カリヨン響く花園で

 ばいん、というやや間の抜けた音と共に、小夜とファットは地面に激突した。ところが驚くべきことに、小夜はほとんど衝撃を感じなかった。ファットガムが衝撃を吸着してくれたからだ。
 このあとなにが起きるか知っているヒーローたちが即座に駆け寄り、小夜をファットから引き離す。

 そして数秒の後、轟音と共に地響きがして、ファットガムの身体が大きく膨れあがった。衝突時に生じたエネルギーの解放だ。一拍おいて炸裂したエネルギーの塊に、砂塵が舞い、アスファルトの欠片が吹き上がる。小爆発と表現するのがもっとも近いであろうそれがおさまった後、煙塵の中から一人の偉丈夫が現れた。
 それは脂肪を燃焼しつくした、低脂肪状態のファットガム。

 ファットたちより少し遅れて、スタッフ二名を抱えた環が地上へと降り立つ。救急隊と市立大学病院の医療チームが、ファットと要救助者に駆け寄った。

「俺はええねん!」

 吠えながら立ち上がり、歩を進めようとしたファットガムは、しかしがくりと膝をついた。ヒーローコスチュ―ムのパーカーは焼け落ち、グローブやブーツの一部は溶けている。全身に火傷を負った満身創痍のヒーローは、よろめきながらも再び立ちあがった。手を貸そうとした救急隊員の手を振り払い、彼はまた叫ぶ。

「俺はええちゅうとるやろ!」

 よろめきながらも、ファットはなんとか小夜のところまで辿り着いた。彼は両手で小夜を抱え込み、低くちいさくぽつりと呟く。

「堪忍なぁ……怖かったやろ……」

 ううん、と首を振った。だってあなたは来てくれた。こんなにたくさん傷を負って。

 本当にファットはひどい状態だった。火傷だけでなく、体中のいたるところから血が滲んでいる。小夜はおそるおそる手を伸ばした。
 不思議なことに、かつてあれほど恐ろしかった血が、今は少しも怖くなかった。

「……大好きよ」

 心の底からそう呟くと、ファットはちいさくうなずいて、琥珀色の瞳から大粒の涙を落とした。

「おまえになにかあったら……俺、生きていかれへん」

 わたしも、と思いながら、小夜はファットの頬に触れた。常とは違う、ごつごつした頬。このひとは、優しくて、強くて、そして涙もろい。小夜の大事なたったひとりの愛しいひとだ。
 と、ファットが涙をぐいと拭って、再び吠えた。

「お医者さん、救出した三人、早よ診たってや! ドクターカー来とったはずやろ!」
「うん、来てるから。ちょっと診せてくださいね」

 そこに登場したのは見知った顔だった。接地也久、市立大学病院の救命医。彼はまず、ファットの前でかがみ込んだ。

「ちょお待ちぃ! 民間人から先に診ろ言うとるやろが!」
「どう見ても君が一番重傷なんですよ。いいから診せて」
「俺は平気や言うとるやないか!」

 也久は一つ大きなため息をつき、ファットに赤のタグを貼り付ける。次いで彼は小夜を診ながら、声を張り上げた。

「こっちのおっきい人、ドクターカーに乗せて! ……って、こら、暴れるな。おとなしくストレッチャーに乗れって!」
「俺はええちゅうとるやろ! こんなん痛くもかゆくもあらへんわ!」

 小夜を先に、と吠えながら、ファットがスタッフの手を振り払う。

「君、今は副腎からアドレナリン出てるから痛みもなにも感じてないのかもしれないけど、正直、けっこうヤバいからね」

 也久がファットとは異なる色のタグを小夜に貼り付け、ファットに告げた。そして彼は、次なる患者の元へと走ってゆく。
 それに軽く頭を下げてから、小夜は抵抗を続けるファットに懇願した。

「太志郎さん。わたしは平気だから。ね、おとなしくして?」
「なんや小夜まで! 俺は平気や言うとるやろが!」

 場が騒然としかけたその時、平気だと吠え続ける大男を一喝する声が響いた。

「やかましい!」

 パパ、と小夜は小さく呟いた。小夜の父は続ける。

「先ほど、プロの話を聞けと私を怒鳴りつけたのは誰かね! ここはすでに医療の現場、私たちの領域だ。娘を娶りたいのなら、黙って医者の指示に従いたまえ!」
「「え?」」

