パンオーショコラを
召し上がれ

 朝陽が差し込むダイニングにほんのりと甘い香りがただよう、午前七時五十分。
 二月の朝は冷えるけれど、空調の効いたふたりの家は、やさしいあたたかさに満ちている。互いの仲があたたかいからなおさらだ。

 おはよさん、と告げると、巨大なマグにコーヒーを注ぎながら、おはよう、と小夜が応えた。

「お、今朝はチョコのパンなん?」
「うん。パン・オー・ショコラ。苦手だった?」
「んなわけないやん。小夜が俺のために用意してくれたモンはみんなおいしくいただくで。うまそうやなと思ただけや」

 ただ、少し珍しいとは思った。
 自分は甘辛なんでもイケるけれども、小夜はどちらかというと、食事の時にはしょっぱい味を好む傾向がある。直接聞いたことはないが、今まで彼女が作ってきた食事を思い返すと、デザートはともかく、主食に甘いものを持ってくることはあまりなかったような気がする。

 ともあれ、胸の前でぱあんと手を合わせ、「いただきます!」と言ってからコーヒーをすする。続けてこぶりのフランスパンに手を伸ばそうとした瞬間、小夜がやや頓狂な声をあげた。

「あ!」
「なん?」
「あのね、パン・オー・ショコラは焼きたてなの。冷めないうちにそっちから食べて」
「コレ、おまえが焼いたん?」

 うなずいて「わたし今日はお休みだから」と答えた小夜に、「わざわざありがとなぁ」と応じて、すすめられたパンを口の中に放りこんだ。
 とたんに口腔内にひろがる、チョコレートの香りと甘み。

「ん、うまいで」

 ひとりぐらしの頃、パンの朝食といえば、袋から出したウインナーをおかずに食パン一本――一斤ではなく一本――をそのまま丸かじりすることが多かった。ところがどうだ、今はクロワッサンやらフランスパン――バタールとかバケットとかいろいろ種類があるらしい――やら、できたてほやほやのナントカショコラやら、様々な大きさの様々なパンが食卓に並ぶ。実にありがたいことだ。
 用意されているのはそれだけではない。野菜スープに卵料理にサラダにベーコン、栄養のバランスも考えられた、豊かな食事。
 ありがたいなと思いつつ、ファットはしあわせとパンを噛みしめる。そのどちらもが、ほんのりとあたたかく、そしてじんわり甘かった。

 もぐもぐと咀嚼しながら、ファットガムはテレビをつけた。多少行儀は悪いが、交通情報やニュースをチェックするのも仕事のうちだ。
 次いでテレビから流れてきたのは、男性アナウンサーの軽やかな声。

「今日はバレンタインですね。大好きな人に想いが届きますように。それではみなさん、いってらっしゃい」

 そうか今日はバレンタインか、と心の中でつぶやいて、はたと気づいた。

「なあ」
「なあに?」

 と、答えながらすっと視線を逸らした小夜の顔は、すでに赤く染まっている。
 わかりやすっ、と緩む口元を抑えつつ、再び声をかけた。なにせ嬉しいことは黙っていられない性分だ。

「そういや、このパンもチョコやなぁ」
「……うん」
「なん? もしかしてバレンタインやからわざわざ焼いてくれたん? 俺のために」
「ち……ちがうよ。バレンタインのチョコは別に用意してる」
「ほな、今朝わざわざチョコのパン焼いたんはなんで?」
「う……」

 小夜はあさっての方向を見つめながらもごもごと口を動かしている。そんな彼女がかわいくて、こっちはにやにやがとまらない。

「なァ、ほんまは俺のためちゃうん?」

 軽く首をかしげながらかわいくたずねる。小夜はこのポーズでのおねだりに弱い。ファットガムはそれを経験で知っている。
 けれど、予想に反して小夜は口を大きくへの字にまげた。

 それに気づいて、「ここらでやめとこ」と内心でひとりごちた。
 自分のために手間暇かけてパンを焼いてくれたことが嬉しかっただけで、怒らせたり困らせたりするつもりはないのだ。
 頭の中で次なる話題を探しつつ、ファットはずずっとコーヒーをすする。
 ところがそのとき、あのね、という小さな声が聞こえてきた。

「太志郎さんモテるから、いっぱいチョコもらうでしょ? だから他の女のひとからもらう前に、わたしからのチョコを食べてほしかったの。いの一番に」

(いの一番に、やて。そのためにわざわざ手間暇かけてパンを焼いてくれたんか! わざわざ! パンを! 俺のために!)

 「聞いたか世界、これが俺の嫁や!」と、大声で叫びたい気持ちを必死に抑える漢豊満太志郎、二十九歳、ちなみに新婚。

(これや、これ。もー。かわいいったらないで、俺の嫁)

 恥ずかしそうにカップを両手で持ったまま、顔を赤くしている小夜が心の底から愛おしい。

「モテるちゅうてもあれやん。事務所に届くんはファンからやし、直接もらうのは義理とかお礼チョコばっかやで」

 うん、と小夜は眉を下げた。

「本命チョコは、おまえからしかもらわへんよ」
「……うん。わかってる。それでもね、朝いちで食べてもらいたかったの。パンなら無理なく食べられるでしょ?」
「俺はほんまに果報者やなぁ。小夜ちゃんは最高の嫁やで」

 小夜がはっと顔をあげた。
 嘘を吐くとき視線をそらすのが小夜の癖なら、小夜を抱くとき、もしくは抱きたいと思ったときに、ちゃんをつけて呼ぶのはファットの癖だ。

 とはいえ、出勤前のこの時間に行為に及ぶわけにはいかない。だからしあわせを奥歯で思いきりかみしめながら、ファットは満面の笑みを浮かべる。

「帰ってきたら、買うてきてくれたチョコ、一緒に食べよな」
「うん」
「ほんで今夜はチョコだけやのうて、おまえもおいしく食べたるから、楽しみに待っとき」

 この一言に、頬どころか顔全体をゆでだこのように真っ赤に染めたいとしい新妻にウインクをして、大阪を代表するヒーローは、たからかにわらった。

2021.2.13
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