小夜の大好きなひとは夜空に浮かぶ月のように体つきが変わる。まるまる太ったファットさんから、むっちりマッチョなコミットさんへ。
それにしても、と内心で独りごちながら、薄切りのローストポークを一切れ、口元へと運ぶ。
自分で選んだフランスの恋愛映画だけれど、これは正直、失敗だった。カメラワークや小物がおしゃれなだけで、ストーリーそのものはとても退屈。アクションものやコメディを好むファットは、きっと辟易しているに違いない。
そう思って、声をかけようとした瞬間、小夜を後ろから抱きしめていた手が不意に動いて、パジャマの上から鎖骨をなぞった。肩先から喉元へ、そしてまた、喉元から肩先へ。
太くしっかりした、けれどどこまでも優しい指は、シルクサテンのパジャマの上を動き続ける。ゆっくりと。彼のそれと比べてひたすらに頼りない、その骨の存在を確かめるかのように。
誘惑的な指の動きにベッドでの彼を思い出し、はしたなくも、ごくりと喉がなってしまった。
(太志郎さんは気づいただろうか。それとも、お肉を飲み込んだだけと思っただろうか)
なんとなく気恥ずかしくて、モニターの中で談笑している男女に視線を向けたまま、ローテーブルの上にある細いグラスを手に取った。ファットが買ってきてくれた、甘めのスパークリングワイン。炭酸好きの小夜のために彼が選んでくれるワインは、これに限らず、いつも美味しい。
ふう、と、息を吐くと、目の前に薄切りのフルムダンベールが差し出された。高貴な青と呼ばれる青カビチーズは、甘めのワインと相性がいい。
「ありがと」
チーズを口に入れ、次いでワインをもう一口。素敵なマリアージュだけれど、その間もファットの左手がずっと鎖骨を撫で続けているものだから、そちらに気を取られてしまって、小夜はお酒にもチーズにもつまらない映画にも、まったく集中できなかった。
「うまいなコレ」
小夜の気持ちを知ってか知らずか、ファットは空いている右手でバケットの上にフルムダンベールとローストポークを乗せ、思い切りよくかぶりついた。
豪快に食を進める右手と、繊細な動きで小夜を翻弄する左手と。
「……っ……」
焦らすような動きに、漏らしてしまった吐息。それを聞いたであろうファットガムの動きが、ぴたりと止まった。
「え?」
驚いたような響きに顔をあげる。と、ファットが目を丸くして、こちらを見おろしていた。
「あ、……もしかしてコレか?」
鎖骨の上から手を離し、ファットが呟いた。
「スマン。すべすべして気持ちええもんやから、つい何度も撫でてしもたわ」
「えっ?」
なんてこと、と小夜は心の中で小さく呟く。
彼は「そのつもり」などまったくなくて、無意識に触れていただけだったのだ。
その真実に気がついた瞬間、小夜の顔が熱を持った。と、同時に、ファットの片方の眉が、軽くあがる。
こういう小さな表情の変化すら見逃してくれないのだから、ヒーローというものは、ほんとうに。
「なぁ」
耳元で落とされたのは、低いささやき。
「もしかして、その気になってもうた?」
「……知らない!」
顔をそむけると、やさしい手が伸びてきて、彼の方を向かされた。
小夜の表情を確認したファットが「ほお」と満足げに小さく呟いてから、端正で精悍なおもてに、ヒーローらしからぬ「悪い」笑みを浮かべた。
つ……と、太い指が小夜の鎖骨を再びなでる。
服の上から骨をなぞられる、ただそれだけのことなのに、小夜の上にふたたび甘美ななにかが駆け抜ける。
「なァ……もしかして、欲しくなってしもたんやない?」
「……知らない……」
そっと、目をそらした。同じ言葉のはずなのに、くちびるから漏れ落ちた声は、先ほどよりもずっとずっと弱くて。
「ほな、その身体にようく聞いてみなあかんなァ」
大きな右手がリモコンに伸びて、モニターのスイッチを切った。だから小夜も手を伸ばして、ファットの頬にそっと触れる。すると彼は琥珀色の目をふたたび丸くしてから、小夜にむかって微笑んだ。
部屋のあかりが落とされて、長い夜が、これから始まる。
2023.9.19
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