 小夜の声と少ししゃがれた低音が同時に響く。そしてふたりは互いに顔を見合わせた。

 先ほどまで凄んでいたファットの表情が、みるみるうちに変わっていく。彼はぽかんと口をあけ、小夜からその父に視線を転じ、そして再び小夜に戻す。琥珀色の瞳のなかに浮かんでいるのは、少しの動揺と大きな喜び。
 小夜はその視線をまっすぐに受け止めて、うんとちいさくうなずいた。
 そしてふたり同時に、つい先だってまで結婚を反対していたはずの老紳士を見やる。

「小夜」

 と、呼びかける父の声に、小夜ははいと応えた。

「おまえにあそこまでの覚悟があるのなら、もう何も言わん……ただし幸せになれ。必ずだ」
「なりますゥゥゥ!」

 いち早く返事をしたのは、小夜ではなく、涙もろいヒーローだった。大きな目からふたたびぼろぼろと涙をこぼし、鼻をずびずびさせながら、彼は続ける。

「おとうさんおおきに……俺らかならず幸せになりますさかい……」
「君には言っとらん! それに、そんな大きな図体をして子どもみたいに泣くんじゃない! 君はおとなしく車に乗って、しかるべき治療を受けたまえ」

 ぐすぐすと洟をすすりながら、だがすっかりおとなしくなったファットガムが、ストレッチャーに乗せられた。彼は痩せても平均よりずいぶん大きいものだから、台から手足がにょっきりとはみ出してしまっている。

 残る二人のトリアージを取り終え、もっとも重傷を負っている患者を診るため戻ってきた童顔の救命医に、ファットがたずねた。

「センセ、俺おとなしく救急車で病院行くから、小夜をドクターカーに乗せてくれへん?」
「まだ言うか! 君が一番重傷だって言ってるだろ! 大丈夫だよ。小夜ちゃんは軽傷だったし、このあとちゃんとうちの病院で検査するから心配いらない。うちのスタッフみんな優秀だからさ。安心して」

 その言葉が終わるか否かのタイミングで、小夜が救急車に乗せられる。それを確認したファットは、やっと納得したように、おおきに、と呟いて、そのまま意識を失った。

***

 ファットガムが意識を取り戻したのは、火事から二日のちのことだった。彼が負ったのは、一酸化炭素中毒、打撲による骨折、そして全身にわたる熱傷だ。
 幸いにも市立大学病院の救命は優秀であり、その後引き継がれた形成外科に強い外傷治癒個性の持ち主がいたため事なきを得たが、一時はかなり危ない状態だった。

「心配かけて、すまん」

 西日の差す病室で、ぺこり、と頭を下げると、小夜が、ううん、とかぶりを振った。ほっそりとした手がおずおずと伸びてきて、包帯だらけのファットの大きな手にそれを重ねる。

 そのままふたりは、そのままなにも言わず見つめ合った。
 置いていってすまない、という声も、命をかけて助けにきてくれてありがとう、という言葉もなく。
 互いに互いの思っていることが、口に出さずともわかっていたから。

 と、微かな鐘の音が聞こえてきたような気がして、ファットは病室の外に視線を転じた。
 市立大学病院の隣は、動物園と植物園を有する巨大な市立公園だ。植物園の洋館の前には大きなカリヨンがあり、十時から十五時まで、一時間ごとに一曲ずつ自動演奏の曲が流れる。
 ちょうど今はその時間帯なのだろう。風に乗って聞こえてきたのは、数種類の鐘による柔らかなメロディだった。

 鐘の音には哀しい思い出があるファットだが、この音はそう悪くはない、とひそかに思った。
 初冬の澄んだ空気の中で微かにひびく、優しい旋律。
 この曲はなんと言っただろうか。

「……ええ音やな」
「そうね」

 そしてまたふたりは黙り込み、見つめあった。
 そしてどちらからともなく距離を縮め、ふたりはゆっくりと唇を合わせた。それは触れるだけの優しいものでもなく、喰らいつくすようなものでもない。ただただ相手を慈しみ愛おしむような、そんな深いくちづけだった。
 相手がここに実在することを確かめるように、角度を変えて、キスは幾度も繰り返される。そしてそれははじまった時と同じように、どちらからともなく離れることで、終わりを告げた。

