそうに小夜の頭を撫でる。
焼けてただれてボロボロになってしまった、彼のグローブの感触。
ちがう、と言おうとしたが、またしてもそれは声にならなかった。しかたなく小夜は泣きじゃくりながらファットの腹に顔をうずめ、そして異変に気がついた。
腹の脂肪が、常と比べてずいぶんと薄い。
(痩せてる……?)
一度目の救出で飛び降りた時の衝撃か、それとも炎に炙られたせいか、ファットガムの脂肪はずいぶん減ってしまっている。
このまま飛び降りたとして、彼は抱えた三人の体重と自重によって生じた衝撃を、相殺することができるのだろうか。
小夜が気づいたくらいだ。ファットにもそれは充分すぎるほどわかっているはずだ。けれどこのひとは、絶対に要救助者を離すまい。自分の身体をクッションにして、小夜を含めた三人を守る。そういうひとだ。
(……だめ……)
ヒーローにもっとも必要なのは自己犠牲。最初にそれを言ったのは、果たして誰であったのか。
自己犠牲を掲げ生きてきたかつてのナンバーワンがどういうことになったのか、今この国で知らない者は一人もいない。逞しく隆起した筋肉は失われ、その姿は立ち枯れた柳のよう。臓器を失い、呼吸器をやられ、その事実をひた隠しにしながら戦ってきた平和の象徴。
たしかに彼は、オールマイトは立派だ。彼がいてくれたからこそ、この国の平和は保たれてきた。すべての平穏は、かの人のおかげだ。
けれど本当は、ヒーローが己の身を犠牲にすることを、推奨してはいけないのだ。
ヒーローは、自らの安全を確保した上で、人を救ける。それこそが正しい道でなければならない。なぜなら救けられる人も、そして救けるヒーローも、等しく人であるのだから。
それでも小夜がどう思おうと、ファットガムは、いや、総じてヒーローと呼ばれる人たちは、己の身を削り、命をかけて人々を守る。
ファットガムが三人を腹に沈めたまま、窓の飾りを掴んだ。熱煙にさんざん炙られていた鉄だ。じゅうう、と、グローブと彼の手のひらが焼ける音が響いた。
(太志郎さん!)
小夜の表情を読んだであろうファットガムが、にかりと大きな笑顔を見せる。
「ああ、大丈夫や、心配ないで。さっき使た非常口な、六階から出た火がちょお強なっとって、あそこからはもう飛べへんのや。この窓割って飛び出すさかいに、ちょっとだけ待っとってな」
そしてファットは一息に内側の飾り枠を引きちぎり、窓から取れるだけの距離を取った。
レストランの窓は特殊強化ガラスだ。しかしファットガムは、自分の全体重をかけた渾身の体当たりであれば割ることができると判断したようだった。
とん、と一度軽く跳躍し、ファットが床を蹴った。丸く大きな身体が、信じられない速度で窓までの短い距離を駆け、そのままガラスに激突する。
ぴしり。
厚いガラスに一筋の亀裂が入った。絹糸のように細いそれが、蜘蛛の巣のような放射線を描きながら、窓一杯にひろがっていく。
次いで透明感のある破裂音とともに強化ガラスが砕け散った。ガラスの向こうで窓を流麗に飾り立てていたアイアンの装飾が、枠ごと外れて宙を舞う。
その時すでに、ファットの身体は空中へと飛び出している。彼はガラスに激突したときと同じように巨体を丸めて救助者たちを鋭利な破片から守りながら、その身を天空に向けてくるりと反転させた。
その刹那、上から若い男の声が響いた。
「二名、引き受けます!」
「任せたァ!」
応じながら、ファットがスタッフを拘束していた吸着をゆるめる。すかさず伸びてきた蛸の足が、スタッフ二人の身体を絡め取った。
「タイミングも位置もどんぴしゃやん!」
ファットの声に無言のままで、白いマントを翻し太陽を背に羽ばたくは、
「かぁっこええ! さすが雄英ビッグスリー!」
「……やめろ!」
「いや、ほんま助かったわ」
鴨の翼で宙を飛ぶ青年に向け、ファットガムが笑顔を見せる。そして彼は、小夜にやさしく囁いた。
「小夜、一緒に落ちるで。着地の時にちょお衝撃くるかもしれへんけど、おまえのことは俺がちゃんと守ったる。安心しとってな」
こくりとうなずき、小夜はファットの腹にふたたび顔をうずめた。小夜を抱きしめる腕に、きゅっと力が込められる。
そしてファットガムと小夜は、共に地上へと落下していった。
2021.11.5
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