 ファットは黙したまま、小夜を見つめた。深い色をしたその瞳の奥に、自分の姿が映っている。常の姿ではなく、脂肪を燃焼しつくした痩せた姿だ。
 今回のことでは、怖い思いをさせてしまった。また自分がこうなったことで、かなり心配もさせただろう。

(もっとシビアに脂肪をコントロールせなあかんな……)

 自分の個性は、身体が大きければ大きいほど、脂肪が多ければ多いほどいい。あの時もう少しこの身に脂肪が残っていれば、十七人全員を一度で救い出せたはずだった。

「……太志郎さん?」

 眉をさげ、小夜が心配そうに名を呼んだ。
 お見通しやな、と内心で呟いて、ファットは大きくにかりと笑い、努めて明るい声を出す。

「そういえばな、さっき君が俺の着替え取り行ってくれとった時、おとうさん来たで」
「え? なんか言ってた?」
「入籍前の同棲はあかんて」
「なぁに、それ?」
「けじめをつけろ、っちゅうことやないかな。あとなんとなくやけど、おとうさん、君のことまだバージンやと思とるみたいな感じやったわ」
「ええ……」
「とっくの昔に美味しくいただいとります、ちゅうんも変な話やん。せやから、大事にお守りします、言うといた」

 これは嘘ではない。大事な言葉がひとつが抜けているだけだ。おそらく父は小夜の純潔を守るという意味でとっただろうし、ファットガムは小夜を生涯かけて守るつもりでそう言った。重ねて言うが、これはやや意図的ではあるものの、嘘ではない。人間関係を良好に保つための便宜的な手段だ。

「なんか、ごめんね……」
「ええて」

 父からの言葉は、本当はもう少しある。だがそれは、ここで言う必要もないだろう。



「おとうさんの危惧されてはったとおり……いや、それ以上のことになってしもて、ほんま申し訳ありませんでした」
「頭を上げたまえ」

 しずかに小夜の父は言った。いつになく穏やかな調子で。

「小夜があの場に残ったのは、俺のせいやないですか」
「……いや、あれは娘の意思だ。気弱だった娘にあそこまでの覚悟を持たせられるのは君だけだ。そしてあれほどの、重すぎる娘の気持ちを正面から受け止めきり、それ以上の愛を注げるのも、また君だけなんだろう。それに君はちゃんと小夜を救けたじゃないか。文字通り命がけで」

 小夜の父はファットを見つめ、微笑んだ。その笑みに微かな寂しさを感じたのは、気のせいではないだろう。
 ファットは軽く眉をさげ、父に応える。

「おとうさん、確かに俺は命がけで小夜を救け出しましたけど、あの場にいたのが小夜でなくても、同じことをしましたわ。ヒーローっちゅうんは、そういうお仕事やから。小夜もそれはわかってくれてると思とります」
「まったく、そういうことは黙っていればいのに。相変わらずまっすぐ過ぎる男だな、君は」
「ここはヒーローとして絶対曲げたらあかんとこですから。それごまかして小夜さんと一緒んなるんは、卑怯やないですか」
「……損な男だな、君は。……とはいえ、私は君のそんなところが気に入ったんだが……」

 と、小夜の父はファットに大きく頭を下げた。

「謝らなければならないのは私のほうだ。本当はずいぶん前から、君たちのことを許すつもりでいた。……私が変に意地をはらなければ、小夜があの火事に巻き込まれることはなかっただろう……また、君にもずっと嫌な思いをさせていたことと思う。豊満くん、本当にすまなかった」
「や、そないなことは……」
「私のことを許せとは言わない。だが、小夜のことは幸せにしてやってくれ」
「おとうさん、頭を上げてください。ぜんぶ小夜を思てのことやないですか。俺、こんな男やけど、全力で小夜をしあわせにするよって、これから仲良うしたってください」

 君という男は、と声を詰まらせた老紳士の手を取って、ファットは笑った。



「太志郎さん」
「ああ、スマン。ちょおいろいろ思い出してもうて。言い忘れとったけど、おとうさんだけやのうて、あの人も来たで。也久さん。それ持ってきてくれはった」

 と、ファットはケークアングレの詰め合わせが入った箱を指さした。

「ちょうどええわ。腹減ってきたから一緒に食おか。よかったらおまえも食い」

 はい、とこたえて、小夜が箱を手に取る。と、彼女はラッピングのリボンの間に挟まっていたカードを眺め、怪訝そうな顔をした。

「塩?」
「なん?」

 これ、と、小夜がファットにカードを手渡した。書かれていた文字を目にした瞬間、笑いがこぼれた。それを見た小夜が、ますます不思議そうな顔になる。

 そこに書かれていたのは、しごく常識的な「お大事に&お幸せに」という一言だ。だが小夜が首をかしげたのは、そこではなく、末尾に添えられた言葉だろう。

「『スイカの塩より』って、どういう意味?」
「さあ、なんやろなぁ? おれにもわからへんわ」

 とぼけてそう応えると、小夜は軽く眉を上げた。「絶対わかっているくせに」という顔だ。だがあの喫煙所でのやりとりを小夜に伝えるわけにはいかない。なんだか格好悪いじゃないか。
 ニヤニヤしながらとぼけていると、小夜は軽く息をつき、ファットにケークアングレの入った箱をそのまま手渡し、そして言った。

「太志郎さん、わたしのことたまにおまえって呼ぶようになったよね」

 そういえばそうやな、とケーキを、一気に三個口に運んで、ファットは応えた。
 ん、思ってた以上にどっしりしとんな。心の中でケーキのうまさに快哉をあげ、ごくりと飲み込む。

「なに? おまえって言われるのやなん? やならやめるで?」
「そんなことはないけど。太志郎さん、いつからわたしをそう呼んでるか、覚えてる?」
「……いつからやったっけ?」
「あのね、『おまえがそう思うんならそうなんやろ』って言ったとき」

 新たなケークアングレを口に放りこんだ瞬間の一言だった。水分の少ないケーキが喉につまり、ごふごふと咳き込む。小夜がすかさず冷蔵庫からコーヒーを出してくれたので、一息に半分ほどを飲み干した。

「エー。それめっちゃ感じ悪いやん……そないぞんざいに扱うつもりも、悪意があるわけでもないんやけども。どないしよ。おまえちゅうんはやめたほうがええか?」

 ううん、と小夜はかぶりを振った。

「おまえでも君でも、どっちでも。太志郎さんが呼びたいように呼んで」

 おん、と応えたファットに、ひとつちょうだいね、とたずね、小夜もケーキを口元へと運ぶ。
 おいしいね、と言った彼女に、ふたたび、おん、とファットはこたえた。
 バターとドライフルーツがふんだんに入ったケークアングレは、甘いけれどもブランデーがしっかり効いた、しっとり大人の味がした。

***

 ファットが退院したのは、その週の金曜日のことだ。
 幸いにして天候に恵まれた。初冬とは思えぬほど、穏やかないい陽気。

 ファットの元に行く前に、小夜は退院窓口に立ち寄った。支払いをすませるためだ。

 渡されたいくつもの書類に目を通しながら、小夜は小さく息をつく。診療明細に記載された、処置の数々。それは彼が重傷をおった証でもある。
 全員連れて行けないと言われたあの時、小夜は自ら希望し、場に残った。その結果がこれだ。

 本当にあれでよかったのだろうか。
 あの時の自分の選択は、もしかしたらただの自己満足ではなかっただろうか。
 彼を苦しめたくないと思ってとった行動は、むしろ彼を苦しめたのではなかっただろうか。

 もちろん、ファットガムというヒーローは、あの場に小夜がいなくとも、残された人々の救出に向かっただろう。それはわかっている。わかってはいるが、自らの自己犠牲的な行動が正しかったかどうか、小夜には答えを出すことができなかった。

 小夜はもう一つため息をついて、いや、と内心で呟いた。
 おそらくきっと、この答えは誰にも出せまい。
 いずれにせよ、あの状況において小夜が残ることは、定石のひとつであったのだ。

 支払いを終え、ファットの元へと向かうまえに身だしなみを再確認した。かわいかったからと、乞われて白いワンピースを着てきたけれど、しみなどついていないだろうか。白は汚れが目立ってしまうから。



 ファットの姿を見た瞬間、小夜は大きく目を見開いた。
 すでに支度を終えた彼はいまだ体重が戻らず、痩せた姿のままである。今回受けた個性治療の関係で、明日あたりまでは摂取したカロリーはすべて治癒のためのエネルギーに使われてしまうとの事だった。
 だが、小夜が驚いたのはそこではない。
 ファットは、ブラックスーツを身につけていた。

「太志郎さん、それ、どうしたの?」

 すると彼はほんの少し目を細めて、微笑した。小夜が好きな笑い方だ。

「帰りに市立公園寄ってこ思とんねん」
「公園て動物園? 植物園? それとも散策コース?」

 いずれにせよ、わざわざブラックスーツを着ていくような場所ではない。首をかしげていると、ファットがいたずらっぽく笑いながら、「植物園や」と呟いた。

「行こか」

 というファットの声を合図に、ふたりは手を繋いだ。家にいるときとおなじように、どちらからともなく、ごくごく自然に。

***

 広大な敷地を誇る市立公園の植物園の入り口近くには、薔薇に囲まれた洋館とカリヨンがあった。その向こうには、ツツジ園、梅園、菊園、大温室などが続く。もちろん、初めて来たわけではない。小夜はこの近くに住んでいたので、それぞれの花の季節にひとりで訪れたことが幾度かあった。

 洋館の周りに植えられた薔薇は、色が濃く香りの深い秋薔薇が多少咲いてはいるものの、すでに見頃は過ぎていた。初冬とは思えぬぽかぽかした日差しの中ではあったが、平日ということもあり、人影もまばらだ。

 洋館の前に設えられたカリヨンの下で、ファットガムが小夜に向き直った。

「さて小夜さん、これからなにするかわかります?」

 小夜はちいさくうなずいた。さすがになんとなく予想はつく。
 チャペル風の洋館とカリヨン、ブラックスーツの彼と、白いワンピースの自分。それはまるで――。

「でも、なんで?」
「俺はおまえを不安にさせてしもたやろ? せやから、ここで二人だけの結婚式みたいなんをしてもええかな思たんや」
「気遣ってくれてありがとう。ごめんね、わたしが前に変なことを言ったからでしょう?……」

 するとファットは頭をかいた。

「あー、ちゃうちゃう。ちゃうで小夜。いま俺、ちょおかっこつけました。不安うんぬんは言い訳やねん。ほんまはな、俺がおまえを離しとぉないんや。ちゃんとした式はまた別にあげよう思とるけど、それとは別に、俺の決意みたいなモンをおまえに誓っときたいねん」

 こういうのって反則と思いながら、小夜は口をへの字に曲げて――なぜって、嬉しすぎて泣きそうになってしまったから――誓います、と呟いた。
 するとファットガムが笑いながら、いや早いねん、とツッコミを入れる。

「どうせやるなら、ちゃんとやろ」

 やわらかく笑いながら、ファットは小夜の左手をとった。

「私、豊満太志郎は、湧水小夜を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合うことを誓います」
「わたし湧水小夜は、豊満太志郎を夫とし、健やかなるときも、病めるときも……」
「そこは省略してええよ」
「夫と同じく、誓います」
「ほな次は、誓いのキスやな」
「ここで? 人に見られちゃうよ?」
「かまへん、かまへん。誰もおらへんやん。それに今はこっちの姿や、写真撮られることもないやろ」

 そうだけど、と小夜が言い終える前に、唇が重ねられた。と同時に、時刻を知らせるカリヨンが鳴り始める。
 高く低く響くのは、世界中で愛されているフランス民謡、フレール・ジャック。

「タイミングばっちりやったけど、さすがに真下はやかましな」

 苦笑するファットに、そうね、と答える。と、鍛えられた腕が伸びてきて、小夜をひょいと抱き上げた。地上二メートルに近いお姫様だっこだ。普通なら怖がるところだろうが、慣れてしまっている小夜はぜんぜん平気だ。

 すると、突然、上からなにかが振ってきた。
 反射的に手のひらを広げて、それを受けとる。それは十五oほどの大きさの、小さな三角錐のパッケージだった。よく見ると、ポップロックと書いてある。

「キャンディ?」
「そうやぁ。フラワーならぬキャンディーシャワーや。ちょお、協力を仰いでん」

 頭上を仰いだファットにつられ、小夜も空を見上げる。そこに待ち受けていたのは、一人は想像通りの人物で、もう一人は大変意外な人物だった。
 つまり、ホバリングしながら飴を撒く環と、彼の爪に引っかけられて宙に浮きながら飴を撒いている也久と。

 小夜の中で、幼き頃の記憶が蘇った。それは、二十年も前のできごとだ。

「けっこんしきでね、みんながおむこさんとおよめさんにおはなをかけるの。ふらわーしゃわーっていうんだって。小夜もいつかおはなのしゃわーをあびて、しあわせなおよめさんになるんだ」

 叔母の結婚式に出席してからしばらくの間、小夜はそう言っていた。兄の親友にも話した覚えがある。もういいから、と兄に叱られるまで、何度も何度も繰り返して。

「小夜はフラワーシャワーに憧れとるんやろ? それは本番でしたるから、今日は小夜の好きな炭酸によう似た、パチパチする飴ちゃんのシャワーにしたんや。食いもんなのが俺らしゅうてええやろ?」

 ポップロックキャンディは、炭酸のようにお口の中でパチパチ弾ける。炭酸好きの小夜の好きな、刺激たっぷりのキャンディだ。だが、こちらについては、誰かに話したことはない。

「なんでわたしがポップロックキャンディが好きだってわかったの?」
「そら、愛の力やろ」

 どやぁ、とファットが得意げな顔をした。
 それがなんだかおかしくて、思わず吹き出す。と、「お、わろたな!」という声と共に、もう一度口づけられた。
 透明感のある音を奏でるカリヨンと、ポップロックキャンディのシャワーの下で。

「うう……帰りたい……」

 ふたりの頭上で、環がお決まりの言葉を呟いた。也久もそれに同意する。

「……ほんと、僕たちなにをさせられてるんだろうねえ。ところで君、学校は?」
「雄英はインターン先から要請があった場合、公欠扱いになるんです。ファットがいない今、事務所は猫の手も借りたいとのことで、火事のあと雄英に戻らずそのまま残っていたんですが……」
「え、じゃあ君、いま勤務中なの?」
「いえ、今日は午後からなんで、いまはプライベートです。これは個人的なお手伝いという形なんですが、それにしたってなんでこんなことを……」
「そうか。僕も押しつけられちゃってびっくりしてるよ。君の上司、押し強いよね」
「……え。はい……それは……本当にすみません」
「君のせいじゃないでしょ。それに僕もファットガムのことは好きなんだよ。っていうかさ、知ればたいてい好きになるでしょ。あんなまっすぐで実直で、熱くて面白い男はさ」

 君も好きだろ、との問いに、環がこくりとうなずいた。

「そうですね、ちょっとノリがキツいときもありますけど」

 その言葉と共にすべてのキャンディを終えた環が、也久をぶらさげたまま片手を上げた。それにちいさく礼をして、ファットは小夜を地上におろす。

「ほな、今度こそ指輪買おか? こーんなデカいの買うたるで」

 と、ファットは両手を広げた。そんなサイズの宝石はないし、あったとしても、持ち上げることすらできないだろう。

「わたしの手だと1カラットだって大きいくらいよ」
「エーッ! そないハナクソみたいなサイズでええん?」
「太志郎さん、そのたとえはちょっと……」
「すまん」

 と、高らかに笑い、そして彼は地べたにかがみ込んだ。

「あかんあかん。撒いたキャンディ回収せな」

 脂肪がついていなくても、ファットガムの身長は見上げるほど高い。大きな身体を小さく丸め、太い指で小さなキャンディを拾い集める彼の、なんと愛しいことだろう。
 こういうところも含めて、ファットガムというひとのすべてが大好きだ。

「わたしも拾うね」
「おおきに」

 初冬とは思えぬくらいの太陽光が、二人の上に燦々と降り注ぐ。いい大人が二人そろって、カリヨンの下でキャンディを拾い集める図はすこし間抜けだけれど、それはそれはしあわせな、ハレの日の光景だ。

「「あ!」」

 最後に残ったキャンディに同時に手を触れ、また、同時に声を上げた。
 そしてふたりは顔を見合わせながら、おおいに笑う。
 このしあわせがずっと続くことを、心の底から信じながら。


2021.11.12
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月とうさぎ